伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2018/10/11

2018-10-11 08:00:11 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 15:1-9

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

パリサイ人と律法学者たちはエルサレムからゲネサレの地までやって来て、イエスの弟子たちが昔からの言い伝えを破るのはなぜかと問いました。彼らは主イエスに問題解決を求めていたのではなく、言葉尻を捉えて訴える口実を作るためだけにわざわざエルサレムからやって来たとは、なんと愚かなことでしょうか。そんな彼らにイエス様は、人が作り出した言い伝えではなく神様から与えられた律法の定めに反することを彼らが平気で教えていることを、イザヤ書の預言を適切に引用しつつ、厳しく指摘されました。私たちもまた、聖書の御言葉の本質を取り違えて、自分たちが考え出した勝手なローカルルールを人に押しつけてしまう過ちを犯さないよう、細心の注意を払わねばなりません。

http://bible.com/81/mat.15.1-9.ja1955

*****

マタイによる福音書 15:10-20

それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。

イエス様は食事の前に手を洗う慣習からさらに発展して、人を汚す罪について語られました。汚れた食べ物は腹痛や病気など肉体に悪影響を及ぼしますが、人の心に悪影響を及ぼすことはありません。それよりももっと深刻なことは、悪しき思いから発せられた汚れた言葉は、聞く者の心に入り魂に悪影響を及ぼします。言葉の持つ力と影響力を充分に知った上で、人をおとしめ罪を犯させる汚れた言葉を慎み、人を生かし魂に力を与える神の愛と義に満ちた言葉を語らせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.15.10-20.ja1955

*****

マタイによる福音書 15:21-28

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

イエス様はさらに道を進んで異邦人の地に行かれると、そこにカナンの現地人の女性が主イエスの下に来て、悪霊に憑かれた娘を助けてくださいと叫び続けました。その執拗さは弟子たちも手を焼くほどで、イエス様に追い払ってくださいと嘆願するほどでしたが、それまで黙っていたイエス様はこの女性に向かい、イエス様が来られたのはイスラエルの「残れる者」を救うためであると言われました。これは一見、イエス様がこの女性を突き放した、拒絶したように見受けられますが、イエス様の真の目的はそれでも食い下がる信仰があるかを試みるためであったとこは明白です。そんなイエス様の「子どものパンを取って子犬に投げるのはよろしくない」とのチャレンジに、この女性が「子犬も机の下に落ちたパンくずはいただきます」と、機知に富んだ返答をすると、主は「あなたの信仰は見上げたものである」と賞賛し、「あなたの願い通りになるように」と答えられました。ここでもイエス様は、癒されよとは言わず、信じた通りになるようにと答えられたことは注目すべきです。私たちの祈り願いも、私たちが信じた通りにイエス様はなさいます。信じないならば信じないがままの応報を受けることを、私たちは忘れてはなりません。

http://bible.com/81/mat.15.21-28.ja1955

*****

マタイによる福音書 15:29-39

イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。 すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。 群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。 弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。 一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。

この記事は14章の五千人の給食の奇跡と似ていますが、細かく見ると異なる点がいくつかあります。まず、人数が四千人であること、最初にあったパンの数が7つであること、食後に集めたパンくずが7かごであったことなどです。またこの奇跡の行われた背景として、異邦人の地でなされたこと、群衆は3日間も食事を取っていなかったことも相違点です。この場面から今朝私に示されたことは、神様の救いの恵みは神の民イスラエルだけでなく異邦人にも及び、7という完全数で表されるように、受ける恵みも、結ぶ祝福の実も完全であることを示されたのではないかと思います。もしかしたら3日間食事を取らなかったのは、イエス様の十字架の死から復活までの3日間を暗示しているかもしれません。ちなみに五千人の給食でパンの余りが12のかごにいっぱいになったのは、まぎれもなくイスラエル12部族に福音が及ぶことを示唆していると言えましょう。聖書に記された数字からも神様の御心を瞑想することは、実に楽しく、深く恵みを味わい知ることができますから感謝です。

http://bible.com/81/mat.15.29-39.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/10/11

2018-10-11 06:50:27 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 1:8-9 新共同訳

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

ペテロの手紙は世界中に離散したユダヤ人に宛てた手紙ですが、現代に生きる私たちも同じく、直接出会うことのなかった主イエスを信じる信仰の実として魂の救いを受けた喜びに満たされています。やがて再臨の主イエスに見ゆるさいわいを夢見て、疑うことなくひたすらに信仰の道を守り続ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.1.8-9.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする