語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

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【読書余滴】広井良典の、創造的福祉社会 ~成長期の後にやってくる定常社会~

2011年01月31日 | 医療・保健・福祉・介護
 遺跡等の発掘調査で、加工された装飾品、絵画、彫刻などの芸術作品のようなものが、5万年前に一気に現れる(人類学上・考古学上の「心のビッグバン」/「文化のビッグバン」)。
 現生人類ないしホモ・サピエンスは20万年前に登場した。これと「心のビッグバン」との時間差は、なぜ生じたのか。そうした変化は、どのような背景で生じたのか。かかる革命的変化を否定する意見もあり、明確な決着はついていない。

 人間の歴史を大きく俯瞰すると、精神的・文化的大変化の時期がもう一つ浮かびあがる。「枢軸時代」(ヤスパース)/「精神革命」(伊東俊太郎)の紀元前5世紀前後だ。
 この時期、ある意味で奇妙なことに、「普遍的な原理」を志向する思想が、地球上の各地で“同時多発的”に生成した。インドにおける仏教、ギリシャ哲学、中国における老荘儒の思想、中東における旧約思想だ。それらは、特定のコミュニティを超えた「人間」という観念を初めてもつと同時に、“欲望の内的な規制”を説いた点で共通する。

 人間の歴史を「拡大・成長」と「定常化」という視点でながめ返すと、3つの大きなサイクルを見いだすことができる。これは、人口の増加・定常化のサイクルとも重なる。
 (1)人類誕生から狩猟・採集時代。
 (2)1万年前の農耕成立以降。
 (3)200年前以降の産業化/工業化時代

 紀元前5世紀前後のギリシャや中国などにおいて、森林破壊などの問題が深刻化していた。
 してみると、「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」は、それぞれ狩猟・採集社会と農耕社会が、いずれも当初の拡大・成長時代をへて、環境・資源の制約に直面する中で、最初の成熟・定住期に移行する際に生じたのではないか(広井良典の仮説)。いわば、物質的生産の量的拡大から、内的・文化的発展への転換だ。

 現在私たちは、“第三の定常期”への移行という大きな構造変化にが直面している。
 「定常」/「脱成長」は、変化の止まった退屈で窮屈な社会ではない。
 定常期は、文化的創造の時代なのだ。
 私たちが迎えつつある定常化時代は、成長期にあった「市場化・産業化・金融化」から解放され、一人ひとりが真の創造性を実現していく時代なのだ。

 成長・拡大の時代には、世界が一つの方向へ向かう中で「時間軸」が優位になる。
 定常期には、各地域の風土的多様性や固有の価値が再発見されていくだろう。これらは、資本主義の変容/ポスト資本主義というテーマと重なる。
 私たちはいま、「創造的定常経済」/「創造的福祉社会」の社会像、理念、政策を構想する時期に来ているのではないか。 

   *

 以上、コラム「成長期終え創造の時代へ」による。
 広井良典は、千葉大学法経学部教授。専攻は公共政策、科学哲学。著書は、吉村賞受賞作『アメリカの医療政策と日本』(勁草書房、1982) 、第40回エコノミスト賞受賞作『日本の社会保障』(岩波新書、1999)、第9回大佛次郎賞受賞作『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書、2009)ほか。

【参考】広井良典「成長期終え創造の時代へ」(朝日新聞2011年1月27日付け「明日探る -公共政策-」)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、5%の消費増税では焼け石に水 ~いくら不足するか~

2011年01月30日 | ●野口悠紀雄
(1)増税の目的を明確にする
 日本の財政は、5%程度の消費税率引き上げでは、焼け石に水でしかない。事態を改善するには、ケタ違いの大規模な増税が必要だ。それを認識すれば、とるべき方策はまったく異なるものになる。
 増税の目的は、(a)現在すでに生じている財政赤字の縮小だ。
 しかし、これだけでは十分ではない。今後、財政支出は増大するからだ。わけても社会保障関係費は、高齢者人口の増大によって不可避的に増加する。よって、(b)将来の社会保障費増加に対応することが必要だ。

(2)財政赤字の縮小に必要な消費税率
 (1)の(a)および(b)の目的達成のために、いくら増税が必要か。
 (a-1)仮に2011年度の公債金収入と「その他歳入」の和52兆円のすべてをゼロにすることを目的とすれば、37%の引き上げ(つまり合計42%)が必要だ。(a-2)仮にユーロ加盟条件の15兆円まで減少させることを目的とすれば、26.5%の引き上げ(つまり合計31.5%)が必要だ【注1】。

 【注1】
 財政赤字を現状からx兆円だけ減少させるために必要な増税額は、1.43x兆円である(増収額の3割は地方交付税に回されるから)。
 消費税率をt%引き上げると、そのうち国税分は0.8t%である(0.2t%は地方消費税分)。
 消費税率1%での税収は、2.5兆円である。
 よって、1.43x兆円の税収を上げるためには、消費税率を0.715x%引き上げる必要がある。

(3)社会保障費の自然増に必要な消費税率
 11年度予算で29兆円の社会保障関係費は、今後10年間で6.4兆円増加する【注2】。
 これを補うために必要な消費税率の引き上げ幅は、【注1】の算式から4.6%となる。
 消費税率を5%程度引き上げたところで、社会保障の自然増に対応することで精一杯であり、公債発行額を目立って減額させることにはならない。
 公債発行額を15兆円に減らすことを目的とするなら、31.5%+4.6%=36.1%にしなくてはらなない。
 民主党の「最低保障年金」は、財源の点でまったく不可能であることがわかる。
  
 【注2】
 過去の推移をみると、社会保障給付費は65歳以上人口の増加にほぼ比例して増加している。65歳以上人口は、20年には10年の22%増加する。したがって、保険料や地方との費用分担比率を不変とすれば、一般会計の社会保障関係費もほぼその程度の率で増加すると予想される。

(4)国債費の自然増
 事は、財政赤字の縮小や社会保障費の自然増だけで終わらない。
 増税によって財政赤字がy兆円まで圧縮されたとする。これは、国債残高をy兆円だけ増加させることと同じだ。
 国債残高が増加すれば、利払いと償還費からなる国債費は、それに比例して増加する。現在10年物国債の発行利回りは1.2%である。60年償還を前提とすれば、国債残高y兆円増加による国債費の増加は、ほぼ2.9y/100兆円だ。これが国債費の自然増である。
 yが40であるとすると、1.2兆円である。これは社会保障の自然増より大きな額だ。10年間で12兆円になる。【注1】の算式からすると、消費税率を8.6%引き上げなければならない。

(5)残る問題
 税の自然増収がないとすれば、歳出増は公債金収入に頼らざるをえない。すると、国債残高はさらに増加することになり、孫利子、曾孫利子などが累積して、国債費は雪だるま式に増加していくのだ。
 もっと恐ろしい問題もある。上記の計算は国債利回りとして現状の数字を用いた。しかし、国債の消化に問題が生じれば、この数字は急騰するおそれがある。そうなると、国債費は一挙に増加する。

(6)財政改革の方向づけ
 日本の財政状況を根本的に改革するためには、次の二つが不可欠だ。
 第一、社会保障制度の抜本的見直し。年金支給年齢を75歳に引き上げる程度の大規模な改革が必要だ。
 第二、税制改革。消費税のようなフローに対する課税では対応できない。資産を課税ベースとする課税を検討することだ。

【参考】野口悠紀雄「5%の消費増税では焼け石に水 ~「超」整理日記No.547~」(「週刊ダイヤモンド」2011年2月5日号)
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創作「伯耆抄」 ~「語られる言葉の河へ」開設1周年~

2011年01月29日 | 詩歌

   國引の神代の岬かすみたる

   夕卯浪糸垂るる人も泡の中

   泡ひとつ吐いてしづまる山女かな

   頂上へ千歩残して夏の霧

   往くべきか止まるべきか青蜥蜴

   山椒魚明日歩き出すかもしれぬ

   大群衆おまはりさんと花火待つ

   銅鑼の音に船うごきだす祭かな

   ベルイマン逝けり孤島の夜の秋

   田より煙まつすぐ伸びて雁の空

   干柿や農家おほかた深庇

   日当たりのよろしき客間秋簾

   釣天狗したがふ小天狗南洲忌

   それぞれにちがふ風吹きねこじやらし

   売られゆく牛の遠目よ秋旱

   冬の坂みな行くあてのあるごとく

   家一つ更地となりぬ寒昴

   神留守や鋭角にさす注射針

   異国めく村に入りけり霧襖

   熱に臥す闇しんかんと雪女郎

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【読書余滴】玉村豊男の、東京の隠れ家 ~都市の中の自由とその代償~

2011年01月28日 | ●玉村豊男
 玉村豊男は、大学を卒業してしばらくの間ツアーコンダクターを勤めたことがある。この時の体験から、みんなの手伝いをして少しでも楽しい時間を過ごしてもらおうとするのがツアコンの精神だ、という。
 そして、ツアコン精神で文章を書いている、ともいう。「ゼロから物語を創造する小説家ではなく、原資料に当たって研究する学者でもなく、自分の体験したこと考えたことを土台にさまざまの情報をつけ加えて、読者にわかりやすく解説する雑文ライターがぼくの仕事だ。読んだ人はそれでいくらか知識が増えるか、新しいモノの見方を知るか、あるいはそのどちらの役に立たなくてもとにかく読んでいるうちは楽しい、エンターテインメント」
 そういう文章を目指している、と。

 玉村は、1945年生まれ。1983年に東京から軽井沢に引っ越した。
 しかし、物書きとして、しばしば東京に出かけねばならない。今なら新幹線で1時間余り、往復1万円ちょっと。一杯やって真夜中近くになっても十分日帰りできるのだが、玉村は1ヵ月に5、6泊、ホテルを利用した。
 ホテルの利点は、次の三点が重要だ、と玉村はいう。
 (1)調度が快適で、とくにバスルームが広く心地よい。自分で掃除する必要もない。
 (2)火の元だの戸締まりだのを気にする必要がない。管理責任がない。
 (3)フロントをはじめとするサービス機能を利用して、事務所と同じように使うことができる。
 ホテル内レストランがあるが、高価だ。ルームサービスもあるが、自分でコーヒーを入れる設備があると、そのほうが便利だ。
 かといって、街に出ていこうとすると、案外これがたいへんなのだ。大型のシティーホテルはどこでも周囲の都市機能から隔離されて存在するのがふつうだからだ(1986年の話である)。ホテルの玄関先からタクシーに乗り、あちこち出かけては、またホテルに戻る生活を続けているうちに、“ホテルという街”で暮らしている気分になった。東京という都市と物理的かつ心理的にもう少し密度の濃い接触をもちたい・・・・。
 ということで、玉村は自前の部屋をもつ決意をした。

 土地の選択、物件めぐりといった細かい話は本書に委ねる。
 保証人を要求されて奇怪な思いをするのだが、マンションの管理会社の担当者がかなりの老婆で不得要領、契約書の保証人の欄に管理人の名前を書いて捺印したから、結局保証人の手配はしなくてすんだ、といった奇妙な話も省く。
 とにかく、赤坂に7.5坪のワンルームを見つけ、電話の後に“三種の神器”をそろえた。浄水器、空気清浄機、太陽灯である。計6万数千円で、「限りなく自然に近い水と空気と光」を都会の狭いマンションの部屋に導入したわけだ。
 ところで玉村は、この「隠れ家」を出版社にも知友にも、細君を除いて誰にも知らせなかった。玉村は「人と実際に会って原稿を渡したり打ち合わせをしたりするのは非常に煩わしく、時間も無駄になるため大嫌い」な人なのであった。仕事も私用もすべて軽井沢の自宅に電話かファックスで伝えてもらい、その内容を玉村が細君に電話をして確認し、必要がある場合はその相手に玉村から連絡をとる。あまり連絡をとりたくない相手の場合には、うまく連絡がとれなかったことにして済ませる(繰り返しになるが、1986年の話である。今ならメールで似たような対応が可能だろう)。
 かくて、赤坂プリンスホテルで朝食(11時までブレック・ファースト・タイムなのだ)。喫茶店で原稿を書き、午後遅くサウナに入る。汗を流した後は寝椅子で本を読む。韓国料理屋で夕食をとり、帰途デザート用の水ようかんを和菓子屋で買って、部屋でお茶をいれて飲む。夜は遅くまで音楽を聴く。ボリュームを上げても、隣は事務所だから誰もいない。 

 こんな生活も悪くない、と玉村は感想をもらすのだ。「ホテルの部屋には泊まらないが、ホテルの施設とサービスは利用する。/それと同じように、都市に住む人々と深い契りは結ばないが、都市の機能だけは十二分に利用する。そんなことが許されるのだろうか。/もちろんだ。/そもそも、都市というものは、その機能を利用されるためにだけ存在するのではないのか?」
 グランドプリンスホテル赤坂が2011年3月31日に営業終了するのは、玉村のような客が多かったから・・・・か、どうかは、定かではない。
 参加せずに利用する、その代償は何か。
 考えてもよくわからないが、「ひとつだけわかることは、この音楽の音が外に聞こえないのと同じように、この部屋でいくら大声で叫ぼうとも誰も助けには来てくれない、ということだ。そのことだけはたしかだ。しかし、そのことも、誰ともかかわりがなくて孤独だとか淋しいというのではなく、たった一人で誰にも知られずに死んでいく自由があるのだ、と考えれば、代償というよりは特権と考えられないこともない」
 玉村、まだ40代に入ってまもない頃の生活と意見である。

 アルベール・カミュといえば一世を風靡し、ノーベル賞を受賞した小説家だが、その師ジャン・グルニエは哲学者にして作家だ。玉村は、Jean Grenierの“Les Iles”を学生時代から愛読してきたと、その一章を引く。
 「見知らぬ町における秘密の生活についての私の夢にもどろう。私は自分が何者であるかをありのままに語ることはないだろう。そればかりか、異邦の人に口をきかなくてはならないときは、むしろ実際よりももっとつまらない人間であるかのように自分を語るだろう。(中略)パリは、そういう見地からすれば、非常に大きな都市のすべてと同様に貴重な町であり、何かを隠す必要のある人は、そのためにこの町を好むのである。彼らはそこで二重の生活、三重の生活といったものを送ることができる。そればかりか、何ひとつ隠す必要がなくてもただ隠れて暮らすこともできる。アパルトマンの管理人かホテルのフロント係以外とはかかわりを持たずに、あなたがまったく知らないパリのある区域で1ヵ月暮らすことができる。ただし、そうした生活を守りぬくためには、デカルトのように一日に二度は管理人かホテルの使用人とやむなく話を交えることが絶対に必要である。彼らの軽率で危険なおしゃべりに先手を打つために、こちらから先に打ち明け話をしに行くことさえ必要なのである。そしてその打ち明け話は、こちらが秘密の生活をしたいと願えばこそそれだけ腹蔵のない、それだけ深い打ち明け話でなくてはならないだろう。もちろん、そんな打ち明け話の範囲は、隠すべき当の生活とはまったく無関係な領域に限られることはいうまでもないが」

【参考】玉村豊男『雑文王 玉村飯店』(文春文庫、1993)
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書評:『諸國畸人傳』

2011年01月27日 | 歴史
 『諸國畸人傳』は、江戸時代の畸人10名の列伝である。
 冒頭におかれるのは小林如泥。如泥は濁らずに、ジョテイと清んで発音する。西の左甚五郎とも呼ばれる名工である。1753年(宝暦3年)生、1813年(文化10年)没。不味公松平治郷治下の松江城下に居住し、月照寺不昧公廊門の葡萄の透かし彫りほか、数々の逸話と作品とを残した。
 本書には、その逸話や作品の幾つかが紹介され、あわせて著者の所感が披露される。紹介を要約すれば、石川淳の仕事は並の郷土史家の作業と異ならなくなる。本書を並の郷土史と区別するのは、語り口である。

 たとえば、松江の町に古書店が絶無に近い、と指摘して続ける。
 「ここで松江藩の學問について語るにはおよばないが、不味流はどうも後世に古本はのこさなかつたやうである。その代わりに、巷の茶と庭との仕掛けの中から、如泥をとり出してみせるといふ手妻をのこした」
 松平治郷の文化政策は、文献を残さず、喫茶の習慣と工芸品を残した。
 つまるところ、そういうことだが、「巷の茶と庭との仕掛けの中から、如泥をとり出してみせる」と書くと、一介の工匠が後光を帯びてくる。読者を翻弄する言葉の魔術である。

 だが、感嘆するのはまだはやい。
 宍道湖は、むかしも今も宍道湖である。落日は、むかしも今も落日である。如泥が住み暮らした大工町、いまの灘町にちかい島根県立美術館付近で湖畔に臨めば、如泥がみた光景とほぼ同じ光景を21世紀の私たちもまのあたりにすることができる。美しい・・・・。なんぴともが同じ印象を抱くだろう。だが、ひとたび石川淳が筆をとると、美しい、ではすまない。
 「湖畔の、このあたりに立つて、宍道湖に於て見るべきものはただ一つしか無い。荘麗なる落日のけしきである。そして、これのみが決して見のがすことのできない宍道湖の自然である。雲はあかあかと燃え、日輪は大きく隅もなくかがやき、太いするどい光の束をはなつて、やがて薄墨をながしかける空のかなたに、烈火を吹きあげ、炎のままに水に沈んで行く。おどろくべき太陽のエネルギーである。それが水に沈むまでの時間を、ひとは立ちながらに堪へなくてはならない」

 神業とでもいうしかない言葉の喚起力である。烈火を吹きあげるのは、ひとり日輪のみではない。石川淳があやつる言葉も烈火を吹きあげる。しかも、遊び心はたっぷりと。遊刃余地あり、とはかくのごときか。ひとたびこの文章に酔えば、もはや本書を忘れて宍道湖の落日を見ることはできない。
 夕闇とともに工匠は家へ帰り、小林如泥の章は閉じる。
 さいわい、私たちの前には、まだ9人の畸人が待ち受けている。

□石川淳『諸國畸人傳』(石川淳選集第15巻所収、岩波書店、1981。中公文庫、2005)
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【読書余滴】ピエール・ブルデューの、科学論文の文章における建前と本音(対照表) ~科学の科学~

2011年01月26日 | 批評・思想

(1)【建前】従前から知られているように・・・・
   【本音】文献を調べる面倒を省いた。

(2)【建前】これらの問題に決定的な解答を与えることは不可能であったが・・・・
   【本音】実験はうまくいかなかった。しかしせめて論文一本は書けると考えた。

(3)【建前】サンプルのうち三つを選んで詳しく研究した・・・・
   【本音】他のサンプルの結果は無意味なので無視した。

(4)【建前】組み立て中に事故で損傷したので・・・・
   【本音】床に落ちた。

(5)【建前】理論的・実践的にきわめて重要な・・・・
   【本音】わたしにとって好都合な

(6)【建前】・・・・と示唆されている。/・・・・と思われる。
   【本音】わたしは・・・・と考える。

(7)【建前】・・・・と一般に認められている。
   【本音】他の連中もそう考えている。

   *

 以下、「この表にはたてまえの文章の偽善を暴露するユーモア効果があります。しかし、行為者が自分の実践についてもちうる経験の二重の真理にはある普遍性があります。ひとは自分のすることの真実(たとえば、ある法的決定を決定する理由あるいは原因の、程度の差はあるが、恣意的な性格、いずれにせよ偶然的な性格)を知っています。しかし、自分がすることについての公式の考え方と、あるいは自分が自分についてもっている考え方と規則にかなった関係にあるためには、その決定がいくつかの理由によって、それも可能なかぎり高邁な(そして合法的な)理由によって動機づけられているように見えなければなりません。たてまえの言説は偽善的です。しかし『シックなラディカリズム』への傾斜は行為者自身のうちに二つの真実が、多かれ少なかれ困難をともないながら、共存することを忘れさせてしまいます(この真理を学ぶのにわたくしはたいへんな苦労をしました。パラドクサルなことですが、わたくしはこの真理をカビリアの人々のおかげで学びました。それはおそらく、自分の集合的偽善よりは他者の集合的偽善を理解する方がやさしいからでしょう)。」云々と続く。

【参考】ピエール・ブルデュー(加藤晴久・訳)「しっかり守られた公然の秘密」(『科学の科学 -コレージュ・ド・フランス最終講義-』、藤原書店、2010)
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書評:『斧』

2011年01月25日 | ミステリー・SF
 「パルプ・ノワール」と文春文庫が銘打つシリーズの一冊。フィルム・ノワールが本になると、「パルプ・ノワール」になるらしい。
 本書は、犯人が最初から一人称で登場する点で倒叙ものミステリーに似ているが、古典的ミステリーには不可欠の「悪は滅び善は栄える」たぐいの道徳は本書にひとカケラもない。かと言って、ピカレスク・ロマンの系譜にも入らない。自律的なエネルギーに満ちている古典的な悪党と比べると、主人公バーク・デヴォアは、永六輔の「普通人名語録」的普通人である。

 バークは、大学卒業後陸軍に徴兵され、満期除隊後バスの運転手を2年間、パルプ会社の販売部長を4年間、生産ラインの主任を16年間勤めた。いま、失職してから1年に近い。家族に妻と大学生の娘、高校生の息子がいる。
 前職とほぼ同じ職種、同じ待遇を求めて職を探すのだが、求人件数に対して求職者が多すぎた。面接を受けては一顧もされぬ、という経験がたび重なる。 そこで、主人公は自分と同等の経歴、資格の持ち主を殺してまわることにした。競争相手がいなくなれば自分が採用される、というわけだ。

 おそるべき短絡的思考だが、著者はこの安直な論法で最後まで読者の興味を持続させるから才筆と言わねばならぬ。
 もとより小さな波乱も用意されている。わけはわからないけれども夫が変貌したのにおそれをなした妻は浮気するし、息子は貧しさゆえに犯罪に走る。バークは妻の慫慂によってカウンセリングを受けざるをえないし、警察と交渉しなくてはならない。職がないのに夫であり父親であることは実に辛い。

 しかし、これらは脇筋であって、主題はしっかりと堅持されている。
 主題は犯罪ではない。働きたいのに職のない状態、収入のない状態である。リストラ、賃金カットが世にはびこる昨今、雇われて働く者には身につまされる話だ。

 「貧乏人は貧窮のきわみにいたると何をすればよいかを知っている」とパール・バックは言った。かくて、『大地』の貧民たちは蜂起して金持の家を掠奪した。
 しかし、バークは徒党を組まないし、モッブ状況に巻きこまれることもない。
 斧をふるったラスコーリニコフは回心して大地に接吻したが、神が死んだ時代に棲息するバークは、大地に接吻することもない。

□ドナルド・E・ウェストレイク(木村二郎訳)『斧』(文春文庫、2001)
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【読書余滴】佐高信の、佐藤優という“危険な思想家”、勝間和代という無思想家

2011年01月24日 | 批評・思想
●佐藤優
 「週刊金曜日」の読者の中には、佐藤優を登場させることに疑義を唱える人もいる。佐高も、「読んではいけない」欄で、『国家の罠』をして、佐藤が守ったのは国益ではなく、省益ではないか、と指摘したことがある。

 佐藤は、省益と国益が一致する、との擬制において行動する官僚だった。それだけに国家の恐ろしさを知っている。
 たとえば、佐藤優『テロリズムの罠』によれば、国権派ながら死刑は基本的には廃止するべきだ、と佐藤は考える。死刑という剥き出しの暴力によって国民を抑えるような国家は弱い国家だ、と佐藤は思うからだ。欧州諸国が死刑を廃止したのは、国権の観点からして死刑によって国民を威嚇しない国家のほうが、国民の信頼を獲得し、結果として国家体制を強化する。
 “危険な思想家”の面目躍如ではないか。

 山田宗睦『危険な思想家』で、たしか名指しされた江藤淳は、思想はもともと危険なものであり、“安全な思想家”とはどういう存在だ、と開き直った。
 この江藤の反論には、真実が含まれている。

 佐藤も、国権派ならぬ人権派にとって“危険”な要素を含む思想家である。人権派のヤワな部分を鍛える貴重な存在である。
 佐高たち人権派は、佐高にとって残念なことに、小林よしのりの暴走を抑止する有効な手を打てていない。
 ところが、小林がいま一番苛立ち、恐れているのは佐藤である。佐藤は、あの手この手を使って小林を追いつめている。

 まさに博覧強記で、あらゆることに通じている佐藤だが、それゆえに知識過剰な人に弱い。
 「私がほとんど関心のない柄谷行人にイカれているらしく見えるのはその一面だろう」と、佐高は観察するのだ。 


●勝間和代
 どうしたら大前研一のようにものを考えられるか、先を読みとおせるのか、憧れ、秘密が知りたくてマッキンゼーに入社した、と勝間和代は書いた。
 根本的な構造や体質を変えようとせず、一時しのぎの解決策めいたものを出してごまかす“マッキンゼー病”は、勝間にも伝染している。

 『勝間和代の日本を変えよう』で、勝間はいう。「日本を変える」ときに「人々には基本的に悪意はない」ことを前提としたい」・・・・。
 「とくに、権力者やお金持ち、政治家や官僚を、マスコミはステレオタイプに悪人のように描きがちですが、私はそう思いません」
 そう、勝間は宣言して、次のように書く。「彼らが誤った行動をしたり、すべきことをすれば、正しい情報を知らなかったからだ」
 勝間がさまざまな情報を知らないから、こんなオメデタイことを言うのだ、としか佐高には思えない。

 たとえば、麻生太郎はどうか。悪人にも価しない人物だが、首相になってからの無知は犯罪だ。
 あるいは、旧大蔵官僚の、スキャンダルで失脚した中島義雄や田谷廣明。彼らがやってのけたことを承知の上で弁護した官僚たちは、「正しい情報を知らなかった」と言えるか。
 中学からずっと慶応だというお嬢さんの勝間は、もっと自分を限定して書いたり話したりした方がいい、と佐高は諭す。

 『日本を変えよう』に、雨宮処凛との対談が載っている。「私の身の回りには、だんなが就職に困っているとか、フリーターになったとかいう人がいなくて、雨宮さんのルポを読んでも、実感としてわからないところがあります。正直いうと」と勝間は告白する。そして、若年雇用の問題では、「やはりエスタブリッシュ側とフリーター側が対立構造のままだと話は進まないと思うんですよ。どうしたらもっと両者が会話できるような仕組みができるのか」と問いかけて、雨宮を絶句させている。会話・・・・。
 勝間は、次々とベストセラーを出し、カツマーと呼ぶファンにも囲まれているらしい。しかし、これでは政府の審議会委員として利用されるだけ利用されるだろう。

 欠けているのは情報ではなく、思想である。そして、思想が欠けているのみならず、恥の感覚も欠けている。さもなくば、「インディペンダントな生き方」の条件として、次のようなことは書けない。
 年収600万円以上を稼ぎ、いいパートナーがいて、歳をとるほど、すてきになる。自分がつきあっている男がいい男なら、友人にのろけられる・・・・。
 こうマジメに書く勝間は「アホとしか言いようがない」と、佐高は斬って捨てる。

【参考】佐高信「佐藤優という思想」、「勝間和代ら」(『小沢一郎の功罪』、毎日新聞社、2010)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、日本経済再生の方向づけ ~外資・外国人労働力・TPP・法人税減税~

2011年01月23日 | ●野口悠紀雄
(1)米国1990年代の経済再生
 1980年代末、米国経済再生の提言書『メイド・イン・アメリカ』は、シリコンバレーに勃興しつつあったベンチャーキャピタルに否定的な評価を下した。ベンチャーキャピタルが既存の産業体制を破壊するから、という理由だ。
 ベンチャーキャピタルが創業資金を提供するので、モトローラなど有力企業の優秀なエンジニアが退職し、創業してしまう。その結果、既存企業の技術開発力が低下する。他方、日本のエレクトロニクスメーカーは終身雇用制をとっているから、優秀なエンジニアは企業に残って技術開発に取り組む。その結果、米国企業は日本企業に負けてしまう。・・・・という論理だ。
 同書の筋書き、既存産業の維持改善による経済復活は実現しなかった。
 その代わりに新しい企業が誕生し、それがITという新しい産業をつくった。資金面では、ベンチャーキャピタルが支援した。人材や基礎研究面では、『メイド・イン・アメリカ』を編集したMITではなく、「西海岸の田舎大学」スタンフォード大学だった。

(2)日本2011年の経済
 現在日本で考えられている日本再生は、同書と同じ発想に立っている。
 しかし、システムの機能不全がある限度を超すと、「改善」では復活できない。旧システムの核心部分を破壊しないと、再生できない。 
 日本の経済システムは、明らかに機能不全に陥っている。秩序を維持しつつ改善するのは不可能な段階に達している。だから、核心部分をいったん破壊しなければならない。古いものが残っていると、新しいものが誕生しにくいからだ。

(3)外資の導入
 資本と人材を海外から導入することによって、旧システムの核心を破壊するのだ。海外のものは異質だから、破壊者になりうる。
 これは、外国に支配されることではない。それらに場を与えることなのだ。
 成長の果実は、場の提供者にも落ちる。地代、税、保険料などの直接的収入が生じる。雇用、販売力増加、設備投資などの面で波及効果が期待できる。
 にもかかわらず、経営者はもとより従業員や株主も、ひたすら外資を拒否している。拒否の理由は、異質なものを排除したい、という感情的なものだ。
 こうしたクセノフォビア(外国人恐怖症)的国民感情を変える必要がある。そのために、マスコミの責任は大きい。
 外資にとってメリットが高いうちに受け入れなければ、手遅れになる。 

(4)外国人労働力の導入
 高齢化進行、労働年齢世代減少の今後の日本において、外国労働力の活用は不可欠だ。
 幾つかの企業が、工場単純労働者や現地採用以外に、外国人に門戸を開きはじめた。この数年、幹部候補生として中国人など外国人採用枠を拡大し始めた。パナソニックは、採用に当たって日本人より外国人に大きなウェイトをかける方針に転換した。従業員の多様化が目的である。
 この傾向が進めば、日本企業の閉鎖性に穴が開き、内向きの企業文化も変わるかもしれない。ひいては、日本経済の活性化につながるだろう。
 ただし、過大な期待はできない。外国人に門戸を開き始めた企業は、全体からみて一部にすぎないし、新卒の若い人だけのことなので従業員の一部が変わるだけだ。日本企業が有能な外国人を独占できるわけでもない。採用しても定着せず、条件のよい別の企業に転職する可能性も高い。

(5)現状を保護しない
 旧勢力を破壊するために必要なのは、彼らを保護しないことだ。雇用調整金、エコポイントなどは現状維持のための政策であることが明白だが、一見そうは見えなくとも実は現状維持のためであるものも多い。
 TPP(環太平洋経済連携協定)は、その代表である。貿易自由化のためだと一般には理解されているが、実態は経済ブロック化計画である。TPPによって利益を受けるのは、従来型の輸出産業だ。新しい産業が生まれるわけではない。
 法人税減税もそうだ。既存企業の負担を軽減するだけだ。新しく誕生する企業は通常すぐには利益が出ないから、法人税減税のメリットはない。もし法人税減税を行うなら、かつての中国のように外資に対してだけ行うべきだ。
 企業の公的負担を軽減したいなら、社会保障制度を改革して、事業主負担を軽減するべきだ。事業主負担は、法人税と異なって利益のない企業にもかかるから、誕生直後の企業には重荷だ。
 官僚の天下り確保の方策には反対するべきだ。経済官庁が外資に抵抗するかなり大きな理由がここにある。また、地方公共団体によるリサーチパーク構想なども、天下り先確保のためであることが多い。

(6)ジャーナリズムの役割
 政治が現状維持に傾くバイアスを持つのは、やむをえない。現在支配的な産業や企業は政治に強い圧力を加えられる。半面、いまだ存在しない産業は政治的発言力をもたない。
 このバイアスを打破するのは、世論でしかありえない。ここでもジャーナリズムの果たすべき役割が大きい。

【参考】野口悠紀雄「旧秩序の破壊者が新しい世界を作る ~ニッポンの選択第48回~」(「週刊東洋経済」2011年1月22日号)
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【大岡昇平ノート】『成城だよりⅡ』にみる21年後の改稿、批判の徹底の理由 ~『蒼き狼』論争~

2011年01月22日 | ●大岡昇平
 筆者はかつて『蒼き狼』について、作者井上靖氏と論争せしが、モンゴル人はなおチンギス・ハンを民族の誇りとしあるも、井上氏発明の「狼」精神により、つまり家畜の敵たる狼の真似して征服欲を充たせるとの説に不満との記事、最近新聞の小欄にて読みしことあり。その民族の誇りを踏みにじって、モンゴルへ「蒼き狼」のロケに行ったテレビ局の無神経度、日中戦争以来、不変の発展途上国蔑視の現れなり。
 『蒼き狼』に関する拙文、論争なれば、偏執的直し癖ある小生も、その後いじらず。ところが井上氏はいじる。例えば小生井上氏の「頭を害う山犬」はナンセンスにて、原文は「頭口」つまり家畜のことなりと書きしが、井上氏は翌39年版「新潮文庫」より「頭口を害う山犬」(187頁)と意味不明文に直しあり、拙文は無効になる。ちっとも知らなかったが、これはフェアではないだろう。文庫には60の注をつけながら、この「頭口」なる難字には知らぬ顔をしている。
 文庫には解説として35年6月の「別冊文藝春秋」に書いた「『蒼き狼』の周囲-成吉思汗を書く苦心あれこれ」が収録されているだけだが、岩波版「井上靖歴史小説集」第4巻(1981年9月)には、小生との論争文がかかげられている。論争のテキスト三つあるが、井上氏が反論され、私が再反論した。(「成吉思汗の秘密」「群像」昭和36年3月号)。氏はそれに答えられなかった。ところで岩波版には「自作を擁護する」のに都合のいい第二論文だけ載せている。例えば、「大岡氏は『元朝秘史』というものに対して、何か思い違いがあったのではないか、と思う」と誹謗している。つまり史実を記したものと思っている、というのだが、私はすでに第一論文で「古事記と同じ目的で成立した王家の歴史」と相対化しているのである。それは第三論文でも繰り返したことなのに、ぬけぬけと論破されたテキストを収録しているアン・フェアな態度を非難しておく。自分が答えられなかった論争のテキストを、本文の末尾に収録する無神経には呆れるほかはない。これは現在最も新しい版なので特に記しておく。
 氏は「元朝秘史」の「あゝ、四頭の狗が行く」を「私の表現として借りて」!!「四頭の狼が行く」とした。私は第三論文「成吉思汗の秘密」でモンゴル人は家畜の敵である狼よりも、家畜を守る狗になりたいだろう、と書いた。氏は実は那珂通世博士の「成吉思汗実録」訳文の古拙さをそのまま写した。これは当今はやりの引用の織物として一応許されるかも知れない。しかし、肝心の「狗」を「狼」にかえてるのはあまりひどいではないか、と私はいったのである。私の真意は借用ではなく、「剽窃」ではないか、というところにあったのだが、当時、私は井上氏をそこまで傷つけるに忍びなかった。(私は論争は好きだが、相手の目玉に指を突っ込むようなことはやらない。お互いに文学という苦しい作業をやっているのだから)。
 しかし論点を勝手に書き改めて、私の論争文を無効にされては、やむを得ない。私もこの次からは自分の文章も改めて、当時指摘することをさし控えた他の欠陥も暴き出すつもりである。「頭を害う山犬」を「頭口を害う山犬」に改めることによって、氏が陥った自己矛盾を指摘するつもりである。

   *

 以上のように大岡昇平は、『成城だよりⅡ』1982年5月14日に書いた。
 そして、言葉どおり実行した。同年9月24日刊の『大岡昇平集』第14巻は『蒼き狼』論を含むが、巻末の「作者の言葉」にいわく・・・・
 「その次に加筆の多いのは、井上靖『蒼き狼』に関する1961年の二つの論文です。論争文のテクストなので、やたらとテクストを加筆訂正する癖がある私も、翌62年刊の『常識的文学論』以来いじくっていません。ところが井上氏が論争点の一つ『頭を害う山犬』を『頭口を害う山犬』と訂正したので、私の文章は無効になっています。当時言及を控えた二、三の点と共に、大幅に加筆しました」

【参考】大岡昇平『成城だよりⅡ』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
    大岡昇平「作者の言葉」(『大岡昇平集』第14巻、岩波書店、1982)
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【大岡昇平ノート】『成城だより』にみる判官びいきまたは正義感の事 ~大西巨人vs.渡部昇一の論争~

2011年01月21日 | ●大岡昇平
 『成城だより』1980年10月15日に大岡昇平は次のように書く。この日記は、大西巨人の痛烈きわまる反論「破廉恥漢渡部昇一の面皮を剥ぐ」(『大西巨人文選3 錯節 1977-1985』、みすず書房、1996)の前に書かれた。
 【注】は、引用者による。

   *

 順天堂超音波検査予定日。朝日新聞朝刊社会面に大西巨人対渡部昇一氏の論争の記事あり。新聞持って出て、タクシー内で読む。10月2日付「週刊文春」の渡部氏のコラム「古語俗解」に載った時から、気になっていた問題だった。渡部氏は先月中旬、「週刊新潮」に載った無署名記事に基づいているのだが、『神聖喜劇』を完成するまで前借り生活していた大西氏が、次男野人君が血友病で入院手術中、生活保護【注1】を受け、千五百万円の医療補助費を受けたことに関してである。大西氏の長男赤人氏が同病であることは周知のことである。渡部氏は、遺伝(?)性とわかったら、第二子をあきらめるのが、多くの人が取っている道である。「<未然に>」【注2】(傍点渡部氏)避けるのが理性的処置であり、社会に対する「神聖な義務」である、と大西氏を難じているのだが、これは第二子を儲けるに当たって、大西氏が医師に相談したことが、週刊新潮に掲載されているのを、故意に無視した、不当な攻撃である。大西氏は激怒して「社会評論」(思想運動編集)に反論を書くという。
 ヒトラーが戦争中、精神病者、ユダヤ人、ジプシーなど劣等人種を断種した。これは一般に彼の残虐行為の中に数えられるものであるが、渡部氏は西独へ遊学中会った西ドイツの医学生から、この非人道的犯罪の功績の面を考えているドイツ人の数は、必ずしも少なくないだろうと想定されることを聞いた、という。医学生からの見聞など根拠にするのは学者として不見識であろう。氏はまたノーベル賞受賞者の名【注3】をあげているが、ノーベル賞は最近値打が落ちている。1912年頃なら第一次世界大戦直前であるから、好戦的論文でも賞貰える。
 渡部氏はベストセラー『知的生活の方法』によって、データカード式整理法なんて、素人にはどうせ三日坊主になる作業をすすめたタレント学者であるが、故意に歪曲したデータに基づく人身攻撃となるとおだやかでない。
 大西氏の激怒は当然であり、多くの身障者の反撥を招くであろう。みつ口の児が生まれたら、あと子供を生むのをやめるのが「常識」であり、「神聖な義務」であろうか。筆者は不安の裡に、次に正常児を生んだ例を聞いている。精神病者、精神病質者に至っては、その範囲は予想できないほど広く、現在の医療はヒトラーをなつかしんでなぞいないのである。
 第一、すでに一人の難病を持った長男を持った大西氏が、自分たちがいなくなった後に、長男を助けるべき弟妹を儲けようと思うのは、健全な子供を生める確率が高いならば、親として当然の人情ではないか。それを無視して気の利いたらしいことをいっていればいいと思うラウドスピーカー精神こそ、異常であろう。大西氏はなんでも徹底的にやる人であるから、この際デモ学者を退治しておいてくれるのが、望ましい。朝日の記事には、大西氏が予め医者に相談したことが、抜けているから、為念。ただし遺伝学者のコメントを載せて、現在病気を起こす遺伝子は二千あって、持っていない人はいないとある。渡部氏は他人のことをいう暇に、自分の遺伝子を勘定してみたらいいだろう。

 【注1】大西巨人によれば、「血友病者など難病者にたいする医療保障(代謝異常者等医療補助)」であり、生活保護ではない。埼玉県では指定疾患医療給付制度である(大西前掲論文、p.154)。現在の医療費助成制度でいえば、小児慢性特定疾患治療研究事業や先天性血液凝固因子障害等治療研究事業がこれに当たる。
 【注2】<>は、引用者が挿入した。<>内の3文字は原文では傍点であることを示す。
 【注3】大西前掲論文によれば、アレクシス・カレル。

【参考】大岡昇平『成城だより』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
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【大岡昇平ノート】『成城だより』にみる啖呵の切り方 ~「堺事件」論争異聞~

2011年01月20日 | ●大岡昇平
 『成城だより』1980年6月11日に大岡昇平は次のように書く。

   *

 「国文学 解釈と鑑賞」森鴎外特集し、菊池昌典、平岡敏夫対談して、拙論「森鴎外における切盛と捏造」を問題にしている。菊池氏は73年来「展望」に「歴史小説とは何か」を連載した。「切盛と捏造」(75年「世界」6、7月)を、その中の氏の「堺事件」評価に対する反論と「主観的に理解しています」とあれど、これはとんでもない主観的うぬぼれなり。
 文士が歴史家に期待しているのは、史実との関連にて、歴史家の抱く文学についての概念は、ひどく古風にて、その鑑賞については、失礼ながら、特に期待せず。菊池氏が小説としてどう評価されようと実は問題にしていない。
 私は単行本に入れてないが「切盛と捏造」の前に「堺事件疑異」という短文を「オール讀物」75年3月号(1月販売)に書いている。菊池氏の名前を出したことはないし、主旨は「切盛と捏造」と同じで、末尾の朝廷御沙汰の土佐藩扱いへのすり替えについてである。
 74年8月「月刊エコノミスト」10月号のために、私は氏と対談している。蝶々喃々と語り合った相手に、半年後にこっそり反論するほど私は悪趣味ではない。
 (中略)
 国文学界の反論は論外である。似而非考証や言いくるめの連続であって、私は度々反論を各誌より頼まれているが、断っている。反論すれば、鴎外に触れねばならず、筆者は鴎外の子孫と親交があるのでしない、とこれも書いた。しかし、こう同じことが何度も出て来てはたまらぬ。二、三、ここで対談者平岡敏夫氏の「要約した三点」についてだけ簡単に答えておく。
 第一、「もとの資料が、たとえば、三ヶ条にしぼって朝廷を削除したというんですが、鴎外が見ている資料が、もともと三点にしぼってあったとか」と平岡氏はいう。
 これは尾形仂『鴎外の歴史小説』所収「“堺事件”もう一つの構図」にある次の一条である。「大岡氏は、鴎外がフランス公使の五ヶ条の請求の内、皇族陳謝を含む二ヶ条を省き、土佐侯陳謝を冒頭に据えているのを、もう一つの最大の“切盛と捏造”に数えているが、これは『始末』(鴎外の見た資料)に、<時勢上止むを得ず彼れが要求を容れ、(中略)>云々と述べているのを、そのまま襲ったまでで、<史料>との関係に関する限り、まったく問題にならない」
 とあるのを踏まえている。これを読んだ人は原資料には、三ヶ条しかあげてない、と思うだろう。ところが原資料にちゃんと五ヶ条があり、「まったく問題にならない」は、尾形氏のレトリックである。私の論旨にも不備があったが、文士はこういう場合「まったく」とはいわない。こんなレトリックを使う連中を相手にしたくない。
 ボス吉田精一は「森鴎外は体制イデオローグか」(「本の本」75年12月)で、鴎外と賀古の世話役だった「常磐会」が、私のいうように「山県有朋の歌道善導兼時局懇談会」であったことを示す文献は一つもないとのたまう。ところが鴎外日記明治44年10月15日に「常磐会に山県公の第に行く。清国へ兵を出すことを聞く。」とある。国文学者はどうか知らないが、文士はこれを文献と見なすのである。 

【参考】大岡昇平『成城だより』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
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【読書余滴】鈴木亘の、「強い社会保障」の不都合な真実

2011年01月19日 | 医療・保健・福祉・介護
(1)「強い社会保障」の柱
 菅直人首相の「強い社会保障」の具体的内容はまだ明らかではないが、その骨子は次の2点にあるらしい。なお、ここでいう「強い社会保障」は「成長戦略」だから、短期的な景気対策とは峻別されるべきである。
 (ア)増税による財源確保の上で、社会保障費を拡大し、医療・介護・保育分野で雇用創出する。
 (イ)社会保障費拡大によって社会保障制度に対する安心感を高め、国民、特に高齢者が過剰に蓄えている貯蓄を取り崩させ、消費を拡大させる。

(2)増税による雇用創出論批判
 (1)の(ア)は、税収を増やすことで財源を確保し、政府が医療・介護・保育産業に公費を増やせば、これらの産業が成長し、それが全体のGDPを牽引して高い経済成長が見こめる・・・・というものだ。
 しかし、一国全体の成長を考えるには、さまざまな産業も含めた全体の産業がどうなるか、という「マクロ」的視点が必要だ。
 たしかに、税金が増えれば医療・介護・保育産業は成長する。だが、日本全体で使用可能な労働力や資本の総量は変わらないから、医療・介護・保育産業の規模が大きくなった分、「その他の産業」から労働力や資本が移動させられる。GDPの大きさは変わらない。要するに、医療・介護・保育産業が成長しても、その効果は相殺される。
 現実には、むしろGDPが小さくなる可能性が高い。
 第一、医師・看護師・介護福祉士・保育士などの専門人材を増加させるには、かなりの期間と労力を要する。これらの専門人材の需要を無理に拡大させると、既存の専門人材を奪いあうことになり、彼らの賃金が上昇するだけで終わりかねない。この場合、医療・介護・保育産業の実質的な生産規模は拡大しない。このとき、増税によって「その他の産業」は縮小しているから、一国全体の実質GDPは、むしろ減少する。
 第二、医療・介護・保育の労働集約型産業と、自動車・電気機械・情報通信などを含む「その他の産業」と、どちらが技術革新を起こしやすいかというと、後者であることはほぼ自明だ。医療・介護・保育産業の割合を高めるということは、技術革新による今後の成長のエンジンの割合を少なくすることになる。この面からも、「強い社会保障」は、GDP成長率を低めてしまう可能性が高い。

(3)貯蓄取り崩しによる消費増論批判
 (1)の(イ)でいう「過剰な貯蓄」をみると、日本の家計金融資産は、現在約1,450兆円だ。一部でも実際に取り崩しが起きれば、消費拡大のインパクトは相当大きい。
 しかし、1,450兆円は「タンス預金」されているわけではない。銀行預金、株や国債の購入によって資金が循環し、日本経済の各分野で活用されている。家計貯蓄のかなりの割合は、銀行や生命保険会社などが国債を買い支える原資となっている。企業や個人に貸し出される資金となり、企業の設備投資や個人の住宅投資にまわっている。
 仮に家計貯蓄を取り崩して消費が拡大した場合、国債の買い支え・設備投資・住宅投資にまわる資金量が減少し、金利が上昇する。
 金利が減少すれば、企業の設備投資や個人の住宅投資が減少する。国債の利払い費が増加し、政府の支出が増えて財政が硬直化する。
 こうした副作用をすべて勘案すれば、貯蓄取り崩しによる消費増が起きてもGDP成長率が高まるとは限らない。しかも、家計貯蓄や国債というストックの変化は、人々の将来への期待に敏感に反応し、著しく変動する。副作用のほうが大きく生じて、かえって成長率が鈍化する可能性さえある。
 そして、家計貯蓄はストックの概念だから、使い切ってしまえばそれで終わりだ。過剰に蓄えている貯蓄が数十兆円あっても、それを数年で使い切ってしまえば、その期間だけ消費が増えるにすぎず、中長期的に消費が増えるわけではない。「強い社会保障」によって消費拡大を図る政策は、持続可能な戦略ではない。

(4)「強い財政」は実現困難
 (2)と(3)で示すように、仮に「強い財政」があっても「強い社会保障」の政策効果は疑わしい。
 このうえ、「強い財政」は幻となった。10年の参議院選挙で民主党が惨敗し、消費税率引き上げが事実上不可能になった。消費税率引き上げがなければ「強い財政」は実現しがたい。

   *

 神野直彦の「強い社会保障」肯定論とは逆の否定論として、鈴木亘の議論を上記のとおり要約してみた。
 神野の緻密な議論に比べると、鈴木の議論は粗っぽい。
 企業の設備投資にまわる資金量が減少する可能性を指摘しているが、近年、企業が設備投資をとみに減少させ、生産拠点をつぎつぎに海外へ移転させている現状を踏まえた上の議論であるか、疑わしい。
 神野は、この現状に対する対策をたてている。産業構造転換をはっきり打ちだしている。

【参考】鈴木亘「『社会保障』に異議あり--GDPは縮小し財政は硬直化するだけだ」(文藝春秋編『日本の論点2011』、文藝春秋、2011)
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【読書余滴】神野直彦の、「強い社会保障」が「強い経済」をつくる

2011年01月18日 | 医療・保健・福祉・介護
(1)「大きな政府」と「小さな政府」
 ただ今、歴史の転換期にある。「大きな政府」論者と「小さな政府」論者がせめぎ合いながら、「危機の時代」が演出されている。
 「大きな政府」と「小さな政府」という区分は、政府機能の大きさをメルクマール(指標)とする。財政規模や租税負担という量的基準には依拠しない。
 「小さな政府」とは、政府が防衛や治安維持など強制力による秩序維持機能しか果たさない政府をいう。
 「大きな政府」とは、強制力による秩序維持機能のみならず、国民の生活保障機能を政府機能と認めた政府である。文化または福祉目的も担う福祉国家である(アドルフ・ワグナー)。
 第二次世界大戦後に先進諸国に定着した「大きな政府」=福祉国家は、市場の外側で現金を給付して国民の生活を保障する「所得再分配国家」だ。その所得再分配は、戦後、重化学工業化に基づく経済成長をも実現した。
 ところが、石油ショック(73年)後、重化学工業化が行きづまり、経済成長が停滞し始めると、新自由主義が「大きな政府」を批判し始めた。もっとも、すべての先進諸国がこぞって「小さな政府」をめざしたわけではない。
 欧州諸国は、福祉国家のメリットを生かしながら、福祉や雇用を重視する新しい状況に対応する欧州社会経済モデルを求めていく。スウェーデンでは、現在保守政権が成立しているが、保守政党でも「福祉国家の再創造」を掲げている。

(2)経済成長と社会保障
 社会保障の大小は、経済成長と無関係だ。「小さな政府」でも、米国は経済成長しているが、日本は停滞している。「大きな政府」でも、スウェーデンは経済成長に成功しているが、ドイツは失敗している。
 「小さな政府」にすると、格差と貧困が溢れ出てしまう。米国にも日本にも格差と貧困が溢れ出ている。
 経済成長を実現しても、格差や貧困が溢れ出てしまえば、「経済発展」をしているとはいえない。しかも、格差や貧困が溢れると、社会に亀裂が走り、犯罪や麻薬などの社会的逸脱行動が蔓延する。そうなると、強制力による秩序維持機能を強化することになり、「小さな政府」であっても、財政支出や租税負担を大きくせざるをえなくなる。
 それどころではない。格差と貧困は、人間の信頼関係を崩す。孤独な不安社会に陥る。ひいては、人間そのものの機能不全、つまり精神的にも肉体的にも健康問題を悪化させる。
 だから、経済成長をめざすにしても、社会保障を強化していくしかない。
 スウェーデンが経済成長し、ドイツが失敗している理由は、産業構造の転換に成功しているか否かによる。重化学工業を基軸とした工業社会から、サービス産業や知識集約産業というソフト産業を基軸とする知識社会に転換できているか否かに起因する。
 ソフト産業に産業構造を転換できた経済が、「強い経済」である。
 産業構造転換のためには、新しい産業創造へと安心してチャレンジする条件として、「強い社会保障」が必要となる。

(3)現金給付からサービス給付へ
 社会保障には、現金給付とサービス給付とがある。
 重化学工業を基盤とした福祉国家では、現金給付が中心となる。重化学工業では、同質の筋肉労働を大量に必要とするため、男性が主として労働市場に進出するからだ。女性は、家庭内で無償労働(アンペイドワーク)でさまざまな家事に従事する。
 ところが、ソフト産業が基調になると、大量に女性が労働市場に転換する。そうなると、女性が無償労働で担ってきた育児や養老というサービスを政府が提供しないと、産業構造の転換が進まない。さらに、格差や貧困が生じる。
 なぜなら、(ア)無償労働に従事しながら労働市場に参加する者と、(イ)無償労働から解放されて労働市場に参加する者とに分断されるからだ。(ア)パートと(イ)フルタイムの労働市場、あるいは(ア)非正規と(イ)正規に二極化されるからだ。
 社会保障は、現金給付からサービス(現物)給付にシフトしなければならない。
 サービス給付は、単なる生活保障の役割を果たすだけではなく、知識社会の労働市場の「参加保障」の役割も担う。
 しかも、サービス給付は、「活動保障」でも要求される。旧来型産業からの失業者を再訓練・再教育することによって、新たな労働市場が必要とする能力を身につけさせる積極的労働市場が必要になるからだ。むろん知識社会では、「誰でもいつでもどこでもただで」参加できるリカーレント(生涯)教育も必要不可欠である。

(4)強い社会保障、強い経済、強い財政
 生活保障を現金給付からサービス給付へとシフトさせ、しかも「参加保障」や「活動保障」と関連づけた「強い社会保障」が「強い経済」の前提条件となる。
 「強い社会保障」を実現するために、「強い財政」が必要となる。「強い社会保障」を支える租税制度の確立だ。
 現在の日本の租税負担率は、国際的にみても最低に近い。22.6%である。デンマークの69%に遠く及ばず、韓国の27.9%にも米国の26.4%にも及ばない。
 ところが、日本の中間層は、デンマークやスウェーデンの中間層以上に、自国の租税負担が高すぎると考えている。公共サービスが生活を支えているという実感が国民に存在しないからだ。
 してみると、「大きな政府」か「小さな政府」の選択ではなく、どのような「大きな政府」を実現するか、という選択肢しかない。それには、社会保障を再創造するヴィジョンを描いて、国民に選択を求める必要がある。
 この歴史的大転換期には、国民が一致協力して奮い立つヴィジョンを描いた改革が必要である。
 
 新自由主義の誤りは明らかだ。「努力する者が報われる競争社会」を築くために、国民に一致協力を求める・・・・この矛盾に気づいていない。競争するために協力など、するはずがない。

【参考】神野直彦「『強い社会保障』が『強い経済』をつくる。その実現のため『強い財政』が必要」(文藝春秋編『日本の論点2011』、文藝春秋、2011)
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【読書余滴】アマゾンが古本で大儲けできる理由

2011年01月17日 | ノンフィクション
 横田増生は、03年から04年にかけて約半年間、アマゾンジャパンの物流センターに「潜入」した。
 09年から10年にふたたび取材したときには、マーケットプレイスに「潜入」した。物流センターは、実名では「潜入」困難と思われたからである。

(1)最初の出品は赤字
 「幕張ノンフィクション堂」という屋号でマーケットプレイスに出品し、はじめ売価1円を付けてみた。顧客から売価プラス送料340円が支払われるので、送料の実費が160円なら悪くても収支トントンと予想したのだ。しかし、あてにしていたヤマト運輸のメール便(80~160円)は厚さ2センチ以内でないと受け付けてくれないのだった。ゆうメール(340円)で送るはめになった。しかも、当初予定していなかったバブルラップ(気泡緩衝材)付き封筒まで出品者が用意しなければならない。
 試しに1円の価格がついた本を発注してみたところ、いずれも厚さ2センチ以上だったが、ヤマト運輸のメール便で届いた。どういうカラクリになっているのか、今もって横田には謎である。

(2)アマゾンの手数料
 横田が説明をよく読みなおしたところ、アマゾンの手数料には3種類ある。

  (ア)売価の15%の手数料
  (イ)古本を1冊売る毎に「カテゴリー成約料」として80円
  (ウ)1冊ごとに「基本成約料」として100円
    ※月額4,900円の「プロマーチャント」に登録すれば免除される。 

(3)出品者の収支
 本を例にとると、出品者の収入は、顧客が負担する本の売価X円プラス送料340円(定額)だ。
 他方、出品者の支出は、本の送付に係る事務費(封筒代等と送料の実費)および(1)の(ア)から(ウ)まで、だ。

    X円+送料(定額)-封筒代-送料(実費)-(1)の(ア)-(1)の(イ)-(1)の(ウ)

 仮に売価を1円、バブルラップ付き封筒を50円、ゆうメール送料を340円とすると、赤字になる。そして、これが横田の最初の売上げだった。

    1円+340円-50円-340円-0円-80円-100円=-229円

(4)マーケットプレイスで年収13,000円
 マーケットプレイスで一番手間のかかるのは、値段の変更だ。売れるまで値下げ競争が繰り返される。
 横田は、1年かけて27冊売った。最低価格は1円、最高価格は7,394円。1冊平均600円。売上げ総額は、16,000円(送料1冊当たり340円込みで25,000円)。このうちアマゾンが抜き取った手数料の合計が7,300円。送料の実費を差し引いて手元に残ったのは13,000円。
 万事終わって、横田に残ったのは徒労感だった。値付けや発送作業の手間に加えて、売った本のほとんどが定価で買ったことを考えると、1年間で13,000円という額は果たして収入と呼べるだろうか、と横田は自問する。

(5)マーケットプレイスで年収12,000,000円
 吉本康永さん、61歳、前橋市在住は、マーケットプレイスで毎月100万円前後の売り上げがある。彼にインタビューした横田は、次のような試算をした。
 毎月1,000冊を売り、月収120万円を得ているならば、120万円の内訳は購入者が支払う送料26万円(顧客が負担する1件当たり340円の送料のうち260円が吉本さんの取り分)と、本の売価94万円に分けることができる。本の売価のうち吉本さんの取り分は85%だから、本の売価の総額は110万円となる。

  (ア)売値の15%の手数料・・・・16万円
  (イ)カテゴリー成約料・・・・8万円
  (ウ)プロマーチャント契約料・・・・4,900円

 かくて、吉本さんのおかげで、アマゾンには毎月244,900円が流れこむ。
 アマゾンは、仕入れは不要、発送作業も不要、在庫のリスクも負わない。それでいて、年間300万円が転がりこんでくるのだ。濡れ手で粟、というところだ。

(6)新刊本より儲かる古本
 アマゾンが新刊本と並べて1円の古本を売るのは、古本のほうが儲かるからだ。
 たとえば『ハリー・ポッターと賢者の石』の新刊本を定価で1冊売ると、営業利益率は4%前後だから80円の利益となる。他方、マーケットプレイスで売価1円の本が1冊売れると、180円の手数料が転がりこむ。しかも、この手数料には、コストも作業も在庫も発生しない。まるごと利益だ。
 しかも、仮に売価1,000円で売れると、さらに15%の手数料が加わって合計330円が入ってくる。古本が1冊売れると、その利益は新刊本1冊を売るときに比べて4倍以上に跳ね上がる。これほどおいしい商売はない。

(7)出品者に不利なシステム
 マーケットプレイスでは、出品者にリーピーターやファンがつかないシステムになっている。
 たとえば、「幕張ノンフィクション堂」がどんなに珍しいノンフィクションを集めても、顧客がそれを知ることはできない。顧客が出品者一覧表を見たくとも、辿りつくことができない。常に最低価格で本を出品することを強いられる。
 アマゾンは地主、出品者は小作人だ。
 2010年8月、マーケットプレイスで顧客が負担する送料が340円から250円に引き下げられた。併せて、カテゴリー成約料が80円から60円に引き下げられた(ただし、売値の15%の手数料と基本成約料は従前どおり)。
 アマゾンとしては、マーケットプレイス全体の注文件数が増えるのであれば、全体として手数料が増える。しかし、今でさえ苦しい個々の出品者は、さらなる薄利多売を強いられる。
 事情は、マーケットプレイスを利用する大手古書店も同じだ。こうなった理由の一つは、複数のソフト会社がマーケットプレイス用に制作した価格の自動引き下げソフトが普及したからだ。同じ古本を出品している複数の出品者がいる場合、古本の値段は自動的に1円まで下がることになる。このソフトが普及して以来、古本の2割は半年以内に1円に下がる、と言われている。

(8)アマゾン全体の収益
 アマゾンジャパンは、マーケットプレイスの収益に係る情報を一切開示していない。
 しかし、アマゾンの年次報告書にはマーケットプレイスに関する記述が出てくる。全販売件数のうちにマーケットプレイスの出品者が占める割合は、05年から08年までは28%、09年度には30%に達する。「マーケットプレイスからの売上高は総額(=net amount、筆者【横田】注・つまりほとんど経費の発生しない営業利益に近い金額を指す)として計上されるため、売上高としてみれば(新品の販売と比べて)少額となるが、1件あたりの利益は高い」と09年度の報告書は評価する。
 「アマゾンにとってマーケットプレイスとは、新品を売る本業のかたわらの副業という位置づけではなく、利益の源泉となっている実態が浮かび上ってくる」

【参考】横田増生『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』(朝日文庫、2010)
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