伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/26

2018-10-26 07:55:08 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 2:1-4

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。

主イエスの噂が広まると共に、行く所どこででも人だかりができるようになりました。そのためイエス様がカペナウムに戻ってこられ家におられるとの情報を得た中風の男の友人たちは、せっかくイエス様に癒していただこうと連れてきたのに、御許に近付くことさえできなくなってしまいました。そこで彼らは大胆にも家の屋根をはがして吊り下ろすという行動に出ました。友人にイエス様を紹介するために、自分はここまで一所懸命に労しているだろうかと反省させられることしきりです。

http://bible.com/81/mrk.2.1-4.ja1955

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マルコによる福音書 2:5-12

イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

イエス様は中風の男の友人たちの熱心な信仰に心動かされ、彼に向かってあなたの罪は赦されたと宣言されました。しかしその言葉を聞いた律法学者は、これは神を汚す暴言だと不服を抱きました。そんな彼らの心を見抜いたイエス様は、目には見えない罪の赦しと、目に見える病の癒しと、どちらが簡単に宣言できるかと問いかけた上で、病の男に向かって起き上がって家に帰るように命じると、彼は直ちに病の床から起き上がって家に帰りました。この一部始終を目の当たりにした人々は大いに驚くと共に、神をあがめました。私たちは素晴らしい御業を見るときに、些細なことを問題視して咎める心ではなく、素直に神をほめたたえる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.2.5-12.ja1955

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マルコによる福音書 2:13-17

イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

当時も今も、共に食事をすることはお互いに仲間同士であることを公言するようなものです。イエスに招かれて従った取税人マタイが自分の友人たちを招いてイエス様と共に食事をしていると、厳格なパリサイ派の律法学者たちは罪人の仲間だと揶揄しました。するとイエス様は、自分は罪人を招いて義に導くためにこの世に来られたのだと答えました。イエス様の福音は、自分はきよく正しい者だと自認している(その実、欺瞞に満ちている)人々にではなく、自分は罪深い者だと素直に認めることのできる者に向けられています。

http://bible.com/81/mrk.2.13-17.ja1955

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マルコによる福音書 2:18-22

ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。

断食の本来の趣旨は、食事を摂る時間を惜しんで神様に心を集中することにあります。しかしパリサイ人たちは人々から断食をしている立派な人だと賞賛されるために断食をしていました。人々がなぜ断食をしないかと問うと、イエス様は婚礼の宴席で断食ができるかと答えられ、よいことを行うにも時と場合があることを教えられました。新しいぶどう酒と皮袋の譬は、固定観念に縛られることなく御心をその都度求めて臨機応変に対処することの重要性を説いたものです。

http://bible.com/81/mrk.2.18-22.ja1955

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マルコによる福音書 2:23-28

ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

パリサイ人たちが重要視していた当時の安息日の教えは、神様が直接モーセに語られた律法を通り越して、あれをしてはならない、これをしてはならないと、後の人々が付け加えた言い伝えに過ぎませんでした。飢えを満たすために落ち穂を摘んだイエス様の弟子たちに向かって安息日を破ったと訴えるパリサイ人たちに向かって、イエス様は彼らの尊敬してやまないダビデでさえ飢えを満たすために祭司しか食べることのできないパンを食べたと旧約聖書を引用し、律法のために人が生きているのではなく、人が生きるために律法があるのだと反論されました。人の行いに逐一ケチをつけて裁く者ではなく、愛と憐れみの心で人を受け入れ、人を生かす私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.2.23-28.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/26

2018-10-26 06:50:12 | 今日の聖句
ルカによる福音書 6:27-28 新共同訳

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

自分に好意を寄せている人には親切にし気にくわない人には辛く当たるのが人の常です。殊に自分に敵意を抱く者を愛することは人並みの努力では到底できませんが、すべての人を愛しておられる神様の大いなる愛をいただいて、どんな人でも愛をもって接する心を授けていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/luk.6.27-28.新共同訳
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