伊藤ファミリーBLOG

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【今日の聖句】 2018/10/24

2018-10-24 06:35:17 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 5:7 新共同訳

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

神様は私たち一人一人のことをすべてご存知であられますから、心の内にある思い煩いもまた心に掛けておられ、良きに変えてくださらないはずがありません。すべてを神様にお任せすることのできるさいわいに感謝し、大船に乗ったつもりで神様の御手に委ねて平安を得る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.5.7.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/23

2018-10-23 07:50:53 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 27:1-10

夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

イエスを裏切ったユダは、祭司長たちが死刑にするためにローマの総督に引き渡そうとしている計画を知ると後悔し、自分が受け取った銀貨30枚を指し出して罪を精算しようとしました。しかし神に仕える祭司長たちであっても、人の罪を赦す権威はなく、ユダの申し出を拒絶したため、結局ユダは首をつって自殺することになりました。ユダは罪を告白すべき相手を間違っていたのです。人に対して罪を告白しても、決して赦されることはありません。人の罪を赦す権威は、天地万物を統べ治められる全知全能の神様にしかありません。

http://bible.com/81/mat.27.1-10.ja1955

*****

マタイによる福音書 27:15-26

「さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。 ときに、バラバという評判の囚人がいた。 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。‬

当時イスラエル一帯の統治を任されていたローマ総督ピラトは、イエスに何も罪をないことを認めながら無罪判決を下すことをせず、祭司長やユダヤの長老たちにそそのかされて暴徒化した群衆を恐れて、大罪人バラバを無罪放免し、何の罪もないイエスを十字架で処刑するために身柄を引き渡しました。そして彼自身はイエスの処刑について自分には責任がないと手を洗いましたが、歴史的な大冤罪裁判を行った者として、今日に至るまで語り継がれる汚名を着せられる結果となりました。ピラトの過ちは、自分で判断せず人の顔色を見て風見鶏のように態度を変える無責任、無関心の罪です。

http://bible.com/81/mat.27.15-26‬.ja1955

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マタイによる福音書 27:27-36

それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 そこにすわってイエスの番をしていた。

特にこれといった戦闘もなく、暇を持て余していた当時のローマの兵隊たちに流行っていた「王様ゲーム」という遊び?があったそうです。それは、仲間内で誰か一人をくじ引きで王様に仕立て上げ、一日中好きなことをさせて何でも命令に従う替わりに、翌日にはその人を殺すという残虐なものだったということです。十字架刑の判決を受けたイエス様も同様に、この王様ゲームの対象となったというのです。そんな彼らを尻目に、イエス様は後にイエス様の弟子に加わったクレネ人シモンとも関わりを持ち、麻酔薬を混ぜたぶどう酒を拒絶して、ただ黙々と十字架の道を歩まれました。私たちの罪をすべてその肩に担うために。

http://bible.com/81/mat.27.27-36.ja1955

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マタイによる福音書 27:45-56

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

十字架刑は傷口から徐々に血液が体外に流れ出て失血死するため、普通は一日以上、人によっては数日間生きていると言われます。しかしイエス様は約半日で息を引き取られました。これはすべての人類の罪を背負われた責任の重さを物語っていると思います。そしてイエス様が息を引き取られたとき、神殿の幕すなわち大祭司が年に一回だけすべての人の罪を購うために入る至聖所を隔てていた厚さ数センチもある緞帳のような幕が真っ二つに裂けました。これはキリストの十字架によって、誰でも、いつでも、神様の御前に罪の赦しを得るために進み出ることができるようになったことを表しています。そして地震が起こり、墓に葬られた聖者たちが生き返る一部始終を見届けたローマの百卒長と番人たちは、イエス様こそまことの神の子であったとの信仰告白に至りました。イエス様の十字架の真実を見た人にこそ、まことの救いが訪れます。

http://bible.com/81/mat.27.45-56.ja1955

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マタイによる福音書 27:57-61

夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、 岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。 マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。

イエス様の十字架には関わりを持ちたくないと言ったピラトの元に、イスラエル最高議会の議員でもあったアリマタヤのヨセフが大胆にも進み出て、イエス様の遺骸を葬りたいと申し出ました。彼こそがイエス様の死と復活に大きく貢献した人物として、後世に名を残す者となりました。人目を恐れず大胆に信仰告白する者こそ、天に国籍を持つに相応しい者となることができます。

http://bible.com/81/mat.27.57-61.ja1955

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マタイによる福音書 27:62-66

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、 「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。 ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。 ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。 そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。

イエス様が捕らえられて逃げてしまった弟子たちとは正反対に、祭司長とパリサイ人たちは、イエス様が生前、3日後によみがえると言っていたことを思い出して、イエス様の墓に番人を置くようにと提案しました。同じことを聞いても、心の開かれていない頑なな者は、そこから真理を悟ることができず、永遠のいのちを手にすることはできません。私たちは御言葉に心を開いて聞く耳を持ち、真理に目が開かれ、永遠のいのちに与る者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mat.27.62-66.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/23

2018-10-23 06:35:00 | 今日の聖句
エレミヤ書 1:5 新共同訳

わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。

神様は私たち一人一人に目的を持ってこの世に生まれさせてくださるお方ですこら、誰一人として無意味な人生などないのです。自分に与えられた使命がわからずに空しい人生を送る人々に、神様からの愛のメッセージと喜びに満ちた人生の光を届ける福音の使者とならせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jer.1.5.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/22

2018-10-22 07:55:13 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 26:1-5, 14-16

「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。 「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。 そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、 策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。 しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。

時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

いよいよイエス様の受難のときが近付いてきました。この箇所を読むと、祭司長たちはイエス様を捕らえるのは過越の祭の後にしようと企んでいましたが、イエス様は過越の祭の日に十字架に掛からねばならなかったため、イスカリオテのユダにサタンが入ることを許されました。彼は銀貨30枚でイエスを売り渡す段取りを整えながらも、何食わぬ顔でイエス様の弟子として行動していました。私たちの中にもユダのような心がないか、今一度吟味し、気付いたならば直ちに悔い改めて罪を告白する者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.26.1-5,14-16.ja1955

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マタイによる福音書 26:6-13

さて、イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

最後の晩餐のときにイエス様に高価なナルドの香油を注いだ女性は、マグダラのマリヤだといわれています。この香油は今の日本円で300万円ほどの価値のあるもので、当時のユダヤの習慣では、女性が自らの結婚に備えてこつこつと蓄えたものであるともいわれます。また油を注ぎ掛けることはユダヤの王として認められるためのしるしであり、イエス様のお言葉にもあるように葬りの準備でもあります。すなわちこの女性が行ったことは、イエス様に人生のすべてを委ねる決意であり、イエス様をユダヤの王と認めることであり、十字架の死への準備でもありました。にもかかわらず、計算高い弟子(他の福音書によるとイスカリオテのユダ)は、なんと無駄なことをしたのかと女性を叱責しました。彼らは十字架に向かわれるイエス様の心を全く理解していなかったのです。

http://bible.com/81/mat.26.6-13.ja1955

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マタイによる福音書 26:17-25

さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。

除酵祭とは、過越の祭に備えて家中からパン種すなわちイースト菌を取り除くための準備期間です。ここでパン種とは、イエス様が何度も教えられたように罪を表します。エジプトからの解放、そして罪の奴隷からの解放を記念する過越の祭に備えて、自らの心の中から罪の根を根絶することが目的でした。そのときに、サタンに心を売り渡したイスカリオテのユダを名指しして弟子たちの内から取り除かれたことは、誰も予想していなかった展開であったかもしれません。イエス様がなさったことには一つ一つに意味があることを改めて教えられました。

http://bible.com/81/mat.26.17-25.ja1955

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マタイによる福音書 26:26-29

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

この箇所は聖餐式の度に開かれる有名な御言葉ですが、まだ十字架を経験する前の弟子たちにとっては食事の度に繰り返されたいつものことで、別段改まった意味があるとは思ってもいなかったかもしれません。私たちも聖餐式に臨むとき、いつものことと軽く受け止めるのではなく、主の十字架を偲んで心からの感謝をもって聖餐式に臨む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.26.26-29.ja1955

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マタイによる福音書 26:30-35

彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。

最後の晩餐の後、イエス様が改めて十字架に掛かるために捕らわれるとき、弟子たちはイエス様の元を離れると予告されると、ペテロは、たとい他の者が逃げ去っても自分だけはイエス様の元を離れませんと誓いました。しかしイエス様はそんなペテロに、今夜鶏が鳴く前にあなたは3度イエスを知らないと言うと予告されました。ペテロは決してそんなことはないと力説し、他の弟子たちも同様に答えました。しかし実際にイエス様が祭司長たちの手先に捕らえられると、弟子たちは皆イエス様を見捨てて逃げ、ペテロは3度知らないと答えることになりました。人の決意や努力は、簡単に覆ります。自分だけは大丈夫、という人ほど、実は大丈夫ではないのです。それが人の限界です。そんな自分の弱さを知り、神様に委ねる者だけが、本当の強さを身に付けることのできる者です。

http://bible.com/81/mat.26.30-35.ja1955

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マタイによる福音書 26:69-75

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

捕らえられたイエス様がこの後どうなってしまうのだろうと心配して大祭司の庭に忍び込んだペテロでしたが、周囲の人からあなたはイエスの弟子だと言われると、激しく誓ってまで否定しました。しかし3度否定した後に鶏の鳴き声が聞こえると、あらかじめイエス様が予告されていた言葉を思い出し、庭の外に出て激しく泣いて後悔しました。人は恐れに支配されてしまうと、本来は心にも思っていなかったことを平気でしてしまう、実に弱い存在です。己の弱さを知る者だけが、信仰による真の強さを身に付けることができます。ペテロにとってこの経験が後々役立つこととなったように、私たちもまた自らの弱さを知り、人の力を越えた神様に委ねる信仰によって力強く立ちあがる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.26.69-75.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/22

2018-10-22 06:35:16 | 今日の聖句
箴言 序 22:6 新共同訳

若者を歩むべき道の初めに教育せよ。
年老いてもそこからそれることがないであろう。

三つ子の魂百までとの諺のように、幼い頃から人の道を踏み外さぬよう躾ることは極めて重要なことです。組織ぐるみの不正や偽装が横行するこの世において、外圧に屈せず義の道を堅く守る正しい心と粘り強い胆力を身に付けさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/pro.22.6.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/21

2018-10-21 08:40:14 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 25:1-13

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」

天の御国に入れていただくためには、天に生きる者に相応しい備えが必要です。婚礼の席で灯火係として呼ばれた10人の乙女たちのうち、思慮の浅い5人はランプだけを備え、思慮深い5人はランプと共に灯すに必要な油を備えて結婚式に臨みました。いざ婚礼が始まるというときになって花嫁と共に入ることができたのは油を用意しておいた5人だけで、あとの5人は尽きかけた油を買いに求めている間に婚礼が始まってしまい、中に入ることができませんでした。この5人は自分に与えられた役割が何だったのかわからなかったのです。ランプだけあっても油がなければ灯火は点せないように、内なる聖霊の油が尽きた信仰の形骸化したクリスチャンは、残念ながら天の御国に入ることはできません。私たちは天において単にボーッと生きるのではなく、永遠に神様をほめたたえて栄光を現す役割があることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/mat.25.1-13.ja1955

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マタイによる福音書 25:14-30

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」

この箇所は有名なタラントの譬ですが、タラントとは当時の通貨の単位であっただけでなく、タレントすなわち能力という言葉の語原でもあります。神様は一人一人の器に応じて必要な能力を授けてくださいます。ここで1タラントは6,000デナリ、1デナリは一日分の給料に相当する額ですから、計算を簡単にするために一日の最低賃金を低く見積もって5,000円としても3,000万円と、決して少ない額ではありません。それを少ないと感じるか、あるいは5デナリ預けられた人と比較して不服に思うか、預けられたタラントを神様のために充分に活用しない者は、既にいただいている賜物まで奪われて天国の外に投げ出されてしまいます。私たちは与えられたタラントを更に磨きをかけて何倍にもして、神様の栄光を世に現すために忠実に仕える僕でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.25.14-30.ja1955

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マタイによる福音書 25:31-46

「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

人を偏り見ず限りない愛を注いでくださる神様の僕たる者は、人を見かけで判断せず、分け隔てなく真実を尽くすことが求められています。何事も自分にとって利益になるかどうかで行動する打算的な生き方を送る者、人に対して憐れみの心を持つことなく面倒なことには関わろうとしない怠惰な者は、やがて天の神様の御前で裁きを受けるときに「呪われた者よ」と叱責され、御国に入れていただくことはできません。私たちは天に国籍を持つ者として、神に似る者、天国人に相応しい品性を備えて、主の再臨を待ち望まなければなりません。

http://bible.com/81/mat.25.31-46.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/21

2018-10-21 06:40:44 | 今日の聖句
フィリピの信徒への手紙 4:8 新共同訳

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

真実、崇高、正義、きよめ、愛、栄誉、徳の高さを追い求めることは、いと高き神に属する者に相応いことです。心から神を求める信仰により、キリストの徳の高さに至らしめさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/php.4.8.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/20

2018-10-20 10:10:22 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 24:1-8

イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」

ヘロデ王の建てた立派な神殿に注目させようとした弟子たちに、イエス様はこの神殿が跡形もなく無惨に破壊される日が来ると警告されました。それは紀元70年にローマ帝国の総攻撃によるエルサレム陥落によって現実のものとなりましたが、いつその日が来るのかと質問した弟子たちにイエス様は世の終わりについて教えられました。イエス様が世の終わりの前兆として教えられたことは、偽キリストの出現、戦争、飢饉、地震など、今もう既にその予兆が出始めているように思われます。たとい目に見える世界は繁栄しても、世の終わりにはすべてが消え去ります。見ゆるところによらずして信仰によりて歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.24.1-8.ja1955

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マタイによる福音書 24:9-14

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」

世の終わりが来る前に、大艱難時代と呼ばれる苦難の時が訪れます。これは神の民イスラエルだけでなく、まことの神を信じるクリスチャンにとっても試練の時です。主の御名の故に人々から憎まれ、苦しめられ、殺される者までも起こっても、最後まで信仰を捨てることなく耐え忍ぶことができるように、父なる神様に切に祈り求め、永遠の救いを自ら手放すことのないようにありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.24.9-14.ja1955

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マタイによる福音書 24:15-22

「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。」

世の終わりのについては、ダニエル書の通読でも学びました。70週と記された大艱難時代に、荒らす憎むべき者、すなわち反キリストが聖なる地エルサレムに立ち蹂躙するのを見たなら、後戻りすることなく直ちに逃げなさいとイエス様は言われました。昔ソドムとゴモラが滅ぼされたとき、神の御使に振り返ってはならないと言われたのに後を振り向いたロトの妻が塩の柱になって救われなかったように、元の罪の世界には目もくれず、救いに向かって全力で脱出する私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.24.15-22.ja1955

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マタイによる福音書 24:23-31

「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。 見よ、あなたがたに前もって言っておく。 だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。 ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。 死体のあるところには、はげたかが集まるものである。 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」

世の終わりには多くの偽キリストが現れ、神に選ばれ救われた民さえも惑わそうとします。しかしそれがキリストか偽キリストかは、聖書に照らしてその実を見ればわかります。ですから私たちは聖書を正しく学び、理解しておかなければなりません。ゼカリヤ書でも学んだように、まことのキリストは、歴史上かつてないほどの天変地異を伴って現れます。偽キリストに騙されることのないよう、常に信仰の目を見開き、真理を敏感に感じ取ることのできる感性を身に付けさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.24.23-31.ja1955

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マタイによる福音書 24:32-42

「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」

イエス様がエルサレムに入るとき、葉が生い茂るだけで実を結んでいなかったイチジクの木を呪われた記事がありましたが、夏の到来の前に葉をつけるイチジクの木のように、私たちには時を感じ取ることのできる五感が備えられています。もし私たちがそれらの感性を最大限に活用しなければ、まことのいのちへの門に気付かずに通り過ぎてしまいます。天国に至る切符をいただきながら、発車時刻までに駅の改札を通らなければ、天国行きの列車に乗り遅れてしまいます。永遠に滅びることのないイエス様の御言葉を手放すことなくしっかりと握りしめ、常日頃からきよい信仰生活を送り、御国に入れていただくタイミングを見逃すことのないように備える私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.24.32-42.ja1955

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マタイによる福音書 24:43-51

「このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」

世の終わりがいつ来るのかは天の父なる神様だけがご存じなのですから、私たちはいつその日が訪れても慌てることのないように、常日頃から準備万端整えて待ち望む必要があります。この譬に語られた悪い僕のように怠惰な生活を送ることなく、今日、再臨の日が来たとしても直ちに神様の御前に進み出ることのできるよう、身も心も備えられた者となる私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.24.43-51.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/20

2018-10-20 07:30:17 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 1:5 新共同訳

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

暗闇のような罪深いこの世に燦然と輝く義の光としてイエス様は来られました。しかし闇の内に留まっていた世の人々はイエス様を理解できず、十字架に掛けて殺してしまいました。心の頑なな彼らのようにではなく己の罪深さを認めて悔い改め、主イエスを信じ受け入れて永遠のいのちに至る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jhn.1.5.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/19

2018-10-19 07:50:37 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 23:1-7

そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。」

律法学者やパリサイ人たちの語る教えには従いなさい、しかし、彼らの行いには決して見習うなと、イエス様は皮肉たっぷりに、彼らの言動不一致を厳しく指摘されました。私たちも口先では立派なことを言いながら、その行いや生活態度は決して誉めらるものではない、むしろ毒をまき散らし人に害を与えるようやことをしていないか、自らを省み、吟味する必要があります。どこを切っても同じ絵柄が出てくる金太郎飴のように、私たちの日常生活が、いつ何時でもキリストの芳しい香りを放つものでありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.23.1-7.ja1955

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マタイによる福音書 23:8-12

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」

私は長年教会学校の奉仕に携わっていたこともあり、人から先生と呼ばれることが多かったのですが、個人的には先生とは呼ばれたくはありませんでした。その思いの元となっているのが、この聖書の箇所です。先生、先生と持ち上げられて高慢になるよりは、むしろ人に仕える僕の姿に徹したいと願ってやみません。

http://bible.com/81/mat.23.8-12.ja1955

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マタイによる福音書 23:13-22

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。 盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。 また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。」

律法学者やパリサイ人たちの教えは律法に忠実に従っているように見えて、その実は人に無理難題を押しつけて、天国に至る門を狭くしているだけだとイエス様は指摘されました。またその教義は律法の本質を突くものではなく、見かけ倒しのものであったため、イエス様は彼らを偽善者だと断罪されたのです。パリサイ人たちのように周囲の人々をつまづかせる者とならないよう、人の振り見て我が振り直す私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.23.13-22.ja1955

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マタイによる福音書 23:23-28

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」

パリサイ派の律法学者たちは、捧げものの規定など子細に至るまで厳格に律法を守ろうとしていましたが、それは木を見て森を見ずとの諺の如く、枝葉末節のことばかり気にして律法の本質である愛と憐れみと忠実については全く関心のないものとなっていました。修験僧のように自分に厳しく修行を重ねても、その目的が人から立派だと思われたいがためであるならば、そのような信仰生活は全く無意味なもの、単なる自己満足に過ぎません。白く塗った墓だとイエス様から叱責されることのないよう、彼らを反面教師として、神に喜ばれる生きた信仰生活を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.23.23-28.ja1955

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マタイによる福音書 23:29-36

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。 こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。 よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。」

バラキヤの子ザカリヤとは、直接的には歴代誌下24章20節〜22節にある祭司エホヤダの子ザカリヤを指しますが、暗にバプテスマのヨハネを想起させているとの解釈もあります。いずれにせよ、旧約聖書の最初の殺人被害者であるアベルから、旧約聖書の最後(ヘブル語聖書の並び順では歴代誌下が最後とのこと)の預言者の殺人に至るまで、律法学者とパリサイ人たちに責任があるとイエス様は厳しく断罪しているのです。そして彼らはいと高き神の御子であられるイエス様まで、十字架に掛けて殺してしまいました。これらの義人の血の報いは彼らの頭に下され、やがてマサダの戦いで彼らは滅びることになります。

http://bible.com/81/mat.23.29-36.ja1955

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マタイによる福音書 23:37-39

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。 わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

神様が永遠にその御名を置くと言われた聖なる都エルサレムは、過去の栄光に酔いしれて高慢になり、自らの欲望に走る彼らを戒めるために遣わされた預言者たちを殺害したため、神様から見捨てられ呪われたものと成り下がってしまいました。神様はどのような思いで預言者たちを遣わされたのでしょう。イエス様がエルサレムに向かって流された涙を思い、心からの悔い改めをもって魂の玉座に主をお迎えする私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.23.37-39.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/19

2018-10-19 06:35:08 | 今日の聖句
コヘレトの言葉 12:13 新共同訳

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

人類史上最高の知恵を授かったソロモン王がその生涯を通して得た結論が、神を畏れ聖書の戒めを守ることこそ人の本分であるとの教訓でした。晩年になって一生を振り返るときに後悔することのないよう、若い時期から聖書に親しみ、神と共に歩むまことのさいわいな人生を送る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/ecc.12.13.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/18

2018-10-18 07:45:20 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 22:1-7

イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。 そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。 しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。 そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

このイエス様の譬は、天国に招かれた者の資質にかかわる問題提起です。あらかじめ招かれていた人たちとは神の民イスラエルのうち、預言者たちの教えに耳を傾けず、悔い改めもしなかった人々を指します。彼らは天の御国の約束を受けてながら神様の呼びかけを無視し、自分たちの都合やこの世の祝福を優先し、一部の者は遣わされた預言者を殺すことまでして、みすみす永遠のいのちを受け損ねてしまいました。神様の約束は真実ですが、受ける私たちの側が不真実で約束を反故にしてしまったならば、残された道は永遠の滅びしかありません。

http://bible.com/81/mat.22.1-7.ja1955

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マタイによる福音書 22:8-14

それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

天の祝福を受け損ねた神の民イスラエルの多数派に代わり、神様は元々は招かれていなかった客、すなわち罪人や私たち異邦人を無理矢理にでも連れて来るように天使に命じ、婚宴の席に招いてくださいました。ところがある者は、婚宴の席にもかかわらず礼服を着てこなかったがために、宴席から閉め出されてしまいました。別の福音書では、王は後から招かれた人々に礼服を与えたのにこの人は着てこなかったとあります。これは、天の御国に相応しい信仰、きよめられた心を備えていない者は、たとえ招かれても天の御国に入ることができないことを意味しています。私たちはこの愚かな人のようにではなく、御国に相応しい信仰、きよめられた心、御霊の実としての品性を身に付けて、神様の招きに応じる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.22.8-14.ja1955

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マタイによる福音書 22:15-22

そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

主イエスの教えにやりこめられる一方であったパリサイ人たちは、なんとかして群衆の心をイエスから引き離そうと悪巧みを働き、超保守派のヘロデ党と結託して、イスラエルを支配していたローマに税金を納めるべきかという難問を持ち掛けました。もしイエスがローマに税金を納めよと答えればローマの圧制に不満を抱いていた群衆は暴動を起こし、納めなくてよいと答えればローマに反逆罪で訴えるという算段でした。イエス様は彼らの悪意を見抜き、貨幣を持ってこさせ、そこに刻まれている肖像と文字が誰のものであるか答えさせて、ローマ皇帝のものはローマ皇帝に、神のものは神に返すようにと答えられました。なぜ税に納める貨幣を持ってこさせたかというと、当時日常生活で用いられていた貨幣はローマ通貨、神殿に納める貨幣はユダヤ通貨であったからです。宮きよめの際に神殿の庭に両替商がいたのも、ローマ通貨からユダヤ通貨に両替する必要があったからです。当時の時代背景を知ると、イエス様の教えも非常に現実味を帯びた、味わい深いものとして学ぶことができますから感謝です。

http://bible.com/81/mat.22.15-22.ja1955

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マタイによる福音書 22:23-33

復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。 最後に、その女も死にました。 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。

サドカイ人とは当時のイスラエル社会では支配者階層、富裕層にあたる人々で、現世での祝福を追い求める世俗的な考え方を持つ人々でした。ですから死人の復活はないと主張し、この世に生きている間を楽しく暮らせばよいと考えていたのです。彼らの信条に反する死人の復活を説いたイエス様に対し、モーセの律法の教えを持ち出して、死後の天国の教えを否定しようとしましたが、元々モーセの律法はこの世で神様に喜ばれる生き方を送るにはどうしたらよいかを教えるものであり、それを天の御国に適用しようとしていたこと自体、思い違いも甚だしいものです。イエス様は彼らの信奉していたモーセ5書の中から引用して、彼らの教えの間違いを指摘されました。私たちは神様の教えを聖書全体から正しく学ぶ必要があります。

http://bible.com/81/mat.22.23-33.ja1955

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マタイによる福音書 22:34-46

さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。

サドカイ人までがイエス様の教えに反論できなかったと聞いたパリサイ人は、一人の律法学者を送って、律法の中で最も重要な戒めは何かと問いました。するとイエス様は、誠心誠意神を愛すること、自分と同様に隣人を愛せよとの聖書の教えの根幹を示されたので、もはや誰もイエス様に議論しても勝ち目はないことを悟りました。幾千万の言葉を駆使して自分の主張を通そうとしても、神の一人子であられるイエス様よりも神様の御心を正しく知る者はありません。私たちは御言葉の権威の前に、ひれ伏して教えを請う従順と素直な心を持ち合わせなければなりません。

http://bible.com/81/mat.22.34-46.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/18

2018-10-18 06:35:16 | 今日の聖句
詩編 119:11 新共同訳

わたしは仰せを心に納めています
あなたに対して過ちを犯すことのないように。

心に蓄えたいのちの御言葉が生きて働くとき、私たちを罪の過ちから守ります。常日頃から聖書に親しみ、御言葉というかけがえのない財産を蓄えて、罪の誘惑からわが身と心を守る備えを行う私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.119.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/17

2018-10-17 07:45:14 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 21:1-7

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

当時、王や将軍など身分の高い人は馬に乗って城に入りましたが、イエス様は馬ではなく、背が低く荷物を引くために用いられるロバに乗ってエルサレムに入城されました。それは権力や軍事力によって世を治めるのではなく、苦難の僕として人に仕える柔和な王の姿を象徴するもので、旧約聖書の預言を成就するためでもありました。権勢によらず、能力によらず、神の霊によってこの世を支配する悪しき者の力に勝利を収められた主に、ただひたすらに信頼してお従いする私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.21.1-7.ja1955

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マタイによる福音書 21:8-11

群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。

エルサレムに入城されるイエス様を見た群衆たちは、道に自分たちの上着や棕櫚の葉を敷き詰めてレッドカーペットのようにして、ホサナ、ホサナと讃美を捧げながらお迎えしました。私たちも心の宮にイエス様をお迎えするにあたり、心からの敬意と讃美をもって、最大級の歓迎をする者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.21.8-11.ja1955

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マタイによる福音書 21:12-17

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。

当時のエルサレムの神殿では、異邦人の庭と呼ばれる前庭に商売人たちが出店を出し、宮に納めるユダヤの通貨への両替や、犠牲として捧げる動物たちを売り買いする市場として占拠していました。イエス様はこれらの商売そのものを完全否定されたのではなく、神様を求めて巡礼した異邦人が礼拝を捧げるための場を、商売人たちが自らの利益のために占拠していたことに対して怒りを発せられたのでした。異邦人の庭を商売人たちに貸し出すことで地代を得ていた祭司長や律法学者たちは、自分たちの収入源が失われたことと、権威を否定されて、主イエスに立腹しましたが、本来は人々が礼拝を捧げる場を提供すべき彼らが、人々の礼拝の妨げをしていたとは本末転倒です。私たちも、人々が真剣に礼拝しようとしているのを妨げていることがないか、今一度吟味して、自らの姿勢を省みる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.21.12-17.ja1955

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マタイによる福音書 21:18-22

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。

イスラエル地方では、春から夏にかけてイチジクの実が生りますが、その直前に実を結ぶ初生りのイチジクは、最も大きく、最も甘い最高級のものだそうです。イエス様もこの初生りのイチジクがないか期待されましたが、葉が茂るだけで実を結んでいないことに失望されました。これはイチジクそのものではなく、見栄えだけ立派でも内実を伴わない当時のイスラエル、特に祭司や律法学者、パリサイ人やサドカイ人などの信仰状態を嘆かれたものです。イエス様はそのような者をたちまち立ち枯れにしてしまう権威をお持ちです。私たちもイエス様から叱責されないよう、決して見かけ倒しではない、平安の義の実を結ぶ信仰生活を送る者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.21.18-22.ja1955

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マタイによる福音書 21:23-27

イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。」

当時のイスラエル社会の権威を握っていた祭司長や長老たちは、イエス様に対して、何の権威によってこれらのことをするのかと問い質しました。そこでイエス様がバプテスマのヨハネが神から来たのか人から来たのかと逆に質問すると、彼らは人目を恐れて答えませんでした。この世の権力や既得権にすがりつくだけの者は、真実に目をふさぎ、見栄えや建前を重視して、自らの保身ばかりを考えます。私たちは彼らの真似をしてはなりません。

http://bible.com/81/mat.21.23-27.ja1955

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マタイによる福音書 21:28-32

「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」

保身のために答を保留した祭司長や長老たちに対し、イエス様はバプテスマのヨハネを受け入れなかったことを叱責されました。そして、自分は神に近いと自認する彼らよりも、バプテスマのヨハネの教えを受け入れて悔い改めた取税人や遊女たちの方が神の国に入ることができると説かれました。私たちは、自分は神に近いと思っていても、実は神様から遠く離れていないか、常に信仰の状態を吟味する必要があります。

http://bible.com/81/mat.21.28-32.ja1955

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マタイによる福音書 21:33-41

「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。

この譬の中で、ぶどう園の主人は天の父なる神様、遣わされた僕は旧約の預言者たち、最後に遣わされた跡取り息子はイエス様を指しています。悪い農夫たちにたとえられたイスラエルは、聖書の御言葉も数々の預言も知りながらも受け入れず、神の一人子イエス様さえも十字架につけて、いのちを奪ってしまいました。そんな彼らは退けられ、神様の御言葉に聞き従う他の民に天国の権利を与えるでしょう。私たちもまた神様から退けられることのないよう、真理の御言葉に聞き従う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.21.33-41.ja1955

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マタイによる福音書 21:42-46

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。 祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

祭司長やパリサイ人たちは、イエス様が語られた一連の譬が、自分たちに宛てられた叱責であると気付いてイエスを捕らえようとしましたが、群衆を恐れて公然とは何もすることもできませんでした。人の目を恐れるか、神の目を恐れるか、私たちはただ真理に従う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.21.42-46.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/17

2018-10-17 06:35:13 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 3:16 新共同訳

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

明治の文豪・二葉亭四迷は、"I love you" を「あなたのためなら死んでもよい」と翻訳したという逸話がありますが、友のために命を捨てることは最大級の愛の表れです。主イエスが私たちのために十字架に命を捨てられたように、友のために命をも惜しまないほどに愛する私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.3.16.新共同訳
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