水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
故御師匠様の値段の付け方がある。
ヒラメキ。
ただ、それだけだ。
ワシも様々なヒラメキを活用している。
だが、値段などは余計な考えが出てしまう。
ワシはまだまだまだまだまだだ・・・。
価値はあるが、価値の値段は様々だ。
人により違うのは当たり前だ。
一番適切な付け方はヒラメキだ。
多分・・・ヒラメキが最適だろう。
だが、ためらわずに実行し難い。
ワシはバカだなぁ・・・。
知っていても実行できなけりゃ、アホのまま。
知行は一致して活きるものだ。
ヒラメキだけで実行するのは大アホになる事だ。
中途半端なアホは役に立たない。
もっともっと精進して大アホになるぞ~。
「いいかげん」を奨励して11年目。
これだけ他に言っていると、自分もその気になる。
だんだん染み込んで来る。
(自分は出来てないのに他人に言ってたんだぁ・・・
まぁ、いいかぁ・・・そのくらい・・・)
アホから大アホへの道は歩き始めている。
言ってみたいセリフがある。
少し大アホに近づいたから言えるかもしれない。
ブラックジャック。
そして魔界医師メフィスト。
どんなセリフか、って?
フッフッフ・・・教えてあげない・・・。
ワシは勘違いしていた。
価値を理解すれば、それを表せるのだと。
例えば、値段も付けられるのかと。
そうではなかった。
次元が違っていたのだ。
価値が解ると、他には伝えられない。
それが・・・判った。
価値は他に伝える事が出来ないのだ。
ならば、値段は「いいかげん」がいい。
最適なのは根拠の無い「ヒラメキ」だ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
あちらの世界では値段という概念が無い。
だがこちらは貨幣でほとんどが成り立つ。
ワシは、二つの世界と行き来する仕事だ。
無理やりでも価値に値段を付けなくてはならない。
システムの違いだからモンクは言えない。
自分に限ってのムチャクチャは好きなほうだ。
だが他と係わる無理やりは不得意の方だ。
ワシはSでは無いし、Mでも無い。
他との係わりでは控えめなワシだぜ。
係わりなければ、天上天下唯我独善だ。
ワシの感じる価値基準と現実にワシがつける値段。
実はかなりの差がある。
見えない特殊な世界だ。
単なる見えないエネルギーじゃない。
多分、他人解らないだろうと勝手に思っている。
ワシは(心は)横柄なのだ・・・。
心掛けている事がある。
目標だか目安だかはともかくとして、
ワシが付けた値段の100倍の価値。
ワシが係わる相手への効果だ。
いただく料金は100分の1でありたい。
これはワシがマトモという証拠ではない。
ワシのヒネクレた叛骨精神の部分だ。
誰も解ってくれなくてもいい。
いちいち説明するなど嫌なこった。
どんな人にもこの部分はあるものだ。
ワシの好きな坂本竜馬も言っていた。
「世の人は我に何とも言わば言え。
私が為す事は我のみぞ知る」
あの大らかな竜馬でさえ、時々は思うのだ。
ワシのような小さな器が溜息をつくのは当たり前だ。
プロとして11年目。
最近、少し解ってくれる人達が増えた。
解ってくれなくてもいいが、
解ってくれると、もっといい。
嬉しいものだ。
その一言で10年分が更に満足できる。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシが扱っているのは見えないモノだ。
形でなくても、舞やスポーツは見える。
性能も客観的に表す事が出来る。
だが「氣」は客観的ではない。
現れる事もあるが、気まぐれだ。
こういう「いいかげん」なヤツは価値が判り難い。
価値はある。
かなり・・・ある・・・と思う・・・。
時には、とてつもなく、あるんだけどねぇ・・・。
でもねぇ・・・判り難いよねぇ・・・。
見えないモノの価値。
値段は更に付け難い。
基準が無いからだ。
例えば・・・「愛情」。
値段は付けられない・・・。
愛情に値段は付けられないが、
愛情モドキなら、金で買える。
モドキとホンモノの違いが判断できる人は少ない。
ならば、モドキでも気にしなくていい。
プロスポーツ選手、タレント、IT企業家。
遠慮しないで、愛情を売っていいぞ。
ワシがオナゴなら、バンバン売る。
だがワシはモドキを買うほど人間が出来てない。
仮に買えても、ワシはそれほどヒマじゃない。
「氣」も本来は値段が無い。
値段は無いが、価値は有る。
この仕事の初期の頃。
ワシは値段を付けられなかった。
価値がとても有る事は知っていた。
値段が無い事も知っていた。
ワシも時々は純情(ウブ)になるのだ。
建前と本音と本来と応用とが混同していた。
活用という意味と手段が判らなかった。
今も時々は純情になる・・・。
混同と混乱と淫乱は得意な方だ・・・。
純情と淫乱は兄弟姉妹だぜ。
ワシは貧乏だ。
貧乏の悪い癖がある。
自分の貨幣基準で値段を決める。
価値が充分あっても値段をキチンと付けられない。
価値と自分の財布の状態を混同していた。
ワシも人の子だなぁ・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
形に価値がある。
性能に価値がある。
行為に価値がある。
内容に価値がある。
価値は様々なモノにある。
あるには・・・あるが・・・
その価値を理解できなければ・・・。
「価値が無い」と思い込んでしまう。
普遍的な価値は少ないからだ。
最も普遍的な価値は「お金」かもしれない。
誰にとっても同じ価値を持つ。
(金持ちと貧乏人では同じ一万円でも価値は違うが、
同じ一万円として使えるという意味で・・・)
そのお金を物差しとして、価値基準としている。
ところが、人によりモノの価値は違う。
理解度が違うし、必要度が違うからだ。
だから「あるモノ」が高いと思う。
同じモノが他の人には安いと思う。
モノは変らず、値段も変らないのに・・・。
墨で書いた「書」がある。
10万円の値札だ。
ある人には1万でも高い。
「書」なんて縁の無いモノだからだ。
別の人にはとてつもなく安い。
その「書」が好きで、欲しいからだ。
その書家の作品は通常その20倍はするからだ。
200万なら手が出ないが、10万ならすぐ買う。
喜んで買う。
「議員」という肩書き。
ン千万積んでも欲しいオッサン達がいる。
ワシもオッサンだが理解できない。
ワシの中では、議員=ロクデナシだからだ。
ワシもロクデナシという点では同じだ。
だがロクデナシを人前でアピールする気にならない。
ロクデナシを威張れない・・・。
ン千万を払ってくれるなら考える。
ワシには本妻と子供が腹を空かせている。
いつも御馳走になっているが、
たまには奢ってあげたい愛人達もいる。
金の為なら目を瞑って議員になってもいいかなぁ・・・。
(多分・・・それでも無理だと思う・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「間・遊び」があるかどうか。
通常では判り難い。
人は口では嘘をつける。
心は誤魔化せる。
態度も作れる。
本人が言っても信用できない。
本来、人は信用する対象じゃない。
人は自分でも気づかぬまま、嘘を言う。
自分で信じても、間違いは常にある。
心を誤魔化すのは日常茶飯事なのだ。
自分だって信じられないのだ。
信用するのは無茶というものだ。
人は常に間違う。
故意に、あるいは無意識に嘘も言う。
だから、人は信じる対象でない。
人は・・・愛する対象だ。
未完成品だから、愛する対象なのだぞ。
ところが、ギリギリの「場」になる。
ギリギリの「時」に出会う。
すると「間・遊び」の有無が判るのだ。
崖っぷちでは本性が現れる・・・。
片足しか地に着けない状態。
「間・遊び」があれば、先に進める。
ここで駄洒落が言えれば、何とかなる。
目を瞑り、屁が出れば、笑える・・・。
笑えれば、何とかなるもんだ。
この世はヒネクレている仕組みだ。
大平原で作られた余裕は消えてしまう。
余裕での「遊び」は儚いモノなのだ。
だが崖っぷちの「遊び」は消えない。
「遊び」が道を切り開く。
余裕のない場・時の「遊び」は豊かになる。
今、崖っぷちの諸君。
君達はラッキーの真っ只中だ。
綱渡りの諸君。
君達は豊かな人生を手にしている。
手にした「間・遊び」。
離すも活かすも自由だ。
キリちゃん(イエス)は言った。
「貧しい者はラッキーだぜ。
一番天国(充実した幸せの人生)に近いぞ」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
心は勝手に反応する。
特に感情は自分勝手だ。
怒りたくなくても、怒る。
悲しみたくなくても、悲しむ。
意志の言う事を聞かない部分が感情だ。
ハンドルに「遊び」が無かったら・・・。
雪道や凍り道では事故を起こすだろう。
勝手に反応した影響がストレートに出るから。
ハンドルは心。
反応にストレートに影響していたら・・・。
トラブルばかりだろうなぁ・・・。
「遊び」は抑制部分ではない。
誤魔化し部分でもない。
何も無い部分だ。
(カッコつければ、愛の部分だ)
だから・・・冷静を取り戻せる。
心には「遊び」があってコントロールできる。
「遊び」が無いと衝突する。
衝突は、自他共に痛い・・・。
衝突後も、やっかいだ。
ワシなら・・・やっかいは避けるぜ。
「遊び」が自然にある時が幼児や児童。
「遊び」を意志的に愉しむのが「オトナ」。
「遊び」が無いのが不幸な人達。
不幸な人達は替わりに「正しさ」を持つ。
「遊び」が無いから他の「正しさ」を理解しない。
「正しさ」は多種多様という事を認めない。
そして争い、自他の苦しみを生む。
「遊び」部分は何も無い。
何も無いから大切。
人は多くのモノを抱えている。
多くを負っている。
それらの一つ一つの境。
「間」がある程度ある人。
「間」がほとんど無い人。
同じ重い荷物でも大きな違いがある。
歩く時に大きな差が出る。
「間」があれば、何とかなるぞ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
雪道を走って気づく。
ワシは雪道歴30年以上・・・。
特に道路が凍っている場合。
これでも真剣に走っている。
ワシの愛車はポルシェだ。
嘗て山口百恵が歌った車だ。
ワシが乗っていたのでは似合わない。
近所からもヤッカミを受ける。
税務署もウルサイ。
だから特注国産中古軽四バージョンにしてある。
ボディも小さくした。
エンブレムも国産某社に変えた。
キズ、凹み、劣化風も特注だ。
もちろん外見だけではない。
ワシは外見だけを気にするようなつまらぬオトコではない。
325馬力、3600CC。
水平対向DOHCリアエンジン。
これを64馬力、660CCに乗せ変えた。
もちろんフロントエンジンに変えた。
これで誰もポルシェとは気づかない・・・。
タイヤも特別仕上げだ。
スタッドレスの6シーズン使用済み仕上げだ。
かなり磨耗してあるように見せてある。
見かけだけじゃないぜ。
実際にかなり滑る・・・。
さすがに金をかけて特注しただけのことはある。
だから雪道でも滑る。
凍った道は更に滑る。
ワシは崖っぷちの生き方が好きなのだ。
毎日の運転にもスリルを求めている。
否応無しに・・・。
スリルは・・・まぁ、仕方ないとして・・・。
スリップ事故は好きじゃない。
一応真剣に走らざるを得ない。
真剣だが・・・手は余裕だ。
真剣だからこそ、手に「遊び」がある。
ハンドルは、オナゴを掴むように優しく。
目は、オナゴを見るように一点に絞らず。
(ここは諸説あるが、ワシは一点主義ではない)
口は、微笑み、あるいはガム(最近ハマっている)。
鼻歌、妄想・・・でも真剣だ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
病からの回復。
道も歩き方も幾らでもある。
歩き方のコツの一つに「遊び」がある。
絶対必要条件じゃないけど、かなり有効だ。
病は本気で正面から向き合う。
逃げていては回復し難い。
だが、歯を食いしばって治すわけじゃない。
肩に力が入っても回復し難いのだ。
命がかかっているのだ。
本気が当たり前だ。
だが隙が無いと回復力が上がらない。
生命は「間」で生まれ、活性する。
真剣勝負を想像しよう。
真剣だから本気だ。
病の回復は勝負ではないが真剣だ。
デタラメでは怪我を深める。
あきらめたら、終りだ。
隙の無い剣士。
一見強そう・・・。
だが余裕が無ければ長く持たない。
隙が無ければ・・・動かないのだ。
動いて変化は訪れる。
これでは回復が進まない・・・。
真剣で本気だが、余裕がある。
意図して隙を作れる。
よそ見はしないが、息は安らかだ。
真剣の先に「遊び」がある。
真剣を持つ手に「遊び」がある。
これがコツになる。
真剣を捨てて逃げるのは「遊び」ではない。
真剣に耐え切れなくなるのは「遊び」が無いからだ。
真剣は、それほど重くない。
崖っぷちは、それほど緊張しなくていい。
緊張すると、怪我をする・・・。
真剣だから「遊び」が活きる。
「遊び」があるから真剣が活きる。
双方が活かし合う「間」が「遊び」となる。
そして、結果的には最短の道となる。
病からの回復。
それほど辛くないぞ。
大丈夫だ。
真剣に「遊び」を愉しもう。
よそ見する事無く。
逃げる事無く。
あきらめる事無く、進めるぜ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「遊び」は「間」だ。
中身は何も無い「間」だ。
世間の固定概念の「遊び」とは違う。
世間でいう「遊び」も中身は無い。
だが「間」のある「遊び」は少ないぜ。
世間的な「遊び」もいいだろう。
そんなの好きにすればいい。
だが遊びの醍醐味は「間」にある。
「間・余裕」の無い「遊び」は遊びにならない。
「間」は回復力になる。
何も無い「間」が大切な力になる。
それは自他に同時に働く力だ。
同時に働く回復力を「癒し」ともいう。
本体の「遊び」部分は「癒し」となる。
どんな行為にも「癒し」の可能性がある。
「遊び」があるなら「癒し」となる。
役に立たない部分は「癒し」になる・・・。
(・・・そ、そうかなぁ・・・
あぁ・・・自己弁護という単語が・・・)
「疲れ」は「間」が無くなると起こる。
「間・余裕」が有る時は「疲れ」の状態にならない。
「遊び」の少ない人は疲れやすいのだ。
マジメな人は疲れやすい・・・。
その「疲れ」は相手まで巻き込む。
遊びの無い人は・・・迷惑をかけている。
誰でも赤ちゃんだった。
誰でも幼児だった。
誰でも童子だった。
誰でも「遊び」の生き方をしていた。
社会的という固定概念。
「遊び」が反社会的という固定概念。
ある時代に国民を動かす為に意図的に作った。
「遊び」は「心を自由」にしてしまうから。
各自が自由になると・・・国がまとまらない。
戦争に「遊び心」は不向きなのだ。
今・・・「遊び」が少ない時代になった。
一見「遊びだらけ」のようにも思える。
だが「間・余裕・愛」が無い「偽遊び」だ。
誰かが・・・意図しているとしたら・・・
この国や世界は再び三度、キナ臭い。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「遊び」を多くの人が勘違いする。
生活からの逃避として遊ぶ。
仕事の抑圧に反発して遊ぶ。
不安、不満の捌け口として遊ぶ。
それらは「遊び」じゃない。
それらは「幻」というモノだ。
「遊び」は本体から離れたモノじゃない。
本体の一部だ。
本体の余裕部分だ。
仕事が本体なら、仕事の一部だ。
生活が本体なら、生活の一部だ。
仕事と「遊び」があるわけじゃないぜ。
仕事に「遊び」があるんだ。
「遊び」だけの「遊び」じゃない。
仕事そのものが「遊び」だらけだ。
「ゲーム」が「遊び」じゃないぜ。
本来は「遊び」を拡大したのが「ゲーム」だ。
いつでも仕事(本来)の為なんだ。
息抜きじゃないんだぜ。
い、いや、本当は息抜きが「遊び」だ。
でもこの深い意味に気づく人は少ない。
ワシは数少ない一人だ。
だが・・・だからといって何の足しにもならない。
役立たずの事ばかり知っていても役立たずは変らない。
まぁいいさ。
ワシは仕事と遊びを区別しない。
区別できない。
遊び(余裕)が有って、いい仕事になる。
それを知っている。
だから生き方にも「遊び」を意識する。
生き方に余裕の無い人は非情だ。
他の生き方にまでモンクを言う。
不マジメがいい仕事をするのが納得できない。
不マジメは余裕があるから、当たり前なのに。
多分・・・不マジメとデタラメを混同している。
遊びがある相手は愉しい。
遊びがある人は楽しい。
だから自分も遊びを作る。
遊びを愉しむ。
遊びは難しくない。
息を吐けば何とかなる。
笑えば何とかなる。
自然体は「遊び」だらけだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」