語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】25年ぶりのテレビ出演 ~クローズアップ現代~

2024年01月24日 | ●佐藤優
【佐藤優】25年ぶりの“出演” “佐藤優”とは何者か ~クローズアップ現代・取材ノート~
NHK 2024年1月19日

 作家の佐藤優さんが、今月23日(火)の「クローズアップ現代」に出演する。
 佐藤さんが、NHKに本格的に出演するのは、実に25年ぶり。(前回出演は、1999年放送のETV特集「シリーズ 混迷するロシア」)
佐藤さんはその後、東京地検特捜部の捜査を受け、外務省を失職。作家に転身した。

 佐藤優さんとは、いかなる人物なのか。
 共著・対談の多いジャーナリスト、元上司、取り調べに当たった元検事の3人の証言を通じて、その人物像を探った。
(「クローズアップ現代」取材班)

INDEX
 ジャーナリスト 池上彰いけがみあきらさん
 元外務省局長 東郷和彦とうごうかずひこさん
 元東京地検特捜部検事 西村尚芳にしむらひさよしさん

【関連番組】NHKプラスで1/30(火) 夜7:57 まで見逃し配信

今月23日の「クローズアップ現代」に出演する、佐藤優さん

【佐藤 優(さとう まさる) 作家・元外交官】
 1960年生まれ。同志社大学大学院修了後、外務省で対ロシア外交に従事。 東京地検特捜部の捜査の実態を記録した「国家の罠」でデビュー、その後ベストセラー作家に。

■ジャーナリスト 池上彰いけがみあきらさん
 元NHK記者で、わかりやすい解説で知られるジャーナリストの池上彰さん。佐藤さんとこれまで、国際情勢や宗教、歴史、勉強法に至るまで、20冊余りの共著を発表してきた。書評で佐藤さんが池上さんの著書を評価したのをきっかけに知り合い、親交を深めていったという。

池上さん
 よく『ケミストリーが合う』という言い方があるんですけれども、何かこう意気投合してしまってですね。それまではこちらもよく知らなかったんですが、会って話をしてみると、彼のいろいろな思いとか、あるいは特に経済学、国際情勢とかについて非常に深い洞察力を持っていて、その部分でかなり意気投合するところがありました。なぜかその後親しくなり、そうするといろんな出版社から「対談しませんか」ということになり、結局共著あるいは対談という形で本がいっぱい出ているということですね。
 
NHK社会部の特ダネ記者として活躍した池上さん。記者の視点から見た佐藤さんの能力とは。

池上さん
 たとえば佐藤さんが外務省時代に、ソビエトの末期の時にクーデターが起きたわけですよね。で、当時のゴルバチョフ[1]大統領が行方不明になった。本当にゴルバチョフがどうなっているのかわからない、世界中が必死になって確認しようとしていたら、当時佐藤さんはモスクワの日本大使館にいて、ゴルバチョフは無事だというのを最初につかんできたんですね。
 アメリカもゴルバチョフが生きているかどうか確認できなかったのが、日本から無事が伝えられたというので、アメリカも日本の情報収集能力の高さに驚いたんですね。
これはすごい人だなと思いますし、いろいろ情報を得ようとして、相手に食い込んでいて信頼を得られるって、記者の鑑なんですよね。彼は記者ではないんだけれども、日本の外交官として、日本の国益のために、様々な情報を収集していたという能力の高さには仰天しましたね。

 ※[1]ミハイル・ゴルバチョフ(1931-2022)旧ソビエト最後の指導者。元大統領。「ペレストロイカ」と呼ばれた政治改革や、アメリカとの核軍縮などを進め、当時のアメリカのブッシュ大統領と共に東西冷戦の終結を宣言した。

「佐藤さんをひと言で表すと、どんな人物か」。池上さんにそう問うと、やや考えた上で、答えが返ってきた。

池上さん
 ひと言で言えば「愛国者」なんですね。「愛国者」というと、何となく右寄りのイメージがあるかもしれないけれども、政治的に右でも左でもなく、本当に日本のために何ができるのかということを考えている。だから、たとえば外務省に裏切られたり、東京地検特捜部に逮捕されたりすれば、それに対する恨みというのは持っていて当然ですよね。しかし日本のためであれば、今の外務省にもアドバイスをする。あるいは東京地検特捜部で自分のことを取り調べた検察官とも仲良くなってしまう。これはやっぱり類まれなる能力だなと思いますよね。

池上さん
 「内在的論理」とは、それぞれの国、あるいはそれぞれの団体がどのような論理でこのようなことをしようとしているのかということです。その論理をまず知ることが必要だと。つまりそれに賛成する反対するということではなく、まずは相手のことを知ろう、あるいは言ってしまえば敵のことを知らなければ対応もしようがないでしょうと、こういうことですね。
 たとえばロシアのプーチン大統領がウクライナに攻め込んだ。「ロシアは信じられないことをやっているよな」というように一般的には受け止めますけど、でもロシアには、あるいはプーチン大統領にはそれなりの論理があるはずだ。それはどういうことなのか、ということを解きほぐして、これを伝えていこうという、こういうことだと思うんですね。だからといってプーチン大統領がやっていることが正しいことだと言っているわけではないんですよね。こういう論理でこうやっているんだ、じゃあそれに対して私たちはどのような論理で立ち向かえばいいのかということを考えるきっかけになるわけですよね。
 あるいはイスラエルがガザ地区でハマスに対する攻撃をしている。イスラエルが怒るのもわかるけれど、「ちょっとやり過ぎじゃないの」と思う人がいるのは当然のことですよね。でもその時に「何でイスラエルがあんなことをやるのか」ということを理解した上で、じゃあそれに対してどのように止めることができるのか、あるいはアドバイスすることができるのか、ということを知っておかなければいけない。
 まずは内在的論理を知った上で私たちはどうするのかを考える。それを常に佐藤さんは訴えているということですね。
 相手の価値や信条の体系を把握する内在的論理。それを理解して対話を始めることが、今の日本に、そして世界に求められている。佐藤さんとの対話を経て、池上さんが今考えることだ。

池上さん
 今、「論破」って言葉があるでしょう。「論破王」がいたりしてですね。「論破したぜ」というと、そこで終わっちゃうんですよね。論破したよ、はいおしまい、になる。だから世の中はダメなんですよ。そうではない、相手との意見が対立していても、でも相手が何を考えているかを理解した上で、それについて対応する。そうしたらまた向こうから返ってくるという形で、キャッチボールが行われますよね。それが結果的に次の解決策につながってくる。
 とにかく「相手を論破したぞ」、「こっちが勝った」。勝ち負けだったら先に進まないわけですよね。結果的に対立が続くということになる。対話でとにかく何を言っているのかしっかり理解した上で、それについて私はこう思うという形で、少しでも議論をかみ合わせていくということ、それが(物事の)解決に進んでいくということだろうと思うんですね。

【池上 彰(いけがみ・あきら)】
 1950年生まれ、長野県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHKに入局し、報道局社会部記者や報道局記者主幹、「週刊こどもニュース」のお父さん役などを務め、退職。現在はフリージャーナリストとして活動。

■元外務省局長 東郷和彦とうごうかずひこさん
 外務省で対旧ソビエト・ロシア外交に従事した佐藤さん。その時の上司の1人が、ソ連課長、欧亜局長などを務めた東郷和彦さんだ。
 東郷さんは東京・霞ヶ関の外務省本省に勤めていた時代、旧ソビエトのディープな内政情報をモスクワから報告してくる佐藤さんのことを評価していたという。
 そして1991年。当時のゴルバチョフ 大統領が進めていた「ペレストロイカ」と呼ばれる政治改革に対抗し、保守派が起こしたクーデター。市内に戦車が走り、モスクワは大混乱に陥った。その中で「ゴルバチョフが生きている」という一報を世界に先駆けて入手したのが佐藤さんだった。当時、東郷さんはソ連課長だった。

東郷さん
 当時はクーデターが起きて、ゴルバチョフがどうなっていたかということは誰にも分からなかったわけです。クーデターは3日間で、佐藤はその間に、ものすごい量の情報を本省に送ってきました。
 そして、ゴルバチョフの生存という情報を、彼は保守派のイリイン第2書記から聞き取るわけです。それが電報でいう形で本省に入って、我々はこの情報を官邸や外務大臣に上げつつ、いろいろなチャンネルで世界に発信したわけですよね。日本がこの情報に関しては一番乗りということが世界に知れ渡りました。

ディレクター
 当時、まだ佐藤さんは大使館の中でもそんなに地位が高いわけじゃないのに、イリイン氏に直接会って話を聞けるというのは、どう思いましたか?

東郷さん
 すごいなって。その一点に尽きますよね、それまでもいろいろロシア社会に深く食い込んでいるような情報は来ていましたから、すごいなと思って見ていましたけれども、それが集約された形でポンと出たのは、あのクーデターの3日間ですね。
 そして1994年、モスクワの日本大使館に次席公使として勤務し始めたとき、佐藤さんから声をかけられたという。

東郷さん
 着任したら、すごく早い時点で(佐藤さんが)私のところにやってきましてね。
 「東郷さん、これからはこのロシア社会に食い込むんです。それにはね、1日に6回、ロシア人と食事をしてください。朝飯2回、昼飯2回、夕飯2回。1日に6回、ロシア人と飯を食ってください」と言って、膨大なリストを持ってきたんです。「これが、あなたが接触すべき大体の範囲です」と言って、はっきり覚えていないけれども、100人台のリストで。びっくりしましたが、気合いを感じましたね。

東郷さんと佐藤さんの会食
 佐藤さんのアドバイスを受け、会食を重ね、ロシア人と交流を深めた東郷さん。時には会食を共にすることもあった。その席で、一流のインテリジェンス・オフィサーである佐藤さんの能力を実感したという。

東郷さん
 右派の人たちと会う時は、ほとんど佐藤と一緒だったと思います。当然こちらもある程度、相手のことを勉強していくわけですが、私と佐藤の2人だと、ある程度私がしゃべらなくてはならない。一緒にいる佐藤が、相手の顔を見ながらですね、合いの手を入れるわけですよ。これが実に見事で。僕の言ったことに対して、向こうが言ったことに対して、合いの手を入れると、相手は「あ、この男は自分達のことを分かっているな」という印象を受ける。
 どうしてそんなことが出来たのかということを、今にして思えば、たぶんその日に来るロシア側のリストを見て、事前によく勉強していたんだと思います。相手の背景だとか、相手の琴線がどこにあるかとか、それを会話の中でチラチラと見せる。「お前のことを知っているぞ」と、ワっとしゃべるというのではなくて、チラチラと言うことによって、自分のことをよく分かっているなという印象を与える。この勉強と直感、すごかったですね。すごく勉強になりましたよ。

通訳にあたる佐藤さん
 1990年代、大きな動きがあった北方領土返還交渉。その中で佐藤さんは、戦略を練り、当時の総理大臣に直接ブリーフィングを行うこともあったという。

東郷さん
 橋本総理[2]が出てきた時に、もう1度日ロ関係を動かそうという動きがハッキリ出てきて、僕も立場上、官邸に行くべき立場に上がってくんですけども、その中で佐藤も橋本総理に直接いろいろお話する機会が出てきていました。橋本総理に対して佐藤がやったブリーフィングは、エリツィン[3]の琴線をつかむ、いろいろな橋本発言につながっていったように思うんです。
 ゴルバチョフ、それから今のプーチンもある程度そうですけども、どちらかと言うと論理的に考える。「こういう論理でいけばこういうことになるでしょう」と論理的に詰めていきます。ところがエリツィンは、そういう風に論理で物事を詰めてくと、だんだんイライラしてくる。論理で詰めるということは、エリツィンから見ると、「条件をつけて自分を責めてくる」というふうに、プレッシャーを感じるところもあったと思うんです。そうではなくて「私はこうする、これは無条件、あなたも無条件。お互いに持ち寄って一番いいものを決め、お互いに平等に選択していきましょう」と。このアプローチがエリツィンには効いたんですよね。
 エリツィンにはそういうアプローチがいいんだと見抜いたのは、やはり佐藤のエリツィンに対する勉強と、「これがいいんじゃないか」という直感の組み合わせで、エリツィンの琴線をつかんでいったということじゃないかなと思うんですね。
 従来は首脳会談をやれば、こういう成果を生み出そうと、一種の条件がつきますね。ただ、「信頼醸成サミット」として「成果は必要ないんだと。信頼を作るためにモスクワではないところで無条件に会いましょう」というのがありました。実際、その場はクラスノヤルスク[4]になるわけですけども、これはね、エリツィンから見ると非常に新鮮に見えたと思うんですね。外務省全体の指揮者は(当時の)丹波外務審議官[5]でしたけれども、その知恵袋としては佐藤といったことじゃないでしょうかね。

 ※[2] 橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)(1937-2006)元総理大臣。1996年に総理大臣に就任し、沖縄・普天間基地の返還交渉や、北方領土交渉などに取り組んだ。
 ※[3]ボリス・エリツィン(1931-2007)元ロシア大統領。1991年に選挙を通じて、ロシア共和国の大統領に就任。市場経済改革とともに民主化を推進し欧米との関係を改善させた。
 ※[4]1997年11月、当時の橋本総理大臣とエリツィン大統領の間で、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすとした「クラスノヤルスク合意」が結ばれた。
 ※[5]丹波實(たんば・みのる)(1938-2016)元ロシア大使。東京大学法学部を卒業後、外務省に入り、条約局長や外務審議官などを歴任。北方領土返還交渉の指揮に携わった。

その後、作家として活躍する佐藤さん。当時の上司として、いまどのような思いで仕事ぶりを見ているのか。

東郷さん
 彼は外務省にいた時は、目標は平和条約の締結ということに絞られていました。不幸にしてああいう形で外務省を辞めて、そのあと作家になったじゃないですか。作家になって彼がいま30本ぐらいの連載を同時並行的に出していて。それで、何冊本を書いたか、もう数え切れないですよね。そういう形で彼の才能が、ある意味で開花した。外務省時代は、それが平和条約という一点に絞られていたから、いかに大きなパワーであったかということは、おわかりいただけるだろうと思うんです。
 “異能の才”ですからね。ああいうレベルでロシア人の琴線をつかむ人というのは、当時ももちろんいなかったし、その後もいないんじゃないかと思いますね。

【東郷和彦(とうごう・かずひこ)】
 1940年生まれ。東京大学教養学部を卒業後、外務省に入り、ソ連課長、条約局長、欧亜局長などを歴任。2002年に外務省を退職し、現在は静岡県立大学グローバル地域センター客員教授。

■元東京地検特捜部検事 西村尚芳にしむらひさよしさん
 2002年、東京地検特捜部に逮捕された佐藤さん。「国策捜査」の実態を訴えた著書で作家としてデビュー、人生の転機となる事件だった。その当時、取り調べに当たったのが、元東京地検特捜部検事の西村尚芳さんだ。今回、初めてNHKの取材に当時の状況を語った。佐藤さんと初めて会ったときの印象はよく覚えているという。

西村さん
 外務省の事件で、被疑者として任意で最初、東京地検特捜部のほうから外務省を通じて出頭要請をしていたのですが、「任意だったら行かない」と言われて。それで逮捕状を用意して、当時、彼が勤務していた外交資料館に出向いたわけです。それで、この場で逮捕しますと。普通、業務を経由した呼び出しに嫌だと言う人なんてそういないので、すごく変わった人なのかなと思いました。
 事前の印象は、写真で見ているとすごく太っている人で、「ラスプーチン」とも呼ばれて、威圧感がある感じで、そういうイメージでもってお会いしたんですが、実際お会いしてみると当時、やせていたんですよね。そして思ったよりはソフトな対応、柔らかい対応だとわかりましたね。だからイメージとは変わっていました。敵対して「完全黙秘をするぞ」と言ってくることもないし、突っかかってくることもないという感じで。

2002年の佐藤さん
 512日間に及んだ拘置所生活。その中でも、一切、自分を見失わなかった佐藤さんは、検察官人生の中でも特に印象に残っているという。

西村さん
 ひと言で言うと、崩れない人。普通の被疑者のように、居丈高になるとか、黙秘してやるとか、力むといったことが全然なく、ごく普通に、ソフトに対応しているんです。全然意識が崩れない。だらしないところがありませんでした。
 普通の人は大体どこかが崩れるんです。やはり特異な環境に入れられていますし。外から隔絶されたりすると不安になるものですが、そういうのは特になく「拘置所はこう住んだほうが楽しい」とか、「食事がうまい」とか、延々と自慢されました(笑)。取り調べは「きのう、何を食べたか」がスタートだったんですよ。美食家を自称していらっしゃるから、「いろいろなものを食べたよ」「きのうのコースの飯はうまかった」から始まる(笑)。
 3か月半、ほぼ毎日行われた取り調べ。その様子を詳しく聞くと、拘置所の中にありながらも、佐藤さんは相手の「内在的論理」を把握して事に臨もうとしている姿勢も見えてきた。

西村さん
 取り調べの過程で、彼は「自分はどういう立場でどういう仕事をしていたか」というのを、私に教えようとするんですよ。自分のことを私に理解してくれ、という感じでいろいろ言ってくる。つまり自分の立場をわかった上で、その立場と、その仕事内容をわかった上で捜査してくれということですね。それと同時に彼自身も私の仕事、検察官の仕事のこと、私がどんな仕事ぶりなのか、検察官はどんな行動原理で動くのかということを把握したかったんだと思います。
 要するに、双方がどんな立場で仕事をしているのか、どういう行動原理で動いているのかということをお互いすり合わせるという作業が取り調べのかなり前段階でありましたね。私も相手方の仕事を、行動原理を理解するというのは非常に重要だと思ったので、十分お聞きした上で動いていました。
 当時、佐藤さんが問われた罪は2つ。2000年にイスラエルで開かれた国際学会への参加費用などを、北方支援事業などを行う国際機関「支援委員会」から不正に引き出して、損害を与えたとする背任。もう1つは、支援委員会が発注した国後島のディーゼル発電施設工事の入札を妨害したとする偽計業務妨害だ。
 佐藤さんは「学会への参加費用の支出に当たっては事務次官などの決裁を受けている」「違法な行為は一切、行っていない」などとして、一貫して無罪を主張したが、執行猶予付きの有罪判決が言い渡された。

西村さんは事件をどう総括するのか。

西村さん
 彼は極めて特別な立場で特別な仕事をしていたわけです。(直属の上司を通して報告する、通常の)ラインから離れて仕事をしていました。ラインから離れた仕事なので支援体制がきちんとなければなりませんが、不十分だった。なので、かなり経済的に無理をしながら仕事をしていたんですよね。その無理のしわ寄せが「支援委員会」という機関にいってしまった。「支援委員会」に金はありますが、権限は限られていて立場が弱い。そこにしわ寄せがいくと、恨みが残る。この事件はそれなんですよ。
 佐藤さんは能力が突出しているので、上から重宝されているんです。だから、ラインから離れた特殊な仕事をさせられているということがあると思います。それはお話していて理解しました。それは幸運ではあるけれども、大変苦労は多いし、支援体制が必ずしも十分じゃないと、無理もしないと前に進まない。結果を出すためには無理も必要だというようなことで進めていかなければいけなくなってしまう。
 そして、「暴風」という表現で、あの事件の特異性を振り返った。

西村さん
 無理はどこかで歪みを生むんですよ。そしてどこかがしわ寄せをくらう。これが絶対出てくるんです。しわ寄せをくらっているほうはずっと怒っているんですよ。弱い立場ならそれは言えないけど、きっかけがあったら爆発します。そのきっかけが、あの暴風だったでしょうね。それが、あの時の外務省を中心に吹き荒れた佐藤優バッシングの時に、(事件の)ふたがトントンと開いていったというのが実情です。
 通常、ああいう暴風が吹く場合は検察由来のことが結構あるわけです。「検察が捜査しているから」と。あれは違った。明らかに暴風が吹いて、吹きまくって、それで押されて動いた話ですから。あの風がどうして吹いたか、僕らにはわからなかった。
 彼はずっと、あの風がなんで吹いたのかってことを考えていました。自分の仕事のどこにそういう原因があってあんな風が吹いたんだ、ということをずっと考えていたというのが私の印象です。ああいう大風が吹かなければ、ふたが開かず捜査にならなかったので、あの事件というのは、かなり特殊な背景があった話ですね。
 一方、判決では、佐藤さんが「私的な経済的利益を得ようとしていたとは認められない」ことも認定された。

西村さん
 捜査の際に彼の金回りを見ましたが、自分のポケットには一切、入らない。そういうところは一切ない。そのあたりも意識を高く持っていたんでしょうね。
 でも事件になるんですよ、そういう人でも。この事件で、彼は個人的に全然、悪いわけではない。しかし、仕事が出来すぎるというのも、実は事件の原因になるんです。
 逮捕をきっかけに作家に転じた佐藤さん。その「生みの親」とも呼べる1人が、実は西村さんだった。取り調べを通じて、その才能を実感していたという。

西村さん
 捜査の時から、この人は非常に特異な才能があるなと思っていました。捜査段階では、彼が外務省内で書いている文章を当然、いっぱい読むんですよ、公電とかね。それがすごく面白くて明解なんです。役人が書く文章じゃない。あまりに明解すぎて、回りくどさが一切ないというところがありますね。
 普通役人の文章はもっと回りくどい。エクスキューズがつくんです。つまり責任を自分にかからないように書くんです、役人の文章は。それが彼の文章には全くないわけですよ。「ドンっ」てきているんです、文章が。だから分かりやすいんです。そして全てが面白くなっちゃうんです。
 それと実際、取り調べでいろいろ話をする中で、彼は難しい話を分かりやすく噛み砕いて説明するんです、素人に対して。能力が高いなと思って見ていました。
 だからこそ、作家を勧めました。「独立して、書きたいことがあるんなら書いたらいいんじゃないの」と言いましたね。

記者
 佐藤さんの作家デビュー作「国家の罠」は読まれましたか?

西村さん
 本が出るという事前告知が週刊誌に載っていて、その時は北方領土がどうこうという話が書いてあったので、外交の話だろうと思い、油断していました。本が出たあとに東京の知人から電話がかかってきて「読んだ?」と言われて。「何ですか?」と言ったら、「君の名前もいっぱいある」と。で、思わず買い、自分で購入して読むと、確かにいっぱい書いてある。書くとは言っても「主要登場人物が僕かよ」と思って、それはびっくりしました。「本の半分ぐらい、僕の名前じゃない」と思って。氏名使用料もらっていないなと思って(笑)。ただ、意図的に検察官たる僕をおとしめるようなことは全然なく、そこはありがたかったですね。読みやすく、面白かったです。ただ役人としては、いろいろ大変なことが発生するわけでございまして、苦労はありました。
 西村さんは検事を退官したあとの、おととし、佐藤さんと20年ぶりの再会を果たした。病気からの回復を喜び、今後も作家としてますます活躍することを期待しているという。

西村さん
 あれだけ大活躍するというのは、いい話で、よかったねと思っています。次のステップに行けたねという感じですね、人生的にね。それに本当に体が治ったのはよかったなと。
 腎臓の移植手術が成功して、寿命が伸びていますから。手術が終わったあとすごく元気になっているので、これから何十年、10年、20年、一線で活動できると思うから、そういう意味で、今後も才能を生かして頑張っていただきたい。手術が成功して本当に良かったです。

【西村尚芳(にしむら・ひさよし)】
 1960年生まれ。金沢大学法文学部を卒業後、1990年に検事に任官。東京地検特捜部副部長、大阪地検特捜部長、高松地検検事正などを務めた後、2020年に退職し、現在は霞ヶ関公証役場で公証人を務める。

【関連番組】NHKプラスで1/30(火) 夜7:57 まで見逃し配信

https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic052.html
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする