語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】野口悠紀雄の、さらに失われる10年の入り口に立つ日本 ~「超」整理日記No.535~

2010年10月31日 | ●野口悠紀雄
(1)経済構造の大変化
 7~9月期の実質GDPは、マイナスになる可能性が高い(輸出伸び悩み、エコカー買い換え補助終了)。
 政府は、10月の月例経済報告において下方修正し、「足踏み」とした。しかし、これからの日本経済は、むしろ「下落」する。
 経済構造が大きく変ろうとしている。景気変動より、重要な問題だ、
 その重要な指標は、為替レートだ。9月中旬に介入が行われたが、効果は一時的だった。03年、04年の介入と異なり、現在の環境では恒常的に円安にすることはできない。先進諸国が金利を引き下げているからだ。それに、世界の1日の為替取引額は4兆ドルである。2兆円程度では流れを変えられない。損失を被るだけだ。
 07年頃までの円安にはもうできない。企業戦略や経済政策は、円高が今後も進むことを前提として考えねばならない。
 生産拠点の海外移転は、今後さらに進展するだろう。その結果、設備投資・雇用が増えないだけではなく、国内に膨大な過剰設備・過剰雇用が残される。
 いまの日本が直面しているのは、景気の問題ではなく、構造変化である。

(2)補正予算案
 ところが、大多数は、いまの日本経済の問題を景気変動としてしかとらえていない。これが補正予算案にも明確に表れている。
 今回の補正予算案は、自民党時代に導入された政策の延長が中心だ。緊急避難策であり、雇用情勢や産業構造を変えるものではない。むしろ従来の構造の温存が目的だ。
 「対策はとっている」との言い訳のための補正予算案だ。未來への展望を開くものではない。このままでは「さらに失われる10年」になる。
 今回の補正予算案で唯一評価できるのは、公共事業である。都市のインフラ整備は重要な課題だ。高度なサービス産業実現のためにも、不可欠である。
 経済危機の経済対策として、建設国債の発行による公共事業増はありえた。日本のインフラストラクチャの状況は大きく変わったはずだ。千載一遇の機会を取り逃してしまった。

(3)経済成長に必要な高度サービス産業
 日本企業海外移転の理由の一つは、社会保険料の事業主負担だ。しかし、軽減は困難だし、少しばかり軽減しても企業の決定に影響しない。
 介護分野で100万人単位で雇用を吸収できるのはたしかだ。しかし、介護だけで日本経済全体の状況は変わらない。
 どうしても必要なのは、新しい産業だ。高度なサービス産業である。すぐに実現できることではない。また、即効性はない。しかし、もう20年もの間、「即効性のあるもの」という緊急対策しか行ってこなかったから日本は衰退したのだ。場当たり的対処からの脱却こそ、いま求められている。
 製造業に期待する「モノづくり大国」論者に欠けているのは、国際分業の視点である。新興国工業化を前提として、日本が比較的優位を持ちうる分野は何かを考えねばならない。現実にすでに製造業が日本を脱出しつつある。日本は大きな転換点にさしかかっている。
 高度な先端的サービス産業のために、人材育成がなによりも必要だ。20年以上放置されてきた課題である。

【参考】野口悠紀雄「さらに失われる10年の入り口に立つ日本 ~「超」整理日記No.535~」(「週刊ダイヤモンド」2010年11月6日号所収)
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【読書余滴】中野好夫の、人は獣に及ばず

2010年10月30日 | ●中野好夫
 オランダ人は細工には巧みなようだが「獣の類なり」、と放言した客に対して、司馬江漢は即座に、「人は獣に及ばず」と一蹴した。

 本書の冒頭に置かれた短文「人は獣に及ばず」は、このエピソードを枕に、人類は「邪悪で、残忍で、貪慾で、しかも醜陋」と断罪し、その所業をあげる。
 たとえば人類が絶滅に追いやった信天翁、あるいは戦争。
 そして天文学者ジェームズ・ジーンズの一書から引用し、人類が、少なくとも生命が宇宙に誕生したのは偶然の産物であり、何千年後か何万年後には人類は必ず滅ぶ、と断言する。
 人類文明の後は「原始時代の状態に返り、そしてまた将来の可能性も何一つのこさぬ、死塊のような地球だけが、無限広大な宇宙空間の中を、ただ黙々として展転しつづけるのであろうか」。

 野口悠紀雄の「『自然との共生』賛美」批判」を読むと、どうしても中野好夫のこの一文を想起せざるをえない。
 自然を制御し、自らの「福祉」を拡大してきた人間は、地球に生存するだけの価値がある存在なのか。

 「人は獣に及ばず」に漂うのは、濃厚な厭人主義である。厭人の行き着く先には自殺が待っている。アルベール・カミュは、いみじくも喝破した。真に重大な哲学上の問題は一つしかない、それは自殺である、と。

 もとより中野好夫は自分から命を縮めるような真似はしなかった。
 剛毅に生きて、次々に書きまくり、現に本書には1973年から1981年にかけて発表された70編近くのエッセイが連なる。冒頭の一編を除き、いずれも世相や文学、交際のある人物を語って自在、酸いも甘いも噛みわけて闊達、率直に言い切って簡勁にして豪快。冒頭の「人は獣に及ばず」とは別の趣である。
 若年の頃から人間性の複雑さに目を向けた中野好夫は、夫子自身、じつに複雑な人ではあった。

【参考】中野好夫『人は獣に及ばず』(みすず書房、1982)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、「『自然との共生』賛美」批判 ~自然・考~

2010年10月29日 | ●野口悠紀雄
(1)「自然との共生」などありえない
 1950年代までの日本は、東京のような大都市においてさえ、自然が身近にあった。「ハエたたき」や「ハエ取り紙」は必需品であり、寝る時には蚊帳を吊った。
 当時、小学生が寄生虫を体内に飼っているのは普通で、小学校では定期的に検便が実施され、虫下しを飲まされた。生物学的に「寄生」は「共生」の一形態である。「自然との共生」を是とする限り、寄生虫との共生関係を拒否することは絶対にできない。
 高度成長のなかで、こうした自然との「共生」関係を克服し、自然を屈服させた。ハエやカに囲まれる自然環境より、現在の人工的環境のほうが快適だ。我々は自然と共生しているのではなく、自然を制御し、克服することによって文明生活を享受しているのだ。多くの日本人は、この状態からもはや後戻りできない。
 「共生」を「共存」と言い換えるなら、人間は勝手でわがままな基準を設け、共存の対象を選別しているのだ。多くの人が望むのは、無差別共存ではなく、ましてや(意味不明な)「共生」ではなく、自然の「制御」なのだ。

(2)「自然との共生」の何たる無責任さ
 人間が勝手に制御している「自然」は、動物や植物だけではない。河川もそうだ。日本の河川の大半は、自然改造事業によって、人間の生命と財産を守っている。
 最貧国の悲劇は、凶暴な自然と共存しなければならないことによって生じている。バングラディシュの国土の大半は低地であるため、慢性的に洪水被害が発生する。それによる死者は、無視できない数だ。死者の大部分は、水中でコブラに噛まれることによって生じる。
 残酷な被害をもたらすのが自然環境である。「自然との共生」とは、かかる事態を甘受せよ、という結論につながることを認識しなければならない。
 しかも、自然の力はあまりにも強大であるため、人間がいかに努力したところで、制御できるのはごく一部分にすぎない。自然の暴力と戦わざるをえない被災地の人々は、「自然との共生」という無責任きわまりないスローガンを聞いて、どう思うだろうか?

(3)かくも凶暴な自然環境の制御に必要な人間の叡智
 日本における環境破壊は、すでに深刻なレベルに達しているが、我々の決心次第では、その復元は今からでも遅くはないはずだ。
 自然の制御は、細心の注意を要する。生態系を破壊すれば、思いもかけぬしっぺ返しに遭う。
 いかに自然を取り戻したところで、元のままの生態系を破壊していることには変わりはないから、「自然の制御」をどこまで推進できるかはわからない。野生動物と共存したくらいでは、解決できない問題かもしれない。
 しかし、人間は文明的生活にコミットしてしまった以上、原始的な自然の生態系をそのままの形で維持するのは不可能である。我々は、できるところまで進む以外に方法はない。そのために必要なのは、人間の叡智である。

   *

 以上は、『日本経済は本当に復活したのか』第4章(企業の社会的責任論を排す)の5(共生賛美論を全否定する)による。
 本書は、「「超」整理日記」のまとめ(11回目)である。10回目以前にくらべると経済以外のテーマは減っている。経済以外の「テーマを取り上げる余裕がなくなった」(あとがき)からである。
 しかし、いくらかは経済以外のテーマも含まれていて、前述の「共生」賛美批判もその一つだ。

 野口悠紀雄の批判によって、「自然との共生」賛美は完膚なきまで粉砕された・・・・かのように見える。
 ちと割りきりすぎ、という気がしないでもない。
 「共生」賛美者といえども、2010年の台風13号が奄美大島にもたらした災禍を賛美してはいない、と思う。ましてや、サナダ虫を体内に飼うつもりはないだろう。
 「人間」賛美者といえども、検事という身分でありながら証拠を改竄する人間を賛美することはないだろうし、耳かき店の21歳女性店員とその祖母を殺害する人間を賛美することがないように。
 「自然との共生」を説く人の「自然」は、人間がその価値観によって(勝手に)選び取った自然(の一部)ではあるまいか。
 たとえば、志賀直哉『暗夜行路』の末尾、大山の中腹で主人公が目にする来迎。
 あるいは、ソローのウォールデン。
 もしくは、「工芸村オークヴィレッジ」村民にとっての飛騨高山の木。
 アニマル・セラピーを奉じる人にとってのコンパニオン・アニマルもそうだ。
 盆栽や枯山水を加えてもよい。
 自然の(人間にとって)良質の部分と・・・・たとえそれが制御された自然であろうとも、「共生」はあり得る、と思う。

【参考】野口悠紀雄(『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』、ダイヤモンド社、2006、所収)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、日本の「ボランティア活動」はボランティアの活動か?

2010年10月28日 | ●野口悠紀雄


 『日本経済は本当に復活したのか』は、「「超」整理日記」のまとめ(11回目)である。10回目以前にくらべると経済以外のテーマは減っている。経済以外の「テーマを取り上げる余裕がなくなった」(あとがき)からである。
 しかし、いくらかは経済以外のテーマも含まれていて、次に取りあげるボランティア活動論もその一つだ。野口悠紀雄は、日本のボランティア活動の状況には首をかしげる、と述べ、概要次のようにいう。
 
(1)ボランティア活動を行う人々の年齢
 米国では比較的高齢の人だが、日本では若い人だ。ボランティア活動も重要だが、本来の学業や仕事はもっと重要だ。
 ボランティア活動とは、自らの生活基盤を確立したうえで、余暇の時間を使って行うものだ。

(2)ボランティア活動を大学の単位に認定
 大学の教育をボランティア活動で代替することはできない。ボランティア活動に単位を認めて教育責任を放棄すれば、大学は自らの存在意義を否定することになる。
 ところが、単位認定する大学が出てきた。
 事態はこれにとどまらず、文部省(現文部科学省)事務次官通知により、中学校の内申書にボランティア活動歴が書きこまれるようになった。こうなると、ボランティア活動は強制されることになる。

(3)有料ボランティア
 1時間当たり数百円の報酬が支給される。また、地域通貨を創設してポイント制を導入し、ボランティアのインセンティブを高めるべきだという議論もある。
 「有給ボランティア」もある。企業の有給休暇を使ったボランティア活動を認めるものだ。

 野口は、内申書については、はっきりと反対する。「戦時中の国家への献身要求を引き合いに出すまでもなく、自己犠牲の強要は、多くの場合に、権力者が若者を欺いて自らは利益を得るための手段以外の何物でもないのだ」
 そして、野口は、さらに有料ボランティアの問題点を指摘する。地方公共団体などの公共団体が、ボランティア活動を安上がりの労働力として活用し、その結果、介護サービスなどの供給がボランティアに依存してしまうことを恐れる、と。
 サービス利用者の立場に立てば、次のことを要求したい。

(a)気兼ねなくサービスを受けたい。恩義を受けているという意識は持ちたくない。
(b)サービスの内容や質について、選択の自由を確保したい。決まったメニューだけを押しつけられるのは困る。
(c)必要なときは確実にサービスを受けたい。受給者がサービスを要求できないようでは困る。供給者の都合が悪いときには得られないような不安定な供給体制では困る。
 
 これらの要求は、ボランティアでは満たされない。
 市場で供給されるサービスに対価を支払う経済的余裕がない人には、公的な補助を与えるべきである(供給者ではなく受給者に対して)。
 とにかく人手がほしい、という現場の切実な要求があるにしても、予算を要しない解決策としてのボランティア依存は、容易な解決以外の何物でもない。「こうした問題に関して原理原則をないがしろにすれば、やがては恐るべき結果がもたらされるだろう」

   *

 以上は、『日本経済は本当に復活したのか』第4章(企業の社会的責任論を排す)の4(日本の「ボランティア活動」はボランティアの活動か?)による。
 きわめてまっとうな議論だ。
 内申書に係る「戦時中の国家への献身要求」の端的な例は、神風特攻隊だ。大岡昇平は、次のように書く。
 「口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ、一勝を博してから、和平交渉に入るという、戦略の仮面をかぶった面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる」

 有料ボランティアに係るサービス利用者の側からする要求は、ボランティアの限界を示して、間然するところがない。
 すぐれたボランティアは、この限界を明瞭に自覚するボランティアだ。ボランティアは、プロの代替とはなり得ない。
 ボランティアでなくてはできないこともあるのは、事実だ。ボランティアの場合、サービスの提供・受給の関係を超えた深みで人間的なつながりが築かれることもある。プロの場合、プロ同士でこうした関係が成立することもあるが、プロと利用者との間においては、皆無とは言わないが、きわめて稀だ。
 例外的な状況はやはり例外にすぎない。
 精神的負担の払拭、選択の自由、安定的供給は、介護に限らず、サービスの受給・供給関係において必要欠くべからざる条件だ。

【参考】野口悠紀雄(『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』、ダイヤモンド社、2006、所収)

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【読書余滴】野口悠紀雄の、1940年体制とは何か

2010年10月27日 | ●野口悠紀雄
1 財政金融制度
(1)金融システム
 産業資金供給は、戦前は資本市場を通じる直接金融方式を中心とした。これが、銀行を経由する間接金融方式へ移行した。 
 また、戦時金融体制の仕上げとして、統制色の強い旧日本銀行法が1942年に作られた。1998年まで日本の基本的な経済法の一つだった。
 戦時中に立法された「臨時資金調整法」や「資本逃避防止法」(を引き継いで作られた「外国為替及び外国貿易管理法」)を用いて、戦後の金融統制が行われた。
 メインバンクが資金提供だけではなく、企業の意思決定に大きな影響力をもつ。多くの場合、主要株主である。

(2)財政システム
 1940年度税制改正において、法人税が創設された。また、給与所得者に対する源泉徴収が整備された。現在まで続く直接税中心の税体系が確立された。会社に徴税実務を代行させる年末調整制度の導入とあいまって、近代産業に対して課税するしくみが確立された。
 その財源は、政府が握った。財源を地方公共団体に配布する財政構造が作られた。地方公共団体は、財源の多くを地方交付税や国庫支出金(補助金)など、国からの移転に仰いでいる。
 しかし、日本の地方公共団体は、もとは財源面での自主性が強かった。現在の中央集権的構造は、1940年度の税制改革がもたらしたものだ。

(3)政府の介入
 行政指導や規制などによって、政府が市場に個別に介入する場合が非常に多い。

2 日本型企業
(1)資本と経営の分離
 革新官僚が推しすすめたが、間接金融方式とあいまって、戦後日本企業の基本となった。

(2)企業と経済団体
 戦時中に成長した企業(電力、製鉄、自動車、電機)が戦後日本経済の中核になった。
 統制会の上部機構が経団連になった。統制会は、1941年に鉄鋼業で組織されたのが始まりである。その後、「重要産業団体令」によって、政府が指定する業種に統制会が設置された。最終的には22の統制会が設置された。企業は強制的に参加させられ、会長の任免権は主務大臣が握り、会長は参加企業の人事に介入する権限を有した。統制会の連絡調整機関として「重要産業協議会」が設置された。戦後、統制色を払拭する必要に迫られ、1946年2月に解散し、同年8月に再出発して設立されたのが「経済団体連合会」である。

(3)労働組合
 戦時中に形成された「産業報告会」が戦後の企業別労働組合の母体になった。
 労働組合は、企業別に組織された。
 自動車、新聞社、通信社などの多くの企業が1940年体制の中で生まれた。

(4)組織優先の風潮
 労働者も経営者も、企業という組織に固定化された。
 雇用体制は、終身雇用・年功序列を中心とした。経営者は、内部昇進といった傾向が大企業を中心として広範に見られる。
 市場を通じる自由な関係ではなく、集団主義をよしとする。「競争が悪で、協調が善」という価値観が一般的である。

(5)系列化
 企業と企業との関係が排他的で、長期にわたって固定的である(系列関係)。
 戦時体制は、戦後日本に存続しただけではなく、むしろ強化された。株主持ち合いによる企業の閉鎖性の進行やメインバンクの株保有によって、さらに強化された。また、系列関係も強化された。

3 土地改革
(1)農村の土地制度
 戦時中に導入された食糧管理制度が戦後の農地改革を可能にした。

(2)都市の土地制度
 戦時中に強化された借地借家法が、戦後の都市における土地制度の基本になった。

4 その他
(1)社会保障制度
 1939年の船員保険、1942年の労働者年金保険制度によって、民間企業の従業員に対する公的年金制度が始まった。
 労働者年金は、1944年に厚生年金保険となった。

(2)教育制度
 現行のしくみの基本は、1940前後に確立された。

(3)低生産性部門に対する補助
 農業や零細企業などに対して、財政的援助が与えられた。官僚制度が全体として社会主義政策を行った。

(4)その他
 高い貯蓄率が1940年前後から顕著になった。

   *

 以上、『戦後日本経済史』巻末の付録1をもとに、『日本経済改造論』および『日本経済は本当に復活したのか』から若干加筆した。

【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)
    野口悠紀雄『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』(ダイヤモンド社、2006)
    野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮社、2008)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、バブルをもたらした1940年体制

2010年10月26日 | ●野口悠紀雄


(1)バブルの経過
 1980年代後半、不動産と株式の価格に大規模なバブルが発生した。
 「円高不況」を克服した日本経済は、1986年12月から景気上昇を開始した。まず、企業収益の順調な伸びを反映して、株価が上昇した。少し遅れて、地価も顕著な上昇を始めた。東京の地価は、1986、87年の2年間で3倍になった。地価上昇は、やがて大阪や名古屋に、さらに地方都市に波及していった。日本の海外投資は、世界を席巻し、日本は世界一の債権国となった。
 1990年に入って、株価は下落し始めた。1991年に入って、地価も顕著な下落を始めた。1990年代末には、大銀行や証券会社が破綻に瀬した。

(2)バブルとは何か
 フロー価格とストック価格の乖離である。

 【原理】資産価値=資産が将来生みだすフローの収益の合計値
   例)株式:毎年の配当(フローの収益)の将来にわたる合計額=株価(ストック価格)
   例)不動産:賃貸料(フローの収益)の将来にわたる合計額=不動産の資産価値

 ところが、実際の資産価格は、これから乖離することもある。価格が将来上昇するなら、値上がり益(キャピタルゲイン)を得ることができるからだ。ここに、将来の高価格を予想して、現在の価格が高くなる現象が発生する。この場合の資産価格は、「値上がり期待」という根拠薄弱なものに支えられている。バブルと呼ばれる所以である。
 かくして、転売利益だけを目当てとした需要が発生し、それが価格をさらに引き上げる。利用収益とかけ離れたところで、資産価格だけが自己増殖していく。バブルの膨張過程である。
 市場価格は、資源の適切な配分を実現するための適切なシグナルとして機能する。ただし、それはフローの価格に関してのことだ。「期待」が重要な比重をもつ資産(ストック)の価格に関しては間違ったシグナルを与える可能性が大だ。
 そして、事実間違ったシグナルを与えた。「東京はアジアの金融基地になるから、地価上昇は当然」という意見が広く唱えられた(政府の白書にも現れた)。野口悠紀雄は、1987年11月の論文(「週刊東洋経済」所収)で、地価上昇はバブルだ、と指摘した。しかし、耳を貸す人は少なかった。

(3)バブルをもたらした金融構造
 バブルの原因として金融緩和がよく指摘される。公定歩合は、1987年2月には2.5%という史上最低レベルになった。「プラザ合意」(1985年9月)による円高圧力に対処しようとしたものだ。ブラックマンデー以降、米国からの圧力もあった。
 しかし、それだけでは、あれほどのバブルは生じない。構造的な問題があったのだ。
 1980年代後半、企業は株式や転換社債の発行によって低コストで資金を調達できるようになった。調達された資金は、まず借入れ減少にまわされた。さらに、大企業は、金融資産への投資を積極的に行った(「財テク」)。この背後に、当時の特異な金融情勢がある。自由金利は6%、株式市場での資金調達コストは2%。「直接金融で調達した資金を預金すれば、それだけで利益が上げられる」という奇妙な現象が発生してしまったのだ。
 製造業の大企業という主要貸出先を失った銀行は、中小企業に融資をシフトさせた。同時に、不動産投機に資金を流した。

(4)1940年体制の矛盾の噴出
 1940年体制が新しい経済条件の変化に対応できなかったために、バブルが生じた。結果として、1940年体制の中核的経済制度(銀行)に致命的な打撃を与えた。
 (a)金融制度に矛盾が内包されていた。
 この時点において、間接金融システムは主要な役割を終えていた。1940年体制の中核組織は、基本的な転換を要求されていたのである(特に日本興業銀行を中心とする長期信用銀行)。
 かかる客観的条件の変化にもかかわらず、銀行は生き残ろうとした。事業内容が定かではない中小企業に対する融資や、ノンバンクを介した不動産金融など、それまでの業務とは異なる方向に事業を拡張しようとした。この時期の資金の流れは、きわめて歪んだ形となった。そして、これらのすべてが失敗した。
 本来は、銀行は高度な金融サービスを提供する方向に脱皮していくべきだった。しかし、そうしたノウハウの蓄積がなかったため、容易で不適切な方向への事業拡張が行われたのである。

 (b)不動産投資が行われた基本的な背景である。
 過剰資金の投資対象としては、さまざまなものがありえた。不動産が選ばれたのは、不動産価格がつねに強含みだったからだ。これも1940年体制がもつ顕著な特徴なのだ。
 間接金融の下では、家計の金融資産の大部分は預金という名目資産で保有される。不動産は、家計が保有できる唯一のリアルな資産だった。かくして不動産価格のスパイラル的な上昇が起こった。大企業という資産運用先を失った銀行が、不動産投機に走ったのも、不動産が有利な資産だったからだ。

(5)生産者優先のマクロ政策
 1940年体制は、経済制度に歪みをもたらした。それだけではなく、マクロ経済の方向づけにも特有のバイアスを与えた。
 (a)金融政策・為替政策におけるバイアス。
 高度成長をへてオイルショックを克服した製造業は、生産性を高めた。輸出が伸びて、貿易黒字が蓄積された。為替レートが円高になった。
 円高とは、日本人の労働価値が高く評価されることだ。海外からの輸入品を安く買うことができる。日本人の消費生活は向上するはずだった。
 ところが、実際には円高は容認されず、円安政策がとられた。消費者からみて望ましい変化が生じたとき、それを打ち消す圧力が生産者(とくに輸出産業)から生じるのが日本の経済政策の基本的なバイアスである。このときも、そうだ。かくして金融緩和が行われた。

 (b)財政政策におけるバイアス。
 景気拡大、資産売却益増価によって税収が増えた。しかし、緊縮財政の方針は、これまでどおり堅持された。財政赤字が顕著に縮小した。
 もし生活者の声が財政政策に反映していたら、都市生活環境を向上させる基盤投資が行われていただろう。国債が増発され、金融機関の余剰資金に対する運用手段が提供されただろう。前述のような資金の流れは生じなかったに違いない。
 日本では、極端に消費者の立場が無視された。もし消費者の立場がマクロ政策に反映されれば、金融緩和・緊縮財政とは異なるマクロ政策が採られただろう。バブルが生じなかった可能性が高い。バブルは、消費者無視のバイアスがもたらしたものだ。この意味においても、バブルは1940年体制がもたらしたものなのだ。
 マクロ経済におけるこうしたバイアスは、今日に至るまで残っている。

   *

 以上、『日本経済改造論』第2章(1940年体制とバブル)の2(1940年体制がもたらしたバブル)による。

【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)

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【読書余滴】野口悠紀雄の、高度成長を支えた1940年体制

2010年10月25日 | ●野口悠紀雄


(1)1940年体制の明暗
 日本の経済システムの基本は、第二次世界大戦への準備として導入された戦時経済体制である。
 この1940年体制は、戦後に生き残り、1960年代において高度成長の実現に大きな役割を果たした。
 しかし、1990年代以降に生じた世界経済の大きな構造変化への対応に関しては、本質的な障害となっている。 

(2)金融システム ~間接金融と閉鎖的企業~
 1940年体制は、金融システムに明確に表れている。
 戦後日本の金融システムは、銀行中心のものだった。
 銀行中心の金融システムは、通常は後発工業国の特徴なのだが、日本の場合、1930年代までは直接金融が大きな比重を占めていた。産業資本の大半は、証券形態で調達されていた。これを反映し、企業の配当性向は高かった。また、株主が企業の意思決定に大きな影響を及ぼしていた。アングロサクソン的経済構造にきわめて近かった。
 政府は、1940年前後、戦時経済体制の確立と軍需産業養成のために前述の経済構造に大変革を加えた。直接金融を抑制し(配当制限・株主の権利制限)、大銀行を育成した。間接金融へ急激に大転換した。
 企業の統治構造も影響を受けた。それまでは大企業の経営者で内部昇進者は3分の1にすぎなかったが、内部昇進の経営者が一般的になった。年功序列・終身雇用が支配的になった。労働組合は企業別に組織されるようになった。

(3)戦後に残った戦時体制
 1940年体制は、社会主義的な正確を帯びていた。これは、当時の世界的潮流の一環だった。
 日本の特徴は、この体制が戦後も存続したことだ。その理由は・・・・
 (a)間接占領方式がとられ、戦時中からの官僚システムがほぼそのままの形で存続した(内務省は除く)。
 (b)巨大企業は分割されたが、大銀行中心の金融制度はそのまま残った。
 (c)冷戦進展を背景とする「逆コース」により、占領方針が民主化から経済力強化に転換した。
 戦時体制は、戦後日本に存続しただけではなく、むしろ強化された。株主持ち合いによる企業の閉鎖性の進行やメインバンクの株保有によって、さらに強化された。また、系列関係も強化された。

(4)1940年体制が高度成長に果たした役割
 (a)重化学工業への重点的な資金配分が可能になった。
 銀行が資金配分に重要な役割を果たしたからだ。間接金融は直接金融よりも、より長期の発展を見すえた上での資金配分が可能なのだ。銀行を中心として企業グループが形成される1940年体制の場合、特にそうだ。
 通産省は、1960年代以降の経済成長に実質的な影響を与えたとは言えない。高度成長に重要だったのは、産業政策ではなく、金融制度だった。

 (b)家計から企業に対して、金融制度を通じる巨額の移転が行われた。
 預金や貸出しは、インフレ時には実質価値が低下する。戦後日本経済において、借手(主として企業)の実質債務価値は急速に減少し、貸手(主として家計)が金融資産を増価させることはできなかった。かくて、家計から企業に対して巨額の所得移転が行われた。これが高度成長の背後にあった重要な経済的メカニスムである。
 名目金利が自由に変動する経済においては、この傾向はある程度緩和される。預替えを頻繁に行えるなら、金融資産の実質的価値は一定に保持しうる。しかし、戦後日本経済においては、この条件は満たされなかった。名目的金利は硬直的であり、しかも定期預金は固定金利だったからだ。他方、企業は固定金利の長期借入れを行っていた。家計から企業への所得移転はきわめて巨額であった。
 戦後日本において、企業が賃金を引き上げることによって、経済成長の成果を家計に分配した。高度成長の果実は、一部の富裕資産階級ではなく、労働者階級にもたらされた。戦後日本において、世界でも稀にみる「平等社会」が実現した背後には、間接金融中心の経済メカニスムがあったのだ。
 戦後日本には、資本家階級は存在しなかった。企業を経営したのは、内部昇進者である。経済システム自体が社会主義的性格を強く持っていた。社会主義運動が攻撃するべき対象は存在しなかった。戦後の左翼運動が上滑りで迫力を欠くものになったのは、当然のことだ。

 (c)「会社がすべて」という価値観が形成された。
 戦時期に形成された雇用環境(年功序列・終身雇用)は、会社への一体感を強める。さらに、経営者が内部昇進者であること、労働組合が企業別に組織されていたため、会社は家族的関係で強固に結ばれた運命共同体と観念されるようになった。
 自立した個人よりも組織の一員、競争が悪で協調が善、自由経済取引よりも集団主義・・・・「一つの目的のために組織の全員が力を合わせる」、「集団のため個を殺す」という戦時体制特有の価値観が、「会社人間」の価値観として確実に戦後社会に引き継がれた。

(5)オイルショックという「戦争」に有効だった1940年体制
 1940年体制は、高度成長が一段落した1970年代の初めに自然分解してもよかった。より自由主義的、市場志向的、分権的な制度への緩やかな移行が生じてもおかしくなかった。
 ところが、1970年代の初めにオイルショックが生じた。オイルショックは、ある種の「戦争」だった。「戦争」において、1940年体制という「戦時体制」がきわめて適切に機能したのである。
 労使は、一体となって対処した。労働組合は、欧米諸国の労働組合のような高率の賃金上昇を要求しなかった。この結果、日本は欧米のようなスタグフレーションに陥らなかった。「日本型システム」の優位性を欧米人も認めた。

(6)依然として残る1940年体制 
 1990年代に入って、日本経済は大きな困難に直面した。
 表面的には、日本の金融システムはかなり変わった。「護送船団」方式は解体された。間接金融の優位性は低下した。金融機関や大企業さえ破綻することが現実に証明された。
 かかる変化を背景に、1940年体制は、雇用面でもかなり変わった。終身雇用・年功序列を中心とする雇用体制は、過去のものとなった。
 しかし、これらは表面的な変化であり、1940年体制の基本的構造は残った。銀行中心の金融システムが大きく揺らいでいるにもかかわらず、間接金融が支配的であることには変わりがなかった。企業の資金調達における銀行借入れは減少したが、銀行が企業に大きな影響を持つことに変わりはなかった。
 日本の家計の金融資産の過半は、依然として預金だ(米国の家計で金融資産の過半は株式、債券などだ)。
 直接金融は、銀行貸出しを代替できるまで育っていない。
 経営者が内部昇進者で独占される企業構造も、ほとんど変わっていない。経営悪化による経営陣入替えも、めったにない。

(7)1940年体制の金融・企業システムの問題点
 (a)新しい経済条件への適応への大きな障害になる。
 間接金融は、その性質上リスクマネーを供給できない。リスクの大きな投資に向かない。新産業創出の障害になる。退出するべき産業の退出を促さない、という意味でも問題だ。

 (b)企業が雇用維持を第一義的な目的とする組織になってしまっている。
 企業の存続が最重要課題とされ、会社の破綻はできる限り回避するべきものと観念された。社会が新しい可能性に挑むにはリスク挑戦が必要であるにもかかわらず、リスク回避が優先されるため、社会は沈滞し、停滞した。企業は、1970年代までの古い体質を温存し、事業の整理・縮小や、新しいビジネスモデルの創出を行わない合併統合しか行わなかった。といりわけ銀行は、「大きすぎてつぶせない」状況の実現を追求した。

 日本経済変革のためには、何より金融構造の基本を改革する必要がある。直接金融の比重を高めるべきだ。
 しかし、現実に行われたのは、銀行中心のシステムの温存だった。1940年体制の温存だった。りそなグループへの公的資金注入は、その典型である。

   *

 以上、『日本経済改造論』第2章(1940年体制とバブル)の1(高度成長を支えた戦時経済体制)による。

【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)

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【読書余滴】野口悠紀雄の、日本はなぜ高物価国なのか

2010年10月24日 | ●野口悠紀雄


(1)食料品 ~輸入規制~
 日本における食料品価格は、国際的にみて著しく高い。多くのものについて、米国の2倍以上だ。肉類にいたっては4倍以上する。シンガポールや英国のような工業国と比較しても高い【注1】。
 このため、日本の家計支出では、食料品に対する支出が著しく高くなる。米国の家計の1.4~1.7倍である。家計支出中、米国が9%であるのに対し、日本では18%と倍になっている【注2】。
 年間の民間消費支出は、2005年現在285兆円である。仮に食料品価格が米国なみになり、家計支出中の比率が18%から9%に低下するならば、それだけで消費支出は26兆円減少する。
 換言すれば、これだけの支出を家計が余計に負担することで、食料品の生産・加工・流通にかかわる人々の所得を保障しているわけだ。つまり、彼らに対する実質的な社会保障制度である。26兆円という数字は、一般会計の社会保障関係費総額約20兆円よりも大きい。
 高い食料品価格の原因は、輸入規制と非効率な流通機構だ。
 輸入規制は、国内物価を上昇させるだけではない。対象産業は、保護に甘えて改革と進歩のための努力を怠り、生産性がさらに下がる。そして、輸入制限だけでは足らず、政府からの直接の補助金を求めるようになる。農業は、こうした経緯をたどって衰退し、もやは再生の可能性すら見いだせなくなった産業の典型例だ(風紋注:本書刊行時点では存在しなかった戸別所得補償制度を予言している)。

  【注1】総務省統計局『世界の統計』の主要食料品の小売価格(2003年)に基づく。
  【注2】総務省統計局『世界の統計』の一人当たり家計最終消費支出(1999年/2001年)に基づく。

(2)散髪代 ~競争制限~
 東京における散髪代は4,000円程度だが、米国におけるヘアカットの価格は18ドルだ。東京の散髪代は、米国の2倍以上である。
 米国の理髪店が提供しているのは散髪だけだが、日本ではそれに加えて洗髪や髭剃りなどもする。自分でもできることだから「過剰サービス」である。仮に散髪のみで半分の価格になれば、2,000円節約できる。年間15回理髪店に行くなら、3万円になる。
 つまり、消費者はこれだけの額を毎年余計に支出して、理髪店関係者の生活を支えているわけだ。これも、広義の社会保障制度である。

(3)ガソリン価格 ~競争制限~
 2003年の米国全体の平均価格は、1ガロン当たり1.56ドル(リットル当たり45.3円)だった。高めにみて1ガロン当たり2ドル(リットル当たり55円)としよう。これに対して、日本では120円程度で、米国の2倍だ。
 価格差の理由は、第一に税がある。ガソリン税・石油税は、米国で11円、日本で53.1円だ。よって、税抜き価格は、米国44円、日本64円だ。
 原油価格と精製コストは、それぞれ24円と11円で、国際的に共通である。これらを除くと米国9円、日本29円だ。日本は米国の3倍以上である。
 理髪店と同じく、日本の価格は米国の2~3倍という構造が浮かびあがる。
 米国と日本の差は、ガソリンの供給にかかわる人件費やマージンなどだ。米国のガソリンスタンドのほとんどはセルフサービスで、従業員は通常1人しかいない。日本では常時2~3人いて、窓ふき、吸い殻清掃、道路へ出る際の案内を行う。理髪店の場合と同じく「過剰サービス」である。
 日本にもセルフサービスの店は、あることはあるが数が少ない。出店規制があるからだ。人件費や流通コストが国なみになれば、リットル当たり20円は安くなる。1回の給油量が40リットルであれば、800円も「過剰サービス」に支払っていることになる。頻繁に乗用車を使っている人なら、年間数十万円になるだろう。

(4)小売業一般 ~競争制限~
 理髪店やガソリンスタンドには特別の規制がある。
 小売業一般については「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」があり、同様の機能をはたしている(2000年廃止、代わって「大規模小売店舗立地法」が2000年に施行)。
 大店法は、零細商店の発展的な成長を促すことにはならなかった。これらの商店は大店法があるから、という安心感に安住し、時代の流れに取り残されていった。農業の場合と同じ結果だ。日本の流通機構の基本構造は、1960年代から基本的に変わっていない。

(5)内外価格差の是正は政治的に困難
 貿易財の輸入制限とサービスの競争制限が、日本の高価格体質の原因である。
 どちらも、(1)(2)(3)のような産業に従事する人々の所得を保障している。そして、日本の流通業やサービス産業の生産性は、著しく低い。
 消費財や生活関連サービスのみならず、産業活動に関連するサービス価格も、日本では高い。
 高価格体質是正のための正統的な方法は、輸入自由化と規制撤廃を正面から進めることだ。実現すれば、生産性向上するだろう。日本の実質生活水準は格段に向上するだろう。
 しかし、供給者からの強い反対がある。
 「消費者のための経済政策」は掛け声としては言われるが、現実の経済政策に影響を及ぼすに至ってはいない。
 克服の方法がまったくないわけではない。日本で所得を得て海外で生活すれば、為替レートどおりの円の購買力を実現できる。年金生活者は、実質生活水準を2倍にも3倍にもできる。ただ、陸続きの外国が近くにあるヨーロッパのような場合と違って、日本人は外国生活は容易ではない。

(6)1940年体制での実質的社会保障
 以上のような経済体制は、じつは「1940年体制」の一環である。
 銀行中心の金融システムと企業構造など経済の近代的部門のみならず、農業や流通のしくみも「1940年体制」の重要な一部分なのだ。
 1942年制定の食糧管理法は、典型的な戦時立法である。
 借地借家法は、1941年改正で借地・借家人の権利を保護した。徴兵のための基盤整備を目的とするものであった。農村が疲弊してはならないし、年の留守家族が安心して生活できる必要があったからだ。社会主義的性格をもつものだった。
 このときに形成された制度的なしくみが戦後に生き残り、場合によっては強化された。
 高度成長は、農業やサービス産業などの「弱者」が取り残される過程であった。この部分の就労機会を確保し、所得を保障することは、社会的安定を確保するために重要だった。税の特別措置、補助金、規制などによって政府は庇護した。「弱者」は、高度成長を補完する不可欠なしくみとして機能した。政府は、直接措置のみならず、輸入規制と各種規制も行った。消費者は、高いマージンを負担し、零細商店を存続させた。つまり、これは広義の社会保障制度なのである。
 日本では社会主義政党が長期にわたって政権を握ることはなかったが、官僚制度が社会主義体制を確立し、それが社会主義国家消滅のあとまで継続しているのだ。

(7)高価格を通じる所得移転
 (1)で食料費のみに関して過剰支払額を試算した。総額で26兆円、国民一人当たり20万円である。理髪店やガソリンスタンドに関して示した数字を加えれば、このしくみを維持するために日本人が負担している額は、年間一人当たり数十万円にのぼるだろう【注3】。
 いま、家計消費支出の4分の1、年間総額で70兆円が、これらのセクターの人々に対する所得移転であると仮定しよう。
 農業・漁業と卸売・小売業を含める広義のサービス業に従事する就業者は、2,000万人である。70兆円が彼らに所得移転されているとすると、就業者一人当たり年間350万円となる。他方で、卸売・小売り業、飲食店の労働者一人平均月間給与額は56万円である。これらを参照して、先の2,000万人の一人当たり年間所得700万円と考えれば、その半分が高価格による所得移転によることになる。
 この試算が現実の姿を正確に記述しているかどうかは保証できない。しかし、いまの日本の経済構造の姿を象徴的に示す数字としては、大きな違いはないだろう。そして、これは驚くべき数字である。
 かかるしくみを今後も維持するのは難しい。なぜか。第一、所得の伸びを期待できない。第二、労働力が減少する。
 サービス産業の生産性向上は必須の課題である。
 生産性向上によって、将来の労働力不足は解決されるだろう。
 生産性向上によって、いまの一人当たり所得を維持したまま就業者を半分にできれば、家計の移転は必要なくなる。その結果、内外の物価格差はなくなり、家計には4分の1の余裕が発生するだろう。
 これこそが、少子化社会に向かう最重要の政策課題なのだ。

  【注3】「見えざる社会保障費」の推計額は、66億円(野口悠紀雄『日本経済は本当に復活したのか -根拠なき楽観論を斬る-』(ダイヤモンド社、2006)。

   *

 以上、『日本経済改造論』第6章(貿易と内外価格差)の2(日本はなぜ高物価国なのか)による。

【参考】野口悠紀雄『日本経済改造論 -いかにして未來を切り開くか-』(東洋経済新聞社、2005)

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【読書余滴】野口悠紀雄の、携帯電話のマナーを中国人に徹底させよう ~「超」整理日記No.534~

2010年10月23日 | ●野口悠紀雄
(1)携帯電話のマナーin日本
 1990年代中頃に、日本で携帯電話の使用が広がりはじめたとき、新幹線の車内やレストランで携帯電話を使用していた。
 喫煙と同様、携帯電話も(静寂という)環境を汚染する。
 いま、ある程度以上の水準のレストランでは、携帯電話を使った話し声はほとんど聞こえない。新幹線の車内も、かなりの静寂が維持されている。
 携帯電話のマナーは、日本は世界最高水準にある。

(2)携帯電話のマナーof中国人観光客
 新幹線の車内やレストランで、携帯電話を使用した中国人観光客の話し声が耳に入る場面が増えたように思う。
 中国では鉄道社内やレストランでの携帯電話使用は、ごく当たり前のことかもしれない。
 そうであれば、異なる文化が日常生活レベルで接触したために生じた軋轢である。日本社会のルールが中国人観光客に十分に伝わっていないことの結果だ。

(3)郷に入っては郷に従え
 中国人観光客に対して、日本社会のルールを徹底的に知らせる必要がある。中国人観光客が増え始めたいま、クリティカルな時期だ。
 新幹線では、携帯電話制限について英語で放送される。しかし、中国語では車内放送されない。ホテルやレストランでも、テーブルの上に注意書きが必要だろう。

(4)ビザ発給要件緩和
 日本は、これまで外国人観光客が来ない国だった。今の835万人が、仮に1,000万人に増えても、南アフリカを抜いて世界第20位になるにすぎない。
 日本人は、日常生活レベルで外国人と接する機会が少ない。
 中国人観光客も、これまでは団体客だった。その行動は、ガイドによって一定の範囲にとどめられていた。
 今年7月から、ビザ発給要件が緩和されて状況が変わった。(2)の光景は、こうした変化によってもたらされたものだ。

(5)異文化との接触の少ない日本
 移民が多ければ、社会の中で、さまざまな文化との共存が行われる。他民族国家アメリカでは、長い経験にもとづく知恵によって、異文化との摩擦への対処が行われてきた。
 日本は、異文化との日常生活レベルでの接触がきわめて少なかった。しかし、日常生活レベルで、異文化との接触がだんだん広まりつつある。
 日本社会は、中国人観光客の増加によって、基本的な変化に直面せざるをえないだろう。日本と中国の所得格差が縮小するにつれ、日常生活レベルで中国人と接する機会は、今後飛躍的に増加する。
 こうしたなかで日本社会のルールを維持するためには、まず日本社会のルールを彼らに伝える必要がある。

(6)異文化との日常生活レベルでの接触
 日本は、これまで先進国、特にアメリカとの間では留学生や市民による接触を行ってきた。少数であろうが、あったことは事実だ。アメリカへの留学生や企業の駐在員がそうだ。アメリカ社会のルールに従った経験があれば、文化が違っても同じ人間だ、と実感できる。
 欧米以外で日本人がこうした関係を確立できたのは、おそらく韓国との間だけだ。
 しかし、アジア諸国、特に中国との間では、こうした関係が築かれていない。
 日本企業からアジア諸国へ赴任する駐在員は、現地住民から隔離された住宅地で生活することが多く、仕事上の付き合いはさておき、現地社会に溶けこんで、その一員として生活することが少なかった。だから、市民間のコミュニケーションは、ごく限定的になってしまった。

(7)文化バリアの克服
 日本とアジア諸国、特に中国との付き合いが、これまでとは違ったものにならざるをえなくなってきつつある。
 私たちは、中国との間で、文化の違いを克服した関係を築くことができるだろうか?

【参考】野口悠紀雄「携帯電話のマナーを中国人に徹底させよう ~「超」整理日記No.534~」(「週刊ダイヤモンド」2010年10月30日号所収)

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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(1)

2010年10月22日 | ●大岡昇平
 話を簡明にするため、ここでは次のように置き換える。

   X:作者=大岡昇平
   Y1:『俘虜記』の主人公=『俘虜記』の作中に登場する「私」=過去(俘虜時代)の大岡昇平
   Y2:『野火』の主人公=『野火』の作中に登場する「私」=田村一等兵

 なお、『野火』は、「文体」第3号(1948年12月刊)およびに「文体」第4号(1949年7月刊)に初出。。雑誌廃刊で中断。「文体」第3号掲載の冒頭の部分が削除されて、あらためて「展望」1951年1月号から8月号まで連載された。

(1)文体の魅力
 『大岡昇平における私と神』は、「展望」掲載の『野火』をはじめて読んだときの「鮮やかな印象」から筆を起こしている。
 「不思議な魅力を持った文体であった。時空を裁断する小気味のよい筆勢と粘着力のある文意の綾が私の眼を文章から離れ難くさせた。これは傑作になると思った。雑誌の毎号が待たれた」
 それから20年近く経た1970年、この論文は「展望」9月号に掲載された。
 本論文の冒頭で仮説を提出している。『野火』ではXと作中の分身Y2がXの資質に適合した形で成立している、と。このことは、作者が自己省察において何か独自なものを発見し、それをどのように表現したか、という問題に係わってくる、と加賀はいう。
 以下、要旨を2回に分けて記す。

(2)『俘虜記』の私小説的特徴
 『野火』は、疑いもなく小説である。
 他方、『俘虜記』は完全には小説ではない。記録文学、私小説、紀行文または随想の部類に属する。その理由は、何よりも作者(X)と作中の「私」(Y1)との関係による。Y1はXと同じ名前を持ち、過去のXと同じ年齢で同じ日時に同じ行為をする。つまり、Y1は過去のXであって、作品はこの「私」という単一の窓から窺われた出来事の記録である。それ以上でもなく、それ以下でもない。
 この場合、X=Y1である。両者の間に距離があることはある。Xは、Y1を対象化し、突きはなし、批判し、分析している。ただし、過去の自分を吟味するという記憶の濾過作用によって保たれている。この方法は、自分に対して分析を加える時に有効である。いわゆる知的な私小説の正統的手法である。XとY1との距離は遠いが、両者の関係は平行している。
 『俘虜記』の場合、この平行関係が短編としての連作を可能にする。体験を年代的に区切って描写していけば、次々に短編が生まれ、短編と短編との間には縦に流れる時間による連携がある。類聚すれば全体として大きな長編になりうる。記憶という一方交通のいとなみが現実世界を照らしているため、一つの短編に描かれた世界の細部が次の短編の細部と齟齬せず、しかもそこで記憶によって定着された世界についてXが自由な考察を行いうるのだ。
 記憶による制約が作品全体に統一を、考察の自由が作品に変化や厚みをもたらす。この私小説の開発した方法をXは最大限に利用している。

(3)『俘虜記』における作者と「私」の関係
 もっとも、『俘虜記』を小説と呼ぶのは読者の勝手であって、X自身は「記録」を書こうとしたのである。
 文章家としてのXは、紀行文、記録、私小説、考証といった嗜好が大きく、しかもこの方面で成功するだけの資質が備わっている。
 この領域で注目するべきことは、くり返しになるが、XとY1との平行関係である。Y1以外にXの分身は現れない。そこではいつも単一の視点が設定されていて、自分をはじめ他者や環界が描写される。
 この「私」の視点を吟味することは、Xという文章家の特質を考える上で大切である。

(4)『俘虜記』における「私」の視点
 (a)「私」は静止している。
 それは自分が一点に停って周囲の世界を観察する、といった視点である(物理的に静止していることを必ずしも意味しない)。他者の描写や地形が第一義であって、実際作中にはこうした描写にすぐれた文章が多い。その固定された視点から周囲に向けられる視線は感情に動かされず、非情なまでも描写的である。飢えや疲労によってY1の視線に曇りがこない。
 (b)「私」は周囲の世界に解釈を加える。
 作中の場面や状況に密着した解釈ばかりではない。ずっと後で行われたもの、作品を書いている現在に行われたものまで含む。解釈は一応知的で論理的な形をとっている。しかし、諸家のいうようにこの点を強調すると、Xの資質を見誤る。『俘虜記』の最初の短編『捉まるまで』で米兵を射たなかったわけに4つの解釈を呈出する。第一、自分のヒューマニティへの驚き。第二、射とうとは思わなかった気持ち。第三、射つ気が起こらなかったこと。第四、「内部の感覚」・・・・という心情的非論理的な現象が解釈の対象となっている。
 この解釈に終わりはない。「一つの」あるいは「ありうべき」解釈なのだ。
 『俘虜記』のなかの『タクロバンの雨』においても、解釈のいきづまりから「私」は自分の行為を規定している自分以外のものの力、「神の摂理」に想到する。これはすでに一つの思想である。『野火』の世界に一歩足を踏みいれている。
 行為を心情的に解釈しようとするが、解釈によっては行為はきっぱりと切断しきれない。その先に神がある。「神の摂理」が、行為のかなり後になって、俘虜収容所のなかで考察されていることに注目したい。『野火』において神が早くから作品の中に現れ、全編の結論になっていることと大きな相違である。

(5)『野火』と『俘虜記』(ことに『捉まるまで』)との比較 ~叙述~
 一見似かよった状況を描く作者の筆は、根本的に異なっている。
 まず表面的な叙述の比較を行ってみる。
 細部において共通する出来事は意外に少ない。物語として似ている点は、比島敗軍の一補充兵を主人公とすること、米軍とゲリラに追われながら逃亡すること、ついに米軍に捕らえられること、米軍の砲撃を受けたとき主人公一人のみが丘にのぼって逃げること、逃亡の途中で銃を捨てること・・・・だ。
 肺結核、人肉食、狂気などY2に起きたことは、Y1には起こらなかったことである。そして、『俘虜記』に登場する敗兵には起きたことだった。つまり、Y2に起きたことは、『俘虜記』において多くの兵隊が遭遇した出来事を選択して蒐集したものなのだ。
 要するに、Y2はXと平行関係になく、Xよりもっと拡張された敗兵一般を代表しているのだ。
 そればかりではない。Y2の行動には、他の小説から受けた影響も推測される。敗走する軍隊のなかを一人あてもなくさまよううちにヴェテランの伍長の一隊に会う場面など、『パルムの僧院』のワーテルローの場面を髣髴させる。また、『野火』の人肉食も全体の構成も、ポーの『ゴードン・ピム』から借りている(大岡昇平『作家の日記』)。
 作者の読書体験は、時には本人も意識しないほど深く影響しているのである。

(6)私小説の「私」よりも作者に近い小説の主人公
 前述のとおり、第一にY2はY1のようには作者と平行関係にない。第二にXの読書体験によってY2の行動や性格が補強されている。
 だからといって、Y2がXと無関係であるわけではない。あえて言えば、『野火』の主人公はXその人なのだ。もっと言えば、Y2はY1よりも大岡昇平なる作者の真の体験を形象化している。
 Y1は十全にXではない。Y2に比べるとむしろXからぬ面が多い。『俘虜記』を私小説と呼びながら、こう言うのは矛盾しているかもしれないが、この逆説にこそ大岡昇平の私小説の特色があるのだ。

(7)『俘虜記』と『野火』における作者の位置の相違
 『俘虜記』は告白体をとっている。しかし、この告白には、小説を書いている現在のXにとって不愉快なこと、不都合なことは省略されている。自分の過去の「私」に愛着を持ち、行為を正当化しようとする。換言すれば、明快で簡潔な『俘虜記』の文体は、書かれた事実を紙上に定着するとともに、書かれなかった(書けなかった)事実を切り捨ててしまう。
 小説を書いている作者は全能者を気取らねばならず、過去の「私」を全能者の高みから見下ろさねばならない。ところで見下ろされた「私」もまた全能者の分身であるからには、その全能性を継承しなくてはならない。これは『俘虜記』の方法からくる制約である。
 ところが『野火』にはそういった不自由さや強張りや窮屈さはない。XがY2の背後に隠れてしまったからだ。Xは体験のすべてをY2に仮託しうる。Y2がXその人であり、Xの真の体験を形象化しているというのは、そのような意味においてである。
 しかしながら、XがY2を描く前にY1を造型したことを忘れてはならない。『俘虜記』で行った自己省察は当然、後の作品に生かされている。『武蔵野夫人』ではスタンダリアン秋山、その妻、復員者の勉が作者の自己省察を分有する。そして、これらの分身はY2へと凝集していく。

(8)『武蔵野夫人』にみる大岡昇平の資質
 『俘虜記』でXと平行関係を保っていたY1の代わりに、Xの分身としてスタンダリアンの秋山、その妻の道子、復員者の勉が登場する。といっても、この3人にはY1のような視点としての役割は与えられていない。
 Xは、分身の背後に身を隠す代わりに、いきなり全能者として姿を現す。作中人物すべてを動かす力は、Xがにぎっている。
 『俘虜記』において解釈や説明の限界を自覚し、X以外の全能者、神を望みみたはずのXは、ここでは自分を神に擬している。そして、多くの可能な解釈のうちの一つを読者に押しつけようとする。
 この欠点にもかかわらず、『武蔵野夫人』は面白い。救いは自然描写のすばらしさにある。『俘虜記』以来のXの視点の特徴、視点の静止と解釈癖のうち、前者がここで後者を凌駕するのだ。静止した地点から自然を観察し描写する才能の冴えは、ラディゲ風の解釈に飽いた読者の目を引きつけ、小説のなかに誘いこむ。
 受動的に自然を描写すること、積極的に物事を解釈すること。一見相反するこの二つの傾向は、元来Xの資質としては同じ一つの傾向、静止した地点から観察し見る性格から発している。こうしたXの資質は、おそらく生得のものであって、Xが小説家よりも評論家として出発したのもそのためだろう。
 Xが見るという生得の資質を小説家の有力な武器として用いるためには、ミンドロ島における血みどろの敗戦体験が必要であった。見ることから創ることへの転換には、見たものを描写し解釈することが面白いと思うこと、つまり見たものを読者の前に提供することが意義があるという自覚がなくてはならない。
 Xは、敗戦体験を記録しようとした。この記録は、日本では小説とみなされ、小説として成功した。評論家、スタンダール研究家の閲歴をもつXは、西欧的本格小説をつくりたいと思ったであろう。しかし、その場合、『俘虜記』が成立した重要な基礎、静的視点と解釈を捨て去ることはできなかった。Xは、やはり全能者の道を選んだ。
 『武蔵野夫人』には自然描写とラディゲ風の解釈が相反せずに融和している箇所がある。しかし、全体として、『武蔵野夫人』の登場人物はXの意のままに動かされている傀儡にすぎない。『俘虜記』で進められた自己省察は、容易なところで秋山と勉と道子に分割されてしまった。

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)

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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(2)

2010年10月21日 | ●大岡昇平
(承前)

 【注】X、Y1、Y2の定義は、(1)の冒頭を参照。

(9)大岡昇平の資質に合う体験的仮構の文学
 作者が全能者であって、成功した小説はいくらでもある。『パルムの僧院』しかり、『赤と黒』しかり、『ドルジェル伯の舞踏会』しかり。
 ただ、Xの資質にとっては、この全能者の視点をいれた本格小説の制作に限界があるのだ。
 静的な視点と解釈癖、つまり見るという資質にとっては見られたものの内実が問題になる。どのように見るかというより何を見たかが問題なのだ。現実世界における体験がXにとっては作品完成の重要な動機なのである。Xは、本質的に体験を記録し描写する私小説的作家であって、無から有を空想し虚構する想像力によって書く作家ではない。
 Xの作品ですぐれたものは記録文学に多い。『俘虜記』をはじめ、『父』『母』『神経さん』などの短編、それに中原中也伝などがそれである。
 小説としてもっともすぐれた作品は、『野火』と『花影』だ。
 次のような図式が成り立つ。『野火』は(おそらく『花影』も)、『俘虜記』の体験と『武蔵野夫人』の仮構の中間にある体験的仮構の文学である。この領域の仕事が、Xの資質にとってはもっとも生彩のあるものとなっている。そして、この資質の具現として特有な視点、Xと作中人物の特殊な関係があることはこれまで見てきたとおりである。

(10)大岡昇平における理論と実践 
 小説家の理論と実践とは必ずしも一致しない。
 理論家としてのXは、あきらかに西欧の近代作家を範とし、仮構による本格小説を文学の中心にすえている。数々の評論や『現代小説作法』などすべてそうである。
 しかし、実践家としてのXは、体験に密着した私小説、それから『野火』(や『花影』)の体験的仮構小説において才能を発揮するのである。資質がおのずから理論を制約してしまう。自己の資質を無視して理論どおりの作品を書こうとすると失敗する。

(11)大岡昇平の資質を生かした歴史小説
 Xには、自分の資質をうまく利用した、もう一系列の作品がある。天誅組を素材にした一連の歴史小説、会津敗軍の大鳥圭介を主人公とした『保成峠』『檜原』などだ。これに『レイテ戦記』を付け加えてもよい。これらはすべて文献を基礎とした考証で作品が組み立てられている。静的な視点と解釈癖を備えたXにはまさしくもってこいの領域である。
 ただ、こうした方法は、素材と解釈とが均衡を保ち、素材から生き生きとした人間像が浮かびあがった場合に面白い作品ができるが、Xはしばしば解釈癖が度をすごし、素材の中の人間がかすんでしまい、文献の訓詁のみが強調されすぎるきらいがある。

(12)『野火』における「野火」の意味
 Y1が最後まで明晰な意識を持ち続けたのに反し、Y2は狂気におちいる。
 『野火』のなかには異常な体験が次々と出てくる。それらの体験は、その場の異常な状況と相応して作品のリアリティを確乎たるものにしている。
 もっとも重要なのは、野火の幻影である。野火とは何か。それはまず単純にフィリピン人の存在を指している。田村一等兵は異国への侵入者である。この異国の民は常に侵入者を敵視している。敗兵にはゲリラの危険がつきまとっている。フィリピン人の日本軍へのすさまじい憎しみは、日本軍の敗走が始まるとともに一挙に爆発した。
 敗軍の一員としてY2はフィリピン人に追われねばならぬ。この公的状況に加えて、もう一つの私的状況が加わる。すなわちフィリピン人女性の殺害である。Y2は自責の念にも追われる身となる。殺人者が恐れるのは、彼を逮捕しようとする世人のみならず神である、とはラスコーリニコフ以来の公準である。殺人が神を呼びさます。彼は神に見られはじめる。神は姿を現さない。しかし、不断にこちらを見つめ、見とおすのである。そのまなざしのあわいに野火が現れる。
 こうなるともはや実在の野火ではなくなる。野火の幻影である。野火はゲリラという具体的な外的脅威を示している。Y2の心の火には明確な存在理由はない。心の中の火は神である。だが、Y2は神の存在を信じたくない。Y2は、不合理な幻影を見た自分に腹を立てている。Y2が神を見たとき、その時点で彼が狂ったことをXは用心深く書きこんでいる。
 Y2は、狂気においてしか神と出会うことができない。そこに日本の一知識人の不幸がある。Y2が狂気へ足を踏みいれた瞬間に、外部の野火、フィリピン人と内部の炎、神とが合一する。
 が、神の出現する体験のみは状況的説明を越えてしまう。それは外的状況をこえた内的なもの、真の狂気に近づくのだ。「私の心にある火」を書いたXの着眼は、この狂気に精緻なリアリティを与えている。
 この狂気は、精神病理学的吟味に十分耐えるだけの「科学的リアリティ」を備えている。真の狂気は、精神的なものよりもむしろ肉体の深みから立ち現れるのである。精神は肉体を了解【注】できない。

  【注】ヤスパース的「了解」である。

(13)キリスト教的でない神
 神は野火となった。
 次に神は丘の上の狂人に化身してくる。丘の頂上の木に背を凭せて動かぬ人とはゴルゴタの丘のキリストにほかならない。教会堂の十字架を見て少年期からなじんだ異国の宗教を思い出す挿話など、伏線は巧みにはられている。
 しかし、Y2にとって、キリストは神の一人にすぎない。人肉を食べさせてY2を飢えから救った永松は、「逗子の中に光る仏像の眼」を持っていた。この神は、キリストや仏陀を代表とする普遍的な何かである。
 それまでY2を見るだけだった神は、Y2に語りかけるようになる。ついに幻声になるのだ。Y2は、声に動かされる。自分の意志ではなく、神に動かされる。しかし、この神は、Y2を受け入れてくれない。
 Y2を見捨てたのは、神のうちキリストのほうであるとも言える。仏陀は、Y2を見捨てない。永松によって飢え死にからまぬがれさせ、その永松をも殺させ、ついには自殺を決意させる。このような神は、キリスト的ではない。
 Y2を死に誘ったのが野火であることに注意されたい。野火は、たえずY2を脅かした。死の象徴であった火に彼は近づき、ついに襲撃されるのである。そこでY2は、再び神に出会う。

(14)ニヒリズムの神
 『野火』は、宗教小説である。神を知らぬ男が、極限状況において神を発見する物語である。わが国の現代小説に、おそらくはじめて神を主題にする小説が現れた。
 『俘虜記』では、なぜ米兵を射たなかったかという解釈の行き詰まりから神の摂理の存在へと到達した。が、ここで到達した神は必ずしもキリストではない。Y1は、キリスト教に対してむしろ批判的であった。
 Y1は、収容所のなかで、自己の深奥にある神を、道徳を発見する。Y1はモラリストになるのだ。Y1は、うわべは収容所生活に適応しながら、衆愚のなかにあって徹底的に孤独であった。
 『俘虜記』の到達したところから『野火』は出発している。『俘虜記』が自己省察の結果神に到達したのに対し、『野火』は神の存在から出発している。射たなかったのは神のせいだという定言は、射ったら神はどうなるのかという実験へXを駆りたてた。
 Xは、記録から小説への転進を異常な努力で遂行し、立派にやりとげた。しかも宗教小説というもっとも困難な領域において。
 実験の結果は、意外であった。Y2が汚辱にまみれればまみれるほど、神はますます確乎として存在しはじめたのであった。と同時に、汚辱の果てにY2は狂わねばならなかった。孤独の極限に至らねばならなかった。
 しかも『俘虜記』で予想した神のように、神は柔和な姿では現れなかった。神はすべてを見とおし、叱責し、ついにはフィリピン人という恐怖の他者と合一さえしてしまう。Y2は、神にすがろうとして、いつも払い落とされる。Y2は、神を讃えることはできても神の国に入ることはできない。
 肯定的で柔和な神がこの世を包みこむのではなく、汚辱と狂気との死の状況の最中に不安な神が現れたのである。このプリアヴアティーブ(欠如的)な神は、結局ニヒリズムの神である。Xは、現代の知識人が当面しているニヒリズムの暗黒に光を見出す努力をする。モラリストXの姿勢は、精確に現代的である。

(15)創造したものによって作者が拡大される
 Y1とY2との差は、いまや歴然としている。『俘虜記』においてXとY1とは平行関係にあり、Y1はXより小さかった。他方、Y2はXとほとんど一体であり、しかもY2はXよりも大きいのである。
 『俘虜記』は自分の過去を整理しただけであるが、『野火』は新しい自分を創造したのである。『野火』を書いたことで大岡昇平は確実に自分を拡大しえた。小説家の創造のいとなみと喜びがそこにある。 

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)
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書評:『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』 ~事実が自分で歌う~

2010年10月20日 | 批評・思想
 ロジャー・サイモンは、コラムニストである。
 「シカゴ・サン・タイムズ」で独自のコラムを発表しはじめ、1985年に発表紙を「バルティモア・サン」に移した。以後、全米100紙に配信され、1,000万人以上の読者をもつに至る。
 米国新聞協会賞(1984年)をはじめ、多数の賞を受けた。
 本書は、そのロジャー・サイモンが自選したコラム集である。

 主題は幅ひろい。家庭内暴力(DV)、末期癌の少年、少女の出産と里子、ウォーターゲイト事件後のニクソン、ミス・アメリカに落選した候補者たち、誤って殺害された発達遅滞者、大量殺人事件、空港警備体制の不備、ラスベガスの防火体制の不備・・・・。
 このように、日本の随筆と異なって、書き手自身ないし身辺のことよりも同時代の社会相が主題になっている。
 当然、コラムの対象として取りあげられる者も幅ひろく、社会の各層にわたる。
 話題とする地域も、米国内だけではなく、国外におよぶ。南アフリカを訪れては対立する両者(アフリカーナとカラードを、中東ではイスラエル人とパレスチナ人)をインタビューしている。
 このように、広く取材して事実を掘り起こしているから、この点でも日本の随筆とは異なる。日本の随筆は、多くの場合、手持ちの情報をもとに私見を加えるものだ。
 問題提起も、事実を掘り起こして読者の「疑い」を引き出し、また「疑い」を深める点に重きが置かれている。
 当然、問題の解決策は概してあからさまには示されない。しかし、その分、多様な解決策を読者が議論できる余地をのこす。
 そのほうが影響力が大きい、と思う。ひとは、天から降ってくる託宣によって動くよりも、自分で考えて決めた意見にもとづいて行動するほうが確乎たる行動をとることができるからだ。

 サイモンの文章のスタイルは、事実をして語らしめる手法だ。大岡昇平ふうにいえば、「事実に歌わせる」「事実が自分で歌う」。
 主張は言葉であからさまには述べない。さまざまな事実を整理していく過程で事の本質をくっきりと浮き上がらせ、この整理の方向づけがサイモンの主張するところを示す。
 事実は、注意深く選択された言葉と文章によって簡明にされ、再構成された事実は短編小説のような強い印象を読者に残す。

 たとえば、本書のタイトルになった『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』。
 まず冒頭で、「私も、ほかのジャーナリストに負けず劣らずの不届き者だった。人を疑いすぎる。特に政治家に対して、その傾向が強かった」と自省するかのごとき姿勢から入っていく。「ところで、これは、ジャーナリストが犯す、最大の誤ちだそうだ」
 なんだか遠慮深い。遠慮がすぎて、ダイジョウブかね、という書き出しである。
 ここで、筆は事件に移る。
 シカゴの某市会議員(あとで実名が明かされる)が郊外の住宅地で午前3時頃に駐車した。午前9時頃にさがしたときには車はもうなかった。盗難にあったのである。車の前部席の下には、現金3千ドルが、ケースにではなく、茶色のポリ袋に入っていた。
 「詮索好きで無責任な典型的リポーターだった頃の私なら、こいつはうさん臭いと思ったに違いない。(中略)だが、もう疑ったりはしない。疑惑を抱くのは、ある種の病気だと自覚しているし、マスコミは健康を取り戻さなければならないのだ」
 と、まだ謙虚な(フリをした)姿勢はくずさない。
 では、午前3時に住宅地で何をしていたのか。
 市会議員、サイモンによるインタビューに答えていわく、友人の看護婦を訪問したのだ、足をケガをしていてね、朝病院に出勤するのとき階段を降りる手助けをしてね。3千ドルは家の工事をした業者に支払うものでね。うさん臭い話だと思う人がいるのは知っている。「賄賂や、金品強要で誰も彼も起訴されているからね。しかし、私には、後ろめたい事など何もない」

 陸山会に貸し付けた土地購入代金4億円が2004~05年分の政治資金収支報告書に記載されていなくても、返済された4億円が07年分に記載されていなくても、トップに後ろめたいことは何もない。

 が、シカゴの市民は、この某市会議員の釈明にちっとも納得しなかった。釈明はつじつまが合っていない、と見た。
 つじつまの合わない釈明をすることで、かえって3千ドルが怪しい金であることを市会議員自ら暴露してしまった・・・・。

 だんだん事実が明らかなるにつれて、読者は自ずから疑いをもちはじめるに至るわけだ。隠された事実があるのではないか、と。
 書き手のサイモン自身は、最初から疑っていたのは言うまでもない。
 冒頭の「疑心をもちすぎる私は不届き者」という言葉は、身構えている読者の警戒を緩和するレトリックにすぎない。シェークスピア劇でシーザー暗殺直後、アントニウスが追悼演説で最初は暗殺者に迎合するかのようなセリフから始めたように。ただ、シェークスピア劇と異なるのは、アントニウスは演説で市民感情をひっくり返したが、サイモンはあくまで事実に即して語り、事実それ自体から読者自身に結論を導きださせるのである。

□ロジャー・サイモン(横山和子訳)『ジャーナリストはなぜ疑り深いか』(中央公論社、1988、後に中公文庫、1991)
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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~

2010年10月19日 | ●大岡昇平
(1)作品から体験への遡及作業
 体験が作品に結晶するには、それ相応の屈折や濾過の作用が必要だ。体験は、生のままで作品に結実しえない。
 真の文学作品は、文章がそれ自体として独立し、現実世界に対峙するだけの鞏固な構築を備えている。
 戦後夥しく書かれた戦記や戦争を主題とする小説群のなかにあって、真の文学といえるのはごく限られた作品にすぎない。大岡昇平の文学は、本当の文学的作品である。
 たとえば『俘虜記』は、文章として表された作品世界がまずもって加賀乙彦に迫ってくる。そこに描かれた世界が大岡の体験であったかどうかということは一義的興味とはならない。
 とはいえ、大岡の戦争体験がなかったら『俘虜記』が生まれなかったのは事実だ。
 作品への関心が出発点となって、体験へと遡る方向への作業があってもよい。その種の作業なら、加賀乙彦には大いに興味がある。

(2)『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』における「私」と体験との距離
 戦争を取り扱った大岡の代表的作品『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』を並べてみると、それらの間に際だった差が見られる。作者の体験へ向かう姿勢が、それぞれ意図的に違うのだ。
 『俘虜記』は体験と密着し、『野火』は体験と距離を置き、『レイテ戦記』はさらに遠方から俯瞰している。年を経るにしたがって、作者は自分の体験を突きはなし、吟味し、対象化していったかのようだ。
 『俘虜記』(の中の『捉まるまで』)と『野火』とは、米軍とゲリラに追われて逃亡し、ついに米軍の俘虜になるという物語の骨格はよく似ているが、その表現方法は根本的に違う。前者の「私」は、もっぱら静止して周囲を観察し描写していく。後者の「私」=田村一等兵は、たえず移動し、自己の内面へと向かい、小説的な状況をつむぎだしていく。前者は記録的、後者はより仮構的だ。後者は、作者自身の実際の体験から隔たった主人公を設定し、小説的想像力を駆使している。

(3)夢の力
 現実世界での体験は貧しく、何か色褪せて窮屈で一面的でありすぎ、作品世界での想像のほうが豊穣で、鮮明で自由で多面的である場合がある。ユンクやバシュラールの夢と想像力の研究成果にしたがって、夢のほうが現実よりもはるかにレアリティがある、と言ってもよい。『野火』が『俘虜記』に優るのは、そのような点においてである。
 作者の戦争体験と作品との距離は、『俘虜記』のほうが『野火』よりも近い。仮構性は『野火』のいたるところに読みとれる。肺結核、女の射殺、人肉食、野火の幻影など、『野火』の田村一等兵に起きたことは、すべて『俘虜記』の「私」には起こらなかった。
 だからといって、『野火』のほうが作者の戦争体験から遠い、とも言いがたい。体験は、必ずしも作者自身が行ったり思ったりしたことを意味しない。夢見ることもまた立派な体験である。そして、前述のとおり夢の世界のほうがリアリティが強い、という逆接が成立するのが文学の醍醐味だ。
 そこに作品の主題と構成が要求する方法が表れてくる。『俘虜記』においては、あくまで戦争俘虜という状況が主題だ。敗兵逃亡は、大きな作品のほんの序の口の話にすぎない。他方、『野火』においては、敗兵の逃亡記が全編の主題を覆っている。逃亡のもららすあらゆる状況が描かれている。

(4)敗者への関心
 敗兵への関心は、大岡の後年の作品へも長く余韻をひびかせている。大岡の歴史小説に見られる敗れゆく者への執拗で徹底した愛着は、敗兵体験を抜きにしては考えられない。中原中也や富永太郎への哀惜の念も、彼らがその生きた時代において敗れた人であったためだ、という理由づけも可能だろう。「作者は自分一個の体験を核にして、それを肥え太らせて次々と作品の創造を行っていったのである」

(5)体験の拡大と深化
 現実から夢への道程は、換言すれば個人的体験の拡大と深化である。大岡は、絶えずヴァリエーションを創りだし、体験を新しい体験へ増幅していく人だ。
 大岡はしかし、事実から離れた全くの空想世界へ移行してよしとする作家ではない。仮構は、現実以上にリアリティのある世界を呈示する作業である。小説の成立する基盤は、あくまで現実世界にあると大岡は考えている。大岡の戦争体験への関心が、ついに小説よりも戦記を書かせるようになるのはそのためだ。『レイテ戦記』の壮大な世界は、仮構としてではなく、事実として書かれている。「一人の敗兵の体験は、ついにレイテに散った8万人の将兵の体験へと拡張された」
 歴史という事実重視のいとなみを大岡は支持する。一見仮構へむかう精神と正反対のようでいて、現実を重層化し、深化したいという意図においては共通している。そこには、やはり自分の体験を核にして発想するという姿勢は貫かれている。
 井上靖の『蒼き狼』批判において大岡が示したように、大岡が目ざしたのは「もし仮構を用いるならば、事実をさらに事実に近付けるためにのみ用いること」であった。その見事な成果が『レイテ戦記』であった。

(6)『レイテ戦記』の新しさ
 『レイテ戦記』は、新しい形式の戦争文学である。一つの戦争を敵と味方の双方の視点から描くという点で空前である。「『戦争と平和』で、トルストイがナポレオン側の視点を遠慮がちに導入したところを、大岡は大胆にも乗り越えてしまった」
 「事実に歌わせる」「事実が自分で歌う」という大岡の意図は十分に果たされている。

(7)大岡文学の縮図
 「一方の極において体験は虚構へ向い、他方の極において事実に向う。これが大岡昇平の文学の構図である。これは小説家が小説を創出する方法として正統派に属する」
 戦争体験を核に作家活動を始めた大岡は、ながい創作活動のうちに体験の意味を方法的に自覚していった。大岡の戦争文学が単なる回想記や手記の域を脱して、文章として独立しえた裏には、この方法の自覚がある。作家の選ぶ方法とは、その人の資質に合致した生得のものである。大岡の方法の自覚とは、自己の資質の発見へと有機的につながってくる。

(8)大岡文学の新しさ
 大岡は、体験を一回限りの現象として流してしまわず、何回でも記憶として再生した。再生のたびに生じる記憶の内容のずれを知的に解明しようとした。この努力が重層する解釈である。解釈が加われば加わるほど記憶は不透明な厚みをまし、ついには記憶それ自体も変質をこうむる。知的な解釈がかえって体験の奥行きを増す点に、大岡の解釈の特質が見いだされる。
 『父』『母』ほか一連の私小説においては、体験と記憶の拮抗が作品に生気をあたえている。『幼年』『少年』では記憶を現場探索によって再吟味しようとする方法が開発された。従来の一面的な回想形式の幼少年記にみられない新しい世界が作りだされている。
 「戦争体験から創作への、ながい方法的探求は、過去の体験を現在の踏査によって検証し二重化するという地点まで到達したのである」

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における戦争体験と創作』(『虚妄としての戦後』、筑摩書房、1974、所収)
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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~(2)

2010年10月19日 | ●大岡昇平
 【お断り】
 「【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~」に一本化しました。
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【大岡昇平ノート】埴谷雄高が気宇壮大に読み解く『俘虜記』 ~『二つの同時代史』~

2010年10月18日 | ●大岡昇平
 『二つの同時代史』Ⅶ章に、『俘虜記』に係る埴谷雄高の見解が披露されている。
 第一、大岡文学は『俘虜記』から出発している。ドストエフスキーが『死の家の記録』から出発したように。
 『死の家の記録』にさまざまなロシア人のさまざまなタイプが描かれている。『俘虜記』にもさまざまなタイプの日本人が描かれている。日本人だけではない。多様なアメリカ人を描いている。この点、20世紀に生きた大岡昇平は、ドストエフスキーよりも広がっている。「大岡は日本人を発見したと同時に、世界の他の国をも発見したわけだ」
 これに対して、大岡昇平は冗談を言っている。「最初の洋行だからな(笑)」

 第二、『俘虜記』には、『野火』の原型がある。
 埴谷はいう。岩波版「大岡昇平集」では『野火』の解説に限定して書いたが、真に大岡昇平論をやるなら、おおかたの批評家がやっているように『死の家の記録』からドストエフスキー論をはじめると同様、『俘虜記』を徹底的にやるべきだ。
 大岡は、首肯していう。「そうだ。まあ、おれはサラリーマンのこすからい智慧を持ちながら、『パルムの僧院』のファブリスの無垢を理想型にしたまんま戦争に行った。それを農民出の兵隊の中に見出した。ところがその兵隊とおれは話の種がなかった。俘虜病院にいる間だけどね。そこでやけになって、俘虜収容所全体を反無垢、小児性が残っちゃった。それを『野火』で追っかけてみた、ってことかね、自己解説すると」
 埴谷は『俘虜記』から次のような人物を拾いだす。
 (1)4人の暗号兵仲間のうち一人はレイテ島で結核のため司令部からも病院からも追い出され、とうとう自爆して死んだ。 (2)黒川軍曹が人肉食の話をして大岡昇平を嫌な気持ちにさせた。
 (3)食べものを食べる前に儀式をする狂人が出てくる。
 (4)(1)と(3)は、『野火』の主人公の原型である。(1)から(3)までの「3人がアマルガメイトされ、そしてそこに、大岡自身の感覚と思索が緊密に注ぎこまれて、あの『野火』ができたわけだ」。こういう点でも『俘虜記』は『死の家の記録』と同じ位置を占めている。ドストエフスキーは、『死の家の記録』の事実から出発して、いろいろフィクションの傑作を書いた。ドストエフスキーと同様に、大岡昇平も『俘虜記』の事実の原型を消化して自家薬籠中のものとし、『野火』という傑作を書いた。

 第三、『俘虜記』には国際性、超階層性があり、日本的なものの発見がある。
 戦争という世界的背景があるから、日本人もいろんな回想の人物がみんな出てきた。敵方のアメリカ人も、ドイツ系やスペイン系や、いろんな人物が出てきた。「日本文学の光彩性とか言うけれど、国際性はあそこで発見されているんだよ」
 2,700カロリーの食糧を俘虜にだすとか、アメリカの兵隊と日本の捕虜をまったく同じに扱うとか、「これが国際性の始まりなんだよ」。
 そして、いろんな階層の日本人を書いている。戦闘で死に、捕虜収容所に来なかった者まで書いている。
 敗戦を知って暗闇で大岡が泣く場面、あるいは捕まって「殺せ」と叫んだ日本兵に対して、父母を嘆き悲しませるな、と涙を流しながら諭すフィリピン人(女房は日本人で息子は日本軍に志願)に、日本人は日本人を再発見する。

 かくのごとく『俘虜記』にはいろんなものがつまっている、というのが埴谷の見立てだ。
 そして、Ⅶ章冒頭で述べているところの、『俘虜記』を考える枠組みは、これまた埴谷雄高的な気宇壮大な説である。いわく・・・・
 日本人は、だいたい北と南からやってきた。縄文人は北からやってきた。弥生人は中国の南からやってきた。南から黒潮にのってやってきた者もいるだろう。数万年の間に、これらが重層的に重なりあって、いまの日本人になった。
 大東亜戦争は、原日本人を探し求める無意識的な探索である。「大東亜」とはいうものの、中国、仏印、マライ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、ポリネシア、ミクロネシアに行った。深層心理的には、歴史以前の重層的日本人の源を訪ねて、これら全部に行った。日本人が数万年にわたって夢見てきたことの実現である。本当のルーツ探しは無意識的なもので、資本主義帝国主義の時代だったから大東亜戦争という形をとった。
 アジアからヨーロッパにかけては大陸だから、歴史以前の民族は大移動していた。いまの国は、もとは歴史がはじまったときにそれらの民族が定着してできたものである。その昔は、変な人間がやたらに歩きまわっていた。
 ところが、日本に縄文人がきて以来、日本の向こうは太平洋で行き止まりだから、みんなこの国で雑居するようになった。そこで、胎児が夢を見るみたいに、無意識に日本人とは何かを考えていた。そこで大岡昇平はフィリピンに行くことになった。しかもそれは、日本人の国際性と非国際性と人間性の両端、それから日本そのものが問いなおされ始めた時代でもあった。
 人間性とか国際性とかいうものは、だいたいヨーロッパ文化から教えられてたものだが、それを身をもって体験したのが、あの戦争時代だった。大岡昇平は、フィリピンに行って、フィリピン人はもとより、山の上にいる土着民にもアメリカ人にも会った。そして、これが重要なのだが、日本人にも会った。こういう状況のなかで、日本人というものが問いなおされ、自覚され直したのだ。
 これが『俘虜記』を考える枠組みだ。

【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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