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タイのラージニースクールの児童ら 白老でアイヌ文化を体験

2019-04-14 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 2019/4/13配信

アイヌ文様刺しゅうに集中する子どもたち
 タイのラージニースクールの児童生徒5人が11日、白老町内の体験工房コロポックルで「マタンプシ」作りを行った。黒の布地にアイウシなどのアイヌ文様を刺しゅう。授業でも裁縫を習っている子どもたちは、慣れた手つきで刺しゅうを施していた。
 ラージニースクールの子どもたちは、登別市の観光資源モニタリング事業として3月26日から登別に滞在。登別と白老でさまざまな体験学習を行っており、白老では今月3日にコロポックルでムックリやハンカチの藍染めを体験。10~12日まではアイヌの人々が活用していたアイヌ文様を施した鉢巻きを製作した。同工房のスタッフの指導で、アイウシなどを組み合わせたアイヌ文様をオホと呼ばれる縫い方で刺しゅう。2日間で刺しゅうを完成させ、3日目に鉢巻きとして作品を仕上げた。
 北海道は7回目の訪問となったペンホームさん(15)は「北海道は海の幸がおいしく、特にお刺し身がおいしい。昨年もアイヌ民族博物館で古式舞踊を見学して面白かったので、今回もアイヌ文化に触れるチャンスがあって良かった」と話した。初めての北海道訪問となったクワンさん(12)は「雪を見てうれしかったし、雪遊びがとても楽しかった。アイヌ文化に触れることは初めてで新しいことにチャレンジする機会になって楽しかったです」と語った。
 子どもたちは17~18日にも同工房でアイヌの古式舞踊を体験。今月30日にタイへ帰国する。
https://www.tomamin.co.jp/news/area2/16077/

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異文化融合の歴史一冊に、伊達市教委が子供向け読み物【伊達】

2019-04-14 | アイヌ民族関連
室蘭民報2019.04.12

異文化融合のまちの史実をまとめた歴史読み物「北の大地と生きる」
 伊達市教育委員会は8月に開拓150年の節目を迎える「伊達」の歴史をまとめた子ども向けの歴史読み物「北の大地と生きる~海を渡った亘理伊達家臣団」を刊行した。150年前に武家とアイヌという異なる文化が出合い、さまざまな壁を乗り越えて理解し合った上に今の伊達市が成り立っている史実を紹介している。
 歴史本は、明治期に入り北海道に渡ってきた亘理伊達家臣団の移住の経緯をはじめ、移住前からいたアイヌの人々の生活ぶりや亘理伊達家とアイヌの人々の交流を分かりやすい文体と、図録で取り上げている。
 最新の研究で明らかになった内容をふんだんに盛り込んだ。1871年(明治4年)の「オムシャの儀式」はその一つ。領主・伊達邦成がアイヌの人々を招いて一年の仕事をねぎらった行事で、伊達家がアイヌの人々との交流を大切にしていたことを伺い知ることができる。これまで町史、市史にも記載はなかった。
 監修は国立歴史民俗博物館(千葉)館長の久留島浩さんら専門家5人。いずれも伊達家の古文書を調査している亘理伊達家文書調査研究会の一員。亘理伊達家の開拓秘話を取り上げた「北海道開拓物語」を底本に2016年度(平成28年度)から分担し、丸3年をかけて資料整理と時代考証を進めてきた。小中学生向けの書籍を多数執筆する大宮耕一さんが本文を担当した。
 市教委の学芸員、伊達元成さんは「伊達の歴史はこれまで開拓の美談が中心だった。武家とアイヌそれぞれの集団の違いを受け入れた先人の歩みを知ることは、異文化、多文化理解につながる」と話している。
 A5判、ハードカバー236ページ。3500部作製し、市内すべての小学4年~中学3年に配布した。今後3年間は新小学4年に配布し、影山吉則教育長の肝いりで導入する「だて学」の教材としても活用してもらう。
 梅本町の市立図書館で11日から一般貸し出しを始めたほか、だて歴史文化ミュージアム1階のライブラリーコモンズで閲覧できる。歴史本の内容は今後、市のホームページ上に全ページを無料で公開する予定。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/11197

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最初に住み着いたのは欧米人、ハワイの先住民だった 「ボニンアイランド」と呼ばれる小笠原諸島

2019-04-14 | ウチナー・沖縄
琉球新報 4/12(金) 14:44配信
 日米に翻弄されてきた太平洋の島<小笠原と沖縄―返還50年の先に>3
 小笠原諸島は英語圏で「Bonin Islands」と表記する。「ボニン」は「無人(ぶにん)」のなまりとされる。長く無人島だった小笠原諸島に最初に住み着いたのは、1830年にやってきた欧米人やハワイの先住民らの二十数人だった。76年に明治政府が領有を宣言し、島民は「帰化人」となる。太平洋戦争後の23年間の米国統治を経て、1968年に日本に返還された。
 「新島民も増えて、新しい文化もどんどん入っている。欧米系島民も負けないようにしないとね」
 小笠原村役場の総務課長、セーボレー孝さん(61)がそう笑ってみせる。1830年に父島にたどり着いた米マサチューセッツ州出身のナサニエル・セーボレーさんの子孫で、5代目に当たる。1968年の返還時に「孝」に改名したが、島民は今も英名の「ジョナサン」や「ジョナ」と呼ぶ。
 小笠原では、19世紀から島にいた欧米人のルーツを持つ「欧米系島民」、明治から戦前に日本本土や伊豆諸島から移住した「旧島民」、68年の返還後に住み着いた「新島民」と便宜上使い分けることが多い。現在では人口の9割が新島民だ。
 欧米の捕鯨船や貿易船が太平洋に進出した19世紀、米国は寄港地を確保しようと日本に着目した。1853年、米海軍のペリー提督は徳川幕府との交渉を前に、琉球や父島に立ち寄っている。父島で対応したのがナサニエルさんだった。セーボレーさんの自宅には、当時ペリー提督とナサニエルさんが結んだ土地売買契約書のコピーが保管されている。
 明治以降は本土や伊豆諸島から多くが小笠原に移り住み、戦前に人口は8千人近くまで膨らんだ。しかし、太平洋戦争で小笠原を占領した米軍が島に居住を認めたのは、欧米系の住民約130人だけだった。
 米統治下で生まれたセーボレーさんは家庭では日本語が中心で、学校では英語を話した。島の映画館で西部劇を楽しみ、独立記念日やクリスマスを盛大に祝う。米国流の生活スタイルだったが「米国人という意識はなかった」という。「ハワイのハワイアン、グアムのグアメニアンのように、島の先輩は自分をボニン・アイランダーと言っていた。僕もそうなのかなと思っていた」
 小笠原で生まれた子どもは小中学校を卒業後グアムの高校に進学した。だがセーボレーさんが10歳だった68年6月に返還が訪れ、生活は日本式にがらりと変わる。学校で教わる内容も「ABC」から「あいうえお」になった。
 返還を機に日本語を学ぶため日本本土に転校してから、セーボレーさんは自身のルーツを強く意識するようになった。太平洋を渡って小笠原に来た祖先は何者だったのか。その足跡を調べ始め、島に戻って役場に就職してからも祖先の出身地を訪ねたり、資料を集め続けたりしてきた。
 返還から半世紀。かつての小笠原を知る証言者は少なくなった。セーボレーさんは「小笠原の歴史は教科書に出てこない。それをしっかり残し、伝えていきたい」と語る。(當山幸都)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190412-00000023-ryu-oki

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コカイン生産者の生活に密着

2019-04-14 | 先住民族関連
ウェッジ4/12(金) 12:36配信
 「この土地は、とてもとても貧しい所でした」
 コカインの原料である「コカの葉」を栽培するオスカルが、こう語る。
 彼が暮らすのは、コロンビア南西部のナリーニョ県。現在コロンビアは、コカイン生産量とその原料であるコカの葉の栽培面積が世界一となっている。その中でナリーニョは、国全体の27パーセントに及ぶ最も多くのコカ栽培地が集中する場所だ。
 コカインは高額で取引されることから「セレブのドラッグ」とも言われる。その陰で、世界で最も多くのコカを作る場所では一体どのような人々が、どのような生活をしているのだろう。
 ここは標高約1000メートルの山岳地帯。熱帯に位置し、鬱蒼(うっそう)とした木々が山肌を覆っている。私は地元の男性・オスカルの案内で、彼のコカ畑を訪ねた。彼のあとをついて山道を歩いていくと、小川の先に、鮮やかな緑色の葉を持つコカの木々が目に入る。山を切り開いた1ヘクタールほどの土地に等間隔でびっしり植えられたコカの木が吹く風に揺らされさざ波のような葉音を立てている。
 私がオスカルと出会ったのは2013年。当時、コロンビアでは反政府ゲリラFARCと政府間の半世紀を超える争いが激しく続いていた。オスカルが暮らしていたのはFARCの影響下にある地域で、私はそこへ取材に訪れていた。
 オスカルは現在38歳、小学生と中学生に当たる二人の子どもと妻の4人で暮らしている。主な収入源はコカだ。そのほかに芋やバナナ、豆類などを自家消費用に栽培している。この地域に暮らす大部分の人が、彼同様、コカ栽培で生計を立てている。
 この地域にコカ栽培が広まったのは2000年ごろ。他県にコカの収穫へ出稼ぎに行っていた人々が苗木を持ち帰ったのが始まりだと言われている。彼もその時期にコカ栽培を始めた。コカが来る以前の生活をこう振り返る。
 「本当に貧しい生活で、服や靴を買うこともままなりませんでした。栄養失調になる子どもがいたくらいです。コカ栽培を始めて少し貧しさが和らぎました。ここには他に仕事はありません。コカがなくなれば、私たちの生活は以前のような貧しい時代に戻ってしまいます」
 以前は、豚や牛などの家畜を育て売ることや、時折ある建設現場の仕事についたが、建設現場は一時的なものであり、どちらも大きな収入にはならなかった。また、歴史的に政府の関与が極めて薄い地域でもある。それに対する不満は住民に根強い。彼はこう語る。
 「ここには、車が通ることができる道路は全くありませんでした。今ある道路で政府が作ったものはほとんどありません。住民がコカで得たお金を出し合って作ったのです」
 住民の力で作った車が入れる道路がわずかに伸びては来たが、大部分の場所には未だ行き渡っていない。建設計画はあるものの、毎回汚職のために予算は消えてしまい、建設が進まずに工期を終えていくのだという。また、山には満足な医療機関もないため、怪我や病気の際は病院がある町にでなければならない。自分で歩けない場合は、住民が竹を切って作った担架で車道まで何時間もかけて運ばざるを得ない。手術が必要な場合、最寄りの診療所からさらに車で4時間ほどの移動が必要になる。
 「山間部の重篤患者の9割が命を落としている」と、診療所で働く職員が話す。
 「我々は政府に忘れ去れているんです。ここには何もない。悲しい事ですが、政府は私たちを助けてくれやしません」オスカルの言葉に悔しさがにじむ。
コカ栽培でやっと買えたテレビ、冷蔵庫、ガスコロン
 彼は約1ヘクタールの農地でコカを栽培している。3カ月に一度のペースで収穫するコカの葉は、農地にある小屋でペースト状に加工する。そうすることで、葉の状態で売るよりも販売価格が格段に上がるのだ。加工後はボール状にまとめて町に住む仲買人に売り渡す。バッグに入る大きさになるため持ち運びに手間がかからない。この「運びやすさ」は、大型輸送手段を持たない山の人々にとって大きな魅力の一つでもある。
 コカはどの程度の稼ぎになるのか。内訳を見ていきたい。金額は2018年6月時点のものとする。
 オスカルが一度の収穫で得られる葉を加工したペーストの販売価格は25万円前後。そこから収穫を手伝う人への人件費、加工に必要な薬品代を差し引くと、彼の手元におよそ13万円が残る。これを3で割って1カ月あたりにすると、4万数千円ほどになる。コロンビアの最低賃金が3万円ほどであることを考えると、得られる収入の規模がわかる。ただ、彼の土地は栽培に適した環境が整っているため収量は多いが、最低賃金に届かない農家も多いということを付け加えたい。
 以前は難しかった額の現金収入をコカによって得たことで、生活は大きく変化した。
 「私はコカを作ることで、ようやく『人並み』の生活を手に入れることができたんです」
 オスカルはそう言葉に力を込める。彼の家には、テレビ、冷蔵庫、ガズコンロなど、町で暮らす人々が「普通」に手にするものが並んでいる。またこの収入で子どもの学校に必要なものを買い、怪我や病気をすれば病院にも行く。かつては持つことができなかった「人並み」で「普通」の生活を、コカによって手にすることができたのだ。
コカ栽培による苦悩
 コカは古来より、アンデス山脈に暮らす先住民の間で儀式の中や薬草として暮らしの中で使われてきた南米原産の植物だ。それは今も変わらない。一方で、現在はコカインの原料としての栽培がそれ以上に広がっている。ラテンアメリカの開発問題を研究する千代勇一帝京大学講師はその過程を『コロンビア農民の生存戦略――コカ栽培が人々の生活にもたらしたもの』(SYNODOS)でこう述べている。
 「1980年代の米国では、それまで流行していたマリファナに代わる麻薬としてコカインがブームとなったが、このビジネスを取り仕切ったのがコロンビアの麻薬組織であった。巨大なカルテルに成長したコロンビアの麻薬組織は、先住民が多く伝統的にコカが栽培されてきたペルーとボリビアからコカあるいは一次精製物質のコカ・ペーストを手に入れ、コロンビアでコカインに精製して欧米などへ密輸をしていた。
 麻薬問題が深刻化していた米国は、1980年代末の冷戦終結を機に麻薬対策に本腰を入れ、ペルーとボリビアに対してはコカインの原料をコロンビアに空輸するルートの遮断を支援し、コロンビアに対しては麻薬カルテルの壊滅に協力した。この結果、コロンビアでは90年代後半になると、それまで麻薬ビジネスの警護をしていた左翼ゲリラがカルテルに代わってこれを取り仕切るようになり、また、ペルーとボリビアから調達できなくなったコカがコロンビアで栽培されるようになっていったのである」
 こうしたことから、コカ栽培を通して住民が武装組織と関係をもち、彼らの対立に巻き込まれていくことになる。オスカルが暮らす場所も、同様だった。
 「私の父はゲリラの一員だと思われ、軍に殺されてしまったし、義理の兄弟はゲリラに殺されました。周囲の大多数の人も家族の誰かが犠牲になりました。ここの住民で犠牲者のいない家族はいません」
 コカは、人々に目に見える「豊かさ」をもたらす一方で、死と隣り合わせの日常へと暮らしを変化させた。しかし、彼はコカを手放すことができない。政府は、補助金を伴う合法作物への代替えを推し進めているが、オスカルは「今の段階で、私は代替え政策を受け入れることはできない」と話すのだった。なぜだろう。
 「他の作物を作ったとしても、それを売るための市場がここにはないのです。ここは水も土地も豊かで、様々な作物を豊かに作ることができます。しかし、ここには売る先がありません。誰も買い取ってくれなければ1ヘクタールのバナナ畑を持っていても意味がありません。そして、そもそも、大量の生産物を出荷するための交通手段がありません」
 現段階ではコカを作り続ける以外に、自力で生活手段を見つけることは難しいのが現状なのだった。オスカルは将来についてこう話す。
 「私は、子どもたちにコカと関わることがないよう教育をしたいのです。2人の子どもたちには、違法なコカ栽培はしてほしくありません。政府が言うように、合法的な職業に就かせたいのです。人生には、たくさんの選択肢があるのですから」
 2017年、コロンビアのコカ栽培面積は過去最高の17万1000ヘクタールを記録した。政府は対策として兵士による手作業による除去の他に、過去、環境や健康への恐れから中止していた農薬グリフォサート散布による除去作業を試験的に再開した。コカ栽培地に暮らす住民の生活環境が改められないまま、コカのみが取り去られようとしている。
柴田大輔 (フォトジャーナリスト)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190412-00010004-wedge-s_ame

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<密着ルポ>大麻の違法栽培を強制捜査、劇薬で野生動物を毒殺、米国

2019-04-14 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック 4/12(金) 7:11配信
保護林で「動物がバタバタと死に始めた」
 8月のある暑い午後のことだった。米カリフォルニア州北部のシャスタ・トリニティ国有林で、野生生物の生態学者モウラド・ガブリエル氏は、迷彩服姿を着込み、強制捜査の時を待っていた。
 他にも、武装した米国森林局の隊員や地元警官など10人以上が待機している。これから、違法な大麻栽培の現場へ踏み込もうというのだ。
 レディングの町の東側で州道36号線を外れ、岩がちな森のなかを谷のほうへ下ると、サトウマツやベイマツの下に隠されるようにして4000本以上の大麻草が栽培されていた。そばには複数のテントが設営され、2台の貯水槽も見える。灌漑用パイプも長く延びていた。
 強制捜査が始まると、まず2人が逮捕された。現場の安全を確認したガブリエル氏は、妻であり仕事上のパートナーでもあるグレタ・ウェンガート氏とともに中に入り、環境の汚染状況を調査して、可能な限り浄化を行った。
 過去6年間、2人は違法栽培で使われる猛毒の殺虫剤や、それが周囲の野生生物に与える影響について注意を喚起してきた。大麻草とキャンプ地から虫や動物を退けるため、違法業者は殺虫剤を使うことがある。なかには、禁止されている劇薬が見つかることすらある。
 ガブリエル氏とウェンガート氏は、2004年に野生生物の研究と保全を目的とした非営利団体「統合生態学研究センター」を設立した。当時は、まさか大麻栽培の摘発に関わることになるとは思っていなかったとウェンガート氏は話す。「ところが、動物がバタバタと死に始めたんです」
危険にさらされる動物たち
 最初に異変に気付いたのは、テンの仲間であるフィッシャー(Martes pennanti)を調査しているときだった。フィッシャーは、カリフォルニア州では絶滅危惧種(Threatened)に指定されている。その死や病気、個体数の減少の原因について調べていた時、毒が体内に入って死んだフィッシャーがやけに多いことに気付いた。毒の種類も様々だ。元をたどっていくと、大麻の違法栽培に行き着いた。大麻が栽培されている森の奥深くは、フィッシャーの生息域でもある。
 2012年、ガブリエル氏とウェンガート氏は具体的な数字を示して問題を明らかにした。同年7月13日付けで学術誌「PLOS ONE」に発表した論文には、検査した58体のフィッシャーの死骸のうち、46体から「抗凝血性殺鼠剤」が検出されたと報告している。
 それから間もなく、クマやハイイロギツネ、ボブキャット、ピューマ、キタマダラフクロウといったほかの動物にも被害が出ていることに気付いた。キタマダラフクロウもまた、カリフォルニア州の絶滅危惧種である。誤って薬を口にしてしまう動物もいたが、なかには意図的に毒を与えられたと思われるケースもあった。森の中に仕掛けられた毒入りホットドッグが見つかったり、毒を食べたハイイロギツネと、それを食べたハゲワシの死骸も発見されている。その周囲には、ハエの死骸も散乱していた。
「私たちが捜査に関わっているのは、これが動物の保護に関わることだからです。大麻が悪の薬だからという理由ではありません。大麻草のことを問題にしているわけではないのです」
増える一方の違法栽培場
 公有地での大麻の栽培は数十年前から行われてきたが、殺虫剤の使用は最近になって出てきた問題だ。違法・合法を問わず、大麻の栽培はカリフォルニア州北部のハンボルト郡、メンドシーノ郡、トリニティ郡でとりわけ盛んなため、この3つの郡はまとめてエメラルド・トライアングルと呼ばれている。今回強制捜査が入ったのも、このトリニティ郡だった。
 米国森林局の特別捜査員スティーブン・フリック氏は、24年間、公有地での違法栽培を取り締まってきた。初めの頃、違法な栽培場はたまに見つかる程度だったが、2000年になると、トリニティ郡で押収された大麻草が年間1000本を超えた。それから10年後、押収された大麻草は数十万本に達し、2018年には100万本を超えた。
 森林局は主に空から偵察機を使って捜索しているが、発見されていない栽培場も多いと思われる。わずかな数の捜査員で広大な森林をパトロールするのは、容易なことではない。
 2018年1月に、カリフォルニア州で大麻が合法化されたためなのか、違法栽培場の増えるペースがわずかに落ちたようだった。しかし、州外の闇市場での需要は依然として高く、禁止あるいは制限されている殺虫剤の使用も増えているため、公有地での殺虫剤問題は悪化の一途をたどっているとガブリエル氏は言う。
小さじ4分の1でライオンを殺す劇薬
 8月の強制捜査で逮捕された容疑者は、殺虫剤は使っていないと主張したが、現場からは市販の殺虫剤の容器が数本発見された。そのほか、牛乳のような白い液体の入った瓶も見つかった。2010年に環境保護庁が禁止した農薬のカルボフランとみられ、ガブリエル氏はこれを分析するため、自身が研究員として所属しているカリフォルニア大学デービス校へサンプルを送った。
 ガブリエル氏によると、カルボフランは劇薬で、小さじ4分の1があれば体重270キロのオスのアフリカライオンを殺せるという。また、栽培場でよく押収される抗凝血性殺鼠剤を食べた動物も、内出血を起こして死に至る。
 この問題と闘っているのは統合生態学研究センターだけではない。エメラルド・トライアングルには先住民フパ族の居留地があり、大麻の違法栽培場は彼らの土地の中でも見つかっている。フパ族の漁業や林業の関係者も、環境への影響を懸念する。殺虫剤は、フパ族がサケ漁をする川へも流れ込む。また、居留地にはフィッシャーやキタマダラフクロウも生息している。
 ガブリエル氏とウェンガート氏は、違法栽培場の近くへ調査に行くと、2回に1回は毒を食べた動物を発見するという。
「アフリカの密猟と変わらない」
 たとえ野生生物を守るためという理由であっても、違法栽培の取り締まりが必ずしも賛同を得るわけではない。大麻を取り巻く世論が変わりつつあるなか、ガブリエル氏は警察に協力していることを非難されることもある。森林局は時に、強引なやり方で捜査することがある。8月の強制捜査では、逃げようとした容疑者の腹に警察犬が噛みつき、容疑者は病院送りになった。ガブリエル氏は、警察の取り締まりをアフリカの密猟取り締まりに例える。
「北米での脅威、特にここ西部の州の状況は、アフリカの密猟や薬品の使用と変わりないと思っています」
 特別捜査員のフリック氏も、大麻の栽培者は武装していることがあり、さらにメキシコの密売組織とのつながりが確認されたこともあると語る。だが、金の流れを立証するのは難しい。容疑者が起訴されるときの罪状は、たいてい規制薬物の製造と国有林の破壊の2つだ。有罪判決が下れば数十年の懲役刑が科され、刑期が終わると市民権を持っていない者は国外追放となる場合がある。
 サクラメントを拠点とする連邦刑事事件弁護士のエタン・ザイツ氏は、8月の強制捜査で逮捕された容疑者のひとりを弁護している。過去にも、同じように大麻の違法栽培で起訴された被告人を弁護した経験を持つザイツ氏によると、逮捕者のほとんどはメキシコやカリフォルニア州南部の日雇い労働者や農業労働者だという。森のなかで大麻を育てるほうが多く稼げると誘われてくるのだ。
「逮捕される連中は、カルテルに属しているわけではありません。ただの農業労働者なんです。全ては組織の上のほうにいる誰かがやっていることですが、強制捜査の現場に彼らがいることはほとんどありません」
 ガブリエル氏とウェンガート氏らは、環境汚染の状況を調べた後、森林局の協力を得て土地の再生にとりかかる。発見された殺虫剤を全て除去するだけでなく、後に残された大量のゴミも撤去しなければならない。そのための資金は十分ではなく、現場を元の森林の状態に戻すことはほぼ不可能だ。
 公共の森林を利用したり、野生生物の保護に関心のある人であれば誰にとっても、違法栽培は憂慮すべき問題であるとガブリエル氏は言う。「国有林を利用し、狩りや釣りに行ったり、森を散策したことがある人なら、ぜひ知っておくべきことです」
文=Elizabeth Flock and Mark Scialla/訳=ルーバー荒井ハンナ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190412-00010000-nknatiogeo-n_ame

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