西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ル・コルビュジェの「メッセージ」(BS・TBS)見る-4ロンシャン礼拝堂ほか

2012-01-10 | 住まい・建築と庭
戦後の仕事(続き)

→国内(フランス)では、都市計画の構想や著作は発表していたが、実際の仕事に関しては、外国では、したり、大きな影響を与えたりしている。

1950年~1965年にわたりインドのチャンディガールの都市計画にタッチ、1960年にオープンしたブラジルの新首都ブラジリアの計画には大きな影響を与えたと言える。

即ち後者はブラジルにおける「コル・スクール(コルビュジェグループ)」の面々によって進められたと言えよう。

都市計画は、ブラジル人ルシオ・コスタの案によっているし(平面は飛行機ないし鳥の飛ぶ姿)、主要な建築は同じくブラジル人オスカー・ニーマイヤーなどの設計によっている。オスカー・ニーマイヤーはニューヨークの国連本部ビルもコルの「影響」の下で設計している一人である。

→さて、コルの1950年代の建築設計の仕事で最も有名なのは恐らく「ロンシャンの礼拝堂」であろう。(1950年から設計にとりかかり1955年に竣工)

フランスのスイス国境近くのロンシャンの丘の上に建つ「礼拝堂(チャペル)」であるが、それは従来の礼拝堂(ないし教会)のイメージと全く異なるし、また、コル自身のそれまでの建築のイメージや「理論」(近代建築の五原則)からも全く「逸脱」する「あっ」と驚くものだった。 だから「モダニズム(近代建築)への裏切り!」とまで言われたのである。つまり、形にしても、仕上げにしても、窓にしても全てそれまでとは違ったものだったのである。

これをどう解釈し理解したらよいか、例えば建築史家の藤森照信さん(東大名誉教授)は「建築の始原にさかのぼる洞穴のイメージではないか」との趣旨を述べている。

→もう一つ、コルが1956年から1957年にかけて基本設計、実施設計をした日本・上野の国立西洋美術館」は、我々にとって見逃せない。コルの東アジア唯一の作品らしい。

これは、フランス政府が保管していた「松方コレクション」を日本に返還する条件に、収める「美術館」の設立を上げたのに対して日本側が対応したもので紆余曲折の末、1959年に設立、オープンにこぎつけたものである。

実際に日本において実施設計・監理に携わったのは、コルの弟子と言える前川国男、坂倉準三、吉阪隆正の三人であった。

この形を見ると、コルが「ロンシャンの礼拝堂」を設計した後に取り掛かるか並行して取り組んでいたと思われるが、この「国立西洋美術館」は、全く「ロンシャン礼拝堂」風でなく、どちらかというと「近代建築五原則」風になっている。

しかし外面の壁は、それまでのコル風の白でもなく、打ちっ放しでもなくて、無数の自然の小石が貼り付けられている。これは高知県桂浜で集められた自然小石である。この石を貼る指示はコル自身のもののようだ。 「怜悧で計算された人工」から「自然」へと踏み込んだ(回帰した)兆候ではないか。

またコルの基本設計にあった「ホール(音楽ホール)」は予算の関係で、「美術館」付属は不可能で、形を変えて「美術館」の真向かいに弟子・前川國男設計の「東京文化会館」として実現している。(続く)

写真は、ロンシャンの礼拝堂(1955年竣工)

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