伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/08

2018-10-08 07:45:48 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 12:1-8

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 人の子は安息日の主である」。

パリサイ人たちが定めた律法の規定によると、空腹のときに麦を摘み取ることは労働と見なされ、安息日には何の労働もしてはならないと記された十戒に反するというのが彼らの言い分でした。しかしイエス様は、律法は人を縛り付けるためのものではなく、人を罪から自由にするためのものだと反論されました。聖書の御言葉を、人を罪ありと裁くための道具にしてしまうことなく、律法の根底にある愛と憐れみの心を見失うことのないように、私たちもまた自らを省みなければなりません。

http://bible.com/81/mat.12.1-8.ja1955

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マタイによる福音書 12:9-13

イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。

安息日にこだわるパリサイ人たちは、イエス様を何とか陥れようと、会堂に片手の動かない人がいたのを見て、安息日に人を癒しても差し支えないかと議論を仕掛けてきました。イエス様は彼らの偽善を見抜き、穴に落ち込んだ羊の例を引き合いに出して、安息日に人を苦しみから解放することは正しいことであると反論されました。パリサイ人たちに欠けていたものは人に対する憐れみの心でした。彼らのように人のあら探しをして自己満足に陥ることなく、愛と憐れみの心で接する私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.12.9-13.ja1955

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マタイによる福音書 12:14-21

パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

パリサイ人たちは律法を厳格に守っていると自負していましたが、もし本当にそうであるならば「殺してはならない」と記された十戒の言葉は何を差し置いても守らなければならなかったはずです。しかし彼らは何とかしてイエス様を殺そうと相談したとありますから、彼らは律法を守ることよりも自分の立場を守ることしか考えていなかったことは明白です。パリサイ人たちの陰謀を知ったイエス様は彼らとの争いを避けるためにその場を去りましたが、行く先々で人々を癒しては、イザヤの預言を成就なさいました。

http://bible.com/81/mat.12.14-21.ja1955

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マタイによる福音書 12:31-37

「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

悪霊に憑かれた盲人を癒したイエス様の奇跡を「悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」と揶揄したパリサイ人たちに向かい、聖霊を汚す言葉は決して赦されることがないと、イエス様は厳しく戒められました。言葉は自分の魂の状態を如実に表す実です。日本にも言霊という考え方がありますが、言葉は心の中にある思いがそのまま口から出てきますから、自分の口で語った言葉には、私たちは全責任を持たなければなりません。失言で失敗する人となることなく、知恵と霊に満ちたいのちの言葉、人を生かし、励まし、勇気づける言葉、感謝と喜びの讃美が口から突いて出てくるような者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mat.12.31-37.ja1955

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マタイによる福音書 12:46-50

「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

イエス様のことを心配して出てきた母マリヤと兄弟たちに対し、イエス様は真の家族とは血縁によるのではなく、父なる神様の御心を行う者であると答えられました。聖書の御言葉を心から愛し、これを守り行うならば、私たちもイエス様の家族、天の御国に国籍を持つ者とされるとは、何と素晴らしい恵みでしょうか。この特権を自分のものとすることのできるさいわいに感謝すると共に、自ら手放すことのないよう自らを律する私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.12.46-50.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/08

2018-10-08 06:50:40 | 今日の聖句
フィリピの信徒への手紙 2:3-4 新共同訳

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

相手あっての自分だという真理に気付かぬ人は、自分だけ注目を浴びようとして虚像を演じ、かえって一人で宙に浮いてしまいます。いと高き神の御子でありながら十字架に至るまで僕の姿勢を貫いたキリストに倣い、人を立て相手を尊重する謙遜が醸し出す芳醇な香りを放つ者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/1819/php.2.3-4.新共同訳
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