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先住民保護区制定進まず、インディオは「戦争だ!」4日間の運動も実 ...

2014-06-21 | 先住民族関連
JBpress 2014.06.21(土) ニッケイ新聞
4日間の運動も実結ばず、ブラジリアで 2014年5月31日
(既報関連)軍警が弓矢で攻撃されるに至った27日のブラジリアでの抗議行動の後、29日に行われた先住民リーダーらとジョゼ・エドアルド・カルドーゾ法相、FUNAI(国立インディオ保護団体)のマリア・アウグスタ理事長との話し合いは2時間以上に及んだが、保護区制定の問題に関しては結局何も決まらずに終わった。30日付エスタード紙などが報じた。
 アジェンシア・ブラジルの報道によれば、首都では26日~29日の4日間、「先住民全国運動(Mobilizacao Nacional Indigena)」と呼ばれる運動が計画され、約120の部族の先住民が集まっていた。
 これは、現在議会で審議されている先住民の土地の権利を狭めるような一連の法案の可決に反対する運動だ。問題の法案は、先住民保護区制定権を連邦議会に移す憲法補足法案(PEC)215号、先住民の土地を開発のために明け渡すことを認める法案227号などだ。
 話し合いの間、5人の先住民は建物の外で国旗の支柱に自らを鎖で縛りつけた。会合に出席した18人の代表者の一人でバイア州から来た首長のウィルトン・トゥシャーさんは会議終了後、「民主主義を掲げるPT(労働者党)がこんなに専制的だとは思わなかった。
 16年戦い続けている中で、今回が一番ひどかった。大臣は何の署名もせず、対話の場を設けると言うだけ。がっかりだ」と吐き捨てた。
 法務省が出した書面によれば、カルドーゾ法相は提示された問題への解決策を探る努力をすると約束したというが、先住民らの怒りは収まらないようだ。
 この結果に先住民の一人も「大臣は嘘吐き。我々の権利を奪い、我々の存在を無視するようなことは受け入れがたい。これからは国に市民戦争が起きる」と憤った。別の一人は支柱によじ登って、儀式で用いる赤い着色料を国旗に塗りつけ、「これは我々の血を意味する!」と叫んだ。
 ジウマ政権では先住民保護区の制定がほとんどされておらず、先住民たちは、制定作業が止まったままの土地を直ちに保護区として認め、官報に記載することや、先住民を殺害した人物や先住民に対して憎悪を持っている議員たちへの懲罰、先祖伝来の土地を農場とした農民たちとの抗争で先住民を犯罪者扱いすることを止めることなどを要請している。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40997

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佐藤春夫と十勝(3)

2014-06-21 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2014年06月18日
北海道への旅 まなざしの系譜【北海道への旅 まなざしの系譜】
■森と馬・・・ひと夏の滞在
 詩人で小説家の佐藤春夫(1892~1964)の父は、新宮(和歌山県)で病院を経営しながら、十弗(とおふつ)(豊頃町)などに150町歩もの農場をもっていた。春夫は16歳だった1908(明治41)年の夏休み、止若(やむわっか)(幕別町)で開墾の準備を進める父を、母や弟とともに訪ねている。当時は池田よりもにぎわっていた利別の駅で降りると迎えの馬車で一里ばかりの山道を進んだが、父の住まいは、森林の端を開いたところに並ぶバラック集落のはずれ。大きな土間の小屋だった。父は故郷から連れてきた青年とふたりで、小作人を使った開墾計画に熱中していた。
 春夫はその夏、父の馬に乗ったり、近くの森の中のアイヌ集落を「見物」に行ったりしてすごし、熊野に戻る。年譜によれば、明星に投稿した短歌が石川啄木の選に入り、短歌や詩の道に本格的に進んだのがこの年だ。
 春夫の父の小屋があったところは、いまは役場や銀行、商店が並ぶ幕別の中心市街地だ。春夫親子がなぜ遠くの利別駅で降りたかはわからないが、当時からあった止若駅は、いま幕別駅と名前をかえている。止若という地名の起源は、アイヌ語のヤムワッカ・ピラ(冷たい水が出る崖)。ヤムワッカ(冷たい水)に由来する地名は全道にあり、稚内もそのひとつだ。廃線となった道北の天北線には、かつて幕別という駅もあった。こうした地名の重なりは、古来この島が、独立した地域ごとにたくさんのコミュニティーの集積で成り立っていたことの現れだろう。
 今日でも十勝の風景を形づくる重要な要素に、日高山脈の雄大な山並みと、カシワ林のつらなりがある。
 砂地や火山灰地など痩せ地に根を下ろすカシワは、良い薪炭材にはなるものの、鳥獣もろくに育まないような純林を十勝に広げていた。しかしちょうど春夫たちが止若にきたころ、この木が貴重な資源として注目されるようになる。皮をなめすために必要なタンニンをカシワから取る技術が開発されたのだ。止若駅前に大工場が建てられ、タンニン液を圧縮した、日本で最初の固形タンニンの製造が本格化した。
 さてなめした革は、何に使われたのだろう。それはもっぱら、機械の動力を伝える工業用ベルトだった。ひとりの文豪の少年時代と、日本の近代に動員された北海道の歴史が交差している。
 (文・谷口雅春 写真・露口啓二)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20140618011260001.html

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