”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(125)

2007年08月08日 23時48分39秒 | ビジネス

8月8日(水)晴
ちょっと飲んできたので遅くなってしまったけど、一応書こうとと思ったことはメモしてあるので、この前の続きの「中庸」について解釈してみたいと思います。

前回は首章を解釈しましたが、復習すると以下のような話でした。

天から授かった生まれながら人が持っている正しい心に従って行うのが「道」であり、道を修得するために、「教え」がある。喜怒哀楽の感情が起こる前の、いずれにも偏らない精神状態(「中」)で、節度のある正しい行いができること(「和」)を以って、万物が存在することができる。

と言うようなことでした。この後の二章~十二章は「道」に至るために、最初に備えるべき三つの徳を説いています。いわゆる三達徳のことです。「知」・「仁」・「勇」のことです。
ここは僕の意訳だけで行きます。

「道」は本来、人間が生まれながらにして具備しているものであるが、なかなか行われないのは人が欲望におぼれやすく、それを忌み嫌うことがないからである。正しい心に従って行うことは、知者や賢者にとっては当たり前すぎて物足りなく感じるし、愚者や不肖者は知識がないので「道」を行う方法を知らないからである。それ故道はなかなか行われないのである。

舜(中国古代の名君)は偉大な知者である。しかも自分の知識を振り回すことなく、人に質問して聞くことができ、その真意を察することができる。意見の中に悪があれば、それを隠して表に出さぬようにし、善があればほめたてて、わかるようにする。意見が両極端にあれば中庸にかなうものを用いて治めた。これが舜の知者たる所以である。しかるに多くの人は知があると言っても、本当に知があるならばよく中庸を択んで、固く守り自分のものにしなければならないけどそうではないのである。

顔回(孔子の弟子)と言う人物は、ことの善悪・可不及をよくわきまえ、中庸をつかんでいる。もし一善を得れば、これを大切に捧げ持ち失うことのないようする人である。いわゆる仁の人である。
識見のある人は天下国家をも治めることができる。また廉潔な人は爵禄をも辞退することができる。勇気ある人は白刃を踏むことをも恐れない。これらの一つ一つは難しいと言ってもできないことはないけれども、中庸を得るにはこれらを併せ持ち、人徳の極地に至り、私欲の念をなくさなければならない。

子路(孔子の弟子)が「強」について問いただしたことがあった。孔子は強には三種類あることを言った。一つは「南方の強」 気質が柔弱な南方の人は忍耐の力に勝り、我慢の「強」である。もう一つは「北方の強」 血気さかんな北方の人は勇敢さに勝り、力の「強」である。そして最後の強は「汝が行うべき強」である。すなわち人と相和すれども流れて節を失うことがない、真の「強」である。中立していずれにも偏らず、富貴であっても酒色に溺れることなく、苦境にあっても正しい節度を守り続けられるのが本当の強である。これは勇の心がないとできないのである。

以上述べた「知」・「仁」・「勇」の三つの徳を備えることが「中庸」に達する条件である。

ここまでです。なかなか中庸に至る道も我々俗人には遠い道です。自分はこの年になっても未だ未熟者ですから偉そうなことは言えませんが、昨今の政治家?諸氏には君子の道を十分勉強してほしいものです。江戸時代の武士は厳しく鍛えられた人たちが政治の中枢にいたことを考えるとわが国の現在の政治指導者達の精神レベルの低さは歴史の中では異常と言うしかありません。我々民間人よりも節度を知らず、我々民間人より富貴のくせに私欲が強いように思えてならないのですがいったいどうしたものかと思います。
国民を代表する君子であるべき存在がそうでないとしたら、我々一般人それ以下なのかもしれないですね。自分もなかなか悟りが開けないので人を云々する資格はないですね。
それではおやすみなさい。

 


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