私の写っている一番古いアルバム。久しぶりに眺めてみると意外にも昔の赤羽の街並みがばっちり写っているものが少ないんです。わが家の場合、趣味的に写真と撮るということがなかったのと、特別の時にしか撮らなかったのでしょう。それに、人物中心なのが多いので、はっきりと、昔のあそこ、と場所の特徴のあるのがないんです。
まだ赤羽線と呼ばれていた頃のホーム。池袋と赤羽を電車が折り返し運転していました。
私には黄色い電車が馴染みがありますが、写真の当時は茶色い電車だったかもしれません。前方左側が西口です。ぼんやりと見える看板。ローカルな感じがしますね。
西口はその頃ローカルでいい感じでした。時代としては昭和40年~42年頃の風景だと思います。
古本屋の梯子していたころからです。
東口の紅屋さん 平岩さんともう一軒 西口に、貸本屋さんも、、
写真に写っている当時の私には西口のはっきりとした認識はまだなかっと思いますが、一番古い記憶は、夏の大映のこどもまつりという催しでアニメと併映されていた実写の「妖怪百物語」という映画を観てしまったということでした。小学校にあがってからは踏切を渡って西口へ行くようになりました。そして亀ヶ池のザリガニ捕りが始まったのでした。私が知っている東映の映画館は2階がオデヲン座のところです。もっと古いのは知りません。古本屋さんは八百屋さんと骨董屋さんの浦野さんの隣でしたね。
その向かいがかき氷屋(餅屋)さんもっと奥の右に「とんぼや」という模型屋さんがあって弁天通りにぶつかる左側に2軒の映画館がありました。この写真に見える看板の「うきまや」さんは南口の文房具屋さん「ラッキイ堂」さんの手前を曲がったところにあるうなぎ屋さんではないでしょうか?「富田医院」は知らないですけど、志茂町のほうにあったのでしょうか?
富田医院の記憶はありません、
富田という姓は志茂に多いので、「富田医院」も志茂町なのかなあという発想でした。
うちのお店のことをお話されていて嬉しかったです。
うちのお店は創業50年。祖父が東京に出てきて、まずは浮間で開店したので「うきま」と名づけたようです。
今でもラッキィ堂さんの裏で元気に営業中です(ラッキィ堂の娘さんは私の同級生です)。
写真に写っている看板はうちのではないと思います。看板を出せるほどではなかったかな(笑)。
私は昭和49年生まれですが、子供の頃の赤羽の風景が懐かしくて、探しています。
ありがとうございました。
私も同じ町内の者ですが2丁目です。
お店は子供も頃から知っているもののまだお邪魔したことがありませんでした。今年で開店50周年とのことですが、私と同じ年に開業されたわけですね。
まわりの景色も随分変わってしまいましたね。お隣のイタメシ屋さんやセブンイレブンの入ったマンションの場所は私の小学生の頃は戦前の鉄道省時代からの変電所があり、お化け屋敷と呼ばれていました。たんぽぽがたくさん群生していたのです。猫さんがたくさんいました。またお向かいのマンションのところには「かに谷」がありラッキィ堂さんのとなりは2階に古めかしい喫茶がありました。時代を経て赤羽も便利になると同時に懐かしい景色も消えていくのは残念です。ラッキィ堂さんには2人だったかお姉さんがいらして、そのお一人は私より2年くらい上級ではなかったかと思います。
懐かしいコメントに涙が出そうになりました!
私は今年で39歳になりますが、お店のとなりのお化け屋敷、覚えてます!今でも小さい時に撮った写真が残っています。懐かしいなぁ。ネコいましたいました!ネコや友達とよく遊んだ覚えがあります。
「かに谷」さんも懐かしいなぁ!小さい頃、よく店を通り抜けて(うきまのある通り側から大通りの方へ)怒られてました。なんで子供ころってそういう意味のない遊びをしてしまうんでしょう。
大通りの方にあった「かいがえん(字はどう書くんだったかな)」という金魚屋さんにもよく遊びに行きました。地下や2階があって、ちょっとした水族館みたいだったのを覚えています。
「ラッキィ堂」さんは、自分と同じ年の娘の方が幼馴染で、よく一緒に遊びましたねぇ。元気かなぁ。
本当に懐かしくて嬉しくなりました。
「うきま」の方は自分を含め弟たちも誰も継ぐ予定がないので、おそらくあともって10年くらいでしょうか。気のいいお客さんに囲まれて、幸せなお店だと思います。
ぜひ一度お越し下さい。