語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【翻訳】「王羲之の伝説」

2018年04月05日 | 歴史
 「改訳 王羲之の伝説」については、
 An anecdote collection on a master calligrapher “王羲之” in China.

 <はるか四半世紀以上前に、ある人から頼まれて翻訳した本。出版に当たって、ゲラを見る機会も無かったので、収められた文章には不満がいっぱい。それでもその時は、始めて自分の書いた物が活字になって嬉しかった。その後、読み返す度に誤訳その他が気に掛かり続けていたので、折を見ては文章の手直しをしていた。それを自費出版ででも形にしておこうと思って一応仕上げておいた。
 しかし、出版しても果たして読んでくれる人がいるだろうか、などと思い悩んでいるうちに今日に至った。そこで思い立って、このような形で人目に晒してみることにした。話自体は面白い物が多いので、読んで頂ければ幸いである。>

■目次
 第0話 はじめに
 第1話 墨池
 第2話 入力三分
 第3話 ただこの一つの点だけが羲之に似ている
 第4話 一筆書きの鵞字
 第5話 鵞碑
 第6話 千里の遠くより鵞鳥の毛を送る
 第7話 戒珠講寺
 第8話 天下第一関
 第9話 扇に字を書き付けた橋とお婆さんから身を隠した小路
 第10話 飛狐筆
 第11話 筆が飛んだ路地と筆が架かった橋
 第12話 金や玉そのものの音
 第13話 金不換
 第14話 「千字文」
 第15話 其の神彩を奪う
 第16話 画雨
 第17話 「蘭亭集序」
 第18話 『蘭亭』を盗む
 第19話 粤僧三宝
 第20話 一字千金
 第21話 血染めの「蘭亭」
 第22話 定武「蘭亭」
 第23話 孤独長老本
 第24話 後記
 第25話 あとがき

★翻訳はこちら。クリック、プリーズ。
改訳 王羲之の伝説

★絵は橋本関雪「王羲之図」。
 


【本】テイラー・J・マッツェオ『歴史の証人 ホテル・リッツ』

2017年09月17日 | 歴史
★ティラー・J・マッツェオ(羽田詩津子・訳)『歴史の証人 ホテル・リッツ  ~生と死、そして裏切り~』(東京創元社 2,500円)

 (1)1997年8月31日の夜中、ダイアナ元英国皇太子妃はパリで交通事故死した。そのわずか数分前、彼女と恋人のドディ・アルファイドは世界屈指の高級ホテル、リッツの裏玄関を出たばかりだった。
 ダイアナ妃だけではない。チャーチル元英国首相やナチスドイツのゲーリング元帥などの政治家、ヘミングウェイやプルーストなどの文人、また女優のディートリヒ、デザイナーのシャネルに至るまで、この由緒あるホテルを定宿にした名士は枚挙にいとまがない。
 つまり、リッツの歴史は世界史と共にあった。

 (2)スイス人のセザール・リッツがホテルを開業したのは1898年。ドレフュス事件が過熱し、数多くの文人や知識人がリッツのバーで侃々諤々の論争を繰り広げた年であった。
 本書の中核を成すのは、第2次世界大戦中からパリ解放までの時期についてだ。著者は、各国の史料や機密文書を蒐集して、これを詳述する。
 この時代、リッツで、ナチス高官の晩餐会が開かれ、階上でスターが不倫に明け暮れ、バーでレジスタンスが戦略を練った。ナチスに占領されたパリでは、創業者の母国スイスと同様、豪奢であることが中立を守るための手段だった。防空壕にはエルメス製の寝袋が用意されていた、という。

 (3)パリ解放(1944年)を目前に、従軍記者だったヘミングウェイや戦場カメラマンのキャパは一目散にリッツを目指した。
 パリが解放され、戦後になって社会がより平等なものになるにつれ、リッツの名声や威光は衰退していった。皮肉なことに。

 (4)確かに、戦後期でも英ウィンザー公とその愛人のシンプソン夫人の愛の巣(また夫人の若い愛人との逢引の場も兼ねていた)になるなど、その名は知られていた。しかし、かつてのようにシーズン通しで予約を入れ、部屋を自由に改装することが許されるような大富豪は減り、敵か味方か判然としなくて戦争もない世界で、リッツが果たすべき役割と背負う期待は大きく変わっていった。創業者の息子シャルルが、ドディの父モハメド・アルファイドにホテルを売却したのは1979年のことだ。

 (5)読者は、読み進むにつれて、リッツの廊下で囁かれてきた数多くの歴史的ゴシップに耳を澄ます誘惑にかられるに違いない。
 そして、ホテル内のかの有名な「ヘミングウェイ・バー」でカクテルを飲み、本を抱えてリッツの大きな真鍮製のベッドにもぐり込めば、そのまま歴史に抱かれることになろう。

□吉田徹(北海道大学大学院法学研究科教授)「歴史的なエピソードが満載/名門ホテルに見る栄枯盛衰 」(「週刊ダイヤモンド」2017年9月9日号)
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【本】『戦争がつくった現代の食卓 軍と加工食品の知られざる関係』

2017年09月04日 | 歴史
★アナスタシア・マークス・デ・サルセド(田沢恭子・訳)『戦争がつくった現代の食卓 軍と加工食品の知られざる関係』(白揚社、2017/2,808円) 
  スーパーで買い物中、携帯にメールが届いた。
 「私、ミリーさん。今、あなたの後ろ30メートルのところにいるの」
 何のいたずらだろう。無視して食パンをカゴに放り込む。また着信音が鳴る。
 「私、ミリーさん。アメリカ生まれなの。今、あなたの後ろ20メートルよ。
 ご存知(ぞんじ)かしら、その食パンはパンじゃないの。ほんとは半日かかるイースト菌の発酵を50分で打ち切って、かわりにかさ増しと老化防止の酵素をぶち込んで1週間以上保つよう加工した『非老化性パン様食品』ね。2度の世界大戦で効率化を求めて普及したのよ」
 うるさいなあ。お菓子の棚で、また着信音が鳴る。
 「私、ミリーさん。ご存知かしら、アメリカ陸軍では第2次大戦で前線への輸送コストを減らすため、ポテトや卵やチーズを片っ端から乾燥させて実験したの。チーズパウダーをまぶしたスナック菓子は、そのときの開発の余禄なのよ。
 あ~でも気温50℃のバグダッドでも溶けないチョコレートの開発はまだなの、くやしいわ」
 へえ、そうなんだ。そうそう、夜食用にレトルトカレーを補充しとこう。
 「私、ミリーさん。もち、ミリタリーの略称よ。
 レトルトパウチって、すごい発明よね。プラスチックを包装材に。陸軍20年の苦心の賜物(たまもの)よ。でも、フタル酸エステルが食品に溶け出して人体に悪さするって研究もあるわ。頑健な兵士ではない、赤ちゃんなんかは避けたほうがいいかも」
 じゃ、やめとこ。あ、サラダも買わなくちゃ。
 「私、ミリーさん。今、あなたの後ろ5メートル。生鮮青果の保存は最難題、エチレン除去装置を輸送コンテナに設置するの」
 がんばってね。
 「私、ミリーさん。もうあなたの胃の中よ。自分は何を食べてるのか、正体を見きわめたければ、この本、読むといいわ」
 今日もどこかで着信音が鳴る。

□山室恭子(東京工業大学教授・歴史学)「(書評)『戦争がつくった現代の食卓 軍と加工食品の知られざる関係』」(朝日新聞デジタル 2017年8月27日)を引用
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【欧州】マルタと日本、知られざる交遊 ~対Uボートの護衛に就いた日本海軍~

2017年07月23日 | 歴史
 長靴のようなイタリア半島の南西に、蹴飛ばされた岩のように見えるシチリア島がある。その南に小石のように浮かんでいるのが、マルタ島である。淡路島の半分ほどの大きさで、人口わずか40万人だが、れっきとした独立国家である。ヨーロッパを代表する保養地であり、米ソ首脳が冷戦終結について話し合ったマルタ会談の舞台でもある。
 本年5月にシチリア島で行われたタオルミーナ・サミットの帰途、安倍首相は日本の現職首相として初めてマルタを訪問し、ムスカット首相と会談を行った。メディアではあまり報道されなかったが、ユニークな外交成果を挙げた訪問だったように思う。
 まず、マルタは本年前半のEU理事会の議長国である。EU理事会では、全加盟国が持ち回りで、任期半年の議長国を務めることになっている。議長国は対等な加盟国間の取りまとめ役であり、特別な権限を持っているわけではないが、議事の進行やアジェンダの選定など、その影響力は決して小さくない。安倍首相は、ムスカット首相との共同記者会見で、欧州統合と自由貿易を推進することの重要性で一致したと述べた。日欧EPA(経済連携協定)交渉が大詰めを迎える中で、その大枠合意を早期に実現する方針を議長国と確認したことの意味は大きい。
 両首脳は、「法の支配を重視する海洋国家」として、緊密に連携することでも一致した。今後日本が、法と対話に基づいて東アジアの安全保障問題の解決を進めるには、基本的価値を共有し、国際的発信力を持つヨーロッパ諸国からの理解や支持が不可欠である。サミット後に発表された首脳宣言に続いて、改めて日本の立場への理解がEU首脳から得られたのは、大変有意義であった。
 しかし、注目すべきはこれだけではない。私は第一次世界大戦を研究しておりマルタ訪問はその観点においても重要な意味合いがあったと考えている。
 安倍首相は、マルタに滞在中、旧日本海軍戦没者墓地を訪問して慰霊を行った。日本は、1914年に同盟国イギリスからの要請に基づいて第一次世界大戦に参戦し、1917年に巡洋艦1隻、駆逐艦12隻から成る艦隊を地中海に派遣した。同艦隊は、当時イギリス領だったマルタ島を根拠地として、連合軍(イギリス、フランスなど)の兵員・物資輸送を同盟国軍(ドイツ、オーストリアなど)のUボートによる攻撃から守るため、護衛を担当した。日本海軍はこの作戦で、総計788隻、約75万人の護送を行うという活躍を見せたが、駆逐艦「榊(さかき)」がオーストリア海軍からの攻撃を受けて大破するなど、78名の戦没者を出した。本年は海軍派遣からちょうど百年に当たっており、慰霊はこの節目の年に行われたことになる。安倍首相は共同記者会見で、当時の先人の活躍に思いをはせつつ、国際貢献を行う決意を新たにしたと述べている。
 近年「歴史認識問題」が激化し、日本近代史が国際的話題に上る際には、第二次世界大戦関係の「謝罪」「反省」にばかり注目が集まる傾向がある。しかし、第一次世界大戦期の日本は、日英同盟に基づいて行動し戦勝国となり、戦後に国際連盟の常任理事国にもなっている。今回の安倍首相のマルタ訪問は、その歴史に光を当てることによって、日本近代史の多面性を示し、「歴史認識問題」をいわば相対化する意味があったと言えるのではないだろうか。
 地中海の要衝であるマルタには、これまで多くの日本人が訪れている。第一次世界大戦後には、皇太子時代の昭和天皇が外遊途中に訪問している。昨年は、海上自衛隊の練習艦隊が寄港したが、私は同艦隊に随行する機会を得て、日本人墓地での慰霊行事に参加し、昭和天皇ゆかりの史跡を巡ることができた。かつて日本海軍が拠点としたヴァレッタ港は、NHKドラマ「坂の上の雲」のロケ地としても使用されたという。
 公用語の一つが英語であることもあり、マルタには近年毎年1万数千人もの日本人が訪れているが、こうした歴史や史跡が十分に知られていないのは残念である。イギリスのEU離脱で、日本の対EU外交の弱体化を懸念する声が挙がっている昨今、この機会にマルタとの関係を強化し、EUにおける日本のゲートウェイ拡大を図ってはどうかと思う。

□奈良岡聰智(京都大学大学院教授)「マルタと日本、知られざる交遊」(文藝春秋 2017年8月号)
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【戦争】を風化させない記念館 ~潜水艦伊58をモニュメントに~

2017年07月09日 | 歴史
 (1)浦環(うら・たまき)・東京大学名誉教授は、長年、東大で水中工学を専門とし、深海で活動するロボットなどを開発してきた。資源探査などを手がけてきたのだが、定年後、残りの人生を賭けて取り組もうとしたのは、沈んだまま放置されている日本軍の艦船を見つけることだ。
 日本では戦艦に限らず、海中に沈んだ船を放置することが多く、技術者としてその“臭いものに蓋”という風潮に一石を投じたかった。

 (2)当初は、世界中の戦艦好きの中で〈発見したい沈没船リスト〉の筆頭だった「武蔵」を狙い、フィリピン沖に行くつもりだったが、マイクロソフトの共同創業者である米国人に先を越されてしまった。
 そこで新たに目標にしたのが、長崎・五島列島沖の深さ200メートル地点に沈む艦船群だ。
 2015年、テレビ局がその中から潜水艦「伊402」を探すという企画を立て。その番組に浦氏も協力した。取材班の調査で24隻の沈んでいる位置がほぼ特定された。
 2017年5月、浦氏のチーム「ラ・プロジェクト深海工学会」は24隻の中から大きさなどで目星をつけ、音波の反射で物体の形状を調べるソナーを使って残り23隻の撮影に成功した。
 まるで潜水艦の墓標ではないか。・・・・爆破されてから70年の歳月を経て海中で起立する姿を見たとき、そんな思いが浦氏の頭を横切った。
 二つに折れた潜水艦が海底に刺さっていた。第二次世界大戦後、GHQによって当地で沈められた日本海軍の潜水艦24隻のうち、「伊58」の可能性がある。
 伊58は、“人間魚雷”回天を搭載した潜水艦であり、実際にグアム沖などで発射している。また、伊58は広島、長崎に落とされた原子爆弾をテニアン島に搬送した重巡洋艦インディアナポリスを魚雷で沈めている。実はこの艦は米海軍にとって敵軍に沈められた最後の水上艦艇。そのため米国でも伊58は有名な潜水艦だ。

 (3)2017年8月に、浦氏のチームはROVというカメラ付きの遠隔操作ロボットを使い、沈む24隻すべてを特定しようとしている。ロボットの使用には1日500万円の費用がかかるので、時間が勝負。4日間不眠不休で作業する予定だ。

 (4)ただし、歴史や戦艦に詳しくない浦氏のチームは、外部の知識も借りている。
 〈例〉プラモデル愛好家たち。
 当時の写真資料なども取り寄せているが、艦船は何度も改造されるケースが多く、沈む直前の状態を正確に把握するのは難しい。そこで、プラモデルで当時の姿を徹底的に再現していた愛好家のブログを見つけて連絡をとり、艦橋にあるトイレの扉の位置の違いなど、詳細な情報を得ることができた。

 (5)特定できた後は、本音を言えばサルベージをして、修復した後に実物を展示する記念館を作りたい。しかし、ざっと予算を見積もると約100億円かかることがわかった。少人数の有志で活動する浦氏のチームには非現実的だ。
 そこで、撮影した写真をコンピューターで三次元に再構成して、ヴァーチャルな記念館を作りたい。
 さらに夢みているのが、有人潜水艦で沈んだ艦船を観にいくツアーを組むこと。カリブ海では30年前に、3人乗りの小型潜水艇に乗って、240メートルの深海までひとり3万円で行けた。
 伊58の場合、長崎の50キロ沖まで潜水艦を運ばなければいけない。さすがに3万円では無理だが、現実的な価格で半日の深海ツアーを組めるはずだ。

 (6)日本には戦争の記憶を伝える記念碑はあっても、実物がモニュメントとして残るのは、原爆ドームなど数えるほどしかない。横須賀にある戦艦三笠が日露戦争の記憶を今に伝え、ハワイのアリゾナ・メモリアルで真珠湾に沈むアリゾナの姿を見られるように、政治的、思想的背景を越えた戦争の実物を提示したい。
 海中に沈んだからといって歴史を“水に流す”のではなく、じっくりひとつの出来事の前後にある物語について考えてほしい。そして1隻の艦船には乗組員や建艦者、その家族など多くの人を巻き込む物語があることを知ってほしい。
 それが、海中を調査する技術をつくってきた浦氏の未来へのメッセージだ。 

□浦環(東京大学名誉教授)「沈んだ伊58を見つけるために」(文藝春秋 2017年8月号)
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【戦争】歴史を発掘する ~クルスク戦車戦~

2016年09月28日 | 歴史
 
 <本書にはまた、特定の目的もある。それは新たに利用できるようになったこの戦いに関する大量の細部(公式的、戦術的、個人的な細部)を構造化し、明確にすることである。クルスクはあくまでもまず戦闘であった。それゆえに、誰が誰に対して、何を、いつ、どこで、何を使って、そしてなかんずく、《なぜ》【注】行ったのかを知ることに価値がある。そのために必要になるのは、公式的および個人的な報告を照合し、比較し、批評することであり、少数の読者以外には不案内な地理の中でそれらに脈絡をつけることである。その上で、その結果を読者が無理をしなくても理解できる形にして提出することである。>

 【注】《》内は原文では傍点。

□デニス・ショウォルター(松本幸重・訳)『クルスクの戦い1943 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相』(白水社、2015)の「はしがき」から一部引用
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【戦争】負ける側の論理 ~ノルマンディ戦車戦~

2016年09月28日 | 歴史
 
 戦争は勝った側が着目されがちだ。しかし、実のところ、負けた側のほうから学ぶものが多いと思う。戦争とは違うが、野球について、負けた試合のほうから学ぶものが多い、と野村克也・日本体育大学客員教授も言っていた。
 前大戦について、今の日本人は、米国をはじめとする勝った連合国の側から映画を見、ゲームを見ているかもしれない。だから、国連は勝った連合国がつくりだしたものと言われてもピンとこない。だが、負けた日本、ドイツの観点からすると、まったくといってよいほど違った局面が見えてくる。
 『ノルマンディー戦車戦』はレニングラード、ウクライナ、ノルマンディー、イタリアの4地域における独軍の壊滅を記す。なぜ負けるべくして負けたか、そのへんも指摘している。例えば・・・・

 1944年6月6日払暁、連合軍が上陸したノルマンディーの海岸に、最も近く位置していた戦車部隊は第21機甲師団だ、オルヌ川の東に位置していた。師団長(フォイヒティンガー少将)も第22連隊長(オッペルン大佐)も第1大隊長(フォン・フォットベルク大尉)も警報を知っていた。4時には出動準備が完了した。
 戦区では、第21機甲師団は第761歩兵師団の指揮下に入ることになっていた。リヒター師団長は出撃を命じたが、フォイヒティンガーは動けなかった。彼は一方で、国防軍最高司令部の同意なくして行動しないよう命令されていたのである。かくて貴重な時間が、刻一刻失われていった。
 6時30分、フォイヒティンガー少将はついに決断した。自分の責任で部隊を動かすことにしたのだ。
 8時、第22戦車連隊第1大隊、出動。
 9時、第2大隊も出動。
 しかし、彼らがめざした敵は、見当違いの敵だった。海岸ではすでに連合軍の上陸がはじまっていたのに、いまさら敵空挺部隊を攻撃しようとしていたのだ。
 部隊の迷走は続いた。
 燃え上がるカーンの町の脇を通り過ぎたところで、オッペルン大佐の下に「引き返せ」という新たな命令が届いた。部隊は、オルヌ川東方のイギリス軍空挺部隊に一発の砲弾も発射しないうちにカーンに戻ることになった。かくしてオルヌ川当方には第1大隊第4中隊だけのこし、その他の部隊はしんがりを先頭にして回れ右した。
 なぜか。ようやく第84軍団が第21機甲師団の指揮権を得たのだ。第84軍団のマルクス将軍は、第21機甲師団を海岸のイギリス軍撃滅のために使うことにしたのだ。
 第1大隊は爆撃で崩れたカーンの町を抜けた。第2大隊はコロンベルを経由しなければならず、時間がかかった。このため、部隊はばらばらになってしまった。カーンの北の出撃準備陣地に2個大隊が集結したのは、昼過ぎになってしまった。
 すでに敵の上陸後8時間が経っていた。この間にイギリス軍は、着々と海岸堡をひろげ、シャーマン戦車、17ポンド対戦車砲、M10駆逐戦車を揚陸していた。上陸直後なら踏みつぶすこともできた上陸部隊は、いまや防備をかためてドイツ軍を待ち受けていた。
 第22戦車連隊は、イギリス軍の防御陣地に突き当たり、最初の2、3分でⅣ号戦車5両が破壊された。歩兵も砲兵もいない戦車だけの突破など、とても不可能だった。オッペルン大佐は、後退を命じるほかなかった。
 かくして、ノルマンディー海岸の敵海岸堡を撃滅する唯一のチャンスは失われたのであった。

□斎木伸生『ノルマンディー戦車戦 --タンクバトル〈5〉』( 光人社NF文庫、2015)
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【江村洋】『ハプスブルグ家の女たち』『ハプスブルグ家史話』

2016年08月26日 | 歴史
  
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)スタンダールを通して見るオーストリア帝国は、警察国家、官僚国家である。権力、権威によって人を駒のように動かす。たとえば、『パルムの僧院』では次のようなくだりがある。
 <彼【デル・ドンゴー侯爵】はもともと事務の才能のない男だったが、十四年間田舎で侍僕、公証人、医師ばかり相手に暮らしていたうえに、突然現れた老人らしい不機嫌も手伝って、まったく無能な人間になっていた。しかるに、オーストリアで一つの要職を維持するのには、この古い君主国の緩慢複雑ではあるが、たいへん条(すじ)の通った行政が要求する、一種の才能なくしては不可能なのであった。デル・ドンゴ侯爵の間違いは下役どもを怒らせ事務を停滞させた。彼の過激な王党的言辞は、惰眠と無関心のうちに眠らせておかねばならないはずの人民をかえって刺激した。ある日彼は陛下がかしこくも彼の辞表を受理せられ、同時にロンバルジア・ヴェネチア王国の副大膳職に任じたもうことを知った>

 (2)だが、『ハプスブルグ家の女たち』は、スタンダール見たオーストリア帝国(スタンダールの死後、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が発足)とは異なるそれを見せてくれる。
 すなわち、帝国の華麗な宮廷に綾なす人間模様だ。ハプスブルグ家について、世に知られた言葉がある。
 <戦は他家にまかせておけ、幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ>
 本書は、神聖ローマ帝国(962-1804)からオーストリア帝国(1804-1867)をへてオーストリア・ハンガリー二重帝国(1967-1918)に至るまでの姻戚関係を、主として女性に焦点をあてて綴る。すなわち、フリードリヒ3世(1415-1493)の妻エレオノーレから、女傑マリア・テレジアをへて、最後の皇帝カール1世(1887-1922)の妻ツィタまで。
 帝国において女は皇位継承者を産む道具として扱われてきた。この伝統に叛旗をひるがえして半生を旅に明け暮れたエリーザベトも本書は触れる。実直な夫フランツ・ヨゼフ(1830-1916)は最後まで彼女をかばったらしい。
 皇位継承権より愛する女性を選んだ男たち3名にも言及される。帝国を財政面で支えたヴェルザー家のフィリッピーネと結ばれたフェルディナント大公(1529-1595)、郵便局長の娘アンナ・プロッフルと結ばれたヨーハン大公(1782-1859)、下級貴族の娘ゾフィー・ホテクと7年越しの恋を実らせたフランツ・フェルディナント皇太子。ただし、その妻子はいずれもハプスブルグ家の一員と認められなかった。
 ちなみに、フランツは、火薬庫バルカン半島のサライェボへのこのこと赴き、暗殺されるほど政治音痴だった。これが引き金となって第一次世界大戦が勃発し、戦後まもなくハプスブルグ王朝は6世紀半の歴史を閉じた。

 (3)『ハプスブルグ家の女たち』の続編ともいうべき『ハプスブルグ家史話』は、国家の経営者としての皇帝ないしその一族を物語る。
 帝国には、血族結婚のせいか、ひ弱あるいは奇矯な人物が輩出するが、武断的あるいは有能な統治者もいたらしい。女傑マリア・テレジアや、その5女にしてナポリ王妃カロリーネは、政治的能力に秀でていた。
 本書は、1273年から1918年まで約650年間にわたるハプスブルグ王朝の主要人物を駆け足で素描する。(2)の『ハプスブルグ家の女たち』と記述が重複しないように配慮されているので、併読するに値する。

□江村洋『ハプスブルグ家の女たち』(講談社新書、1963)
□江村洋『ハプスブルグ家史話』(東洋書林、1998)
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【アンリ・トロワイヤ】大帝ピョートル

2016年08月14日 | 歴史

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 本書は17世紀から18世紀にかけてロシアに君臨したピョートル1世を主人公とする歴史小説。
 ピョートル1世は、造船工学から砲術まで貪欲に近代科学ないし技術を吸収し、服装から教育制度まで西欧化を進めた。近代的軍隊を育て、スウェーデンのカール12世を打ち破った。
 かくて大帝と呼ばれるにふさわしい業績を残したのだが、他方では平然と無茶な指令を発し、人命を軽視すること塵芥のごとくであった。お気に入りの側近さえ気分しだいで簡単に斬首し、叛逆者一党に対する処置は残忍きわまる。いわんや名もなき民をや。牛馬以下の扱いだから、新帝都ペトログラードの建設に当たっては、死屍累々となった。
 要するに、大帝の性格は矛盾の塊だったのだ。そして、矛盾の統一は弁証法によらず、動物的な精力によった。パンタグリュエル的暴飲暴食、女とくれば手あたり次第の放埒乱脈な生活。常識とか節度とかいう文字はピョートル大帝の辞書にはなかった。

□アンリ・トロワイヤ(工藤庸子・訳)『大帝ピョートル』(中央公論社、1981/後に中公文庫、1987)
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【本】紀元前400年の調査報道 ~トゥキュディデス『戦史』~

2016年08月13日 | 歴史
 <戦争の諸事態については、私は偶然の情報や、私自身の先入観に基づいて書くことはしなかった。私は私がこの目で見たこと、ないしは他の人々から聞き得たこと以外は何も書かなかった。この場合も、私はこの人々にきわめて慎重に詳細に訊き合わせたのであった。この仕事はとても骨が折れた。というのは、同じ事件を目撃した人々が自分の記憶をたどりながら違ったことをいい、あるいはそれぞれ異なる面の行動に関心をもっていたからである。したがって、私の話し方は、厳密に歴史的な性格のゆえに、耳には快く聞こえないかも知れない。しかし、もし実際に起こった事件の真の姿を見たいと思う人々が私の書いたものが有益であるといってくれるならば、私は満足である>

□トゥキュディデス『ペロポネソス戦争』第1巻、紀元前400年/コーネリアス・ライアン(木村忠雄・訳)『ヒトラー最後の戦闘(上)』(ハヤカワ文庫、1982)のエピグラフを孫引

 ★写真
 トゥキュディデス(久保正彰・訳)『戦史』 (中公クラシックス、2013)
 トゥキュディデス(小西晴雄・訳)『歴史(下)』 (ちくま学芸文庫、2013)
 トゥキュディデス(松平千秋・訳)『歴史(上)』 (岩波文庫、1971)


【中世】悪魔二題

2015年10月03日 | 歴史
 中世には愉快な悪魔も登場した。
 たとえば、埴谷雄高『死霊』の伝えるところの「見る悪魔(ブリッツ・デーモン)」。この悪魔が発止とにらみつけると、睨まれた方はたちまち死んでしまうのだ。
 ある時、くらがりに蠢く怪しい物を見付けた「見る悪魔」くん。いつものとおり、発止とにらみつけた。すると、あーら不思議、当の「見る悪魔」くんがバッタリと倒れ、息が絶えてしまった。
 怪しい物は、鏡に映る自分の姿だったのである。

 あるいは、聖マリエン教会(独、リューベック)の前に座り込んでいる愛嬌のある悪魔。
 この悪魔は、教会建設が始まったとき、ワイン酒場ができると勘違いして、嬉々と建設を手伝った。おかげで驚くべき速さで建設が進んだ。ところが、実はそれが酒場ではなくて教会だと気づいた悪魔くん、怒って完成間近の教会を破壊し始めた。
 人びとはなだめて約束するに、教会ができたら必ずやすぐ近くに酒場を設ける、うんぬん。
 悪魔くん、俄然、機嫌をなおし、破壊を中止した。聖マリエン教会はぶじ完成した。ワイン酒場も・・・・教会のすぐ向かいの市庁舎につくられた。
 この説話、悪魔にことよせて、呑兵衛の呑み権を守っただけにすぎまい。それにしても、人間より人間的な悪魔ではある。

□埴谷雄高『死霊(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(講談社学芸文庫、2003)
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   聖マリエン教会と悪魔
      

【絵画】ユトリロと古きよきパリ

2015年09月13日 | 歴史
    

 (1)「作品--モンマルトル パリ」は、モーリス・ユトリロ(1883-1955)がパリを描いた作品を年代別にとりあげる。
 併せて、
   ①関係する当時の写真、
   ②同じ情景の、現代の写真(<例>サン=ミッシェル河岸)
を付す。
 ユトリロ作品へのガイドであるとともに、ユトリロが活きた時代と今のパリ案内ともなっている。写真豊富で、眺めるだけで楽しい。付図のユトリロ関連地図を片手に、モンマルトル界隈を散策することもできる。

 (2)井上輝夫「モーリス・ユトリロの生涯」によれば、母のシュザンヌ・ヴァラドンは野生児で、人のいうことを聞くような人物ではなかったらしい。モデルとしてピュヴィス・ド・シャヴァンヌを始め、高名な画家をわたり歩いた。ルノアール「ブージヴァルの踊り」の踊り子のモデルはシュザンヌである。
 この間、シュザンヌも画家としての腕を磨いた。
 モーリスがアルコールに溺れ、幽閉状態の晩年を送ったことを、この強烈な個性の母親との関連で見ると興味深い。

 (3)横江文憲「パリ 絵画と写真の出会い」は、ユトリロと同時代人だった写真家ウジェーヌ・アジェに焦点をあてて写真と絵画との関係を論じる。
 ユトリロとの関係でいえば、写真でしか把えることのできない時間(瞬間)を読み取り、それを絵画に昇華していった。それまでの絵画が、ある視点からの対象把握であり、いわば長時間の時空間を平面に構成する。写真を用いることにより、ある瞬間の時空間を平面に構成することができるようになったのだ。
 ただし、ユトリロの場合、写真に対する接し方が違っている。アルコールに溺れ、奇行を繰り返し、泥酔しては乱暴した、そういう姿を知っている人びとから、街中で絵を描いているとき罵声を浴びせかけられ、仕事を邪魔されることもたびたびだった。そのため、ますます孤独な制作を強いられるようになり、おのずと室内で絵はがきや写真を用いて制作するようになったのだ。ユトリロにとって、写真は代理体験できる手段でありさえすれば、それでよかった。写真の持つ平面の表象に眼を向けていたのだ。

□井上輝夫/横江文憲/熊瀬川紀『ユトリロと古きよきパリ』(新潮社(とんぼの本)、1985)
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    ルノアール「ブージヴァルの踊り」
   

【本】「八重の桜」歴史ハンドブック ~NHK大河ドラマ副読本~

2013年05月05日 | 歴史
 2013年5月3日付け朝日新聞によれば、NHK大河ドラマ「八重の桜」が契機となって、新たな史実が掘り起こされた。例えば、八重の最初の夫、川崎尚之助の研究も大きく進んだ。
 川崎は、但馬国出石出身で、会津藩士ではなかった。籠城戦で逃亡した、という見方もあったが、近年発掘された史料によれば籠城戦を戦い抜き、東京にて謹慎後、会津藩士らとともに斗南藩へ移った。食糧調達のトラブルの責を負い、裁判の当事者となり、東京にて病死【注】。

 こうした新たな知見も盛り込んだNHK大河ドラマ副読本が『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 八重の桜』。TVドラマはTVドラマの常として歴史的事実が簡略化されていて、この点が物足りない、という人に便利な本。
 著者は、同社大学神学研究科博士課程(前期)修了後、会津若松教会牧師を経て、新島学園短期大学宗教主任・准教授。「新島襄」「キリスト教入門」を講ずる。
 本書は、テーマごとに見開き1ないし2ページまたは1ぺージごとに記事をまとめてあるから、読みやすい。写真豊富、人物関係図あり年表あり、とざっと眺めるだけでも楽しい。ガイドブックだが、八重の生涯とその関係者、そして変転の激しい時代ををよく浮き彫りにして、頒価1,000円はお得な価格だ。
 本書の構成は次のとおり。

 (1)「ドキュメント 八重の生涯」と題し、八重の2つの人生を追う。写真豊富。
  第1部 幕末のジャンヌ・ダルク(会津編)
  第2部 明治のハンサムウーマン(京都編)

 (2)八重とその時代に対する多角的なアプローチ。
  (a)「明治のキリスト教」ほか、1ページ単位でキーワードを解説。
  (b)兄・山本覚馬および夫・新島襄の小伝。
  (c)(b)以外の関係者(男性)のミニ伝記(人物事典)。
  (d)関係者(女性)のミニ伝記(人物事典)。
  (e)幕末の会津藩研究(会津戦争)。
  (f)史蹟紀行(会津および京都)。
  (g)エッセイ2編(「幕末の会津と八重の戦い」「闘う女の一生 新島八重の生涯」)。
  (h)その他・・・・人物関係図、八重アルバム、コラム「八重異聞」。

 【注】記事「大河効果で新たな史実 研究成果、「八重の桜」に」(2013年月日付け朝日新聞)

□山下智子『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 八重の桜』(NHK出版、2013.1)

   

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【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~

2012年10月17日 | 歴史
【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~

(1)「固有の領土」の言説と脱歴史性
 (a)<尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。>【外務省ホームページ「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」】
 (b)(a)は歴史性を欠く。言及すべきなのに全く触れられていない問題が2点存在する。
  ①領土編入までになぜ10年(1885~1895年)も費やしたか。これが漏れているため、沖縄県が行った「標杭」設置の要請が、中央政府に却下された経緯が見えてこない。
  ②清朝政府が、沖縄の帰属問題について当時再三抗議を行っていた。
 (c)(b)-①について、「標杭」設置が中央政府内部で最初に議論されたのは、1885年ではない(要注意)。実は、1885年9月22日、西村捨三・沖縄県令が山県有朋・内務卿に対して行った上申において、「国標などの件につきご指示をお願い致します」と伺いを立てたのが初見だ。そして、政府部内で山県と井上馨・外務卿との間で議論された結果、同年12月5日、却下する旨通達された。「日本固有の領土であることは歴史的にも明らか」【外務省】であるはずの尖閣諸島の領有化がなぜ却下されたのか。
 (d)【参考】1885年10月21日付け書簡、発:井上馨、受:山県有朋・・・・井上は、ここで尖閣諸島が「清国の国境にも接近」しており、各島の中国語名もあることなどを根拠に、「国標を設置して開拓などに着手するのはまたの機会に譲」るべきと述べる。尖閣諸島の領有化が清朝を刺激することを外務省は強く警戒していた。これは日清戦争開戦まで始終日本側が気にしていたことだった。

(2)伝統中国における版図観
 (a)1871年に締結された日清修好条規の相互不可侵条項(第1条)にいわく、「両国に属したる封土も、各(おのおの)礼を以て相待ち、聊も侵越する事なく永久安全を得せしむべし」。
 (b)(a)は何を意味するか。1875年に当時紛糾中の挑戦問題のために渡清した森有礼と李鴻章が行った会見に遡らねばならない。
  ①森有礼は、朝鮮はインドと同様、中国の属国ではない、と主張する。朝鮮は朝貢を行い冊封を受けているだけにすぎず、中国は朝鮮から税を徴収せず、その政治に関与しないため、属国とは見なせない、云々。
  ②これに対し、李鴻章は次のように主張する。朝鮮は中国に属すること数千年、これを知らぬ者はいない。「属したる封土」(日清修好条規第1条)の「土」という字は中国の各省を指し、これは内地であり、内属している以上、徴税し、政治に関与する。一方、「封」という字は、朝鮮などの国々を指し、これは外藩であり、外属している以上、税や政治はこれまでその国に運営を任せてきた。森のいうように日本の臣民が「属したる封土」には朝鮮を含まれていないと考えているならならば、「将来、条約を改正した時に、“属したる封土”の部分の下に“18省及び高麗、琉球”という文言を書き添えるべき」だ。
 (c)清朝は、「封土」=国土であり属国も「外藩」として「中国」の一部を構成する、と解釈していた。こうした観点に立てば、琉球もまた清朝の「外藩」だった。故に、尖閣諸島への標杭建設は琉球問題へと拡大しやすく、井上馨はそれを恐れていたのだ。
 (d)日本の主流の沖縄認識に沿って考えると、
  ①1872年 第一次琉球処分・・・・琉球王国という国家が琉球藩(外藩)になった。明治政府の沖縄関連業務は、外務省から内務省へと移管された。
  ②1979年 第二次琉球処分・・・・廃藩置県が断行された(琉球藩→沖縄県)。
  ③1872年以後も尚泰・琉球藩主は清朝に対して、朝貢・冊封・正朔の「3つの手続き」を依然受け入れたため、清朝にとって琉球の変化は深刻なものとは映らなかった。むろん、薩摩藩侵攻(1609年)以降、琉球王国が実質的には薩摩藩の強い影響下にあったことは広く知られているが、このことは「3つの手続き」を踏む限り属国に干渉しない清朝政府の対琉球関係と鋭く矛盾することはなかった。「琉球=属国」という名分がまだ動揺する段階ではなかった。

(3)「日本人」と「琉球人」 ~台湾出兵における官人の対応~
 (a)「琉球=属国」という名分が最初に動揺したのは、台湾出兵事件のときだ。
 (b)事の発端は、琉球漂流民殺害事件(1871年)だ。宮古島官民合計69名が、暴風のため台湾南端に漂着。うち54名が、地湾現地の先住民に殺害された。1874年、領民保護と先住民への報復を理由に、明治政府は現地に派兵し、先住民地域を攻撃占領した。
 (c)1871年と1874年の間に、第一次琉球処分があったことは示唆的で、少なくとも日本国内では、琉球藩設置によって琉球藩民=日本国民とする出兵正当化のロジックが構築されていた。
 (d)その一方、日本政府は、攻撃対象の先住民地域を「無住の地」と見なし、「中国」と関連がない、とする立場に立った。清朝中央政府に対する十分な協議を重ねることなしに軍事行動を展開したのだ。
 (e)こうした「不意打ち」は、清朝中央政府を強く刺激した。柳原前光・全権公使が李鴻章と面会した際、李は柳原を詰問した。李は要するに、1871年に殺害されたのは琉球民であり、しかも琉球は清の属国である以上、日本が介入する理由はない、というのだ。
 (f)出兵を「義挙」と認める和睦条約を北京で調印した後、大久保利通は三条実美・太政大臣に宛てた報告で、沖縄の帰属問題が始終敏感な問題であったことを示唆する。「これによって、いくらかは琉球が我が国の版図である形跡を表しました。しかしながら、いまだはっきりとした結論を得るには難しく、琉球の帰属をめぐり、各国から異論が持ち出されることが無いだろうとまでは言いきれません」・・・・列強の介入を懸念しつつも、排他的主権を沖縄に確立しようとする意志が表れている。
 (g)台湾出兵の翌年(1975年)5月、明治政府は琉球藩に対し、清朝との朝貢-冊封関係の廃止と、明治年号の使用を命令した。・・・・琉球の属国としての地位は、朝貢・冊封・元号(=正朔)の「3つの手続き」が核心だったから、日本側のこうした動きに対して何如璋・駐日公使は激しい非難を浴びせた。何公使には、清朝が仮に琉球を放棄すれば次は台湾と朝鮮が狙われる、という安全保障上の危機感があった。
 (h)日本政府の意図的な遷延戦略のため何公使の怒りは空回りし続け、日清間交渉は時日を空費した。日本政府の「決める政治」は功を奏し、1979年3月、琉球の廃藩、沖縄の置県が強行された。かくて、沖縄への排他的主権を正当化するための実効統治の実績が積み重ねられていった。

 (続く)

 以上、羽根次郎「尖閣問題に内在する法理的矛盾 ~「固有の領土」論の克服のために」(「世界」2012年11月号)に拠る。
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【読書余滴】NHK「みんなのうた」50周年&昭和家庭史

2011年03月07日 | 歴史
 「志村建世のブログ」によれば、NHK「みんなのうた」は今年3月末でまる50年間放送することになる。志村氏は、この番組2年目の昭和37年4月から38年9月まで間を担当した。
 50年間に世に出た約1,300曲のうち、初年度には「かあさんのうた」「トロイカ」などが、2年目と3年目の上半期には、「大きな古時計」「ドレミの歌」「アルプス一万尺」などが放送された。
 初期には、当時無名の歌や外国曲を発掘したり、外国曲に新しい歌詞をつけた、という。「かあさんのうた」は後藤田純生チーフが歌声喫茶から「拾ってきた」し、「おお牧場はみどり」は資料室の外国民謡から拾いだしたのだ。
 著作権に関してアバウトな時代だったらしい。「おお牧場はみどり」は、すでに歌詞がついていたが、出だしの「ああ牧場はみどり」を元気な「おお」に変えた。「白銀は招くよ」の歌詞「雪の山は恋人」を「雪の山は友だち」に勝手に変えたりもした。当時の「少年班」では恋はご法度だったのです、うんぬんと志村氏。
 NHKから楽譜を取り寄せて生徒に教える学校の教師が非常に多かったらしく、とくに毎日流す「今月の歌」が大事だったそうだ。じじつ、風紋子は「みんなのうた」を小学校の音楽の時間に教えられた。中学校時代には、音楽の時間に「クワイ河マーチ」をハーモニカで吹いた。そして、クラスメートとともに、市の文化祭(だったと思う)で演奏した。ただし、この曲、亡父の集めたレコードの1枚に「ボギー大佐」というタイトルで収録されていたから、それまでに一度は耳にしていたはずだ。

 風紋子が「みんなのうた」を学校経由で知った理由のひとつは、テレビはあまり見ない子どもだったからだ。それでも、いくらか見た記憶はある。
 昭和35年には、どんな番組が放送されていたのだろうか。『昭和・平成家庭史年表』の文化・レジャーの項目を参照すると、「ハイウェイパトロール」が放映されている。これは時々見た。ただし、同年7月4日には放送中止されている。同年6月30日、「NHKテレビ、浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件によりテレビでの殺人や暴力シーンの追放を決定」したからだ。・・・・しかし、浅沼委員長刺殺事件は同年10月12日のことだ。妙な記事である。
 昭和36年には、4月3日にNHKテレビで朝の連続テレビ小説第1作「娘と私」が放送を開始した。当然ながら、これは見ていない。6月4日には日本テレビで「シャボン玉ホリデー」が放送開始。親が見ている横で覗いたことはあるが、最初から最後までちゃんと見たことはなかった。テレビではないが、「少年サンデー」に「伊賀の影丸」が連載を開始したのは、この年の4月だ(昭和41年10月まで)。「少年サンデー」は、小学生3年生から卒業するまで定期購読していたから、毎回読んでいた。
 昭和37年には、5月4日からTBSテレビで米国テレビ映画「ベン・ケーシー」が放送開始。空前のヒットだったらしいが、これは見てない。というより、当時は山陰の県庁所在地には配信されていなかった。テレビではないが、この年の11月からプラモデルのブーム(第一次ブーム)が始まった。風紋子も、この頃、プラモデルをせっせと制作した。不細工な出来の作品を、亡父がたんねんに仕上げた記憶もある。

  さまざまのこと思い出すさくらかな  芭蕉

【参考】下川耿史/家庭総合研究会『昭和・平成家庭史年表 1926-2000』(河出書房新社、2001)
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