”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(134)

2007年11月15日 23時18分37秒 | ビジネス
11月15日(木)晴時々曇
めっきり寒くなりました。季節のめぐりは過去を見るかぎり早いものです。夏がありやがて冬が来るのと同じように人生も山あり谷ありです。自然界では朝日が昇れば晩には日が沈みます。海は一日に2回満潮と干潮を繰り返してますし、月は満月があれば新月もあります。草花はみごとに咲いたかと思えばやがて萎れて枯れます。でも萎んだ花はちゃんと次の花の種を残して枯れて、次にはまたみごとな花を咲かせるものです。私達人間も自然界の一員です。自然のサイクルと同じように良い時も悪い時もあってあたりまえなのです。ところが欲張りな人間は常に良くないと気がすみません。悪い時に妙に落ち込んでみたり、自暴自棄になったりして、余計に悪くしてしまうことも多々あるようです。花は枯れても、その間にしっかり種を残してやがて季節がめぐってくれば立派な花を咲かせることができます。これとまったく同じで人間も悪い時ほどじっと堪えて次の種を育てる忍耐や努力が必要です。そしてその努力は必ず新しいチャンスを生み出し報われるものです。少なくとも自分はそう信じてます。信じるか信じないかは人それぞれですが、信じないことで何も生み出すことがないならば信じた方がいいと思う。
と言うことで今日は、いい生き方・いい仕事をするための気持ちの持ち方を考えてみましょう。

もしあなたが不可能だと思ったなら、もう一度自分の目標・ゴールを思い出しみよう。
もしあなたが失敗ばかりでダメだと感じたら、過去の成功を思い出してみよう。
もしあなたが意気消沈するようなことがあったら、やがては歓喜が来ることを思い起こしてみよう。
もしあなたが悲しみに包まれた時には、自分らしくすることがやがては楽しみを運んで来ることを考えよう。
もしあなたが得意の絶頂にいると感じた時には、やがてめぐってくる失意に対する備えもしておこう。
もしあなたが幸せに感じている時には、周囲の人達に幸せを分けてあげられることはないかも考えてみよう。
もしあなたがお金持ちになったなら、少しでも貧しい人達に善意を施すよう努力しよう。

世の中はいいことばかりじゃないけど悪いことばかりでもありません。大事なことはどんな時でも自分らしく自分の信じた道を懸命に生きると言うことじゃないのかなと僕は思います。
ダメな時でも自分の信じた道ならバカにされても、格好悪くても、自分がみすぼらしくても、プライドも捨ててひたすら歩く勇気を持ちたいものです。そんな人を僕は尊敬するし、最高にカッコいい人だと思います。以前ブログで紹介したことがありますが、「十二番目の天使」(オグ・マンディーノ著)という本に出て来るティモシー少年はまさにそんなカッコいい少年です。リトルリーグに所属する最高に下手な選手だけど、いつも元気で前向きで努力し続ける姿に元気づけられた監督、最後に神はほんのちょっとの恵みを与えてくれただけなのに僕は涙を流していました。このブログを読んでいただいた方々には是非読んでほしい本の一つです。

これがビジネス編かとお叱りをうけそうですが、僕は以前にも何回か書いているように、いいビジネスをする原点は「心」のあり方だと思っています。一時的にはまやかしのテクニックもあるかもしれませんが、人間が人間を相手にビジネスをする以上、人間としてのあり方が一番大事なことじゃないでしょうか?そしてどう言う人間であればよいのかにも答えはありません。ただ先人の知恵の中から学び取ることが一番の近道じゃないかと思い老子・荘子の教え、孔子の教え等々書いているのが現状です。実はそうしながら自分もどうあるべきか学んでいる訳です。
僕もこのブログを書き始めて約2年になりますが、書くことによって自分の頭の中を整理してます。でもまだまだです。多分一生かかっても悟りは開けないかもしれませんが一歩一歩無駄な努力をして行こうと思いますので、また付き合ってください。
それではまた。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(133)

2007年11月07日 23時03分50秒 | ビジネス
11月7日(水)晴
今日は立冬。暦の上ではもう冬なんですね。そう言えばかなり寒くなりました。特に朝・晩はめっきりです。今朝の明け方に寒くて目がさめてしまいました。ふとんをかけ直して寝ましたが、もう掛け布団一枚だけでは寒くなってきました。ただ日中は一番過ごしやすい時期ですね。24節気の話はこのブログでもそれぞれの時期に紹介しているのですが、旧暦の行事をそのまま新暦で言うものですからどうしても季節感がでないのも事実ですね。それに最近のカレンダーには24節気を書いてあるものがほとんどありません。ちなみに我が家にあるカレンダーをすべて見ましたがありませんでした。いずれ日本の文化の中から消えていくものなのかもしれません。個人的には若い人達にはもっと伝統的な行事とその心を伝えてほしいなと思うのは僕だけなのでしょうか?もっと日本古来の行事や風習に興味を持ってもらいたいものです。なぜならそこには日本人としての先人の知恵が凝縮されてあるのですから。高々200年程度の歴史の国のいいなりになっている人達が多いことに疑問を持たざるを得ません。自分達の文化を捨てて、異宗教の国に同化した国が民族として残ることは歴史上ありません。そうならないことを祈るだけですが、目先の利益に目が眩んで国を滅ぼしそうな人がもてはやされるのもこの国のまずしさなのかもしれません。
ところで今日はビジネスの話をと思いつつかなり種切れ状態です。ビジネスのノウハウはこのブログでは書かないようにしているのでどうしても”心のあり方”とか哲学的な話が中心になりますが今日は佐藤一斎の話をしてみようと思います。多分名前を聞いても知らない人も多いと思いますが幕末の儒学者で「言志四録」の著者です。幕府直轄の昌平坂学問所の儒官として活躍した思想家で門下に渡辺崋山や佐久間象山などがいます。吉田松陰は佐久間象山の教えを受けているので幕末の志士達にも大きく影響を与えた人物です。特に西郷隆盛は彼の影響を一番受けた人物かもしれません。その佐藤一斎の話もこれからよくでてくるかもしれませんが、今日はその前段として「志(こころざし)」の話をとりあげてみます。

学は立志より要なるは莫(な)し。
→学ぶということにおいて、「志を立てる」ということこそ一番重要である
 このことはビジネスでも同じ事ですが自分がどうしたいのか、どうなりたいのかを明確にすること、即ち明確な目標を持つことからすべてが始まるのです。自分の目標が明確であればそのために必要な知識は自然と頭に入るものです。

彼は志の大切さを次ぎのようにも言っています。

志有るの士は利刃(りじん)の如し。百邪(ひゃくじゃ)も辟易(へきえき)す。
志無きの人は鈍刀(どんとう)の如し。童蒙(どうもう)も侮翫(ぶがん)す。
→志を持った者のありようは鋭く鍛えられた「利刃」ののようなものである。あらゆる邪を断ち切ってなお鋭い。従って邪は近づくこともできない。これに対し志の無い者は切れない刀のようなものである。そのありようは子供でさえ侮り、馬鹿にする。
 志を持って仕事に邁進している者にはある種の切迫感のようなものを感じるから、邪も近寄ってはこないものです。悪への誘惑を仮にしても目標がある以上乗って行く事は無いでしょう。一方、志の無い者はまわりから見ていても馬鹿にできるような組し易さがあって、悪への誘惑もし易いし、目標もないから誘惑にもすぐに乗ってしまうと言うことです。

今日は以上です。何事もそうですが、自分の確固たる信念とか目的とか考え方とか持つことが人として生きていく上で大事なことだと思います。そして若いうちに学問を通して自己を形成することが一番必要なことではないでしょうか?とかく知識を頭の中に詰め込んでテストでいい点を取ることが学問だと勘違いしているような気がしてなりません。僕も昔受験生の時は試験に受かるためにとやっていましたがその時学んだことで役に立ったことはほとんどありません。自分がヨットで早く走るために学んだことや仕事で苦境を乗り越えるために学んだことは単なる知識ではなく知恵として今でも頭の中に残っています。
佐藤一斎にはいろいろ教えられることが多いのでまた紹介させてもらいます。
それではまた。
(追記)
すみません今年の立冬は明日のようです。通常11月7日なのですが。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(132)

2007年10月31日 22時32分51秒 | ビジネス
10月31日(水)晴
もう10月も今日でおしまいです。あれだけ暑かった夏もすぎ最近はめっきり過ごし易くなりました。今日は会社で6年も出向して頑張ってくれていた子が出向元に戻ると言うことで送別会でした。それでちょっと飲み過ぎ状態ですがブログを書いてみたくなりPCに向かっています。
35年近くビジネスマンをしていて、いつも出会いと別れを繰り返してきましたが、いつまでたってもさびしいような、でも次の仕事で頑張ってほしいなと言う気持ちは同じです。人生にはいろいろな転機があるものです。職場や仕事が変わるのも大きな転機です。自分も今までに16の職場を渡り歩いてきました。初めの頃はいつも不安の中で、見知らぬ土地と見知らぬ人達に囲まれて、どうしたらみんなに仲間に入れてもらえるかを悩んだものでした。それも慣れて来ると、一番大事なことは自分らしさを失わないことがみんなに受け入れてもらうコツのような気がしてきました。と言うか自分らしさも振舞えず、みんなから疎外された時ほど最悪な人生はないと思うようになりました。そんなことなら自分らしくやってダメならその方が後悔はないと思ってやって見ると意外とその方が人間らしくてよいと言ってくれる人まで出て来るのです。ただだからと言って我儘はダメですよ。ただ自分の正直な気持ちを表現すればいいと言うことだけです。
僕は故松下幸之助さんの「素直な心」と言う言葉が好きです。見栄を張ったり意地を張る前に自分の素直な気持ちに聞いてみることが、いい仕事やいい人生の必要条件のような気がしています。とかく僕達は内心いいと思っても素直に口にしたり、認めたりできなくなりがちです。特に地位があがると意地を張ってしまうのが人間かもしれません。相手のいいところを素直にほめられる勇気が本当の勇気だと最近思います。ただ勇ましく戦うことが勇気とは言えませんよね。自分の立場で言ったことでも、みんなの話を聞いていて間違っていたと気づくことは多々あります。その時すぐに自分が間違っていたとはなかなか言いにくいものですが、自分の気持ちに素直であれば、恥とか負けとか意識せずにできるものです。
まぁ別れにもいろいろあるけど不思議なものでお互いを認め合った者とはまたいつか必ず出会いがあるものです。僕にも良きにつけ悪しきにつけ過去にそうであった仲間達とは年に一回呼んでもらえます。9月の旅行もそうだったし、先々週の同窓会もそうだし、来週のゴルフも20年前から続いています。当時の仲間では僕が最年少なので毎年ゴルフ場をとってます。今年は当時の部長が喜寿なのでお祝いをかねてですが、あと何年続けられるか心配になる年になってしまいました。
酔っ払っていて何の話だったかわからなくなってきたので今日は止めます。
ひょっとして明日書き直しかもしれません。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(131)

2007年10月25日 23時09分26秒 | ビジネス

10月25日(木)晴のち曇
僕のブログのビジネス編は、この2年間で130回も書いているのだけど、多分ビジネスのノウハウと言うか儲け話と言うかそのたぐいの話はほとんどありません。どちらかと言うと心の持ち方とか人間としての生き方の問題をとりあげていることが多いと思います。それには二つの理由があります。

一つは僕があまり儲ける事ができないからです。どちらかと言うとお金があればほとんど使ってしまうからです。ただ自分は自分が儲かれば、その儲けに係わった人たちと喜びを共有することにほとんど使ってしまうことが多いのです。その方が生き方として上等だと思っているからかもしれません。でもおもしろいもので折角得たお金を使ってしまい”俺はバカなヤツだな”と思いながら本来のビジネスなり頼まれ事なりやっていると、またお金は戻って来るような気がします。多分大金持ちには絶対なれないけど、自分の汗水たらして得たものの一部を社会の係わりに還元するとまためぐりめぐって元に戻ってくるようなものなのかもしれません。

第二はビジネスに対する考え方が儲けることとは思っていないからです。正しい生き方なり正しい道を歩んで得られる報酬として、自分らしい生き方ができる報酬さえあればそれ以上欲張る必要もないと思っているからかもしれません。最近ビジネスで成功したと言われている人が偽装とか詐欺とか悪いことをして儲けていたのがばれて結局は会社をつぶしてしまう事例が非常に多いですよね。ここ10年で昔からの有名な会社が存続を許されなくなった例は非常に多いような気がします。いったい何がこの国をこんなにしてしまったのでしょうか。自分は心の持ち方や人間としての生き方の根本が教育されていない人達多くなりすぎたのかなと思います。お金が儲かれば何をやってもいいと言った考え方が平気でまかり通ること自体異常なことだと思います。江戸時代には武士は人としてのプライドが最優先であったような気がするし、そのための精神修養が子供の時からされていたのだと思います。ところが現在は物質だけは豊かになったけど精神はだれも教えられないし教えないから、ただ物質の豊かさだけを求める風潮ができ、ビジネスにおいても儲け主義になってしまっているような気がします。
だから自分はこれからビジネスを展開する人たちに心のあり方や生き方を勉強してほしいと思うし、そのような精神からほんとうのビジネスの成功があると信じている。でもそのようなビジネスは多分マスコミは取り上げないだろうし世間も騒がないと思う。ただ社会の中で空気のような存在だけどなくなったら私達の生活もままならないビジネスをもくもくと営んでいる人たちもいることを知ってほしいし、そう言う人達の哲学を後世に脈々と引き継がれて行く日本であってほしいと思う今日この頃です。
偉そうなことを書いてしまいましたが、僕はそんな哲学を持っているわけではないけど、ごく一般的な人間としての叫び声をあげているだけです。以前にもちょっと紹介した「The Greatest Salesman in the World」と言う本を翻訳しているのですが、現在75%ぐらい終ったところで、まだ訳を紹介できないけど、ここに書かれている内容はほとんど儲けのノウハウではなく、正しい心の持ち方が結果として成功に至ると言った内容です。いずれこの本の紹介もしたいと思いますが、いままでブログで書いた「大学」「中庸」の儒学にも似ているし、中村天風語録にも似ているところがあります。結局人としての生き方が社会に受け入れられる生き方でなくては何事もうまくいかないと言うことなのでしょう。そしてそれは必要条件であるけど十分条件ではないと言うことです。だから正しい生き方をしたからと言ってもうまくいかない時もあると言うことなのでしょう。
訳のわからないことを長々書いてしまいました。ここまで読んでくれた人ありがとう。でもつまらない話をごめんなさい。次はもっとわかりやすくなるよう努力します。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(130)

2007年10月17日 22時29分09秒 | ビジネス
10月17日(水)晴後曇
今日は疲れました。昨日の夕方、東京に行き同期の友人達と飲み、10時近くから元部下だった若い人達と飲んであっと言う間に12時を過ぎてしまいました。東京も久しぶりだったけど昔の仲間達は老いも若きもみんな元気で、近況報告やら昔話に花を咲かせてホテルに戻ったらそのままバタンキューでした。おかげで折角の品川プリンスホテルもゴージャスな気分を味わう間もなく、朝は頭が痛くて、講演が心配になってしまいました。とにかくシャワーを浴びて少し意気を吹き返して、講演会場に行き、サポートしてくれる仲間と合流し、若干の確認をして講演会場に。
話は自分が今までやってきた話なので間違えることでもないですが、もう少し会場の雰囲気を盛り上げることができず、自分としては失敗です。人間と言うのはほんのちょっとした一言で気分がよくなったり、悪くなったりする動物ですからなるべく聞いてもらえる皆さんにリラックスできるようにと気をつけているのですが、十分にできませんでした。もうこんな年になってもなかなかうまくいかないものです。僕は別に噺家じゃないけど自分の話したことを聞いていただいている人に理解していただきたいし、自分達もやってみようと言ったその気にさせる言い方ができたらと思っているけど、なかなか満足できる結果とはならないようです。昨日浮かれて飲みすぎたと言う反省があるから余計にそう思うのかもしれません。名古屋からわざわざ聞きに来てくれた先輩たちや東京から応援に来てくれた同期や先輩に感謝しつつ、自分の至らなさを実感した一日になってしまいました。
もう二度と東京で講演をすると言った大それたことはないと思いますが、自分自身の精進は続けたいと思います。それにしてもサポートしてくれた職場の仲間や応援に来てくれた先輩や同期に感謝の気持ちでいっぱいです。僕のような至らない人間でも何かあれば応援してくれる人達がいることはありがたいことだし、それに答えられるような努力も又精一杯やっていかなきゃならないですよね。みなさんありがとうございました。
誰でも友人や知人や家族がいて、それぞれがいい意味で影響しあい、社会が出来上がっています。人生には苦しいことも一杯あるけど、日のあたる時もあるものです。そんな時自分はいつもみんながいたからできたと思うし、自分一人では何もできないのだと心に言い聞かせてます。ただし苦しい時は誰もおせっかいは妬かないものだと思います。それはみんな見守っているのです。自分で地道に努力して脱出できた時、見守っていた人達はみんな祝福してくれるものなんじゃないでしょうか?このことはビジネスでもスポーツでも同じだと思います。多分みんなはスポーツで話をするとよくわかるのに、ビジネスで話をするとわからなくなってしまうようです。
たとえば野球選手がスランプに陥った時、ひたすら練習によってスランプを克服するまではみんな見守るしかないですよね。でもその努力を知って、克服した選手を見た時誰もが、たとえ贔屓じゃないチームの選手であっても祝福すると思います。世の中はそんなものです。きっとみなさんの身の回りにも必ず見守ってくれている人達がいるはずです。そして彼らは茨の道を這い上がってくるのを祝福で迎えようと待ってくれているはずです。そう思えば必ずそうなるものだと僕は思います。あなたも一度そう思って努力し続けてみてください。きっとそうなります。
話が変な方向になってしまいましたが、要は自分が努力してきたことは日の目をみる時があると言うこととそれを知れば仲間は応援してくれるし、それにまた感謝の気持ちを忘れずにさらに精進することが僕の理想とする生き方だと言う話でした。
生意気なことを言ってすみません。僕は一介の凡人だから偉そうなことはとても言える身分でもありませんが多くの先輩や仲間に囲まれて、感謝しながら自分なりの努力を続けているだけでそれが大輪の花を咲かせるかどうかもまったくわからないけど、そう信じて生きていくしかないと思っているだけです。
もっと違う意見があれば是非コメントください。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(129)

2007年10月10日 23時20分13秒 | ビジネス
10月10日(水)晴
今日はいい天気でした。昔は体育の日ですが、確率的に晴の日が一番多いからそうなったと聞きました。それなら3連休にせずとも従来どおり10日を祝日にしておけばいいのにと思うのは自分だけでしょうか?ちなみに8日の体育の日はゴルフで雨の中、散々な目にあってきました。だからと言う訳ではありませんが3連休が多すぎるような気がします。製造業の人が休みやすいとか海外旅行に行きやすいとかメリットもあると思いますすが、そんな時は大抵行楽地の宿泊料金は高いし、航空運賃も高いときているのだから、どちらがいいかよくわかりませんよね。
さてところで今日も「中村天風語録」から好きな言葉を紹介します。

「どんな些細なことでも感謝を先にして喜びで迎えたなら、黄金花咲く爛漫たる喜びの世界になる」

感謝の心を人間忘れてしまったらダメだと僕はいつも思っています。この世の中で自分ひとりで何かに成功すると言ったことはありえないからです。もし感謝に値するものがないと言う人がいたら、多分その人は感謝に値するものに気がつかない鈍感なヤツと思った方がいいでしょう。
自分もいろいろな職場でいっしょに汗を流してくれた多くの仲間がいたからやってこれたし、多分これからも多くの人に感謝しながら、自分のできる精一杯で社会に恩返ししなくちゃと思います。

「心の態度が積極的になると、心の力が不可能を可能に逆転せしめる。」
「初一念を貫徹する強い心が成功させる。」

人間気持ちの持ち方ひとつでよくもなり悪くもなるものです。自分には不可能と思う前に、自分はどれだけのことをしたのだろうかと問い直してみなさい。きっとやることがあるはずだし、ダメならもっとつづければ必ずいい結果が得られるはずです。僕は大学に入学した時ヨット部に入りました。最初はどっちを向いて走っているのかも、どうしていいかもわかりませんでした。でも自分はうまく操縦できるようになりたいと言う気持ちが強ければ先輩の厳しい言葉にも我慢できるし、レースで失敗ばかりしていても、どうせ止めるなら一位を取ってから止めてやると言った覚悟で忍耐と努力の結果、一位になった時ずっとやってきてよかったと思ったものです。そのままでは不可能なことが、積極的な心で努力していけば必ず可能になるものなのです。若いうちにそう言う経験を積ませてあげることが、何事でも今必要なことかもしれません。

「自分で考えて、考えきれないことはするな。」

まず自分で考えること。いろいろな問題に出くわした時、どうしたら解決できるのか考えてみると、多分いい考えなんてあまり出てこないのが一般的だと思います。それで人の言うがままに行動してあとで後悔するのが人間かもしれませんが、そんな時自分の考えがまとまらないことはするなと言うことだと思います。自分で考えて、どうしても納得できないことはやるなと言うことです。そんな時は自分が考えて、自分のできる些細なことでもいいから着実にやって行くことがベストだと僕は思っています。もっとも人の忠告やアドバイスを聞くなと言う意味ではありません。人の言うことや本で書かれたことを参考に行動することも大事なことだと思う。ただし参考にするのは自分がこの人なら騙されてもいいと言った人の言うことだけにした方がいいと僕は思う。要は自分が信じた人ならいいと言うことです。こうしていれば自分の人生に後悔と言う言葉は不用になると思う。自分の人生なのだから死ぬ時は絶対後悔を残さないようにしたいものです。

今日はこれまでです。
人それぞれですが、気持ちの持ち方次第で人生は良くも悪くもなるものです。今の自分の幸せだと思うことに感謝し、正しいと思われる道を一歩一歩歩むことが次の幸せに繋がっていくのではないでしょうか?人がどう言うかは別として自分の満足を得られるよう努力し続けたいものです。
ではまた。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(128)

2007年10月04日 22時57分00秒 | ビジネス

10月4日(木)曇
久しぶりのビジネス編です。最近僕の趣味の話ばっかりでしたが、今日は少し真面目な話をしたいと思います。と言っても仕事そのものの話ではありません。そちらはたまに講演等で話をする機会もあるし、ブログのようなもので書くつもりもありません。17日に東京で某社のソリューションフォーラムで話をする予定です。うれしいことに何人かの友人・先輩達が名古屋から聞きに来てくれるそうです。僕は東京とは無縁の人間だからきっと一人も聴衆がいないだろうと心配してくれてのことだと思います。自分でも無名のサラリーマンがよく引き受けたものだとあきれています。
ところで今日の話ですが「中村天風」の語録から好きな言葉を紹介してみます。

「人生は心ひとつの置き所。人間の心で行う思い方・考え方が人生の一切を良くも悪くもする」

そのとおりだと思う。しかしいざその時になって見ると、そうは言ってもポジティブに考えられない時もあるものです。そんな時僕はいつも、自分のできる精一杯をやり抜こう。あとは神のみぞ知ると言った心境に自分を置くことにしている。精一杯やったんだから、結果は素直に受取ろう。と言う気持ちでいることは考えられるリスクの心構えを作るし、意外とそうすることによって、備えあれば憂いなしとなるのも事実のような気がします。

「人生はどこまでも生かされる人生であっちゃいけない。生きる人生でなきゃいけない」

人生は親のものでもなく、人のものでもなく、自分自身のものです。自分らしく生きることがほんとうの人生だと思う。でも人に気兼ねしたり、人に気に入られるよう自分を偽ることもあるんじゃないかと思います。人に迷惑をかけたり、社会通念に反することはダメですが、それ以外であれば後悔をしない生き方をしてほしいものです。自分の気持ちを偽ったら最後まで偽り続けなくてはなりません。そんなことを考えたら必ず自分の気持ちを素直に表現することがどんなに大切かわかるはずです。でもその結果、いいことばかりでもないことも覚悟する必要があります。

まだまだいっぱいあるので、後一つで今日は終わりにします。続きは次回に。
「恵まれた幸運にいい気になって、自己研磨を怠ってはダメだ」

世の中では”勝って兜の緒をしめよ”とよく言います。歴史を見る限り非常に難しいことなのかもしれません。でもやっぱり奢れる平家は久しからずですよね。別に僕はそんなことないですけど、それでも幸せだと感じた時は敢えて自分は修己の身だから自分の仕事は責任持ってやろうと思うし、自分を磨くための本をよむことにしています。それをブログに書いているだけです。
今日はここまでです。ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回は天風先生の感謝のこころの大事さも紹介しますよ。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(127)

2007年09月01日 09時43分05秒 | ビジネス

9月1日(土)曇
今週はなかなかよい天気になりませんね。先週までが猛暑すぎて、天も息切れかもしれませんが僕も猛暑の中で例年以上にヨット、ゴルフと遊びすぎてバテバテです。やっぱり「過ぎたるは及ばざるごとし」です。年齢を考えて中庸を守った生き方に徹すべきでした。
ということで8月15日の中庸解釈の続きです。
前回は孔子の説く「道」には5つの道すなわち五達道(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)のあるべき姿を三達徳(智・仁・勇)を持って実践して行くことでした。そしてこれらを実践して行くうえで根本となるのはただ一つ「誠」の心だと言うことでした。
ここまでの補足として僕が気に入っている所をちょっと紹介します。それは哀公が孔子に政治の要について問う場面です。

文武の政、布いて方策に在り、その人存すれば・・・・(略)・・・・故に政を為すは人に在り、人を取るは身をもってし、身を修むるは道をもってし、道を修むるは仁をもってす。
仁は人なり。
親を親しむを大なりと為す。義は宜なり。賢を尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。・・・

政をなすは人にある。人を取るには身をもってする。そのためにはまず第一に身を修めねばならない。身を修めるには「道」をもってし、道を修めるには「仁」をもってするのである。
仁とは人に対する道徳である。その中で親族を親愛することが最も重大である。義とは事に応じて相当の処置をすることである。その中では賢者を尊敬することが最も重要である。ただ親族を親しむにも親疏の度合いによって、あるいは賢者を尊敬するにもその賢徳の度合いによって等級をつけることは礼義の生じる所以である。

さて続けます
孔子が言うには学を好むのは「智」に近い、力行して厭怠しないのは「仁」に近い、自分がまだ未熟なのを恥じるのは「勇」に近い。この三つを知ることは我が身を修める根本を知ることになる。我が身を修める根本を知れば人を治める根本を知る。人を治める根本を知れば天下国家を治める根本を知ることになる。
天下国家を治めるには、どんな世の中でも不易なるべきものが九つある。第一は修身である。次に賢者を尊ぶこと、次に親族を親しむこと。次に大臣を敬し、群臣の心を察し、民を子として愛さねばならない。次に百工を国に招致し生活に必要な器具を潤沢にする。次に遠方からの旅人に親切にし、諸侯を懐柔しておくことである。これすなわち「九経」である。

天下国家を治めるにはまず己を修めるところから始まり、賢者を重用し、親族、大臣、官僚に心を配ることを説くあたりが儒教が封建国家の国教として都合の良い考え方だったのかもしれません。中国の「漢」の時代、日本の「江戸時代」にさかんに奨励された学問となったのもよくわかるような気がしませんでしょうか。
人間の社会においては、まったくの平等は理想ではあるけど現実的ではありません。それは社会主義の崩壊で歴史が証明していることです。私達がよい国と言われるためには、「機会平等」と自然とできる「秩序(道徳)」と個々の人達の差を埋める「思いやりの心」じゃないかと自分は思っていますがどうでしょうか?

今日で「中庸」解釈は終わりにします。孔子の説く「道」は三達徳をもって、五達道を実践することにあります。また天下国家を治めるには「九経」の不易ならざるものがあります。そしていずれにしてもこれらの根本となる心は「誠」の心だと説いています。
他はすべて忘れても、「中庸」を実践するには「誠」の心が一番のキーポイントであることだけは知ってください。「誠」の心は誰もが生まれながらにして持っている心です。ただ時として私利私欲に惑わされてしまい、見えなくなるものです。自分の煩悩も常に私欲との戦いです。多分人は皆同じ思いで苦悩するものなのかもしれません。
中庸の2/3はほぼ内容的に網羅しているはずです。最後の1/3は「誠」に対するもう少し詳しい記述と孔子の言葉を変えた子思の繰り返しです。興味のある方は是非読んでください。僕の3回の解説も多分理解の助けになると思います。

お疲れ様でした。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(126)

2007年08月15日 22時42分53秒 | ビジネス

8月15日(水)晴
相変わらず暑い日が続きます。明日から休みに入ります。明日はヨットと魚釣り、あさってから一泊二日のゴルフと3日連続太陽の下で遊びまくります。でも家内は僕の年齢を考えたら、やりすぎだと一応心配してくれています。実は僕も心配してます。まさかこんなに暑い日ばかりとは思っていなかったので。とりあえずマイペースで夏休みを頑張ります。
と言うことで前回のビジネス編の続きの「中庸」の解釈をしていきます。

孔子の説く「道」は人間が生まれながらにして持っている偏りのない心で行うことにより達することができるのであるが、人間の持つ喜怒哀楽や欲望によりなかなか実現しがたいものです。
この「中庸」の道に達するためには三つの徳が必要であることを前回書きました。いわゆる三達徳のことです。「智」「仁」「勇」のことでした。
今日はそのあとからです。

道は天性に従うものであるからして、常に人から遠いところにあるものではない。己の真心を尽くし(これを忠と言う)思いやり深く行う(これを恕と言う)により道から離れることはない。
君子の道は四つある。第一に我が子にかくあってほしいと思う心を持って我が父に仕えなさい。第二は我が臣にかくあってほしいと望む心を持って我が君に仕えなさい。第三は我が弟にかくあってほしいと思う心で我が兄に仕えなさい。第四に我が朋友にかくあってほしいと望む心を持って自分から先に実行しなさい。
君子たる者、日常なすべき徳を実行し、言うべきことを謹みて言う努力をしていれば、言い過ぎることもなく、自分の行いは平素の言動にかない、篤実でないわけがないのである。
君子の道はその位を本来の持前として、それに適した行為をし、天命の至るを待ちそれ以外は求めないことである。上位にある時は下の者を凌ぎ辱めることがないようにし、下位にある時は上にすがって出世を求めることもなく、ただ我が身を正しくして他人に求めることがなければ自然と人を恨むことはないものである。
道の効用は広いものである。たとえば舜の徳は聖人であり、尊さは天子でありその富は四海に及び子孫は長くその禄位を得ている。すなわち「大徳あるものは必ずその位置を得、必ず禄利を得、必ず名誉を得、必ず寿命を得るものである。」
周の文王や武王も先祖を敬い、礼節を重んじたので永くそ位置を得たのである。
天下古今を問わずよるべき「道」は五、この達道を行うゆえんのもの三、そしてこれを行うゆえんの根本となるのは一つ「誠」である。
すなわち「智」「仁」「勇」の三達徳を持って「道」に達するために行うことは五つある。一つ君臣、二つ父子、三つ夫婦、四つ昆弟、五つ朋友の交わり。これを五達道と言う。
三達徳を持って五達道を行うのは種々の手段があるがその根本はただ一つである。もし誠がなければ徳も真の徳とは言えず、従って道を行うことはできない。

今日は此処までです。やっと「中庸」の核心である「誠」がでてきました。すべてが誠の心を持って徳を施すことが儒教の出発点です。そして智・仁・勇を兼ね備えて五つの道すなわち君臣、父子、夫婦、昆弟、朋友の交わりを行うことが君子としてあるべき姿だと言っているのだと思います。あとは九経について解釈すればほぼ中庸の言わんとしていることは完了です。
次回はヨット・ゴルフ三昧のあとまとめを含めて最後にしたいと思います。
それにしてもうすっぺらな本なのに重たい本でした。意味を理解しようと何回も下書きして書いてますがまだまだ自分は未熟者であることを思い知らされてます。
未熟な解釈を読んでいただきありがとうございます。
これからもさらに修己していきます。
今から休みモードに入ります。

 

 

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(125)

2007年08月08日 23時48分39秒 | ビジネス

8月8日(水)晴
ちょっと飲んできたので遅くなってしまったけど、一応書こうとと思ったことはメモしてあるので、この前の続きの「中庸」について解釈してみたいと思います。

前回は首章を解釈しましたが、復習すると以下のような話でした。

天から授かった生まれながら人が持っている正しい心に従って行うのが「道」であり、道を修得するために、「教え」がある。喜怒哀楽の感情が起こる前の、いずれにも偏らない精神状態(「中」)で、節度のある正しい行いができること(「和」)を以って、万物が存在することができる。

と言うようなことでした。この後の二章~十二章は「道」に至るために、最初に備えるべき三つの徳を説いています。いわゆる三達徳のことです。「知」・「仁」・「勇」のことです。
ここは僕の意訳だけで行きます。

「道」は本来、人間が生まれながらにして具備しているものであるが、なかなか行われないのは人が欲望におぼれやすく、それを忌み嫌うことがないからである。正しい心に従って行うことは、知者や賢者にとっては当たり前すぎて物足りなく感じるし、愚者や不肖者は知識がないので「道」を行う方法を知らないからである。それ故道はなかなか行われないのである。

舜(中国古代の名君)は偉大な知者である。しかも自分の知識を振り回すことなく、人に質問して聞くことができ、その真意を察することができる。意見の中に悪があれば、それを隠して表に出さぬようにし、善があればほめたてて、わかるようにする。意見が両極端にあれば中庸にかなうものを用いて治めた。これが舜の知者たる所以である。しかるに多くの人は知があると言っても、本当に知があるならばよく中庸を択んで、固く守り自分のものにしなければならないけどそうではないのである。

顔回(孔子の弟子)と言う人物は、ことの善悪・可不及をよくわきまえ、中庸をつかんでいる。もし一善を得れば、これを大切に捧げ持ち失うことのないようする人である。いわゆる仁の人である。
識見のある人は天下国家をも治めることができる。また廉潔な人は爵禄をも辞退することができる。勇気ある人は白刃を踏むことをも恐れない。これらの一つ一つは難しいと言ってもできないことはないけれども、中庸を得るにはこれらを併せ持ち、人徳の極地に至り、私欲の念をなくさなければならない。

子路(孔子の弟子)が「強」について問いただしたことがあった。孔子は強には三種類あることを言った。一つは「南方の強」 気質が柔弱な南方の人は忍耐の力に勝り、我慢の「強」である。もう一つは「北方の強」 血気さかんな北方の人は勇敢さに勝り、力の「強」である。そして最後の強は「汝が行うべき強」である。すなわち人と相和すれども流れて節を失うことがない、真の「強」である。中立していずれにも偏らず、富貴であっても酒色に溺れることなく、苦境にあっても正しい節度を守り続けられるのが本当の強である。これは勇の心がないとできないのである。

以上述べた「知」・「仁」・「勇」の三つの徳を備えることが「中庸」に達する条件である。

ここまでです。なかなか中庸に至る道も我々俗人には遠い道です。自分はこの年になっても未だ未熟者ですから偉そうなことは言えませんが、昨今の政治家?諸氏には君子の道を十分勉強してほしいものです。江戸時代の武士は厳しく鍛えられた人たちが政治の中枢にいたことを考えるとわが国の現在の政治指導者達の精神レベルの低さは歴史の中では異常と言うしかありません。我々民間人よりも節度を知らず、我々民間人より富貴のくせに私欲が強いように思えてならないのですがいったいどうしたものかと思います。
国民を代表する君子であるべき存在がそうでないとしたら、我々一般人それ以下なのかもしれないですね。自分もなかなか悟りが開けないので人を云々する資格はないですね。
それではおやすみなさい。

 

コメント
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