東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

彼岸の入り

2015-09-20 16:50:37 | 日々

あっという間に秋のお彼岸に入りました。我が家のお墓は山形市内にあり親戚やお寺様にお願いしてお花代を郵送しました。かつて我が家の家族だったワンちゃんたちのお参りは先週に前倒しに済ませ、今日は台東区今戸にある、江戸以来の伝統をひく最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のお墓参りに出かけました。お参りにはいつも電車やバスで出かけていましたが、今日はせっかく天気がよいのでチャリで出かけ、途中カメラを向けたりしながらご墓所めざしました。

赤羽から北本通りで王子から「明治通り」沿いに進むのが基本ですが堀船辺りから裏の道を隅田川に沿った感じで進むと北区と荒川区の区界近くの「船方神社」ここははじめてそばまできました。

神社のとなりに昔の遊具があって、、。こういうのって今となっては貴重なオブジェのようないとおしいような、、。

そしてとなりは荒川区立荒川遊園地。入口脇に昔の都電。屋根の丸みがかっこいい。

ここから「都電荒川線」沿いに町屋へ、一度「明治通り」沿いに出て都電の終点「三ノ輪橋駅」近くのレトロな商店街。そろそろ浅草も近いのでお供えの花やシキミを買いました。

三ノ輪から「土手通り」に入り「吉原大門」辺りから暗きょになっている「山谷堀」沿いに下れば今戸。

途中にある「紙洗橋」跡。「ひやかし」「ひやかす」という言葉がありますが、ここら辺りに語源があるそうです。昔のトイレの「落とし紙」を「浅草紙」と呼んでいました。古紙を溶かして梳き返した紙のことで、昔この辺り山谷堀沿いの地場産業だったそうです。古紙を水に浸して寝かしている間、職人さんたちはすぐ近くの吉原の廓の大まがきを覗き見に出かけていたとか、、、。古紙を水に冷やかしている間、お金も使わず、廓のお客にもならず、ただ覗いているだけ、、。それが「ひやかす」「ひやかし」という言葉に結びついたといわれているのです。それにしても、今「浅草紙」っていう言葉わかる人どのくらいいますかね。寺田寅彦の随筆に浅草紙の話があって、「いろいろな異なった古紙の破片が混ざりあって光る宝石みたいのもあってきれいだ」といった内容のことが記されていたような、、、。

山谷堀沿いに下って目指す尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のご墓所のお寺に着きました。

お墓もきれいになっていてお花もお線香もあげたばかりの様子。ご家族のみなさんがお参りされたばかりのようです。お目にかかれて直接ご挨拶できたらよかったのですが、、、。用意してきたお花も一緒にお供えさせていただいて、あとで線香をあげていただくようお寺様にお願いして手を合わせ、、。

人形の彩色をされていることろの春吉翁のお姿です。江戸から続いた今戸人形の伝統的技術は翁を最後に途絶えてしまったのでした。

今戸を後に帰途、「入谷金美館通り」経由で「根岸」へ。この辺りも懐かしい感じの景色が点在します。おせんべい屋さん

「御行の松」

正岡子規の住居跡「子規庵」

正確ににはここに子規の晩年住んでいた家があったのですが、空襲で焼けてしまい、戦後お弟子さんたちにより往時の住まいを復元したものだそうです。

昔上野に勤めていた頃、子規庵の模型を作ったことがありました。懐かしいです。

根岸から山手線沿いに西日暮里へ、西日暮里から「不忍通り」沿い、駒込から「霜降橋商店街」沿いに染井から山を登って中山道へ「とげぬき地蔵通り」に途中から入り「庚申塚停留所」近くの古着屋に寄ってから「旧・中山道」沿いに板橋区役所前経由に東武東上線「大山」駅前の山形冷やしラーメンの「大木」さんでお昼を食べ、「旧・中山道」沿いに「仲宿」「本町」経由で赤羽に帰りました。少し休んだのでこれから作業に入ります。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿