伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/31

2018-10-31 07:50:09 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 7:1-8

さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

この箇所は水源の豊富な日本にいる私たちにはわかりにくい感覚かもしれませんが、砂漠気候のイスラエルで命の次に大事だともいわれる貴重な水を、手や食器を洗うために使うことがどれほど大変なことか想像すると良いかもしれません。パリサイ人たちは昔からの言い伝えを自ら堅く守るだけでとどまらず、それらの教えを守れない世間一般の人々を汚れた罪人だと見下していたことをイエス様は厳しく指摘されたのです。私たちは三者三様、人によって様々な個性の集合体です。それらを自分の内にとどめておけばよいものを、己の信条や思想に固執するあまり、自分と異なる人々を排斥したり敵視したりすることが、今なお世界中で起きている紛争や戦争の元凶です。私たちはそのような押しつけがましい態度で人と接してはなりません。

http://bible.com/81/mrk.7.1-8.ja1955

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マルコによる福音書 7:9-13

また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

パリサイ人たちは自分の神様に対する態度だけにとどまらず、人との関係の中でも、モーセの律法を通り越して独自な拡大解釈を施していました。その一例としてイエス様が指摘されたのがコルバンの規程です。これは神様に献金したといえば両親を経済的に支えなくてもよいという意味で、「あなたの父母を敬え」というモーセの十戒に明らかに反している、屁理屈のような曲がった教えです。神様が授けられた律法の根幹にある愛を差し置いて、自分の欲望を正当化する教えに毒されることのないよう、私たちも充分に気をつけなければなりません。

http://bible.com/81/mrk.7.9-13.ja1955

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マルコによる福音書 7:14-23

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。〔 聞く耳のある者は聞くがよい〕」。 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

パリサイ人の教えの誤りを指摘されたイエス様は群衆に向かって、人の外から入る食物が人を汚すのではなく、人の内側から出てくる様々な醜い欲望が人を汚すのだと教えられました。これは今もなおコーシャという厳格な食物規程を守っているユダヤ人にとって、目から鱗というよりも、今まで常識と堅く信じてきたものを根底からひっくり返すような全く新しい教えですから、弟子たちがその真の意味を理解できなかったのも頷けます。日本人にとって、キリスト教はバタ臭いとか、外国の教えだといわれることがありますが、神様が聖書の御言葉を通して私たちに教えようとなさっているのは、外国人にとってもこの世の常識とは異なる、天の御国に入るに相応しい者への教えなのですから、私たちは180度、発想の転換をすることが必要です。

http://bible.com/81/mrk.7.14-23.ja1955

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マルコによる福音書 7:24-30

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

イエス様は再び異邦人の地に向かい、家の中に潜んでおられましたが、そこでもイエス様が来られたと知った人々が押し寄せてくる有様でした。そのとき一人の異邦人の女性が、悪霊に取り憑かれた自分の娘を癒していただきたいと懇願しました。するとイエス様は、まず子どもたち(神の民イスラエル)に与えるはずのパン(祝福)を奪い取って先に子犬(異邦人)に与えるのはよくないと暗に断りましたが、この女性は食卓の下のパンくず、すなわち祝福のおこぼれに与りたいと、徹底した謙遜の姿勢を示しました。この女性はイエス様が試みた信仰のテストに合格したのです。私たちにも時折、どれほど祈っても答えられない祈祷課題があります。しかし神様は私たちの信仰を試みて、祈りが答えられるに相応しく成熟するときを待っておられます。この女性のように、何事もあきらめず、謙遜に、真摯に祈り求め続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.7.24-30.ja1955

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マルコによる福音書 7:31-37

それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。

イエス様が異邦人の地を通り抜けてガリラヤに戻ってこられると、群衆たちは、耳も聞こえず話すこともできない人を癒していただきたいと願い出ました。このときイエス様は、なぜ天を仰いで、ため息をつかれたのでしょうか。その真意は信仰に基づいて推測するしかありませんが、マルコの福音書の根底にあるテーマが、奇跡を見ても信じない、福音の御言葉を聞いても悟らない「霊的な鈍感」であることと照らし合わせると、何となく理解できるかもしれません。一つ前の箇所で登場した深い信仰を持つ異邦人の女性と対比するかのように、神の民を自称しながら神様の御心がわからないイスラエルの人々を代表するかのように、耳も口も利けない人に対して「開けよ」と言葉を掛けられた主イエスの御思いを思いめぐらして、真理に心を開く私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.7.31-37.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/31

2018-10-31 06:35:14 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 4:18 新共同訳

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

真に愛する者のためならば、たとえ火の中、水の中も恐れずに立ち居振る舞えるように、まことの愛は恐れに縛られることはありません。私たちの罪を赦すために十字架をも恐れずに歩まれた主イエスの大いなる愛を受けて、困難や迫害をも恐れずに隣人を愛する私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.4.18.新共同訳
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