ゴミ拾いに挑戦してて、休み中だったけど再開しました

いつの間にか浜がゴミの山に。自分自身の健康のためにもゴミ拾いを始めました。引っ越し先から戻ってきてゴミ拾い再開しました。

冬の色

2012-12-20 18:44:51 | 自然
12月19日

いつの間にか黄葉も終わり、木々は裸になっていっています。
ご近所緑地もすっかり冬の色になりました。







緑地の公園のトイレには、例によって蛾がいました。
寒さや雨風をしのいでいるのでしょうか。
それとも夜の明かりに寄ってきていたのでしょうか。


ネットで調べてみましたが、名前はわかりません。
見た中では
トビスジコナミシャク
が一番似ているかな~と思いました。
とりあえず冬のシャクガって事で良いでしょうか。




ほとんど紅葉は終わっているのですが、残りの紅葉が見られました。
奥にはオギが白い穂を光らせています。





足元には、少し色が褪めてしまったモミジの葉が積もっていました。





笹の花というのは、滅多に見られない物と思っていました。
竹の花と同じなのかなと。
が、アズマネザサは毎年のように花が咲くのだそうです。
去年も咲いているのを見ました。





サンシュユの実を初めて見ました。
春に花が咲いているのを見ましたので、サンシュユに間違いありません。
わ~、初めて見ました。
鳥さんが喜んで食べそうな可愛い実ですね。







吉良邸から泉岳寺まで歩く

2012-12-20 17:14:20 | 田舎者の関東発見記
12月14日(金)
赤穂浪士の討ち入りの日、吉良邸から泉岳寺まで歩きました。
特別にに赤穂浪士に興味があったわけではありません。
むしろ何も知らない部類だと思います。

11キロほどの道のりでした。

朝10時、両国駅出発で4時頃泉岳寺に着きました。
6時間のうち、一時間ほどは築地での昼休憩
そのほか、寺社を見学しながらの休憩もありのウォーキングでした。


地図
吉良邸から泉岳寺まで




両国駅を出発しました。
この日は、色々と赤穂浪士の道を歩くツアーがあるらしくて
他にも何グループも同じ年頃の方々が集まっておられました。


回向院(えこういん)
鼠小僧のお墓の前には行列が。





仇討を終えた赤穂浪士達が、回向院で休息しようとしたところ、断られて門を閉ざされてしまったとか。
50人近い武装した血まみれの男達がやってきたのだから単純に考えれば怖かったろうと思います。
そして、お寺ですから仇討とは言え殺生は、そりゃ容認できないよね?
江戸時代の武士だから良いのかしら?どうなの?
と、一人思い悩む
幕府を恐れて関わり合いになりたくなかったのもあると思います。



回向院に拒まれた赤穂浪士は両国橋を渡ろうとして阻止され
両国橋の橋詰で傷の手当をして休息した様です。



吉良邸跡の公園
この日は討ち入りの日でしたので、催し物があったようです。
おまんじゅうやお餅を売っているお店が出ていました。
ちゃっかり、吉良まんじゅう買いました。





討ち入りの日は12月14日となっていますが討ち入りの時刻が朝の4時なので
実際には翌日の12月15日で、新暦では1月30日と言う事にになります。
なるほど、1月の30日なら雪が降るのもうなずけるよね
と、思ったら、雪が降っているのは史実ではなく「お話」の中の演出だったのですね。
お話が本当の話だと思ってしまいます。


討ち入った時刻が朝4時、吉良を打ち取ったのが6時頃だそうです。
泉岳寺に着いたのは8時頃と言われています。

鎖帷子に身を固めた浪士達の中で負傷したのは2名だけ。
吉良家の方は多くの死傷者が出た様です。
ウィキペディアに依ると死者16名、負傷者23名だそうです。
平和の国、現代の日本に生きている普通のオバサンであるところの私は
討ち入りとはそう言う事だったのかとあらためて認識しました。


両国橋の橋詰から、一ノ橋を渡り、隅田川沿いに下って万年橋を渡ります。
さらに隅田川沿いに下って永代橋で隅田川を渡ります。
その永代橋のたもとに赤穂浪士達が甘酒粥をふるまわれた乳熊屋味噌店があります。
この日も、甘酒がふるまわれていました。




味噌も売られていて、私も、こんぶ入り味噌500g買いました~。


「ちくま味噌は元禄初年の操業 初代当主は赤穂浪士四七士が討ち入りの後、泉岳寺に戻る途中、一行を店に招き甘酒粥を振る舞って労を労いました」
とみその袋にも書かれています。
真ん中の黒く見えるものはコンブです。
お味噌の中にコンブが入っているのです。
コンブ出汁入り味噌は買った事がありましたが、コンブそのものが入っているのは初めてです。
お正月に使おうっと




永代橋を渡り、左に行き、高橋を渡ります。
「高橋」という橋があるんですね。
ありそうでなさそうな橋の名前。



高橋を渡って左へ曲がり、浅野家の屋敷があった所に行きます。
今は聖路加病院になっています。





そして、築地本願寺へ

ここには赤穂浪士の一人、間新六のお墓があります。
(左の方です)

「討ち入りから引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて築地本願寺へ投げ入れた」との言い伝えがある人です。
間新六のお墓は泉岳寺にもありますが、亡骸はこちらに埋葬されたとの事です。
先日、ネットで検索したら
吉良邸討ち入りの際に使用したと伝えられる素槍が築地本願寺に今もあり
去年特別に公開されていたと知り驚きました。






ここで、お昼の休憩となりました。


築地本願寺から汐留へ


汐留の日本テレビタワー北玄関




赤穂浪士一行は、仙台藩の屋敷の表門で粥のもてなしを受けたとあります。
12月15日は大名達の出勤日で、
その大名の登城に出会わさない様な道を選んだとも言われていますが
大名の中には赤穂浪士に同情する人たちもいたのですね。


ここからは旧東海道
国道15号線に沿って歩くことになります。


御田八幡神社

脱落した高田郡兵衛が討ち入り後の浪士に 酒樽を出したが
受け入れられなかったと言われています。

受け入れられなかったのは・・まあ・・・仕方ないとして
素朴な疑問なんですけど、何でお酒なん???
ほんなん飲んでたら酔っぱらって歩けなくなるし






高輪の大木戸跡
今は石垣が残っているだけです。

大木戸は明け方六ツに開いたそうなので、赤穂浪士が通ったであろう午前8時前には当然開いていたでしょう。
江戸から出る事になるのでしょうし、浪士たちも安心した事でしょう。






そして、いよいよ泉岳寺

たくさんの人で賑わっていました。




お墓参りには大勢の人が並んでしました。
入場規制されて、順番を待っている様でした。
お線香の煙がもうもうとしていました。





赤穂浪士は何故にこんなに人気があるのでしょうか。
映画もドラマも真剣に見た事がなかったのでイマイチ分からないのですが。


とりあえず、今NHKで放送中のドラマ薄桜記を見てみようと思いました。
ダンナが見ているのですが、武士の生き方が何たらかんたらと熱心に語ってましたので。



並んで待って、お墓に参るのは諦めて、遠くから手を合わせました。
4時を過ぎて日も暮れかかり、寒くなってきました。
さすが12月です。
冬至も近い。
ウォーキングは泉岳寺着で解散となり、家路をいそいだのでした。