伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/13

2018-10-13 21:35:05 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 17:1-8

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。

イエス様が神の国は近付いたと福音を宣べ伝えていた時期から、十字架に向かう道を説き始めるようになった頃に、変貌山の出来事が起こりました。イエス様が会談をしたモーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表で、すなわち旧約聖書を成就するためにイエス様は十字架に掛かられようとしていたことがわかります。イエス様の栄光の御姿を目の当たりにしたペテロは、この素晴らしい場面に永遠に残りたいと思って小屋を建てようと提案しましたが、天の父なる神様は愛する一人子イエス様の言うことに従いなさいとの神様の御告げを受けて、ひれ伏して主を拝しました。そんな彼らにイエス様は「起きなさい、恐れることはない」と優しく声を掛けられました。天の父なる神様は威厳をもって私たちに臨まれますが、地上に来られたイエス様は常に優しく声を掛けてくださいますから感謝です。

http://bible.com/81/mat.17.1-8.ja1955

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マタイによる福音書 17:14-22

さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔 しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。 彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、 彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちは非常に心をいためた。

変貌山での驚くべき素晴らしい体験をした後、山から下りると、悪霊に憑かれた子を癒すことのできなかった弟子たちと群衆がイエス様の帰りを待ち受けていました。イエス様は悪霊を叱りつけると、悪霊はその子から離れて出て行きましたが、イエス様はいつまで弟子たちと共にいられるだろうかと、その心はすでに十字架に掛かられる日を見据えておられました。私たちも時折、礼拝や聖会などで素晴らしい体験をして霊的に満たされても、家や職場に戻ると厳しい現実が待ち受けていたりします。そのようなときに必要なものは、山をも動かすような確信に満ちた信仰、そして断食して祈るほどの神様との深い交わりを持つことです。教会にいるときだけ、信仰の仲間と共に過ごす時間だけ満たされていればよいのではなく、日常生活の中で神様との関係をしっかりと保つことによって、厳しい現実にも耐えうる信仰が生まれます。温室育ちのクリスチャンではなく、険しい岩間に花を咲かせる高山植物のようなたくましい信仰を身に付ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.17.14-22.ja1955

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マタイによる福音書 17:23-27

彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。

宮の納入金とは、当時イスラエルを支配下に治めていたローマ皇帝に対する税金とは別に、神殿を中心とするユダヤ人社会を維持するための税金でした。集金人たちはイエス様と弟子たちにも、宮の納入金を収めるように督促に来たのです。イエス様は国の王子たちが税金を納めていないことを事例として挙げて、本来は神の一人子であられるお方が神様の神殿に対して税金を納める必要はないことを説かれましたが、同時に、イスラエルの人々を躓かせないために、ペテロの得意分野である魚釣りでイエス様と弟子たちの納める税金を与え、集金人に支払うようにと命じられました。私たちも自分には何一つ義務もないのに、どうしてこんなことをしなければならないのかと思うことが多々あります。しかしイエス様がイスラエルの人々を躓かせないために納税されたように、神様の御心に反することでなければ、自ら率先して人々の模範となるように社会的責任を果たすことが必要とされます。

http://bible.com/81/mat.17.22-27.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/13

2018-10-13 08:00:46 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 1:13-14 新共同訳

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

誘惑は私たちを神様から離れさせようとするサタンの仕業ですから、神様が人を誘惑するはずがありません。誘惑に打ち勝つことができないのは、心の中に罪を慕う欲望があるからです。主イエスが荒野で誘惑を受けたときと同じく、心の中に蓄えた聖書の御言葉をもって誘惑を退ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jas.1.13-14.新共同訳
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