<しかし、日本の仏教が強いところは、葬式を押さえているところです。
「葬式仏教」などと揶揄されますが、人生の節目を宗教がしっかり押さえることには変わりありません。日本人の人生に関わる宗教的な儀式を考えてみると、多くは神社でも、せいぜい生まれたときと七五三のお宮参りに行くぐらいです。キリスト教では結婚式を、多い人で三回するぐらいです。私も結婚を二回していますが、二回目は式を挙げていません。
(中略)
一方、葬式を押さえれば、人生の大事なところを捕まえたことになります。最近の葬式は初七日法要を合わせて行い、お経を二回読んだりします。お布施は二倍ではなく1.5倍で構わないようですが。しかし、そうやって一回捕まえてしまえば、三回忌も七回忌も十三回忌も捕まえられることになります。
やはり死を押さえるということは、宗教にとっては決定的に重要です。日本におけるキリスト教は、葬式を押さえられないうちは、やはりまだ弱いといえるでしょう。
それは、死の場面になるとわれわれは宗教が必要になってくる、ということだと思うのです。最近は無縁仏や病院から火葬場にご遺体を直送する形、お墓のないケースも増えているようですが、われわれの死生観がどのように変化しているのかも、宗教と大きな関係があると思います。
(中略)
私は先般、京都学派の哲学者・田邊元(たなべはじめ)(1885~1962)に関する『学生を戦地に送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』(新潮社)という本を出しました。田邊には『歴史的現実』という本がありますが、これは戦争が始まる少し前に京都大学で講演した内容をまとめたものです。悠久の大義のために生きれば永遠に生きることになる、と説いて、結論としては「国のために死ね」ということになってしまいます。当時の哲学や神学におけるさまざまな議論を用いながら、京大の優秀な学生たちに「お国のために死ぬのだ」という気構えを持たせてしまう、とても良くできた悪魔の講義録です。
その田邊の本について講義をしてまとめたのですが、彼がいっている「よく生きることとはよく死ぬことである」とか「生きることと死ぬことの境界線はどこなのか」というテーマは、実は今でも解決されていないのです。
(中略)
これは連続シンポジウムの先のテーマになりますが、例えば終末医療や尊厳死、安楽死をどう考えたらいいのかといった問題も出てきます。ただ、これらの問題のどこに根源があるかといったら、それは、われわれは必ず死ぬということです。これをどう受け止めるか、ということです。人が必ず死ぬことと宗教の問題は、密接に関係していると思います。>
□池上彰・佐藤優・松岡正剛・碧海寿広・若松英輔『宗教と資本主義・国家 激動する世界と宗教』(KADOKAWA、2018)の「第Ⅰ部 対論」の「死生観の変化が私たちにもたらすもの」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】独身であることと権力 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】個別性と普遍性 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】宗教に関する訳語 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】宗教が土着化するということ ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】沖縄における魂観 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】国が追悼施設をつくるべきではない(靖国問題) ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】「国家主義教」 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】出世教、学歴教、etc. ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】お金という神さま ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】人間の思考と魂の根底に迫る ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】『宗教と資本主義・国家 激動する世界と宗教』の目次」
「葬式仏教」などと揶揄されますが、人生の節目を宗教がしっかり押さえることには変わりありません。日本人の人生に関わる宗教的な儀式を考えてみると、多くは神社でも、せいぜい生まれたときと七五三のお宮参りに行くぐらいです。キリスト教では結婚式を、多い人で三回するぐらいです。私も結婚を二回していますが、二回目は式を挙げていません。
(中略)
一方、葬式を押さえれば、人生の大事なところを捕まえたことになります。最近の葬式は初七日法要を合わせて行い、お経を二回読んだりします。お布施は二倍ではなく1.5倍で構わないようですが。しかし、そうやって一回捕まえてしまえば、三回忌も七回忌も十三回忌も捕まえられることになります。
やはり死を押さえるということは、宗教にとっては決定的に重要です。日本におけるキリスト教は、葬式を押さえられないうちは、やはりまだ弱いといえるでしょう。
それは、死の場面になるとわれわれは宗教が必要になってくる、ということだと思うのです。最近は無縁仏や病院から火葬場にご遺体を直送する形、お墓のないケースも増えているようですが、われわれの死生観がどのように変化しているのかも、宗教と大きな関係があると思います。
(中略)
私は先般、京都学派の哲学者・田邊元(たなべはじめ)(1885~1962)に関する『学生を戦地に送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』(新潮社)という本を出しました。田邊には『歴史的現実』という本がありますが、これは戦争が始まる少し前に京都大学で講演した内容をまとめたものです。悠久の大義のために生きれば永遠に生きることになる、と説いて、結論としては「国のために死ね」ということになってしまいます。当時の哲学や神学におけるさまざまな議論を用いながら、京大の優秀な学生たちに「お国のために死ぬのだ」という気構えを持たせてしまう、とても良くできた悪魔の講義録です。
その田邊の本について講義をしてまとめたのですが、彼がいっている「よく生きることとはよく死ぬことである」とか「生きることと死ぬことの境界線はどこなのか」というテーマは、実は今でも解決されていないのです。
(中略)
これは連続シンポジウムの先のテーマになりますが、例えば終末医療や尊厳死、安楽死をどう考えたらいいのかといった問題も出てきます。ただ、これらの問題のどこに根源があるかといったら、それは、われわれは必ず死ぬということです。これをどう受け止めるか、ということです。人が必ず死ぬことと宗教の問題は、密接に関係していると思います。>
□池上彰・佐藤優・松岡正剛・碧海寿広・若松英輔『宗教と資本主義・国家 激動する世界と宗教』(KADOKAWA、2018)の「第Ⅰ部 対論」の「死生観の変化が私たちにもたらすもの」から一部引用
【参考】
「【佐藤優】独身であることと権力 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】個別性と普遍性 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】宗教に関する訳語 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】宗教が土着化するということ ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】沖縄における魂観 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】国が追悼施設をつくるべきではない(靖国問題) ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】「国家主義教」 ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】出世教、学歴教、etc. ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】お金という神さま ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】人間の思考と魂の根底に迫る ~宗教と資本主義・国家~」
「【佐藤優】『宗教と資本主義・国家 激動する世界と宗教』の目次」