伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/16

2018-10-16 07:30:21 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 20:1-16

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

葡萄園の日雇い労働書の譬は、神様が私たちを天国に招いておられる姿を説明したもので、主人が支払った賃金は、天に招かれた者が受けることのできる罪からの救い、永遠の祝福を意味しています。この譬を読み解くとき、私たちは自分がどの労働者にあたると想定するでしょうか。幼いときから教会に通っていたのだから朝早くから働いた者と思うでしょうか。しかし異邦人に過ぎない私たちは、自分は午後5時に雇われた者だと思いなさいと、ある説教で教えられました。そのように読み解かなければ、神様がどれほど寛大で気前の良いお方であるか、実感することはできないでしょう。もし自分は朝早くから働いた者だと自負するならば、この譬に出てきた者のように苦労してきた自分の扱いに対して憤慨するのではなく、すべての人が等しく天の祝福を受けられたことを神様と共に喜ぶべきです。それが「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」とのイエス様の教えが意味するところです。

http://bible.com/81/mat.20.1-16.ja1955

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マタイによる福音書 20:17-23

さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。

イエス様が、これからご自身が十字架に掛かられ苦難を受けることを予告されているというのに、弟子たちは少しもイエス様の重大な決意に気付きもせず、ゼベダイの子らの母は、ヤコブとヨハネがイエス様の右大臣、左大臣となれるようにしてくださいと嘆願するという有様でした。イエス様は2人に「わたしの杯を飲むことができるか」と問われましたが、彼らはその杯の意味を正しく理解していないまま、できると答えました。しかし彼らは確かに、後の日にその杯を飲むこととなりました。ヤコブは最初の殉教者となり、ヨハネは最後まで生き残った12使徒の一人として、パトモス島での厳しい流刑の中で黙示録を記すことになりました。私たちはイエス様の御思いに心を合わせることが大切ですし、また公言した言葉の重大性を深く認識する必要があります。

http://bible.com/81/mat.20.17-23.ja1955

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マタイによる福音書 20:24-28

十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

ヤコブとヨハネの母の嘆願を聞いた他の弟子たち10人は、出し抜かれたと思い非常に憤慨しました。しかしイエス様は彼らをたしなめ、キリストの弟子たる者は、主イエスがなさったように多くの人に仕える者、いのちを懸けて人々の救いのために奔走する者となりなさいと戒められました。私たちがキリストに、教会に仕えるのは、名誉欲、権利欲を満たすためでなく、自らの報酬を目的とするのでもなく、天における救いの喜びを神と共に分かち合うため、神の国の到来を早めるためであることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/mat.20.24-28.ja1955

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マタイによる福音書 20:29-34

それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

福音の実現よりも派閥争い、権力闘争に心を費やしていた弟子たちとは裏腹に、ダビデの子なるメシヤを待望していた二人の盲人たちは、私たちを憐れんでくださいと叫び続けました。群衆は彼らを黙らせようとしましたが、イエス様は彼らを呼び寄せ、「何をしてほしいのか」と問われました。彼らの願いは、権力を得ることでも裕福な暮らし向きでもなく、目が見えるようになることでした。主は彼らを深く憐れみ、目に触られるとたちまち見えるようになりました。そして目が開かれた彼らは直ちにイエスに従って行きました。主は福音の到来を切望する者に大いなる御業を為されます。そして主の御業を体験した者は、自分の思い通りに生きる人生ではなく、主の御心に従う人生を選択します。

http://bible.com/81/mat.20.29-34.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/16

2018-10-16 06:35:19 | 今日の聖句
ヘブライ人への手紙 10:23 新共同訳

約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。

キリストの十字架を信じた者は、罪赦されきよめられたと神様から約束を得たのですから、この救いに留まり続け、再び罪の奴隷に逆戻りしてはなりません。私たちの信仰告白が空しいものとならぬよう、天に国籍を持つ者、聖なる民としてのアイデンティティーを保ち続ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/heb.10.23.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/15

2018-10-15 07:55:05 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 19:1-9

イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

イエス様が向かうところどこでも、群衆が集まってきました。そのような場を利用してパリサイ人たちはイエス様に難問を持ちかけて、人々の心をイエス様から離れさせようとしました。ここでは離縁に関する質問でした。離婚問題は時代を問わず非常に難しい課題です。イエス様の答えは、モーセが離縁を許可したのはやむを得ない場合に限定しただけであって、不貞など神様に喜ばれる婚姻関係を破壊する罪がない限り、離婚しないことを神様は願っておられると説きました。今の世の中、好きになったら結婚して、嫌いになったら離婚すればよいという、余りにも身勝手な結婚が当たり前のように横行していますが、そのような状況をイエス様は、姦淫の罪を犯していると厳しく戒められます。私たちはもっと結婚の奥義を重視しなければなりません。

http://bible.com/81/mat.19.1-9.ja1955

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マタイによる福音書 19:10-12

弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

パリサイ人たちの質問は、自分たちを含め多くの人が、妻が気に入らなくなったら離縁状を渡して離婚したいという願望が心の奥底にあったことを物語っています。イエス様の答えに弟子たちは、それならば結婚しない方がましだと、神様に従いきれない自分の姿を正直に認めています。イエス様はそんな弟子たちの答えに更に追加するかのように、独身についての教えを語られました。以前、賜物に関するセミナーの中で、独身の賜物というものがあることを学んだことがあります。これはイエス様の答えの中にある、生まれつき独身者となる者、神様のために進んで独身を貫く者に相当します。他の理由で独身者とされた者とは、パートナーに先立たれた者、相手から一方的に離縁された者などです。イエス様はそのような人々に対し、独身を受け入れることで神様に栄光を帰するようにと説きました。

http://bible.com/81/mat.19.10-12.ja1955

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マタイによる福音書 19:13-15

そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。

聖書は必ずしも時系列的に記事が並んでいるわけではありませんが、先の章で幼子を受け入れられない者は天国に入れないと説いたにもかかわらず、弟子たちは御側に近寄ってきた子どもたちを追い払おうとしました。おそらく弟子たちは忙しいイエス様に少しでも休んでいただこうと思ったのでしょうが、イエス様は幼子を来るままにさせなさいと弟子たちをたしなめられ、天国はこのような者の国であると説きました。ただイエス様に祝福していただこうと邪念なく近付く者こそ、天国に相応しい者です。

http://bible.com/81/mat.19.13-15.ja1955

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マタイによる福音書 19:16-22

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

天国に関するイエス様の教えに、一人の青年が近付いてきました。彼もまた天の御国に入りたいと願ってモーセの律法を真面目に守ってきたと自負する者でしたが、イエス様は彼に足りないものを見抜いて、すべての資産を貧しい人に施してわたしに従いなさいと勧めました。資産家であった彼は、イエス様の教えに従うことができず、嘆きながら立ち去りました。彼は永遠のいのちを求めながらも、この地上の生活に対する執着心が捨てられなかったのです。生き金・死に金という考え方がありますが、この世の財産は、ただため込んで自己満足するためにあるのではありません。持てる財産を、そして自分に与えられた賜物を適切に用いて、神様の栄光を表すことこそ、天の国籍を持つ者に相応しい生き方です。

http://bible.com/81/mat.19.16-22.ja1955

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マタイによる福音書 19:23-26

それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。

悲しみながらイエス様の元を立ち去った青年の後ろ姿を見ながら、イエス様は富んでいる者が天国に入るのは難しいと言われました。多くの富む者は、この世の繁栄を追い求めるあまり、天の宝に目がいきません。かの青年のように、この世の裕福な暮らしを捨てることができず、みすみす天国への入口を通り過ぎてしまいます。しかし自分にはできませんと素直に告白する者に、神様はできる力を与えてくださいます。むしろ、自分にはできる、大丈夫と過信する者こそ、天の御国への入口を閉ざしてしまっているのではないでしょうか。

http://bible.com/81/mat.19.23-26.ja1955

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マタイによる福音書 19:27-30

そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」

イエス様の答えに反応してペテロは、家族を捨ててイエス様に従った自分は天で何をいただくことができましょうかと質問しました。そんなペテロにイエス様は12使徒に与えられた天における権威を説きつつも、「先の者は後になり、後の者は先になる」と信仰の姿勢を正されました。天の報酬を受けるために神様に従う者は、この世の報酬に執着する者と本質的に変わりありません。すべてを捨ててイエス様に従う者とは、やがて天にて神の御前に立ち、「忠かつ善なる僕よ、よくやった」とイエス様のお褒めに与るときも、「私はふつつかな僕です、為すべきことをしたに過ぎません」と、どこまでも謙虚に神様に従い通す者です。

http://bible.com/81/mat.19.27-30.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/15

2018-10-15 06:40:22 | 今日の聖句
ユダの手紙 1:20-21 新共同訳

しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。 神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。

ひとたびキリストの十字架による罪の購いを信じた者であっても、この世のあらゆる欲望から抜け出せずにいるならば、自ら滅びを招くことになります。聖なる尊い信仰を拠り所として己の身をきよく保ち、神の憐れみにより救われた恵みに留まり続け、御霊の導きを求めて祈りつつ、キリストの再臨を待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jud.1.20-21.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/14

2018-10-14 21:15:01 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 18:1-11

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕」

誰が偉いのかという問いかけは立身出世を願う野心家にとって最大の関心事で、イエス様の弟子たちも内心では常に互いに牽制し合っていました。しかし天の御国にこの世の価値基準を持ち込むことは筋違いです。イエス様は人が野心を抱くようになる前の幼児を呼び寄せて弟子たちの前に立たせ、この幼子のように純粋な心を持つ者が天国で最も偉い人であるぱかりか、邪念を抱く者は天国に入ることすらできないと答えられました。更に進んで、この世で最も小さい者を受け入れない者、取るに足らない者を軽んじる者、人を躓かせる者は天国には相応しくないと戒められました。いと高き神の御子でありながら栄光の御位を捨て、人を仕えさせるためでなく、むしろ人に仕えるためにこの世に来られたイエス様に倣い、この世の支配者のように偉そうに振る舞うことなく、謙遜な僕の姿を貫かせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.18.1-11.ja1955

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マタイによる福音書 18:12-20

「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

失われた者を探し出して救い出すためにこの世に来られたイエス様は、群から迷い出た一匹の羊を捜し出すために、群の中にいる羊を山に置いて、危険を顧みず出かけてゆく羊飼いにたとえて、一人も滅びないことが神様の御心であると教えられました。福音はすべての人々に開かれており、既に救われた者にはまだ神を信じていない者をイエス様の元に導く使命が与えられています。また既に救われた者が群から迷い出ようとしているならば、再び群に連れ戻さなければなりません。もしその人が罪を犯しているならば忠告して罪から離れさせることが、天国の鍵を預かる者として教会に与えられた使命です。

http://bible.com/81/mat.18.12-20.ja1955

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マタイによる福音書 18:21-35

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

自分に罪を犯した者に対してペテロは7回までなら許せるかもしれないと考えましたが、イエス様は更に70倍許しなさいと答えられました。しかし考えてみたら、私たちが神様に対して犯してきた罪の重さは7回の70倍どころか、決して赦されるはずもないものでした。イエス様の譬に出てきた1万タラントの負債について今の日本円でどれくらいの価値に相当するか考えてみましょう。当時のイスラエルの通貨で1タラントは6000デナリ、1デナリが一日分の給料に相当する額ですから、今の日本の最低賃金から簡単に試算するために1デナリ5000円としても、1タラントは3000万円、1万タラントは3000億円ですから、たとい人が一生をかけて償おうとしても、一人では到底返済できるようなものではない巨額な借金でした。イエス様がこの譬で伝えたかったことは、私たちが神様に対して犯した罪の負債とな、どれほど莫大なものかということでした。神様がもし憐れみ深いお方でなかったならば、汚れた罪人に過ぎない私たちはたちまちのうちに滅ぼされてしまったことでしょう。もし神様の義の基準で裁かれたとしたら、私たちはひとたまりもなく厳罰に処せられたことでしょう。しかし神様は憐れみ深いお方、1万タラントの負債を帳消しにするほど寛大で気前の良いお方なのですから、私たちの身近な人が自分に対して犯した罪を許さなかったとしたら、神様はどのように思われるでしょうか。たといその人の罪の負債が100デナリ、低く見積もって50万円だとしても、それは簡単に帳消しにできるような安価な額ではありません。しかし罪を許す痛みを私たちが身を切るようにして実感することは、すべての罪を赦された神様の愛の大きさ、憐れみの深さ、寛大さを味わい知るために必要なことではないでしょうか。人をいつまでも許せない者ではなく、痛みを感じつつも許す者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.18.21-35.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/14

2018-10-14 06:40:29 | 今日の聖句
エレミヤ書 29:11 新共同訳

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

愛であられる神様が、私たち人間を故なく苦しみに遭わせるはずがありません。たとい目の前には受け入れ難い現実が立ちはだかっているとしても、主のご計画は災いをもたらすものではなく、平安の義の実を結ばせるものであると確信し、まだ見ぬ将来に希望を抱かせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jer.29.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/13

2018-10-13 21:35:05 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 17:1-8

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。

イエス様が神の国は近付いたと福音を宣べ伝えていた時期から、十字架に向かう道を説き始めるようになった頃に、変貌山の出来事が起こりました。イエス様が会談をしたモーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表で、すなわち旧約聖書を成就するためにイエス様は十字架に掛かられようとしていたことがわかります。イエス様の栄光の御姿を目の当たりにしたペテロは、この素晴らしい場面に永遠に残りたいと思って小屋を建てようと提案しましたが、天の父なる神様は愛する一人子イエス様の言うことに従いなさいとの神様の御告げを受けて、ひれ伏して主を拝しました。そんな彼らにイエス様は「起きなさい、恐れることはない」と優しく声を掛けられました。天の父なる神様は威厳をもって私たちに臨まれますが、地上に来られたイエス様は常に優しく声を掛けてくださいますから感謝です。

http://bible.com/81/mat.17.1-8.ja1955

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マタイによる福音書 17:14-22

さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔 しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。 彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、 彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちは非常に心をいためた。

変貌山での驚くべき素晴らしい体験をした後、山から下りると、悪霊に憑かれた子を癒すことのできなかった弟子たちと群衆がイエス様の帰りを待ち受けていました。イエス様は悪霊を叱りつけると、悪霊はその子から離れて出て行きましたが、イエス様はいつまで弟子たちと共にいられるだろうかと、その心はすでに十字架に掛かられる日を見据えておられました。私たちも時折、礼拝や聖会などで素晴らしい体験をして霊的に満たされても、家や職場に戻ると厳しい現実が待ち受けていたりします。そのようなときに必要なものは、山をも動かすような確信に満ちた信仰、そして断食して祈るほどの神様との深い交わりを持つことです。教会にいるときだけ、信仰の仲間と共に過ごす時間だけ満たされていればよいのではなく、日常生活の中で神様との関係をしっかりと保つことによって、厳しい現実にも耐えうる信仰が生まれます。温室育ちのクリスチャンではなく、険しい岩間に花を咲かせる高山植物のようなたくましい信仰を身に付ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.17.14-22.ja1955

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マタイによる福音書 17:23-27

彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。

宮の納入金とは、当時イスラエルを支配下に治めていたローマ皇帝に対する税金とは別に、神殿を中心とするユダヤ人社会を維持するための税金でした。集金人たちはイエス様と弟子たちにも、宮の納入金を収めるように督促に来たのです。イエス様は国の王子たちが税金を納めていないことを事例として挙げて、本来は神の一人子であられるお方が神様の神殿に対して税金を納める必要はないことを説かれましたが、同時に、イスラエルの人々を躓かせないために、ペテロの得意分野である魚釣りでイエス様と弟子たちの納める税金を与え、集金人に支払うようにと命じられました。私たちも自分には何一つ義務もないのに、どうしてこんなことをしなければならないのかと思うことが多々あります。しかしイエス様がイスラエルの人々を躓かせないために納税されたように、神様の御心に反することでなければ、自ら率先して人々の模範となるように社会的責任を果たすことが必要とされます。

http://bible.com/81/mat.17.22-27.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/13

2018-10-13 08:00:46 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 1:13-14 新共同訳

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

誘惑は私たちを神様から離れさせようとするサタンの仕業ですから、神様が人を誘惑するはずがありません。誘惑に打ち勝つことができないのは、心の中に罪を慕う欲望があるからです。主イエスが荒野で誘惑を受けたときと同じく、心の中に蓄えた聖書の御言葉をもって誘惑を退ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jas.1.13-14.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/12

2018-10-12 07:45:12 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 16:1-4

パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。

パリサイ人は律法厳守の超伝統派、サドカイ人は世俗的な現実主義者の富裕層で、両者はいつも対立していました。しかし主イエスを敵対視することでは利害関係が一致して、イエス様を試みて天からのしるし、証明を求めました。しかしイエス様がメシヤであることのしるしは、すでに数々の奇跡と癒しによって彼らも目の当たりにしていたはずです。にもかかわらず天からのしるしを求めたとしたら、残されているのは最終手段、すなわち十字架と復活の他にありません。ヨナが3日3晩、魚の腹の中にいたように、主イエスも十字架に死んで陰府に降り、世人の罪を清算して栄光の体によみがえることを、ヨナのしるしと言われました。私たちにはその奥義が明かされていますから感謝いたします。

http://bible.com/81/mat.16.1-4.ja1955

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マタイによる福音書 16:5-12

弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。

イエス様が弟子たちにパリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒せよと言われたとき、弟子たちの心は鈍く、パンの持ち合わせがないことを咎められたのかと誤解しました。イエス様はそんな鈍感な弟子たちに直接、御言葉の奥義を解き明かされました。たといパンの持ち合わせがなくても、五千人の給食、四千人の給食の奇跡を行われたイエス様の教えに堅く信頼し、誤った教えに惑わされることなく真理を悟る私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.16.5-12.ja1955

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マタイによる福音書 16:13-20

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。

当時のイスラエルの人々は、イエス様のことをバプテスマのヨハネとか、エリヤとか、エレミヤや過去の偉大な預言者だと信じていました。しかしイエス様は弟子たちに、あなたはどう思うかと問われました。するとシモン・ペテロが、生ける神の子キリストと答えました。イエス様は彼の信仰告白を誉めると共に、この真理を悟ることができるのは人の考えによるのではなく、私たちの心の中に住んで天の父なる神様の御心を解き明かしてくださる聖霊なる神の働きによるのだと説明されました。イエス様は私たちにも、あなたは私を誰だと信じるか?と問われます。そのとき世間の噂や人々の言うことに左右されず、心の内なる御霊に聞き従って、あなたこそ生ける神の子キリストですと信仰告白させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.16.13-20.ja1955

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マタイによる福音書 16:21-23

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

つい先ほどはイエス様に誉められたペテロですが、この後に起こるべき十字架の道を説き始めたイエス様をいさめて、かえってサタンよ引き下がれと叱られてしまいました。人間的な理想、合理的な思想による頭で神様を信じる信仰は、本当の信仰ではありません。神様の御心を求めて聞き従う霊による信仰こそが、尊いまことの信仰です。

http://bible.com/81/mat.16.21-23.ja1955

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マタイによる福音書 16:24-28

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

永遠のいのちを求めるならば、自分を捨て、自らに課せられた使命を果たす者となるべきことを、イエス様は弟子たちに教えられました。いのちは代価をつけることのできない、まさにプライスレスな神の恵みです。

http://bible.com/81/mat.16.24-28.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/12

2018-10-12 06:35:19 | 今日の聖句
歴代誌上 29:11 新共同訳

偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。

神殿建築のために自発的に捧げものを差し出したダビデ王とイスラエル12部族のつかさたちは、偉大な主の栄光と誉れを拝して喜びに満たされました。神様に対する感謝の故に、自分の持てる最高のものを心から喜んで捧げる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1ch.29.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/11

2018-10-11 08:00:11 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 15:1-9

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

パリサイ人と律法学者たちはエルサレムからゲネサレの地までやって来て、イエスの弟子たちが昔からの言い伝えを破るのはなぜかと問いました。彼らは主イエスに問題解決を求めていたのではなく、言葉尻を捉えて訴える口実を作るためだけにわざわざエルサレムからやって来たとは、なんと愚かなことでしょうか。そんな彼らにイエス様は、人が作り出した言い伝えではなく神様から与えられた律法の定めに反することを彼らが平気で教えていることを、イザヤ書の預言を適切に引用しつつ、厳しく指摘されました。私たちもまた、聖書の御言葉の本質を取り違えて、自分たちが考え出した勝手なローカルルールを人に押しつけてしまう過ちを犯さないよう、細心の注意を払わねばなりません。

http://bible.com/81/mat.15.1-9.ja1955

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マタイによる福音書 15:10-20

それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。

イエス様は食事の前に手を洗う慣習からさらに発展して、人を汚す罪について語られました。汚れた食べ物は腹痛や病気など肉体に悪影響を及ぼしますが、人の心に悪影響を及ぼすことはありません。それよりももっと深刻なことは、悪しき思いから発せられた汚れた言葉は、聞く者の心に入り魂に悪影響を及ぼします。言葉の持つ力と影響力を充分に知った上で、人をおとしめ罪を犯させる汚れた言葉を慎み、人を生かし魂に力を与える神の愛と義に満ちた言葉を語らせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.15.10-20.ja1955

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マタイによる福音書 15:21-28

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

イエス様はさらに道を進んで異邦人の地に行かれると、そこにカナンの現地人の女性が主イエスの下に来て、悪霊に憑かれた娘を助けてくださいと叫び続けました。その執拗さは弟子たちも手を焼くほどで、イエス様に追い払ってくださいと嘆願するほどでしたが、それまで黙っていたイエス様はこの女性に向かい、イエス様が来られたのはイスラエルの「残れる者」を救うためであると言われました。これは一見、イエス様がこの女性を突き放した、拒絶したように見受けられますが、イエス様の真の目的はそれでも食い下がる信仰があるかを試みるためであったとこは明白です。そんなイエス様の「子どものパンを取って子犬に投げるのはよろしくない」とのチャレンジに、この女性が「子犬も机の下に落ちたパンくずはいただきます」と、機知に富んだ返答をすると、主は「あなたの信仰は見上げたものである」と賞賛し、「あなたの願い通りになるように」と答えられました。ここでもイエス様は、癒されよとは言わず、信じた通りになるようにと答えられたことは注目すべきです。私たちの祈り願いも、私たちが信じた通りにイエス様はなさいます。信じないならば信じないがままの応報を受けることを、私たちは忘れてはなりません。

http://bible.com/81/mat.15.21-28.ja1955

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マタイによる福音書 15:29-39

イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。 すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。 群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。 弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。 一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。

この記事は14章の五千人の給食の奇跡と似ていますが、細かく見ると異なる点がいくつかあります。まず、人数が四千人であること、最初にあったパンの数が7つであること、食後に集めたパンくずが7かごであったことなどです。またこの奇跡の行われた背景として、異邦人の地でなされたこと、群衆は3日間も食事を取っていなかったことも相違点です。この場面から今朝私に示されたことは、神様の救いの恵みは神の民イスラエルだけでなく異邦人にも及び、7という完全数で表されるように、受ける恵みも、結ぶ祝福の実も完全であることを示されたのではないかと思います。もしかしたら3日間食事を取らなかったのは、イエス様の十字架の死から復活までの3日間を暗示しているかもしれません。ちなみに五千人の給食でパンの余りが12のかごにいっぱいになったのは、まぎれもなくイスラエル12部族に福音が及ぶことを示唆していると言えましょう。聖書に記された数字からも神様の御心を瞑想することは、実に楽しく、深く恵みを味わい知ることができますから感謝です。

http://bible.com/81/mat.15.29-39.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/11

2018-10-11 06:50:27 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 1:8-9 新共同訳

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

ペテロの手紙は世界中に離散したユダヤ人に宛てた手紙ですが、現代に生きる私たちも同じく、直接出会うことのなかった主イエスを信じる信仰の実として魂の救いを受けた喜びに満たされています。やがて再臨の主イエスに見ゆるさいわいを夢見て、疑うことなくひたすらに信仰の道を守り続ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.1.8-9.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/10

2018-10-10 07:40:11 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 14:1-11

そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。 というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。 その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。

この箇所にバプテスマのヨハネの最期について記されています。領主ヘロデの不貞を指摘したためにバプテスマのヨハネは牢獄に捕らえられていましたが、彼はバプテスマのヨハネを預言者と認め、群衆の暴動を恐れて死刑の執行をためらっていました。しかし宴会の余興として舞を踊った不貞の妻ヘロデヤの娘に何でもあげようと愚かな約束をしてしまったために、人々の手前、バプテスマのヨハネを死刑に処さなければならなくなってしまいました。人を恐れ、人の目ばかり気にする生き方は、自分本来の自由な人生を送ることができず、自分の意志に反することばかりしなけれはならなくなってしまいます。肉体を滅ぼすことはできても魂まで滅ぼすことのできない者を恐れるのではなく、永遠のいのちを握っておられる神のみを畏れ、自分に与えられたこの世のいのちを、神のために自由に用いさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.14.1-11.ja1955

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マタイによる福音書 14:15-21

夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。

この箇所は有名な五千人の給食の奇跡です。これまでのイエス様の奇跡は、イエス様ご自身が一人一人に対して自ら奇跡を行っていましたが、ここでイエス様は弟子たちを用いて、群衆一人一人に必要な食糧を手渡されました。この箇所には弟子訓練の基本が記されています。私たちが主の業を行うとき、自分の力で行うのではなく、主から与えられた機会と賜物を生かして、忠実に主に聞き従うときに、大いなる御業が起こされます。主から与えられたものを、遜って適切に用いることこそが、主に喜ばれる奉仕の基本姿勢です。

http://bible.com/81/mat.14.15-21.ja1955

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マタイによる福音書 14:22-23

それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

12-14節にもありますが、イエス様は折に触れて神様と一対一で祈る時を大切になさっていました。忙しい毎日の生活の中で、聖書を読む時間や祈るときがなかなか持てないと諦めてしまうのではなく、あえて主のために時間を割き、隙間時間縫うようにしてデボーションの時を作り出す者にこそ、神様の祝福は豊かに注がれます。

http://bible.com/81/mat.14.22-23.ja1955

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マタイによる福音書 14:24-33

ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。

イエス様と離れ対岸に向かって船を漕ぎ進んでいた弟子たちは、逆風に悩まされてなかなか進めずにいました。そこにイエス様が海の上を歩んで近付いて来られたとき、弟子たちは幽霊と見誤って恐怖に襲われ、大パニックに陥りました。私たちが人生の壁に突き当たったとき、自分の殻に閉じこもっていると冷静な判断ができず、イエス様が近付いてこられてもそれと気付かずに慌てふためいてしまいます。またペテロのように勇気をもってイエス様に近付こうとしても、イエス様から目を離してしまうと、周囲の状況に恐れて、かえって溺れてしまいます。私たちに必要なことは、常に心の目を見開いて主に向け、主にすべてを委ねて、嵐の中でも平安に満たされる恵みを実体験させていただきつつ謙虚に学ぶことが肝要です。

http://bible.com/81/mat.14.24-33.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/10

2018-10-10 06:35:27 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 2:16 新共同訳

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。

主イエスの十字架の購いにより罪の縄目から解放された私たちは、神の憐れみにより得た自由を再び罪の中に陥るために用いるのではなく、神の義のために用いるべきです。自由な意志で主をあがめ、生ける神の証人となる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.2.16.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/09

2018-10-09 07:35:11 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 13:1-9

その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞くがよい」。

今日の通読箇所には主イエスが語られた譬が多数記されており、一つ一つ丁寧に学びたいところです。今日心に留めたい御言葉に注目したいと思います。最初の譬は有名な種蒔きの譬です。ここには四種類の地に蒔かれた種について記されています。種は同じですが、蒔かれた地が異なります。ここで種とはイエス様の語られた福音の御言葉、地は聞く私たちの心です。どれほど有益な言葉が語られても、聞く者が受け入れて従う状態に整っていなければ福音が実を結ぶことはありません。主イエスの御言葉に聞き従い、百倍の実を結ぶ私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.13.1-9.ja1955

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マタイによる福音書 13:10-15

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。」

弟子たちはイエス様に、なぜ福音を譬で語られるのですかと問いました。イエス様はイザヤ書の預言にある「目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないため」だと答えられました。私たちもまた、聖書の御言葉を聞いても悟らなければ、悔い改めなければ、何一つ残る者はありません。主の御言葉に聞く耳を持ち、御霊の助けにより悟る心を授けていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.13.10-15.ja1955

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マタイによる福音書 13:24-30

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。 人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

種蒔きの譬に続いて、イエス様は毒麦の譬を語られました。先ほどは四種類の土地が違いでしたが、今度は良い種が同じ良い地に蒔かれた後、敵であるサタンが毒麦の種を蒔いてゆきました。これは私たちが日々を過ごすこの世において、理想通りの環境、温室育ちの純粋培養とはなり得ないことを意味しています。毒麦が蒔かれたことに気付いた僕に対する神様の答えは、実が生るまで待ち、違いが明らかになってから毒麦を刈り取って火で焼き尽くすというものでした。これは主の再臨の日をたとえたものです。神様は私たちの結ぶ実が明らかになるまで、忍耐をもって見守り、借り入れの日が来たら悪しき者を集めて永遠の滅びの火に投げ入れられます。ですから私たちは、悔い改めに相応しい実を結ぶ者となりたいと願います。

http://bible.com/81/mat.13.24-30.ja1955

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マタイによる福音書 13:53-58

イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。

イエス様が郷里に帰り、会堂で御言葉を宣べ伝えていると、聞いていた人々は、彼はどこでこれらの御言葉を学んできたのか?と驚き怪しみました。幼い頃からイエス様を知っていた彼らは、今目の前にいるイエス様とのギャップを理解できなかったこともあるでしょう。しかし何よりも彼らが気にしていたのは、これらの律法の解き明かしを誰に学んだのかということ、いわゆる権威主義でした。しかし最も重要なことは、誰に学んだかではなく、正しく理解して神の御心と一致する誤りのない御言葉を語ることです。真に福音に目が開かれているならば、自らの結ぶ実によってその人が真実であるかどうかを見分けることができます。誰の目から見ても御言葉に生きていることを証できる、平安な義の実を結ぶ人生を送る者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.13.53-58.ja1955
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