マタイによる福音書 7:1-6
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」
主観的な存在である私たちは自分の価値基準に従って物事を判断しますが、人に対しても自分の物差しで測り、「常識」という言葉で自我を押しつけてしまうことがしばしばあります。イエス様はそのようにして人を裁く者を偽善者と呼び、同じ尺度で裁くと断罪されました。太い梁のような丸太が自分の目を覆っているのに、人の目の中にある塵を取り除こうとする滑稽な姿は、自分には見えないものです。私たちのあるべき姿は、人を裁いては切り捨てる無責任な評論家気取りではなく、愛と憐れみの心で人と接する慰めに満ちた柔和な者となることです。
http://bible.com/81/mat.7.1-6.ja1955
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マタイによる福音書 7:7-12
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」
クリスチャンではなくてもよく知られている「求めよ、さらば与えられん」との有名な御言葉は、私たちの必要をすべてご存じであられる神様から賜るものが、自分にとって最良のものであるとの信仰に基づくもので、何でも自分の欲するものが与えられるという意味では断じてありません。そして更に、自分がしてほしいことを人々にせよとの主のご命令へと続いていることも、決して見逃してはなりません。天より与えられた現状に満足し、自分の持てる最良のものを惜しみなく人に与える生き方こそ、神の御心に適う、律法と預言を全うする生き方です。
http://bible.com/81/mat.7.7-12.ja1955
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マタイによる福音書 7:13-20
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」
「狭き門」という言葉も一般的によく知られた御言葉ですが、その意味するところは決して同じではありません。人が制限を設けた門の狭さではなく、その行き着く結末、実らせる実によって判断される、心の目が開かれた者にしか見出すことのできない門のことです。山登りをするときにどの登山口から登っても山頂に行き着くように、あらゆる宗教も行き着く先は同じだという考え方は、八百万の神々を信奉する日本人には受け入れられやすい教えですが、真の救い、永遠のいのちに至る門はキリストの十字架の他にないという教えそのものが、すでに狭い門となっていることに気付くことができるならば、その人は天国から遠くないとイエス様に声を掛けていただけるのではないでしょうか。
http://bible.com/81/mat.7.13-20.ja1955
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マタイによる福音書 7:21-23
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
この御言葉は、特にクリスチャンを自認する者にとって大切な戒めの言葉です。神様を信じているだけで天国に入れると考えるのは浅薄な思考回路です。なぜなら別の聖書の箇所に、悪霊でさえ神の存在を信じて恐れているとあるように、ただ信じているだけでは真の信仰とは言えないからです。神の御心を行う者こそがまことの信仰者と認められ、天の御国に入る門が開かれます。ただ神を知るだけで御心を行わない者は、不法を働く者、偽善者として、神様から拒絶されることを、私たちはしかと知り置かなければなりません。
http://bible.com/81/mat.7.21-23.ja1955
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マタイによる福音書 7:24-29
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
イエス様が語られた山上の垂訓を聞いたイスラエルの群衆は、その教えが権威に基づくものであると感じ取って驚嘆しました。それまで彼らを教えてきた律法学者たちは、律法にはこう書いてあると、律法の権威を振りかざして教えていたからです。しかしイエス様の本質は、人のかたちとなって天から降ってきた真理の御言葉であられますから、決して人伝てではなく、ご自身の権威によって御言葉を解き明かすことができるからです。このイエス様の御言葉から、神様の御心を直接教えていただけるとは、何たるさいわいなことでしょうか。今日も御言葉の恵みに感謝し、聖書と真摯に向き合う私たちでありますように。
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「人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」
主観的な存在である私たちは自分の価値基準に従って物事を判断しますが、人に対しても自分の物差しで測り、「常識」という言葉で自我を押しつけてしまうことがしばしばあります。イエス様はそのようにして人を裁く者を偽善者と呼び、同じ尺度で裁くと断罪されました。太い梁のような丸太が自分の目を覆っているのに、人の目の中にある塵を取り除こうとする滑稽な姿は、自分には見えないものです。私たちのあるべき姿は、人を裁いては切り捨てる無責任な評論家気取りではなく、愛と憐れみの心で人と接する慰めに満ちた柔和な者となることです。
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マタイによる福音書 7:7-12
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」
クリスチャンではなくてもよく知られている「求めよ、さらば与えられん」との有名な御言葉は、私たちの必要をすべてご存じであられる神様から賜るものが、自分にとって最良のものであるとの信仰に基づくもので、何でも自分の欲するものが与えられるという意味では断じてありません。そして更に、自分がしてほしいことを人々にせよとの主のご命令へと続いていることも、決して見逃してはなりません。天より与えられた現状に満足し、自分の持てる最良のものを惜しみなく人に与える生き方こそ、神の御心に適う、律法と預言を全うする生き方です。
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マタイによる福音書 7:13-20
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」
「狭き門」という言葉も一般的によく知られた御言葉ですが、その意味するところは決して同じではありません。人が制限を設けた門の狭さではなく、その行き着く結末、実らせる実によって判断される、心の目が開かれた者にしか見出すことのできない門のことです。山登りをするときにどの登山口から登っても山頂に行き着くように、あらゆる宗教も行き着く先は同じだという考え方は、八百万の神々を信奉する日本人には受け入れられやすい教えですが、真の救い、永遠のいのちに至る門はキリストの十字架の他にないという教えそのものが、すでに狭い門となっていることに気付くことができるならば、その人は天国から遠くないとイエス様に声を掛けていただけるのではないでしょうか。
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マタイによる福音書 7:21-23
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
この御言葉は、特にクリスチャンを自認する者にとって大切な戒めの言葉です。神様を信じているだけで天国に入れると考えるのは浅薄な思考回路です。なぜなら別の聖書の箇所に、悪霊でさえ神の存在を信じて恐れているとあるように、ただ信じているだけでは真の信仰とは言えないからです。神の御心を行う者こそがまことの信仰者と認められ、天の御国に入る門が開かれます。ただ神を知るだけで御心を行わない者は、不法を働く者、偽善者として、神様から拒絶されることを、私たちはしかと知り置かなければなりません。
http://bible.com/81/mat.7.21-23.ja1955
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マタイによる福音書 7:24-29
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
イエス様が語られた山上の垂訓を聞いたイスラエルの群衆は、その教えが権威に基づくものであると感じ取って驚嘆しました。それまで彼らを教えてきた律法学者たちは、律法にはこう書いてあると、律法の権威を振りかざして教えていたからです。しかしイエス様の本質は、人のかたちとなって天から降ってきた真理の御言葉であられますから、決して人伝てではなく、ご自身の権威によって御言葉を解き明かすことができるからです。このイエス様の御言葉から、神様の御心を直接教えていただけるとは、何たるさいわいなことでしょうか。今日も御言葉の恵みに感謝し、聖書と真摯に向き合う私たちでありますように。
http://bible.com/81/mat.7.24-29.ja1955