伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/01

2018-10-01 08:26:10 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 5:1-10

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」

イエス様の元に押し寄せてきたイスラエルの群衆に向かい、有名な「山上の垂訓」を教えられました。開口一番語られたのは、さいわいな人の教えです。その内容は、心の貧しい人、悲しむ人、迫害されている人などがさいわいであると、当時も今も一般常識では考えられないような発想の大逆転を伴うものでした。同時に、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心のきよい人、平和を創り出す人など、神様の特質を持ち合わせている人がさいわいな人と呼ばれています。神様の目は、私たちの内側に注がれています。一見、不幸せと思われる人でも、周囲の状況に振り回されず神様に喜ばれるきよい生活を送る者こそ、最もさいわいな人となることができるのです。

http://bible.com/81/mat.5.1-10.ja1955

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マタイによる福音書 5:13-16

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

次いで語られたメッセージは、神に喜ばれる者としての生き方についての教えです。塩の効き目とは、料理に味付けをするほか、食物を腐りにくくする防腐効果もありますから、私たちの食生活を味わい豊かなものとすると共に、食の安全を守るためにも用いられます。また灯りは自らの存在を明らかにすると共に、周囲を明るく照らします。これらはすべて、私たちの生き方が聖なる神、義なる神を世の人々に証し、人々を真理に導くものであるようにとの勧めです。罪の闇に沈むこの世において、地の塩、世の光として神の義ときよさを証する者となる私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.5.13-16.ja1955

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マタイによる福音書 5:17-20

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」

イエス様の語られた福音は、当時の神学から見たら破天荒ともいえるほど、ものの見方の大逆転を伴うものでしたが、しかし旧約聖書の時代から守られ続けてきたモーセの律法を全面廃止するものではなく、むしろ律法を成就するため、神の視点から見て完全な者となるための教えでした。それが、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ」とのくだりの意味するところです。神の教えに人の教え、都合の良い解釈や処世術などを付け加えた律法学者やパリサイ人たちの教えではなく、神様が私たちにどのような生涯を送る者になるべきか、神様の判断基準を具体的に示されたのが、いと高き神の御子イエス様の教えでした。新約聖書・旧約聖書の全巻を読み解いて正しく学び、神様の御心に適う者とならせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.5.17-20.ja1955

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マタイによる福音書 5:21-22, 27-30, 38-39, 43-45, 48

「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

それでは神様の判断基準とはどのようなものか、具体例を示されたものの抜粋がこれらの箇所です。これらを見ると、人の努力では到底できそうにない、一つ残らず守れる人などあるであろうかと、人間の力の限界を感じざるを得ません。しかし、そこで諦めてはなりません。人にはできないことも、神にはできると確信し、主イエス・キリストの御名によって祈り求めるならば、神様は必ずできる力を与えてくださいますから感謝いたします。ただ神の憐れみにすがり、神の義ときよさを求め続け、身も心も罪きよめられて、神の御心に適う者とならせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.5.21-22,27-30,38-39,43-45,48.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/01

2018-10-01 06:45:40 | 今日の聖句
詩編 145:18 新共同訳

「主を呼ぶ人すべてに近くいまし
 まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」

天地万物を造られ、この世を統べ治められる主なる神が、真心をもってその御名を呼ぶ者の側近くにいてくださるとは、何たるさいわい、何と安心なことでしょうか。主と近しい関係を結ばせていただける恵みに感謝し、まことの平安を得る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.145.18.新共同訳
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