”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(63)

2006年05月06日 22時02分16秒 | ビジネス
5月6日(土)曇り
連休もあとわずかになってしまいました。一杯休みがあると思っていたけど、予定したことのほとんどができていないのはどうしてでしょうか?忙しい時は自然と時間の使い方が効率的になるのに、時間があるとすべてがスローテンポになってしまう。でも人間にはそう言った無駄があった方がいいのかもしれません。ホームページもいざ作り出すと時間が掛かる割にはあまり進展してません。大雑把なものはできたけどいろいろ修正したいことがなかなかできない状況です。

ところで一昨日の続きのビジネスライフは教官としての話でしたね。僕は研究所でやっていた新技術を教える立場になって、逆に自分の勉強になったような気がしています。とにかく人に教える以上わからないからと言ってほっておくわけにも行かず自分なりの解釈をする真剣さが理解を助けたのかもしれません。ただコロンボ計画で来日した研修生への講義は英語で行うことになっており、自分の授業の話すことを前の晩に徹夜で英訳して、棒読みしてましたが多分彼らもわからなかったのでしょう。わからない技術をわからない英語で話すのですから。たまに質問されると、頭が真っ白になって何を言われているのかさっぱりでした。JICAのお嬢さんから日本語で聞いて日本語で答え英訳してもらいなんとかなっていました。彼らとはよく養老の滝へ飲みに行ったり、ボーリング場に行ったりしましたが、運動や食べるものがあると結構ボディランゲージで通じるものなので、いつも5時からの方が楽しかったものでした。アフリカの歌やスリランカの踊りなどを教わったり、僕らが炭坑節や阿波踊りを教えたりで、夜遅くまでワイワイやっていたことぐらいしか覚えていません。
教官時代は研修科目の中に体育の時間があり、ソフトボールの試合をよくやっており、自分の担任以外の時も講義がなければ手伝いと言うことで参加していましたので、一番遊んだかもしれません。研修生は一ヶ月近く寮生活なので夜は飲みに付き合っていましたがいつも同じ飲み屋で、研修生のみんなと薩摩白波を飲み、頭が痛くなるか、気持ち悪くなって吐くかどちらかだったので僕はあまり薩摩白波が今でも好きじゃありません。
夜は飲むばかりではなく、コントラクトブリッジもよくやりました。同僚達とコントラクトブリッジのサークルを作り、教科書まで作っていました。ついでに研修生相手に講義までやっていました。

ここでの3年間は、職場の第一線から離れていたせいか、のんびりやりながらどこかで早く次の職場に行かなければと言うあせりもあったように思います。当時はまだ出世欲もあったので同期入社の仲間が管理職になっていくのに、僕にはお呼びが来ないさびしさのような気分を味わっていたのも確かです。丁度3年目のときに懇意にしていただいていた先輩が茨城で管理職になって赴任後まもなく急死すると言うことがあり、のんびり健康に生きることの大切さも痛感したのもこの時期でした。そして3年後に僕は生まれ故郷の静岡にやっと管理職として帰してもらったのでした。実は僕は入社以来希望勤務地を静岡にしてほしいと言っていたのですが、新入社員時代のトップから”仕事もわからないやつが甘えるんじゃない”と一喝され”お前は当分静岡には行かさない”と言われていたので、8年後にやっと故郷に帰れたのです。ただ初めての職場で管理者としてどうなるのか不安だらけの赴任となっていました。そして新しい職場でも大変なことが待っていたのです。
この続きは次回に書きます。それではまた。

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