この言葉は勘違いしている。
ワシは弘法大師の書を見て、そう思った。
「弘法は筆を選ばず」
字の達人はどんな筆でも立派に書いてしまう。
技の優れた人はどんな道具でも立派な仕事をする。
そんな意味で受け止めているだろう。
ワシもそう思っていた。
「違う!」
ワシは空海(弘法)の書から感じた。
この人は・・・
いいかげんだ。
「すこぶる」付きの「いいかげん」だ。
とても立派な「いいかげん」だ。
文字に「氣」を乗せているが、
文字を見てもらいたいわけではない。
そんな事ァ、どうでもいい。
「筆を選ばず」というのは、
技が優れているからではない。
強いていうなら・・・性格だ。
その書は力強いが自由闊達だった。
筆を選ばず。
筆が無ければ、指で書いたろう。
何でもいいんだ。
別に綺麗に書こうとは思ってない。
技なんざァ、屁みたいなもんだァ。
ワシの小さい小さい理解は飛ばされた。
空海の書からは、おおらかな「氣」が溢れていた。
書なんざァ、書けりゃいいんだよ。
筆じゃなくてもいいんだ。
小枝で地面にだって書ける。
消えたっていいんだ。
いずれ、どんなモノも風化するさ。
この年から氣功療法院の看板を上げた。
だが、龍村道場にも通っている最中だ。
まだ修行中もいいところだ。
ワシは小手先の技を磨くところだった。
出だしで、空海の「氣」に教えられた。
ワシは、ナマケモノのスケベなオッサンなのに、
とてもラッキーに出会う。
小手先の技はどうでもいい。
以後の10年は、本質を磨く年月となった。
(と一応、勝手に思っている)
二人の御師匠様の教えがストレートに入る。
技を観なくてすむからだ。
出会った人は技を教える先生では無かった。
だから、先生ではなく、御師匠様となった。
技に頼っては進めない道だった。
ワシは不相応なほどラッキーだった。
感謝・合掌!
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」