語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

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【読書余滴】Google の奇妙さ、ウェブの奇妙さ ~「現代思想」誌の「Googleの思想」特集から~ 

2010年12月31日 | 批評・思想
 Googleは、奇妙な存在だ。よくも悪くもない。ただ、変な存在だと思う。
 Googleは、設立当初から「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というヴィジョンを掲げている。情報をシンプルにします、という内容だ。そのGoogleが、これほどまでに混沌として状況を作っている。彼らのもくろみどおりには進んでいない状況を含めて、「奇妙」という言葉を使っている。

 Googleは、それ以前の検索エンジンと異なって、非常に精度のよい結果が出るうえに、その精度がいつまでも維持されている。
 なぜGoogleだけにそれが可能だったか。
 Googleの名高い検索アルゴリズムに「ページランク」がある。これは、「みんなが『このページはよい』と言ったページは、きっとよいものである」という簡単な仮説に基づく。ウェブの世界において「よい」という言明(相対的評価)は、ウェブページ間のリンクで表現される。みんなからよいと評価されたページによってリンクされたページもまたよいものである、ということだ。これら評価の連鎖関係をコンピュータで計算することができれば、最終的にページの絶対評価は自ずと決まる。こうしたやり方を提示し、サービスとして提供したのがGoogleの画期的な点だった。
 外からの評価は、簡単にはコントロールできない。だから、登場以来10年以上経ても検索精度は落ちない。Googleが信頼される所以である。

 「奇妙さ」の第一。
 あるページを評価するためには、ウェブ上に存在する膨大な全ページを隈なくチェックしなければならないはずだ。「世界中の情報を整理する」という手段は、目的となってしまう。「世界中の情報を整理することによって、それを整理する」としか言いようのない状況になってしまった。
 整理の対象としているウェブの規模が拡大していくのであれば、それに寄りそう形でGoogleも大きくならなければならない。自らの拡大をやめた途端に「情報の整理」ができなくなるからだ。
 Googleは巨大化したが、半分は意識的に大きくしているのだとしても、半分は仕方なく大きくなったのではないか。
 Googleの成長過程では、検索連動広告の「発見」があった。これにより潤沢な収入を得ることができて、規模の拡大が可能になった。Googleが保持する何十万~何百万台のコンピュータに電力を安定的に供給するために発電所の建設までやった。その側にデータセンターを建設した。これらハードウェアの設計から、関係するソフトウェアも自分たちで作る。それらすべてが「世界中の情報を整理する」というヴィジョンに奉仕している。
 ここまでして情報は整理されなければならないものか。

 「奇妙さ」の第二。
 先日、Googleのデザイン責任者だったダグ・ボウマンの退社が話題になった。他の企業と同じくGoogleにおいてもデザインは重要な要素なのだが、デザインに係るGoogleの意思決定の過程がボウマンにとって問題だった。
 Googleでは、たとえば検索結果のページに使用される水色は、コンピュータで使用できる1,600万色以上の色調のなかから選ばれる。考えうるかぎりの微妙に異なる水色のパターンを用意しておき、ユーザーに対してランダムに提示する。Googleには一日あたり何億ものアクセスがある。表示した色の違いによってリンクのクリックが多かったかどうかの変化を統計的に算出する。最終的にクリック率がもっとも高かった色が自動的に採用される。・・・・これがGoogleの基本的なデザインプロセスである。
 デザイナーが生成するのは、デザイン「案」である。ほんとうに選択と決定をするのはユーザーだ。ただし、対話的にユーザーの声を聞いているのではなく、統計的に把握し、それだけが決定権をもつようなシステムを構築しているのだ。
 フィードバックの概念、つまり外部からの反応が次の振る舞いを規定するということが、人間の知的活動であるデザインの世界まで入りこんだのだ。
 ある主体がアイデアを出し、それに他者が応答していくプロセスが統計とフィードバックによって置き換えられる・・・・将来的には、エンジニアリングに対してもこのようなことが起きる可能性がある。
 これに恐怖を感じる人間が出てくるのも当然だろう。

 しかし、Googleだけが奇妙なわけではない。その土台たるウェブもまた奇妙なのだ。
 ウェブが誕生したときから、ユーザーは読み手、書き手、編集者、評価者の役割が「混在」していた。
 この特性をGoogleは十分に活かした。最近では、ソーシャル・メディアがその特性を見事に体現している。ウィキペディアもそうだ。
 ただし、こうした特性は、ウェブが誕生して10年間くらいは誰にも認識されていなかった。だから、初期のヤフーは電話帳のウェブ版をめざした。
 こうした流れを考えると、Googleへの人々の怖れを再考する必要がある。それは、ウェブが提示する世界観、以前とまったく異なる世界観に対する怖れなのだ。
   
 情報間のリンクと、人間の間のリンクには質的な違いがある。人間ならばリンク先とリンク元を見ればその意味するところは理解できるが、コンピュータにその区別は難しい。だから、現在のウェブは、それらの意味を無視して構築されている。意味を無視したことで構築が容易になり、ウェブの爆発的な拡大が起こった。
 情報と情報との間にある多様なつながりを表現できる環境を構築するために、ウェブにどのような要素を加えるべきか。これを考えているのがセマンティック・ウェブという研究分野だ。コンセプトは、人工知能という先行研究分野とウェブとの融合である。

【参考】大向一輝「Google の奇妙さ、ウェブの奇妙さ」(「現代思想」2011年1月号所収)
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【詩歌】ロバート・フロストの、「雪の夕べに森のそばに立つ」

2010年12月30日 | 詩歌
 この森の所有者はだれか、わたしにはわかっている。
 だが、彼の家は村の方にある。
 雪の降り積もった森を眺めようと
 ここに立ち止まっているのは彼に見えないだろう。

 わたしの小さな馬は不審に思っているに相違ない。
 森と凍った湖のあいだ
 近くに農家もないところに立ち止まるのを。
 それも一年じゅうで一番暗い夕べに。

 馬は何か間違ったことはないかと
 馬具についた鈴を一ふり鳴らす。
 あたりでほかに聞こえるものは
 雪片を伴って吹きすぎる風の音ばかり。

 森は美しく、暗くて深い。
 だが、わたしには約束の仕事がある。
 眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。
 眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。


  Stopping by Woods on a Snowy Evening

 Whose woods these are I think I know.
 His house is in the village though;
 He will not see me stopping here
 To watch his woods fill up with snow.

 My little horse must think it queer
 To stop without a farmhouse near
 Between the woods and frozen lake
 The darkest evening of the year.

 He gives his harness bells a shake
 To ask if there is some mistake.
 The only other sound's the sweep
 Of easy wind and downy flake.

 The woods are lovely, dark and deep,
 But I have promises to keep,
 And miles to go before I sleep,
 And miles to go before I sleep.

□ロバート・フロスト(安藤一郎訳)「雪の夕べに森のそばに立つ」(『世界詩人全集第12巻 ディキンソン・フロスト・サンドバーグ詩集』、新潮社、1968、所収)
□Robert Frost(edited with an introduction by Ian Hamilton)“SELECTED POEMS”(published in Penguin Books,1973)
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【読書余滴】「現代思想」特集 Googleの思想

2010年12月29日 | 批評・思想
 以下、「特集=Googleの思想」の目次。
   
【何をもたらしたか】
 ・オープン情報社会の裏表・・・・西垣通
 ・Google の彼方へ・・・・アリエル・キルー+ヤン・ムーリエ・ブータン(松本潤一郎・訳)

【検索とは何か】
 ・グーグル的なものとどうつき合うか・・・・高野明彦
 ・Google の奇妙さ、ウェブの奇妙さ・・・・大向一輝

【神経】
 ・インターネット時間と自然時間の調停・・・・ドミニク・チェン

【思想】
 ・検索不可能性・・・・港千尋
 ・グーグルによる 「汎知」 の企図と “哲学” の終焉・・・・大黒岳彦

【資本主義】
 ・グーグル〈ページランク〉のアルゴリズム
   認知資本主義のダイアグラムと 〈共通知〉 の寄食者(レンティア)・・・・マッテオ・パスキネッリ (長原豊・訳)
 ・グーグル的なるものについて 情報空間の植民地主義・・・・小倉利丸

【監視】
 ・グーグルの私生活への侵入(ハッキング) 資本主義の戦略の中心で?・・・・エリック・ジョージ(黒木秀房・訳)
 ・装置としての 〈Google〉・〈保健〉・〈福祉〉 〈規準〉 で適正化する私たちと社会のために・・・・柴田邦臣

【想像力】
 ・注意を払う/支払う・・・・ジョナサン・ベラー(石岡良治・訳)
 ・グーグル小作人たちの新しいラッダイトのために・・・・白石嘉治

【フリー】
 ・「フリー・カルチャー」 イデオロギーと サボタージュの文法・・・・マッテオ・パスキネッリ(訳=長原豊)
 ・Google と情報横断性・・・・和田伸一郎

【参考】「現代思想」2011年1月号(青土社、2011.1.1.)
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書評:『プロフェッショナルたちの脳活用法2 -育ての極意とアンチエイジング-』

2010年12月28日 | 医療・保健・福祉・介護
 副題にあるように「育て」が主題で、子ども、部下、自分の脳の育て方に前半の3章をあてる。後半の3章は、脳の老化対策である。
 子どもの育て方の基本は、自発的行動の尊重である。親や教師は、積極的に観察しながら辛抱強く待ち、見守る。与えるのは答えではなくヒントだ。そして、褒め上手は子どもの育て上手である。
 部下の育て方の基本は、任せることだ。上司は目標設定し、安全基地(セキュアベース)を提供するが、細部に口だししない。失敗した場合をふくめて、まるごと部下を受け入れること。まずは評価できる部分を褒めて、聞く耳を持たせること。そして、上司の聞き上手は部下の育て上手である。
 自分の育て方も基本的には子どもや部下の育て方と同じなのだが、自分にしかできないのは、後悔すること。失敗を点検し、次の機会に活かすのだ。将棋の感想戦では試合よりも時間を費やす。相手の視点に立つことで自分の長所や欠点が見えてくるし、思考の幅が飛躍的にひろがる。そして、逆境をバネにすること。脳に限界はない。自分に限界はない。
 脳の育て方は、逆にみれば脳の老化の防ぎ方となる。
 アンチエイジングに係る後半の3章に記される具体的な対処法は、読んだその日から実践できることばかりだ。たとえば、適度に体をうごかし、これを習慣にすること。家事にはアンチエイジング効果がある。あるいは、その日の出来事は、翌日思いだしながら記録すること。また、おしゃべりは脳を若返らせるし、おしゃれは脳を活性化する。そして、学習。好きなことを楽しく学ぶのだ。

 本書は、以上のように、最初は駆け足でざっと拾い読みするとよい。細かい理屈はとばして、何をするべきかに着目するのである。再読の段階で、行動と脳との関係に注意をはらうのだ。脳科学的根拠を押さえることで、なぜこうすればよいかが納得できる。そして、それぞれの「育て」に共通する要因、相互の関連も見えてくる。
 たとえば、後悔すること。ネガティブな感情だからよいことはなさそうに見えるが、脳科学的にみればそうではない。後悔するとき、眼窩前頭皮質が活発に働く。眼窩前頭皮質は、環境の変化に対する適応力を司る部位だ。後悔すると、神経回路のつなぎかえが行われ、次回は後悔しないですむよう脳が工夫するのである。
 前作『プロフェッショナルたちの脳活用法』は、新書にしては情報量が多く、いささか詰めこみすぎで、意余りて言葉足らずの感があった。この点、本書は手ごろな情報量だ。2本のTV番組をもとに、1冊の新書をこしらえたからだ。
 したがって、前作と本書は、刊行順に読むのではなく、本書を読んだあとで前作にもどるほうが、読者にとってはわかりやすいと思う。

□茂木健一郎・NHK「プロフェッショナル」製作班編著『プロフェッショナルたちの脳活用法2 -育ての極意とアンチエイジング-』(NHK出版生活人新書、2010)
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書評:『図解ユダヤ社会のしくみ -現代ユダヤ人の本当の姿がここにある-』

2010年12月27日 | 社会
 本書は、ユダヤ人の宗教とその社会、そして現代のイスラエルという国家をわかりやすく紹介する。手頃な分量だし、読みやすい構成だ。「2時間でわかる」と銘打つのも、あながち誇大な宣伝ではない。
 ただ、注意しなければならないのは、著者の立場である。
 イスラエルは、敵意あるアラブ諸国の大海に浮遊する小舟である。1948年の建国以来、周囲の国々と戦さを重ねてきた。1993年にイスラエルとPLOが相互承認したことで紛争は一段落したかに見えたが、イツハク・ラビン元首相が暗殺後、政治情勢が変転に変転を重ねた。2003年10月現在、中東和平は混迷の度を加えている。かかる情勢を中立の立場で見るのは難しい。
 著者の立場は明白である。たとえば、パレスチナ難民については、ほとんど言及されていない。わずかに言及されている箇所では、イスラエル建国当時「戦争でパレスチナ人の難民問題が生まれ、ユダヤ人側にもほぼ同数のユダヤ人難民が発生しました。アラブ諸国から追い出されたのです」と書くのみ。お互いさま、というわけだ。
 ユダヤ人難民が生じたのは事実であり、この事実がしばしばマスコミの話題となるパレスチナ難民にくらべて看過されているのはたしかである。だから双方を公平に見るべきだ、という議論は、ユダヤ難民の現在とパレスチナ難民の現在とを比べると、説得力が薄い。
 とはいえ、極力客観的な情報を提供しようとしている姿勢が伺えるから、本書は日本の読者がさらに詳しく知るための一つの資料として利用できる。その意味で、参考文献の紹介があれば親切だった、と思う。

□滝川義人『図解ユダヤ社会のしくみ -現代ユダヤ人の本当の姿がここにある-』(中経出版、2001)
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書評:『日本リベラリズムの系譜 -福沢諭吉・長谷川如是閑・丸山真男-』

2010年12月26日 | 批評・思想
 本書は、福沢諭吉、長谷川如是閑、丸山真男の三者に焦点をあてて、明治・大正・昭和120年間におけるリベラリズムの展開を追う。
 福沢と長谷川に共通するのは、世界への通路として英語を選択し、政治的モデルを英国の漸進的改良主義に求めた点だ。ただし、福沢は古典的リベラリズムにとどまったが、長谷川は社会的デモクラシーに歩を進めることで福沢を「乗り超えた」と著者は見る。
 丸山は、その父を通じて長谷川に近く、マルクス主義を経由したリベラリズムは福沢諭吉の復権にも示される。東西のイデオロギー対立の中で、「戦後民主主義の期待可能性と発展に賭け」た。
 三者に共通するのは、権力と距離を置いた点だ。影響力は権力によらず、ことに言論すなわち著書、新聞、雑誌を通じて発揮された。
 言論の人としては、長谷川如是閑に注目したい。福沢や丸山は活動の力点を教育に移したが、長谷川は終始ジャーナリストであり続けた。その特徴は、ファシズムへの抵抗のしかたにも見られる。常に法の枠内にとどまり、集団的闘争の危険性を見てとると、『我等』の後身『月刊批判』を廃して個人の立場で闘った。西欧的な考えによる外からの批判の限界に気づくと、日本の古典研究を通じて、官憲側が鼓吹する日本主義、皇道精神を内側から突き崩そうとした。こうした「迂回作戦」は、丸山真男の日本政治思想史研究に受けつがれる。時代の先を見とおす眼力もさりながら、状況に応じて柔軟に戦術を変えつつ発言し続けた粘り腰は、もっと知られてよいと思う。

□田中浩『日本リベラリズムの系譜 -福沢諭吉・長谷川如是閑・丸山真男-』(朝日選書、2000)
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書評:『ついていく父親』

2010年12月25日 | 社会
 子育て受難の時代である。いじめ、不登校、学級崩壊、児童虐待・・・・解決にこれといった決め手のない問題ばかりだ。だから議論百出する。本書は、今日の親子関係を「家族のエロス」の低下に着目して議論を展開する。
 「家族のエロス」とは、家族の一員が他の家族を受けとめる力のことである。その低下の有力な原因は女性に「自分」が出現したためだ、と著者は言う。出産は「自分」のために、といった意識のことだ。
 これはこれで何ら不都合はない、と思う。けれども、この結果、母親が自分の不満を容易に子どもに転嫁することになったならば、看過できない。かって、母子心中は母子未分離の心理に起因する、と指摘されたことがある。子どもの独立した人格を認めない点で昔も今も変わりがなく、しかも母親に対する子どもの従属性が強まったことになる。
 じつは、本書の焦点は父親にあてられている。ことに、保育と就学を最高の価値とする教育家族における「教導する父」である。父親は教導し、母親は父親に随順するという関係が典型らしい。父親は、わが子に、自分と同じような、あるいは逆に自分がはたせなかった高学歴を期待するのだ。期待は、しばしば通学や塾の強制という形をとる。学校との関係では、父親は学校という権威・権力と子どもをつなぐ役割しか果たさないケースを著者は紹介する。子どもの側には立たず、子ども自身のあるがままを受け入れないのである。すなわち、家族のエロスの低下である。ここでも、子どもの独立した人格を認めていない。
 本書の基調低音をなすのは、子どもの自己決定権尊重である。
 当然と言えば当然の話だ。しかし、実行はさほど容易ではないだろう、と思う。親の価値観を子どもに押しつけないためには、親は自分の価値観を相対化する作業が必要だからだ。母親においても、父親においても。後者の場合、社会、ことに父親がその中で働く集団、端的には会社の価値観と重なる傾向があるから、会社にとっぷりと身も心もひたす生き方が問われる。

□芹沢俊介『ついていく父親』(新潮社、2000)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、経済危機後の1940年体制(4) ~最後に残った40年体制:日本型企業~

2010年12月24日 | ●野口悠紀雄
 1940年体制を構成するいま一つの重要な要素は、「日本型企業」である。これは、企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用によって構成される。
 これらも、日本経済の変貌に伴って、大変化が見られた。ことに90年代後半以降、製造業の成長が頭打ちになるにつれ、顕著になった。労働組合の影響力は低下し、終身雇用は保障されなくなった。雇用構造が正規労働者を中心とするものから転換し、非正規労働者が増加した。賃金構造も変わった。
 しかし、次の面では「日本型企業」が根強く残っている。40年体制を構成する要素の中で最後まで残ったものが、これだ。そして、日本経済の改革に対する大きな阻害要因になっている。

(1)閉鎖性
 日本型企業は、閉鎖的で、外に開かれていない。
 企業間の労働力移動は、いまだに限定的だ。とりわけ、企業の幹部や幹部候補生が企業間を移動することは、めったにない。経営者が内部昇進者であることは、少なくとも大企業に関するかぎり、まったく変わっていない。
 日本には、経営者の市場が存在しない。経営が組織の範囲を超えた普遍的な専門技術であるという認識がないからだ。日本の大企業で、内部昇進のルートをとらない最高幹部が誕生したのは、経営破綻した企業か(日本航空)、その後身か(新生銀行)、経営危機に陥った企業(日産自動車)でしか見られない。
 大企業の幹部は、経営の専門家ではなく、その組織の内部事情(とりわけ人的関係)の専門家であり、過去の事業において成功してきた人々だ。よって、企業経営の究極的目的は、これまで築いてきた企業の姿と、従業員の共同体を維持することに置かれる。時代の変化に適応して企業の事業内容を変化させることは、相対的に下位の目標とされる。環境が変わっても、過去に成功した事業を捨てない。過去に成功した人々が実験を握っているから、過去の成功にとらわれて、変化する世界の中で変革を拒否する。
 かくて、本来は未來を開く推進力となるべき企業が現状維持勢力となってしまう。世界経済の大変化にもかかわらず、これまでのビジネスモデルを継続することに汲々とし、企業の存続だけを目的とするようになる。

(2)市場経済システムの否定
 日本型企業は、市場経済システムに対する否定的な考えに強く影響されている。
 株式会社制度は、株式の売買が自由に行われることを前提にしている。業績のふるわない企業の株価が下落し、経営に影響が及ぶことが期待されている。
 しかし、日本の大企業の多くは、株式の持ち合いによって、こうした圧力から守られている。外貨の導入に強く抵抗する。このため、市場の圧力が経営に影響しない。この意味においても、日本の大企業は閉鎖的である。
 日本経団連は、こうした考えを正当化している。資本主義の根本原理を否定し、資本の論理に任せるな、と主張している。きわめて奇妙な光景だが、経団連は戦時期の「統制会」の上部団体が1945年に名称を変えたものだ。当然いえば、当然のことだ。
 新しい産業が生まれる力は市場に存在する。その力は、上記のようなメカニズムが働くことで、日本経済から失われている。その結果、日本経済はグローバルなスタンダードから外れ、衰退していく。
 経済に活力が失われ、新しく発展するよりも従来のものを守りたい欲求が強まると、高度成長期以上に1940年体制的な色彩が濃厚になる。

(3)「アカ」の過激思想家・岸信介
 (1)と(2)の日本企業の特性は、日本社会の必然であり日本社会に固有のものである・・・・わけではない。戦前の日本企業は、戦時と日本企業とはきわめて異質なものだった。日本にも「欧米流の資本主義」があった。
 株主が会社の経営者を選任し、経営の基本を決めるのが株式会社制度だ。形式的には日本企業もこの形態をとっているが、形骸化している。
 しかし、戦前の日本では、株主の影響力が強く、実態もそうだった。ところが、戦時経済改革によって銀行融資の重要性が高まったため、企業構造は大きく変質した。とくに大企業においては、株主の影響力は形骸化し、企業は実質的には経営者と従業員の共同体になった。
 これは、社会主義経済における国営企業に近い。日本の経済史は、1940年前後に大きな不連続を経験している。
 商工次官岸信介をはじめとする「革新官僚」は、「所有と経営の分離」をめざした。公共的な目的への奉仕だ。このため、配当を統制し、企業が「資本に拘束せらることなく生産の確保増強及び拡大再生産に対する国家的責任」を果たせるようにしようとした。
 当時の財界は、市場経済の思想にのっとって、強く反対した。当時の日本では、岸は「アカ」の思想の持ち主とされた。
 今日、岸は「保守反動政治家」の代表選手と目されている。日本人の考えは、戦時期を経てガラッと変わったのだ。
 40年当時の革新官僚の「過激な思想」は、戦後日本の標準になった。そして、今の日本でも当たり前のものと考えられている。

(4)国際競争
 日本企業は資本面で国際競争にさらされていない。だから、日本企業は変革できない。資本面からみると、日本は鎖国状態にある。
 このため、経営者は直接競争にさらされることがない。競争は、経済パフォーマンスを向上させる最も基本的な手段だ。日本では、製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争はない。
 外資に対して、日本の経済界はつねに「脅威」と警戒する。しかし、外国の資本が日本に入ってくるのは、従業者にとっては歓迎するべきことだ。経営に刺激を与えて日本経済を活性化する、と期待されるからだ。
 2007年に三角合併が解禁されたが、ほとんど効果をあげなかった。経団連は強く反対し、経産省も海外企業進出事案に反対した。日本企業は必死に防衛策を固めた。
 かつては、どの国も程度の差はあれ、外国資本の進出にはネガティブだった。80年代に日本が米国を買ったときにも、米国国内で強い拒否反応が起きた。
 しかし、これに関する状況は、90年代に大きく変わった。そして、外国企業の進出にオープンな姿勢をとった国が発展した。その典型は、英国とアイルランドである。

   *

 以上、参考文献の第11章「3 最後に残った40年体制:日本型企業」に拠る。
 これに続く「4 未來を開くために何が必要か」において、野口は日本が対処する方法を示す。第一、古いものの生き残りや現状維持を助けない。第二、このままでは生き残れないと認識する。また、日本経済活性化のために、人材と資本で日本を外に向かって開き、「閉じこもり」から脱却することを説く。詳しくは、本書をご覧いただきたい。

【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、経済危機後の1940年体制(3) ~世界経済構造の大変化~

2010年12月23日 | ●野口悠紀雄
 90年代以降、日本や独国などの産業大国が没落し、その半面、米国、英国、アイルライドなど「脱工業化」した国がめざましい発展を遂げた。
 一人当たりGDPをみると、日本は90年代の初めには主要国中トップだったが、09年には17位にまで落ちこんだ。その半面、70年代までは欧州で最も貧しい国といわれていたアイルランドは、90年代以降大成長を遂げ、主要な先進国を追い抜いた。09年でも、日本の1.3倍ほど高い。
 このような現象が生じた原因は、80年代以降の世界経済構造の大変化である。

(1)新興国の勃興
 大量生産の製造業において重要なのは、新しいものの創造ではなく、規律である。全員が共通目的の達成をめざして、所与の職務を性格に遂行することが求められる。また、金融も、市場メカニズムにしたがって資金配分される直接金融より、資金配分を政府がコントロールできる間接金融のほうが都合がよい。これに軍事国家の要請が重なって、日本の戦時経済体制ができあがった。
 この体制は、1940年頃の世界では、決して特殊なものではなかった。
 第二次大戦後の世界でも、70年代までは、技術の基本的性格はそれまでと同じものだった。だから、産業構造も変わらなかった。この時代の中心産業は、製造業、なかんずく鉄鋼業のような重厚長大型装置産業と、自動車のような大量生産の組立て産業である。産業革命によって始まった経済活動が行き着いた究極的な姿である。
 このような環境の中で、戦後も戦時経済体制を維持し続けた日本が良好な経済パフォーマンスを実現できたのは、当然のことだ。

 しかし、今やアジア新興国が工業化した。最初は、韓国、台湾、シンガポール、香港。続いて中国。これら諸国が低賃金を用いて工業製品を安価に生産できるようになったため、先進国における製造業は優位性を失った。製造業中心国は、立ち遅れることになった。

(2)情報技術の変化
 80年代以降の世界では、技術体系に大変化が生じた。
 情報処理と通信の技術が、集中型から分散型に移行した。コンピュータは、大型汎用計算機からパソコンへ移行した。通信は、電話や専用回線からインターネットへ移行した。この変化は、経済構造の根幹に本質的な影響を与えた。
 情報処理システムが集中型だった時代には、経済システムでも中央集権が有利だった。
 日本の戦時経済体制も、中央集権的色彩が強いから、古いタイプの情報システムに適合していた。米国でも、70年代までは、組織の巨大化・集権化が進展し、政治面では連邦政府の比重が増したのである。
 ところが、90年代以降の情報技術の変化は、このパラダイムを根本から変革した。分散型情報システムが進歩すると、分散型経済システムの優勢性が高まる。したがって、計画経済に対して市場経済の有利性が増し、大組織に対して小組織の優位性が高まるのだ。
 経済活動の内容も、産業革命型のモノ作りではなく、金融業(投資銀行的業務)や情報処理産業の重要性が増す。

 中国などの工業化の影響とともに、技術上の大変化が産業構造の変革を要請したのだ。
 こうした経済活動には、ルーチンワークを効率的にこなすことではなく、独創性が求められる。集団主義ではなく、個性が重要になる。政治的にも地方分権が望まれる。
 統制色の強い戦時経済体制は、新しい体系の下では、優位性を発揮できない。むしろ、変革と進歩に対して桎梏となるのである。

   *

 以上、参考文献の第11章「2 戦時経済体制が有利である時代は終わった」に拠る。

【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、経済危機後の1940年体制(2) ~二つの経済危機と1940年体制~

2010年12月22日 | ●野口悠紀雄
 石油危機(70年代)と今回の世界経済危機(07~09年)では、危機後の日本経済のパフォーマンスに大きな相違があった。

(1)石油ショック
 73年の第一次石油ショック及び79年の前まで、先進工業国は安価な原油の安定的供給を基礎に経済成長を謳歌してきた。しかし、こうした経済構造は根底から揺るいだ。
 その後、世界経済は徐々に回復していったが、その程度は国によって大差があった。多くの欧米諸国では、経済停滞が長引いた。とくに米国と英国が深刻だった。
 石油ショックへの対応において、賃金決定のメカニズムが決定的な重要性を持った。欧米では、物価スライド条項を含む賃金協定が普及していたので、スタグフレーションに陥ったのである。
 かかる事態に対処するため、欧州(とくに英国)では「所得政策」の導入が論議された。しかし、これは統制だから、自由主義経済では難しい。

 ところが日本では、所得政策と同じことが、自然発生的に実現できた。戦時経済体制を引き継いだ日本では、企業別労働組合が企業別に賃金交渉を行う仕組みが定着していた。しかも、企業一家主義が一般的だった。だから、労働組合は経営者と一体となり、賃上げよりも会社の存続を優先した。こうした「経済整合性路線」が鉄鋼労連など金属労協を中心として結成され、第一次石油ショック直後に見られた実質賃金重視の方針から早期に転換し、賃上げを自制するようになった。
 また、日本では企業内での配置転換は比較的容易に行えた。このため、経済の構造変化に対して柔軟に対応できたのである。
 賃金上昇圧力が低かったため輸出が増大し、経常収支黒字が拡大した。このため国内インフレが抑制された。また、輸出増大によって不況も克服された。かくして、好循環を実現できた。
 日本経済は大打撃を受けたものの、比較的早期に立ち直った。80年代以降、世界経済でめざましい躍進を遂げた。ドイツと並んで世界経済をリードした。

(2)リーマンショック
 今回の危機においても、日本経済は大打撃を受けた。そして、石油ショックの時とは異なり、10年にいたっても危機前の経済水準を取り戻すことができない。
 他方、危機の原因を作った米国経済は、危機から脱却している。米国の失業率が高いのは事実だが、GDPは回復している。
 日米間において、石油ショック時とは逆の現象が生じている。
 企業利益の差も明白だ。2007年4-6月期と2010年4-6月期を比較すると、全産業は、わけても製造業は、奈落の底から這い上がったものの、まだ危機前の水準は取り戻せない。
 その半面、米国の場合、同期を比較すると、全産業は危機前の水準を取り戻し、それより3.5%高い水準になっている。危機の原因を作った金融業も、かなり回復している。情報関連は、3割近く高い水準で過去最高を更新しつつある。
 利益率を見ても、日本企業は立ち遅れている。

 40年体制は、石油ショックにおいてポジティブな役割を果たした。そして、日本が石油ショック克服の優等生になったため、戦時経済システムが生き残った。しかも、強化する結果となった。日本人は、「日本型経済システム」に自信過剰となった。
 これが、金融危機においては不利に働き、ネガティブな影響を与えている(次回以降詳述する)。

(3)1940年体制の変貌
 40年体制は、すべての側面において元のままの形で残ったわけではない。日本経済は、80年代後半のバブルと90年代のバブル崩壊を経て大きく変質した。90年代後半からは経済成長が停滞するようになった。この過程で、40年体制も変化を余儀なくされた。
 40年体制の中核的部分のうち、官僚制度と金融制度における40年体制は、90年代からの日本経済衰退過程において大きく変質し、主要な要素が消滅した。その象徴は、日銀法の改正であり、大蔵省、通商産業省という名称の消滅だ。実体面をみれば、金融制度は大変化した。40年体制金融制度の代表、長期信用銀行が消滅した。都市銀行も再編され、少なくとも表面的な姿は変わった。企業の資金需要が減退し、資本取引が国際化したため、統制的な色彩が強かった金融体制の役割が大きく低下した。大蔵省、通産省などの経済官庁の地位が低下したのも、市場経済の進展に伴って、統制的な経済規制のはたすべき余地が少なくなったからだ。

 他方、40年体制の中核的部分のうち、税・財政制度には40年体制的制度が依然として根強く残っている。税・財政は、もともと市場経済とは別の存在だから、経済情勢の変化に応じた変化は生じなかったのだ。給与所得税と法人税を中心とする税制の構造は、ほとんど変わっていない。
 また、地方財政が国の財政に大きく依存する構造も変わっていない。
 いま一つ残ったのが、「日本型企業」の閉鎖的体質だ。そして、市場メカニズムを否定する考えである。

   *

 以上、参考文献の第11章「1 二つの経済危機と1940年体制」に拠る。

【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、経済危機後の1940年体制(1) ~増補版・1940年体制 さらば戦時経済~

2010年12月21日 | ●野口悠紀雄
 1995年刊の『1940年体制 -さらば戦時経済-』は、2002年に新版を出し、第11章を追加した。
 この第11章を、このたび新しい内容に差し替えた。

 95年から15年が経るうちに、日本社会は大きく変化した。経済体制もしかり。
 例・・・・95年版で戦時経済体制の象徴とした日本銀行法は改正され、旧法にあった戦時経済的規定は姿を消した。また、長期信用銀行は消滅し、都市銀行も合併と再編によって大きく姿を変えた。さらに、戦時経済体制の中核である経済官庁も大きく変貌した。大蔵省は財務省と名称を変え、大蔵省金融関連部局(銀行局・証券局)は別組織である金融庁に再編された。

 制度面の変化以上に、実体面の日本経済の変化は大きい。95年当時、日本の一人当たりGDPは、世界のトップクラスにあった。
 しかし、その後日本の順位は継続的に低下した。世界経済における日本の相対的地位は低下した。

 この背後に日本型経済制度の問題があることは、疑いない。現在の日本における最大の問題は、民間企業、とくに大企業にある。金融制度や経済官庁の面では戦時経済体制的性格が消滅ないし薄れゆくなかで、日本企業がもつ戦時経済的な体質は、むしろ強化されている。
 今の日本経済の中核的企業は、何らかの意味で戦時経済と結びついている。
 例・・・・トヨタ自動車や日産自動車は、軍需企業として政府軍部の強い保護を受けて成長した。また、電力会社は、戦時経済改革の結果誕生した。

 問題なのは、誕生の経緯だけではない。企業経営理念の基本に、市場経済を否定する考えがあることだ。
 かかる理念は、高度成長の実現や石油ショックへの対応に当たっては、プラスに働いた。しかし、それ以降の発展にとっては、ネガティブな意味をもった。かかる理念こそ、90年代以降の世界経済の大変化に日本が適応することを困難にした基本的理由なのだ。
 最後に残った戦時経済体制の克服こそ、日本経済の再活性化のために不可欠の条件だ。

 このたびの第11章では、企業の戦時経済的体質について論じる。

   *

 以上、参考文献のまえがきに拠る。

【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、中国のバブルとその後 ~「超」整理日記No.542~

2010年12月20日 | ●野口悠紀雄
(1)中国のバブル
 中国は、経済危機後も成長し続けてきた。中国の輸出品は消費財が中心なので、日本の輸出ほど大きくは落ちこまなかった。とはいえ、輸出依存度は日本より高い。だから、大方の予想を超える成長ぶりだった。
 この最大の原因は、極度の金融緩和によって住宅投資を増加させた点にある。人民元に対する増価圧力がさほど大きくならなかったのも、そのためだ。
 工業化に伴う都市化により、中国の都市人口は急増している。だから、住宅に対する需要はきわめて多い。金融緩和により需要が爆発的に増加し、住宅価格が上昇した。都市部における住宅は、労働者の賃金所得で購入できる限度を超えている。上海や北京の普通の住宅が、日本の同じような住宅と同じような価格になっている(中国の一人当たりGDPは、日本の10分の1である)。将来の価格上昇を織りこんだ購入行動だ。つまり、これはバブルだ。
 純粋に投機的な購入もかなり多いらしい。だから、中国政府は、二軒目、三軒目の住宅購入に対する条件を強化する政策をとった。

(2)中国の金融引き締め
 このたび、中国が金融政策を変更した。これまで緩和しすぎた金融を引き締めるらしい。
 この金融引き締めは、普通に考えれば、バブル崩壊、不動産価格の暴落をもたらす。結果として生じる不良債権問題が金融危機を起こす可能性もある。
 80年代後半の日本の不動産バブルの場合、投機の対象は空地が中心だった。ビル需要の増加が予測されたが、実際にはそうした需要は現れず、不良債権の山が金融機関に残された。
 他方、いま中国で価格が上昇しているのは住宅である。その背後には都市化があり、この傾向は今後も継続する。不動産に対する需要は実需である。だからいくら価格が上昇してもバブルにならない・・・・とは言えない。
 日本でも、住宅価格もつられて上昇し、バブル崩壊によって下落した。
 米国でも、02~07年頃不動産バブルが生じた。移民などで人口は増加していたが、06年頃に住宅価格がピークに達してバブル崩壊し、金融危機が発生した。
 中国では、住宅はかなり投機的取引があるし、労働者の賃金水準では正当化できないレベルに上昇している。現状は長期的には持続できない。
 通常、バブル崩壊による経済混乱は債務不履行とそれによる金融機関の損失拡大によって生じる。
 しかし、中国政府のバブル対策が予測できない。中国は、これまで経済の常識では理解できない動きを示してきたからだ。

(3)中国が直面する問題
 中国政府が直面する問題は、不動産価格バブル崩壊による混乱だけではない。金融引き締めは、人民元高をもたらし、貿易黒字を減少させるはずだ。経済の落ちこみを防ぐため、財政支出を増加させる、と中国政府はいう。仮にそれが実行されたら、国内の金利上昇をさらに進め、元に対する増価圧力をさらに強めるはずだ。
 しかも、米国は大幅な金融緩和をすでに実施している。中国への資金流入圧力が生じ、元の増加圧力になっているはずだ。中国の金融引き締めはと財政支出増加は、この傾向を加速するはずである。
 半年ほど前と比較すれば、3つの大きな要因が元高方向に作用するはずだ。
 元の増価は、中国の貿易黒字を減少させる。中国は、国内の住宅建設の現象(場合によってはバブル崩壊)と対外黒字の減少という二つの需要下落に直面することになる。

(4)中国の対応
 (3)は、国際間の自由な資本移動を前提としたものだ。
 しかし、実際には、中国は先進諸国とは違って、強力な資本取引規制を行っている。米国の金融緩和による元の増価と貿易黒字減少を防ぐため、中国通貨当局はこれまで以上に必死になって資本の流入を食い止めるだろう。したがって、本来であれば中国に流入して元を増価させるはずの資金は、実際には自由には流入できない。
 その結果、為替市場において元に対する超過需要が生じ、需給不均衡状態が生じる。中国人民銀行は、これまで以上に大量の元売りドル買い介入を行う。その結果、国内の金融は緩和し、意図した金融引き締め効果は得られない。
 また、巨額のドル資産を外貨準備で保有することになるが、それはドル安による価値減少に直面する。
 問題は、こうした不安定状態をいつまで続けられるか、だ。
 歴史的にみれば、為替レート変動が一方向に偏って予測されている場合の攻防戦は、常に市場側が勝利し、通貨当局が敗北する結果に終わっている。
 中国の為替政策は、理論的のみならず歴史上でも明らかなマクロ経済学の法則を超えられるだろうか。

【参考】野口悠紀雄「中国のバブル対応は経済法則を超えるか ~「超」整理日記No.542~」(「週刊ダイヤモンド」2010年12月25日・2011年1月1日号所収)
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書評:『発掘捏造』

2010年12月19日 | ノンフィクション
 1946年に岩宿遺跡(群馬県)が発見されて以来、旧石器時代の遺跡があいついで見つかった。しかし、これらはもっぱら後期旧石器時代(3万年前から1万年前まで)の遺跡だった。はたして日本人のルーツは3万年より前に遡るのか。これが1960年代から考古学界で論争の的となった。
 1981年、民間の考古学愛好グループ「石器文化談話会」は座散乱木遺跡(宮城県)で4万数千年前の地層から石器を発見し、論争に決着をつけた。「談話会」及び「談話会」から分かれて独立した「東北旧石器文化研究所」は、その後も矢つぎばやに前期旧石器時代のものと目される石器を発見していった。「日本最古」の発見を更新し、1999年には上高森遺跡(宮城県)で70万年以上も前の石器を発掘した。

 ・・・・ということになっているが、じつは「石器文化談話会」及び「東北旧石器文化研究所」の主要メンバーであった藤村新一(敬称略、以下同じ。)は、自ら埋めた石器を「発掘」していたのである。
 この事実をすっぱ抜いたのが毎日新聞。2000年11月5日、石器発掘捏造の報は日本列島を駆けめぐった。

 スクープにいたる経緯が本書の3分の2を占める。
 これはこれで興味深い。関係者のうちでひそかにささやかれていた疑惑をキャッチした記者、取材班の組織を決断した北海道支社報道部長、執念の取材、動かぬ証拠をつかんだ後の全社的対応。決定的瞬間をカメラにおさめた後も、藤村新一から直接取材するまで(発掘捏造を認めたのは2か所)、2週間も報道を抑えた慎重な姿勢。報道のあるべき姿のひとつがここに示されている。

 これはさて措き、考古学に多少関心を寄せる者は、本書の残り3分の1に注目するだろう。
 すなわち、第四章(報道の影響と課題)、座談会(佐原真・国立歴史民俗博物館長、馬場悠男・国立科学博物館人類研究部長、竹岡俊樹・共立女子大学非常勤講師、及び聞き手の橋本達明・毎日新聞東京本社編集局長)、前期旧石器問題を考えるシンポジウム(文部科学省科学研究費特定領域研究「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」考古学班の主催)である。
 歴史の歪曲がなぜ生じたのか。
 藤村新一が関わった旧石器遺跡は全国で186か所、うち33か所は直接発掘に関わっているが、これらをどう再評価するか(次第によっては日本の旧石器研究は根底から覆される)。
 報告書がないままマスコミの報道が過熱した事情、再検証法「褐鉄鉱」への注目など、発掘捏造が引き起こした混乱と考古学再生への試みが素人にもわかりやすく整理されている。

 読んでいて気になるのは、阿部謹也のいわゆる「世間」(『学問と「世間」』、岩波新書、2001)である。ここで言う「世間」とは、仲間うちで狎れあい、この狎れあいを権力に変える関係である。たとえば馬場悠男は「後輩は先輩の業績を批判しない。批判すると恨まれる。若いうちにやるとまともな職に就けない」と指摘する(シンポジウムにおける基調講演)。
 こうした「世間」が維持されると、検証されないままの「発見」がひとり歩きするような事態が再発しないとは限らない。

□毎日新聞旧石器遺跡取材班『発掘捏造』(毎日新聞社、2001)
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書評:丸谷才一『星のあひびき』 ~書評の妙、そして大岡文学に対する高い評価~

2010年12月18日 | ●丸谷才一
 『星のあひびき』は、読みやすい。
 その理由の第一は、論旨明快にして、悠揚迫らぬ自在な語り口だ。ただし、これは著者の文章全般に通じることで、本書に限った話ではない。
 第二は、本書に収録された文章の多くは概して短くて、すばやく読みとおせるからだ。巻末の初出一覧にざっと一読すれば明らかだが、多くはさまざまな新聞に掲載されている。当然、字数が限られる。簡潔にならざるをえない。

 ここですこし横道にそれるなら、巻末の初出一覧は編集者が作成したのだろうが、誤りが少なくとも1ヶ所ある。
 「Ⅲ 随筆的気分」の冒頭を占める「わたしたちの歌仙」は岩波文庫の『歌仙の愉しみ』に所収とあるが、岩波文庫ではなくて岩波新書だ。この本のまえがき的位置に置かれた解説である。
 小林秀雄は、水のなかに酸素があるごとく翻訳に誤訳は付きものだろう、と弁明とも開き直りともとれる警句を放った。しかし、翻訳はまだよい。小説の構造がうまく移してあれば、誤訳がすこしあってもさしつかえない。しかし、書誌は細部の事実が命である。文学のしろうとでも気づくような誤りは、一掃してもらいたい。

 第三として本書の構成の妙を挙げることができる。「Ⅰ 評論的気分」で正面きった文学談義、「Ⅱ 書評35本」で著者が力を入れてきた書評の見本をずらりと展示し、「Ⅲ 随筆的気分」で軽い雑談、「Ⅳ 推薦および追悼」で威儀をたださせる。最後に「Ⅴ 解説する」で、にさまざまな機会にあらわした解説を並べ、引き締める。

 「Ⅰ 評論的気分」では、たとえば「サントリー学芸賞のこと」で、この賞は新進の評論を的確に評価してきた、という。その実績、その偉容を示すものが非売品の『サントリー学芸賞選評集』だ、と。鹿島茂や塩野七生、藤森照信や田中優子もこの賞に励まされ、その後の活躍で現代日本文化を豊かにしてきた。賞の権威によって名を上げる書き手もいるが、書き手のその後が賞に権威を付与する場合もある。サントリー学芸賞は、後者だ。
 それは、選者の眼がたしかだからだ。著者はいう。「特筆に価するのは、その選評の質の高さである。一篇がたいてい四百字詰原稿用紙三枚半で、普通の賞のそれよりも有利なことはたしかだが、内容の紹介ぶりと言ひ、美点や特質の賞揚の仕方と言ひ、ほとんどすべての選評が模範的な出来ばえを見せてゐる。とりわけすばらしいのは類書のなかに当該書を位置づける大局観のたしかさだ」
 そして向井敏の選評を例に引くのだが、引用される選評も賞揚されるにふさわしくスバリと言ってのけているし、引用した選評に係る「・・・・と評するあたりの視野の広さは、わが国の書評に乏しいものである」という著者の評は、それ自体広い視野を要求されているし、それだけの実績を著者は積んでいる。

 「Ⅰ 評論的気分」には、上記のような書評に関する書評のような一文があるし、正面きって書評を論じた「書評文化を守るために」もある。
 これを(本書における)理論とすれば、その実践が「Ⅱ 書評35本」だ。
 とりあげた本は、文学に限定しない。たとえば「健気で勝気で賢い娘の母恋ひの物語」はノンフィクションで、船曳由美による聞き書きの筋の紹介に紙数のほとんどを充てる。、継子の苦難と、それをはねのけて成長する物語だ。しかし、筋の単なる要約では終わらせない。著者は、末尾に記す。
 「実を言ふと『100年前の女の子』はもつと多彩で多面的な本で、北関東の民俗学的な記録、住民の風俗の描写、動物たちの生態の思ひ出など、まことに楽しい。しかし最も印象的なのは健気な女の子の母恋ひの物語だ。今も著者が老人ホームに訪ねると、テイはときどき抱きついて泣きじやくり、呻くやうに言ふ。/ --わたしにはおつ母さんがゐなかつた・・・・」
 引用も芸のうち。母恋いという、日本人のみならず万民に普遍的な情に訴える視点をもちだし、こういう泣かせる引用で巧みに締めくくられると、読者は一読したくなる。文章の芸である。

 Ⅲ以下を紹介する代わりに、評者が殊に読みやすく感じる理由を追加しておこう。
 それは、わが大岡昇平が非常に高く評価されている点だ。「近代日本文学は、小説中心であるとよく言われる。代表的な文学者を三人あげるなら、夏目漱石、谷崎潤一郎および大岡昇平だ」(「わたしと小説」)と書く。あるいは、「戦後日本最高の作家は、やはり大岡昇平なのではないか」(「女人救済といふ日本文学の伝統 -大岡昇平『野火』『『花影』』『ハムレット日記』『黒髪』『逆杉』-」)とも書く。
 また、本書でも言及されているのだが、著者が関与した「日本文学全集」の巻立ては、漱石3巻、谷崎3巻、鴎外3巻、大岡2巻で、戦後作家で2巻は大岡だけだった(丸谷才一/三浦雅士/鹿島茂『文学全集を立ちあげる』)。ちなみに、収録するべき作品として名があがっているのは、長編小説の『俘虜記』『野火』『花影』に短編小説の『来宮心中』『逆杉』『黒髪』、そして記録文学の白眉『レイテ戦記』だ。
 かくて、「この作家の高い評価はほぼ確立したやうに見受けられる」(前掲(「女人救済といふ日本文学の伝統」)とまで極言する。

 個々の作品に対する評価から文学史的鳥瞰まで。筒井康隆の文体論(「辞書的人間」)から日本文学史上最高の巨漢、篠田一士の『世界「食」紀行』に対する友情あふれる解説(「健啖家にして美食者」)まで。
 本書は、批評の理論と芸の見本市である。

□丸谷才一『星のあひびき』(集英社、2010)
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【読書余滴】丸谷才一の、森澄雄追悼 ~森文学の特徴三点~

2010年12月17日 | ●丸谷才一
黛まどかの匂いがする。しかも、彼女がサンチャゴ巡礼を果たした後の。
 少なくとも、大東亜戦争で艱難辛苦を味わった森澄雄は、アジアは・・・・なんて、到底詠みそうな気配はない。

 閑話休題。
 とにかく丸谷は、森作品の中ではわけても『浮鴎』『鯉素』のころが好きなそうだ。13句引用されているが、ここでは6句を引こう。

   向日葵や越後に雨の千曲川
   沢庵を噛むや雪ふる信濃にて
   柿干してなほ木に余る伊賀の国
   若狭には佛多くて蒸鰈
   飛騨の夜を大きくしたる牛蛙
   鮎食うて月もさすがの奥三河

 国名の使い方がうまい。古代の帝の国見という行事がおのずから思い出される、と丸谷はいう。
 「ひとへに句づくりが大ぶりで、景気がいいせいだらう。国名には古い日本のエネルギーがまつはりついている」
 そのくせ、「三月や生毛生えたる甲斐の山」などとまことに近代的な色気がある、とも書く。隅におけない感じだ・・・・。
 この線をたどると、格の高さはしっかりと保ちながら、ずいぶん際どいことになる。「感じない人は別に何とも思はないかもしれないけれど」
 以下、本文に引用された6句のうち3句である。

  初夢に見し踊子をつつしめり
  かなかなや素足少女が燈をともす
  白地着て李の紅をまた好む

 われら日本人の典雅なる伝統、地名ごのみと色ごのみが森澄雄の一身に具現しているらしい。
 それだけではない。いささか三題噺めくが、墨と筆が付け加わわる。
 「普通、俳人みな、ノートに鉛筆で初案を記すものらしい。これは高浜虚子でさへも変わらないと自分で語っている。ところが澄雄は違ふ。いつも矢立をたづさへ、筆を構へて紙に向かひ、句の訪れを待つとやら。彼の発句の堂々としてしかも色つぽい風情は、ひよつとするとこの、筆といふ昔かたぎな小道具ないし呪具を手にしての伝統的な生き方と関係があるのかもしれぬ。澄雄の句には色ごのみをも含めて日本の詩情がみなぎつてゐた」

   *

 以上,、「国見と色ごのみ」に拠る。初出は、2010年8月19日付け読売新聞である。

【参考】丸谷才一「国見と色ごのみ -森澄雄を追悼する-」(『星のあひびき』、集英社、2010、所収)
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