マタイによる福音書 6:1-4
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」
この箇所からしばらく、人目を気にする偽善に対する教えが続きます。たとい私たちがよい行いを行ったとしても、その動機が人の目に自分を良く見せるために行うならば、神様は喜ばれません。特に日本人は人目を気にして行動することが多いと言われますが、人からよく評価されるために善を行うならば、それは自己満足のための偽善に過ぎません。純粋に隣人に対する愛を動機とするとき、神様はその行動を喜ばれます。自分が報いを得るためでなく、あくまでも自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよとの主のご命令に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.1-4.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:5-8
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」
礼拝や祈祷会など人前で祈る機会があるならば、自分の信仰深さのひけらかしにならないように注意しなければなりません。また私たちが祈るとき、くどくどと自分の願望ばかり並べ立てるだけでは、とても神様に喜ばれる祈りではありません。祈りは神様との一対一のコミュニケーションですから、御心を求め、神様の細き御声を聞く姿勢がなければ、祈りは成立しません。
http://bible.com/81/mat.6.5-8.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:9-15
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
この箇所はキリスト教会の三要文の一つである「主の祈り」の原型ですが、マタイによる福音書の文脈では、私たちの祈りは単なるお願いに留まるのではなく、神様の御名をあがめると共に、私たちを御心を行う者としてくださいという積極的な信仰告白の一面が求められているように思います。そして主の祈りの箇所に続き、人を許すことについてメッセージが語られています。人との関係が良好でなければ、神様との関係も良好とは言えないとの教えは、私たちは特に自戒を込めて、具体的に自らの信仰生活に適用しなければならないと思います。
http://bible.com/81/mat.6.9-15.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:16-18
「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」
本来の断食の目的は、食事をとる時間を惜しんで神様と交わる時間に専念することです。それが人の目に信仰深い人だと見せかけるためになっているとしたら、本末転倒どころか偽善をも通り越して、神をも欺こうとする大罪です。見せかけの信仰、見かけ倒しの虚しい信仰に堕落することなく、神様の前に真実な信仰を貫く私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.16-18.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:19-24
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」
この箇所は、私たちの心がどこにあるかを問われています。あなたの宝のあるところにあなたの心もあるとの言葉には、思わずハッとさせられます。地上に宝を積むのではなく天に宝を積むとは、私たちがこの世に生きている間だけ有効な期限付きの宝ではなく、永遠に残る宝、永遠に変わらず目減りすることのない宝を天に積みなさいとの教えです。やがて滅びるこの世で、豊かな、好き勝手な生活を送ることに執着することなく、永遠の神に喜ばれる天の栄光を手に入れることを切に求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.19-24.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:25-34
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
長い引用でしたが、この箇所を読むだけでイエス様のおっしゃりたいことは充分に伝わるように思います。この箇所から私たちが学ぶことは多いですが、思い煩いからの解放が最も重要なテーマであるように思います。後先考えずその日暮らしをしなさいということではなく、明日を思い煩うよりも今日一日のことに全力投球しなさいとの神様からのエールとして受け止めさせていただきたいと思います。
http://bible.com/81/mat.6.25-34.ja1955
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」
この箇所からしばらく、人目を気にする偽善に対する教えが続きます。たとい私たちがよい行いを行ったとしても、その動機が人の目に自分を良く見せるために行うならば、神様は喜ばれません。特に日本人は人目を気にして行動することが多いと言われますが、人からよく評価されるために善を行うならば、それは自己満足のための偽善に過ぎません。純粋に隣人に対する愛を動機とするとき、神様はその行動を喜ばれます。自分が報いを得るためでなく、あくまでも自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよとの主のご命令に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.1-4.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:5-8
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」
礼拝や祈祷会など人前で祈る機会があるならば、自分の信仰深さのひけらかしにならないように注意しなければなりません。また私たちが祈るとき、くどくどと自分の願望ばかり並べ立てるだけでは、とても神様に喜ばれる祈りではありません。祈りは神様との一対一のコミュニケーションですから、御心を求め、神様の細き御声を聞く姿勢がなければ、祈りは成立しません。
http://bible.com/81/mat.6.5-8.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:9-15
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
この箇所はキリスト教会の三要文の一つである「主の祈り」の原型ですが、マタイによる福音書の文脈では、私たちの祈りは単なるお願いに留まるのではなく、神様の御名をあがめると共に、私たちを御心を行う者としてくださいという積極的な信仰告白の一面が求められているように思います。そして主の祈りの箇所に続き、人を許すことについてメッセージが語られています。人との関係が良好でなければ、神様との関係も良好とは言えないとの教えは、私たちは特に自戒を込めて、具体的に自らの信仰生活に適用しなければならないと思います。
http://bible.com/81/mat.6.9-15.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:16-18
「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」
本来の断食の目的は、食事をとる時間を惜しんで神様と交わる時間に専念することです。それが人の目に信仰深い人だと見せかけるためになっているとしたら、本末転倒どころか偽善をも通り越して、神をも欺こうとする大罪です。見せかけの信仰、見かけ倒しの虚しい信仰に堕落することなく、神様の前に真実な信仰を貫く私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.16-18.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:19-24
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」
この箇所は、私たちの心がどこにあるかを問われています。あなたの宝のあるところにあなたの心もあるとの言葉には、思わずハッとさせられます。地上に宝を積むのではなく天に宝を積むとは、私たちがこの世に生きている間だけ有効な期限付きの宝ではなく、永遠に残る宝、永遠に変わらず目減りすることのない宝を天に積みなさいとの教えです。やがて滅びるこの世で、豊かな、好き勝手な生活を送ることに執着することなく、永遠の神に喜ばれる天の栄光を手に入れることを切に求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.6.19-24.ja1955
*****
マタイによる福音書 6:25-34
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
長い引用でしたが、この箇所を読むだけでイエス様のおっしゃりたいことは充分に伝わるように思います。この箇所から私たちが学ぶことは多いですが、思い煩いからの解放が最も重要なテーマであるように思います。後先考えずその日暮らしをしなさいということではなく、明日を思い煩うよりも今日一日のことに全力投球しなさいとの神様からのエールとして受け止めさせていただきたいと思います。
http://bible.com/81/mat.6.25-34.ja1955