語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『鼠たちの戦争』

2010年04月30日 | 小説・戯曲
 スターリングラード攻防戦は、第二次世界大戦における独ソ戦の転回点となった。1942年8月に「スターリングラードの玄関口に押し寄せた120万人の侵略軍のうち、生きて故郷の土を踏めたのはわずか3万人にも満たなかった」(エピローグ)。

 この攻防戦を背景に、独ソ両国を代表する狙撃手の戦いが描かれる。スパイナーは、独軍はハインツ・トルヴァルト大佐(狙撃学校校長)であり、ソ連軍はワシーリイ・ザイツェフ曹長(シベリア出身の狩人)である。実在した二人がモデルであるが、実在を疑問視する史書があるらしい。しかし、少なくとも一方は大戦を生きのびて手記を残した(どちらであるかは、未読の読者の興を削ぐのでここでは記さない)。

 本書は史実にきわめて忠実な冒険小説である、と訳者はあとがきで言う。小説の細部のレアリティは、著者の克明な調査に裏うちされているわけだ。
 市街戦であった。「両軍とも地下にもぐっていた。地下室や暗渠、トンネル、街の凍った皮膚についた引っかき傷を思わせて、はてしなくつづく<鼠道>と呼ばれる浅い塹壕。いまではそれらが寒気を増しゆく冬空の下の戦場風景を作り上げていた。ドイツ国防軍(ヴェールマハト)の歩兵たちはそれを『ラッテンクリーク』と呼んだ。つまり『鼠たちの戦争』である」
 本書の題名はここに発する。

 国家間の戦さは、しばしば(クラウゼヴィッツすら)個人と個人の闘いに還元しがちだが、一発の銃弾が生死を分かつ個人間の闘いは、国家の戦さとは別の相貌を見せる。憎悪が相手を斃す強い動機づけになる点では共通するが、狙撃手の闘い方はきわめて技術的になのだ。冷静に計算するほうが勝利するのである。

 スパイナーを描く小説は、近年ではスティーブン・ハンターの一連の作品があるが、主人公の性格も小説の筆致もやや偏執的な傾向があって、閉口する読者もいるだろう。
 本書には、生死のはざまを生き抜く者がもつ静謐が漂って、時代劇の決闘を愛する日本人むきかもしれない。

□デイビッド・L・ロビンズ(村上和久訳)『鼠たちの戦争』(新潮文庫、2001)
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【旅】イスラエル ~マサダ~

2010年04月30日 | □旅
 何もない。草木の影一片だに見あたらない。あるのは頭上に燃えたぎる太陽ばかり。
 日中の気温は40度を超える。「水を飲んでください」と引率者が繰り返す。一日2リットルは飲まねばならぬ。水分が不足すると、まず頭痛がする。ついで意識を失う。

 山頂に近く、海抜ゼロ・メートルの標示が立っている。海水面と同じ高度なのだ。400エーカーの広さの遺跡も、山麓も周辺の土地も、見わたすかぎり荒涼たる眺めである。
 風がそよぐ。風は乾いて、熱砂のように膚をかすめる。足もとには赤茶けた砂と岩肌ばかり。
 瓦礫が散在する。いや、2千年前の遺跡である。ヘロデ王の脱衣室、熱浴室(サウナ)、冷浴室。いったいどこから薪を調達したのだろうか。考古学上の謎である。
 王のための風呂だけでなく、傭兵のためのプールもあった。年間降水量わずか20センチの、しかも3月から10月まで雲ひとつない乾季が続くこの地で、どうやって水を確保したのだろうか。解答は、目に見えるかたちで残されている。降るときは雨が降るから、あまさず溜めておくのだ。山肌にそうて溝が走る。傾斜する溝のゆき着く先は岩肌をくりぬいた穴である。穴の奥に巨大な空洞がある。容積5万立方メートルの巨大な水瓶である。工匠の手にかかるこうした水瓶が、山の周辺に12個確保されていた。

 水はある。食糧庫もある。城壁は堅固である。ふもとから落差400メートルの砦へ達するには、「蛇の道」を徒歩で50分かけてたどるしかない。
 難攻不落の要塞。少なくともヘロデ・アグリッパ1世はそのつもりだったにちがいない。
 その嫡子を追い出して、ローマ帝国の軍勢に抵抗するべくたてこもったゼロダイ(熱心党)の967人も同様に考えたのだろう。
 しかし、なにごとも「絶対」はない。

 話はローマ帝国の皇帝ウェスパシアヌスの時代に遡る。
 独立を意図して蜂起したユダヤ人たちは、皇帝の子ティトスによって各地で打ち破られ、西暦70年、ついにエルサレムは落ちた。神殿は灰燼に帰する。指導者ベン・ヤイルに率いられた残党はマサダに逃れ、ユダヤ人最後の砦にたてこもった。
 ローマに凱旋したティトスのあとをついだ新総督フラウィウス・シルヴァは、西暦73年、マサダへ進軍した。
 城塞は堅固であったが、第10軍団は巧妙な戦術を用いた。8つの長方形の陣地を築き、相互を5キロにわたる攻囲壁でつないだのである。脱出の道を閉ざされ、篭城軍の志気は低下した。ローマ軍はさらに、城壁に達っするほどの高さの斜堤を築いて、攻城塔を運びあげた。鉄板張りの攻城塔には投石機、投矢機、巨大な攻城鎚が備わっていた。攻撃は熾烈であった。砲撃は城の一角に集中し、ついに破れた。篭城軍は凹字状に木の内壁を築いて防いだが、火をはなたれて万事休した。

 ローマ軍総攻撃の前夜、ベン・ヤイルは演説した。
 「我々の両手がまだ自由で剣をとれるうちに、それらに高潔な業をさせよう。敵の奴隷になる前に死のうではないか。妻子たちと共に自由の民として、この世を去ろうではないか」
 籤を引いて10人を選び出し、他の者は地上に横たわって顎をさしだした。残った10人はさらに籤をひき、最後に残るべき一人を選び出した。全員を刺殺し終え、最後に残った兵士は自ら首を刎ねて死んだ。
 かくて、またもや亡国の民となったユダヤ人の流浪がはじまる。

 現代イスラエルの特殊部隊の新兵は、この地で国家への忠誠を誓う。「マサダは二度と落とさせない」
 マサダはエルサレムから陸路40キロの距離、死海の西岸の中央部よりもやや南寄りに位置する。砦から見降ろせば、東の下方に死海が青い一ツ目の怪物のように横たわっている。死海は、いにしえの戦さをつぶさに眺めていたはずだが、黙して語らない。
 語るのは、毀たれた壁であり、メロン大の丸い石・・・・投石機の弾丸の群であり、そして眼下に不気味に残るローマ軍の櫓の跡である。
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書評:『揺れるユダヤ人国家 -ポスト・シオニズム-』

2010年04月29日 | 社会
 二人寄れば三つの政党ができる、とユダヤ人の議論好きが揶揄される。
 本書は、イスラエルの中で拮抗し合う集団の複雑なモザイク模様を簡明に分析した。ユダヤ人社会に焦点を絞ったために非ユダヤ人にはほとんど言及されていないが、国民の2割近くを占めるパレスチナ・アラブ人に対する理解もゆきとどいている。

 20世紀末のイスラエルには主な対立軸が三つある、と著者はいう。
 第一に、世俗的(非宗教的)か宗教的か。一方に冠婚葬祭の時にしか宗教と関わらない人々がいて、この対極に戒律などユダヤ教的価値体系を社会で実践、実現しようとしている超正統派(ハレディーム)がいる。
 第二に、アジア・アフリカ系かヨーロッパ系か。前者は、意識の多様化によってサブ・エスニック・グループが形成されているため、関係がより複雑になっている。
 第三に、第三次中東戦争による占領地区を返還するか否か。返還による和平推進を支持するグループがある一方、返還に断固反対する大イスラエル主義勢力がある。後者は、ヨルダン川西岸(「約束の地」の核心的部分)を死守せんとする宗教的ナショナリズムと重なる。
 さらに・・・・と著者は続けて、ほぼ次のように言う。「産業構造の転換に伴い、ベンチャー・ビジネスで巨万の富を築いた者がいる一方、貧困のうちに反エリート的な意識を強めている層も増大している。生活様式のグローバル化、アメリカ化は社会で均等に起きているわけではなく、価値観の対立や社会的な摩擦が生じている」

 19世紀に発生したシオニズムは、宗教的共同体たるユダヤ教徒を政治的共同体たるユダヤ民族に意識転換し、自分たちの国家建設をめざしたイデオロギーであり運動であった。建国後50有余年をへた現在、イスラエルは経済的に繁栄し、世界の半数のユダヤ人がこの国に集中している。シオニズムの目標は達成された、とポスト・シオニズム現象があらわれている。
 他方、政治的シオニズムとは別に、思想的・精神的側面を重視したシオニズムも運動の初期から存在した。こちらがめざす国家は、普通の民族国家ではなく、選民思想と表裏をなす「特殊な国」である。
 シオニズムにおける民族優位と宗教優位の矛盾は、建国当初から存在していた。先住のパレスチナ人及び周囲のアラブ諸国といかに折り合いをつけるかという政治的課題が一方にあり、神とユダヤ教徒と「約束の地」という神学的命題が他方にあった。
 ホロコーストの悲劇から3年後、1948年にイスラエルは独立した。そして、パレスチナ難民を生んだ。当然ながら周囲のアラブ諸国は、新規参入者を地中海へ追い落とそうとした。世界百か国からの移民たちは、たび重なる戦さによってしのいだ。そして今や、千葉県程度の人口590万人(1997年)の小国としては強大な軍事力(現役の兵士17万人余、予備役43万人)を有するに至る。
 しかし、戦さは当然ながら社会・経済の機能を麻痺させる。平時でも、軍事予算は国家財政を圧迫する。加えて、占領地区における抵抗運動(インティファーダ)の抑圧やレバノン侵攻は、個々の兵士の、ひいては国家のモラルを低下させた。

 1993年、ワシントンで宿敵アラファトPLO議長と握手をかわしたイツハク・ラビン首相(当時)は、軍歴が長く、国防軍の元参謀総長でもあった。さればこそ、力による対決の限界を熟知していたにちがいない。
 そのラビンは、暗殺された。大イスラエル主義者イガール・アミール青年が、宗教的信条に基づいて銃の引き金を引いたのである。
 西岸地区及びガザ地区は1996年にパレスチナ自治区となったが、入植運動はイスラエルにおける「西部開拓」 とする運動は続いている。当然、パレスチナ自治区との摩擦も。人間の福祉は妥協のうえに成立するはずだが、神と神に忠実な人間には妥協がないらしい。
 21世紀のイスラエル国家内部には、対立軸が依然として健在である。

□立山良司『揺れるユダヤ人国家 -ポスト・シオニズム-』(文春新書、2000)
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【旅】イスラエル ~東エルサレム、1992年~

2010年04月29日 | □旅
 紺碧の空にはひとひらの雲もない。
 オリーブの丘から見はるかすエルサレムは、くすんだ岩壁の家居が乱雑に建ち並んでいる。さればこそ、金色に光る屋根がめだつ。岩のドームすなわちオマール・モスクである。このあたりが旧市街だ。
 エルサレムは、ムスリムにとってメッカ、メディナにつぐ第三の聖地である。

 二重の検問をとおって神殿の丘へのぼった。旧市街でもっとも高い地区である。検問では荷をほどき、なかみを見せねばならない。武器のチェックだ。しかし、さほど厳重ではない。
 後年思うに、私たちの訪れた年は、現代イスラエル史において珍しく平穏な時期だったのだ。湾岸戦争は前年に終結し、6月にはイツハク・ラビン率いる労働党が政権を奪取した。労働党は、政権につく前からPLOと秘密交渉を行っており、翌年9月、オスロ合意にいたる。

 ホテルのような外観のエル・アクサ・モスクをすぎ、ドームの前に立った。階段の下に、手足を清める泉があった。あまり衛生的でない。
 青いタイルの外壁は美しい。内部のモザイク文様も美しい。
 ミニ・スカートの女性は出入り拒否に合う。よくしたもので、薄いブルーの腰巻きが貸出されるから、参拝の間だけまとっておけばよい。同行者が、さっそくまとう。
 裸足にならねば入れない。これもあまり衛生的でない。千年間余の間に無数の足が踏みしめた床なのだ。
 ドームの中は、中央にどでかい岩が鎮座しているだけであった。ここでマホメットは天使ガブリエルに導かれつつ天馬に乗って昇天し、アラーの啓示を受けて地上へ戻った、とコーランは伝えているらしい。天使の翼の羽根ひとひらも落ちていなかったが、岩の上部にはマホメットの足跡や天使ガブリエルの手形が残っている(はずである)。が、見えない。柵によじのぼって確かめてみたが、やはり見えない。見えたのは、抗議の声をあげて近寄ってくる番人だけであった。ガイドがなだめている。
 この岩は、アブラハムがイサクを犠牲にしかけた場所、とも伝えられる。エゼキエルの神殿がここに建っていた。ユダヤ教徒にとっても聖地なのだ。

 ドームを後にし、神殿の丘から降り、イスラム教徒地区をぬけていく。旧市街は、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区に截然と分かれている。廃車寸前に見えるポンコツ車が、段差のある狭い道を疾駆していく。
 とある店で、冷えたミネラル・ウォーターで喉をうるおす。屋内のあらゆるところに、隙間なく十字架や聖母像が架かっている。

 戸口をでるとアラブ人が絵葉書を手に寄ってきた。
 狭い石畳の道をゆっくり上がっていくと、パンを板にのせた少年が背後から近づき、追い越していく。ところどころで、アラブの老人が西瓜やナツメヤシを売っている。蝿がたかっている。これまた衛生的でない。
 通りは暗く、壁は汚く、いささか荒廃した印象を与える。シャミル前政権の、陰に陽にアラブ人を追いだそうとした政策の賜物である。落書きが多数目につく。店はいずれも閉まっていて淋しい。今日は休日であるよし。ガイドいわく、「いつもはにぎやかなんですけれどね」

 それと指摘された時には、すでにヴィア・ドロローサにはいりこんでいた。ピラト官邸からゴルゴダの丘にいたる「悲しみの道」である。「道」の14か所(留/ステーション)のそれぞれに、事績が記されている。
 第3留、扉の上に十字架の重みに耐えかねたイエスのレリーフがある。「ここがイエスが最初にたおれた場所です」とガイド。
 脳裡にバイブルの一行が浮かび上がる。二千年前に、目の前のここで倒れた男。ふいに時間が停止する、歴史の闇の中から死者がよみがえる・・・・そんな異様な感覚がおそってきた。

 ゴルゴダの丘は、いまは聖墳墓教会の一部となっている。聖墳墓教会は、4世紀に建立されて以来、何度も破壊されては再建された。私たちが目のあたりにするのは十字軍が建てたものである。
 城塞のそれのような門をくぐり、入り口のすぐ右手の急な階段をのぼると、そこにかつてのゴルゴダの丘がある。祭壇が十字架が立てられたとされる場所、第11留である。
 祭壇はギリシア正教の様式である。聖墳墓教会はローマン・カソリック、ギリシア正教、コプト、その他の各派が共同で管理している。
 階下へくだると、遺体を安置した岩だな、墓がある。冷ややかな風が首のあたりをとおりすぎる。死とは、かかる暗い地底へ帰ることか。いや、私たちは火葬し、灰もたましいも天へのぼると信じてきた民族だ。

 聖墳墓教会をでて、ふたたびイスラム教徒地区を通り抜けると、ユダヤ教徒地区へはいる。とたんに家居が立派になる。あらためてイスラム教徒地区の街なみの荒廃が感じられる。
 華麗な店が並ぶカルドを通りぬける。
 第三次中東戦争で爆破された家屋を改築中に、イエスの時代の遺跡が発見された。今ではそれが博物館になっている。むきだしの石の壁。穴蔵のような狭い部屋。浅い浴槽。家居をしきる高い壁。こうした堅固な住居にすまう者が堅固な思想をうみだす。

 博物館を出ると、広大な壁の下に人々が群れていた。この暑気のなかで正装した黒服の人たちがいる。
 ソロモンが建て、ヘロデが拡張再建した第二神殿の西壁、いわゆる嘆きの壁である。岩のドームが背後に見える。
 壁のところどころに草が生えている。草からしたたる露が涙のように見えるから嘆きの壁と呼ばれるのだが、ただいまの草に生色はない。摂氏42度の猛暑である。

 旧市街をわずか数時間歩くだけで、世界の三大宗教の聖地をひとめぐりできる。厳格な一神教という点で共通するが、三は一に統一されていない。今後も、まず統一はされないだろう。
 目には見えないそれぞれの神が勝手に、乾いた大地に灼熱のようにそそり立つ。
 この街では、そんな感覚がつきまとう。
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書評:『中野シネマ』

2010年04月28日 | 批評・思想
 「小説新潮」1993年1月号から1996年2002年7月号まで連載した映画エッセイをおさめる。
 映画が好き、わけても好きな映画作品を集めた映画館をつくってみたい。そこで「中野シネマ」という命名になったが、「どうも悪態より賛辞のほうが難しいようなのだった」
 事実、アカデミー賞を総なめにした作品だって遠慮なく悪態をつく。

 たとえば『シンドラーのリスト』。
 特別に主義主張があるわけでもなく聖人君子でもなく、俗でちゃっかりしていて抜け目のない主人公が、奇蹟のような英雄的行為をなしとげた。このオスカー・シンドラーはいったいどんな情熱に衝き動かされたのだろう、という謎解きが原作の魅力だ。しかるに、映画では英雄的行為を描く点に力点が置かれている。よく出来た教育映画に堕してる。事実を背後にもつ映画は、だいたいにおいて事実のもつ迫力をあてにして安っぽく、卑しい感じがして嫌である。わかりやすい物語性をまぶした事実は、観客をしてためになる映画を見たという気分を味わわせるが、事実を知りたければノンフィクションやドキュメントを見ればよいのだ。この映画は映像的に平板だ。動きの激しい部分は面白く見せるが、室内で人と人とが対話する場面になると一気に単調になる。スピルバーグ監督自身は一ユダヤ人として使命感があっただのだろう。だから、映画的にはどうのこうのといった率直な感想は語りにくい・・・・。

 といった調子で、本書には賛辞はそう多くない。
 多くないが、あることはある。
 たとえば、『ユージュアル・サスペクツ』。「好き好き。しびれた。唸った。堪能した」という手ばなしの礼賛ではじまり、キャスティングの妙、伏線を凝らした脚本の巧み、目だけで重大な決定を誘う演技力を具体的に指摘していく。

 すでに見たことのある映画に対する評価を拾い読みし、自分の評価を対比させると、中野翠は新作映画のガイドとして信頼できる、と思う。

□中野翠『中野シネマ』(新潮社、1997)
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【読書余滴】竜安寺の石庭

2010年04月28日 | ●加藤周一
 以下、加藤周一『日本の庭』のうち、竜安寺に係る部分の要旨。

 古い庭、日本的な美しさがいかに普遍的な美しさに通じているか、充分に周知されていない。
 修学院離宮には、樹木という素材、借景をなす比叡山という素材そのものの美しさがある。
 しかるに、竜安寺の石庭(以下「石庭」と」略する)の石は、石ではない。石についた苔も苔ではないし、敷きつめた砂も砂ではない。

 加藤周一には、白砂が群青の海にみえ、5つの石の集まりが島にみえる。
 ひとたび立ちあがって、縁の端から端まであるけば、おどろくべし、島は互いに近づいたり離れたりしながら、広大な海の表面にあたかもバレーの踊子の動きのような、ほとんど音楽的な位置の変化を示す。それは、疾走するジープから秋の瀬戸内海を眺めたときの印象と寸分ちがわぬ海である。いや、むしろそれ以上に微妙な変化に富み、それ以上に広大な眺望を支配する。
 その海は、クールベが描いたエトルタの海に似ているし、伊豆や須磨明石その他、かつてみたあらゆる海に似ている。しかし、正確にはそのいずれでもない。そのすべてに通じ、そのいずれにも完全には実現されていないものだ。ある特殊な海ではなく、特殊な海に頒たれている海一般というべきものである。

 平安時代から江戸時代まで、庭はどこかの景勝や名勝を模写し、一部を再現し、要するに特定の自然の再現を目的とした。
 しかし、竜安寺の「海」は、特定の海ではない。すべての海といってよい。そのことは眺望の大いさにもあらわれている。
 修学院離宮の眺望は雄大だが、その何千分の一の面積もない【注】石庭には、さらに広大な自然がいきいきとあらわれている。

 石庭の象徴主義は、特殊な自然を問題とせず、唯一の自然を問題とし、どこかの海を問題とせず、唯一の海を問題とした。
 縮写ではない。縮写は箱庭をつくるだけである。箱庭は模倣する。素材そのものの自然的な性質に頼る。
 石庭は模倣しない。石庭における素材は、精神にとっての素材であって、素材そのものではない。
 石庭をつくった相阿弥真相の精神は、完全に素材を支配している。「彼の手のなかには、砂があり、石があり、石に若干の苔があり、その他何ものもなかったが、あらゆることを表現するために、その他の何ものも必要ではなかった」

 石庭に樹木が使われていないことは偶然ではない。
 わずかな苔で平原や森や灌木の茂みを自在に表現できた相阿弥には、自然を模倣する必要はなかった。自然を表現するためには、精神があれば足りた。
 樹木を用いることもっとも多い修学院離宮の庭が、素材に豊かで表現に貧しいとすれば、樹木をまったく用いない石庭は、素材に貧しく表現に豊かだといえる。
 素材の抵抗が大きければ大きいほど、せまい庭の制限が著しければ著しいほど、また従うべき規則が厳しければ厳しいほど、与えられた条件を克服して自己を実現する精神の自由が、それだけゆるぎなく、それだけ力強い。

 石庭は、手段と目的のみごとな一致である。
 すこしでもその位置をうごかした場合を想像すれば、石の位置がいかにぬきさしならぬものであることがわかる。
 もし、永遠というものがこの世にあるとすれば、永遠に変わらない精神の自由がここにある。

 修学院離宮の庭には境がないが、石庭は額縁のなかにある。
 修学院では、人は自然のなかに入るのであり、庭のなかに入るのではない。
 竜安寺では、人は庭をみるのであって、庭のなかに入るのではない。
 修学院の庭は庭でないし、竜安寺の庭はみられるもの(対象)である。
 竜安寺の、低い白壁によって三方にかこまれた額縁のなかの自然は、近代劇のように第三の壁を観客にむかってひらいている。三方の白壁の外には、額縁のなかの風景とは縁もゆかりもない空間がある。

 修学院の自然が古代的・牧歌的な「即自」の自然であるとすれば、竜安寺の自然は、近代の風景画のように、近代的・客観的な「対自」の自然である。
 一方では、自然的なものと人間的なものとが区別されず、したがって、自然対人間の対立を通じての自然は、おそらく意識されていない。庭は素朴に自然を模倣するが、その本質をとらえない。
 他方では、自然的なものと人間的なものとがあきらかに区別され、自然は常に、人間に対する自然として意識される。庭は自然を模倣せず、自然的な素材の効果を厳しく拒絶しながら、純粋に人間的な精神的な方法によって、つまり象徴主義の方法によって、自然の本質をとらえている。
 石庭は決して宇宙ではない。宇宙は、そのなかに人が身をおくところのものであり、生活の場である。

【参考】加藤周一『日本の庭』(『加藤周一著作集第12巻 藝術の精神史的考察Ⅱ』、平凡社、1978、所収。後に『加藤周一自選集1』、岩波書店、2009、所収)
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書評:『若き日の詩人たちの肖像』

2010年04月27日 | ●堀田善衛
 昭和11年2月、「北陸の小さな港町」の古い廻船問屋の息子がK大学予科受験のため上京する。
 これが発端で、昭和18年、応召するまでが描かれる。
 戦さ、徴兵、限りある命、という意識が終始つきまとい、ために政治科から文学部へ転科した。楽しからん者は今を楽しめ、明日は定かならねば。いや、むしろ、少年は生のあるうちに人生を洞察したかったのだろう。当時少年や友人が愛唱した詩が随所に幾つも引用される。たとえば田村隆一「一九四○年代夏」、あるいは地中原中也「冬の長門峡」である。

 限りある生、という意識が全編をおおっているにもかかわらず、不思議と切迫感はない。特高に挙げられても召集の報が入っても、おお、そんなものか、といった調子だ。茫洋たる、のんびりとさえ言ってよい口調で語り続ける。
 この口調は、堀田文学のすべてにおいて見られる。
 堀田善衞の文体は、断定してしまわない。割りきらない。こう言うか、なんと言うか、といった調子で、断定せず、割りきらず、漏れがないように目くばりする。詩人は全体性を志向するのだ。

 ところで、少年は文学の枠内にとどまらなかった。一方ではレーニンを耽読して社会を腑分けする知的装置を開拓し、他方ではアランに共感する。「人を信ずべき百千の理由があり、信ずべからざる理由も百千とあるのである。/人はその二つの間に生きねばならぬ」
 交遊も型にはまっていない。学友はもとより、下宿の隣人から旅の一座(北海道まで興行に同行する)まで。文学の密室にこもってノホホンとしている人物ではなかった。

 本書は、自伝的小説である。
 堀田善衛は、1918年7月7日、富山県の伏木町という港町に生まれた。生家は廻船問屋「鶴屋」の屋号をもつ旧家だったが、今は残っていない。1931年に金沢第二中学へ進学。ここから慶應義塾大学へ進学。伏木町は、1942年に高岡市と合併した。後に堀田は高岡市名誉市民となる。1998年9月5日没。

 自伝(自伝的小説を含む)は、本人みずから定義する自分である。
 エリック・ホッファーはいう。「人は、自分自身が顧慮するに価するときだけ、みずからのことを心にかけるもののようである。自分のことが顧慮するに価しないとき、彼は他人のことに気を回して、無意味な自分から心をそらすのである」
 他人の本を評する者のはしくれとしては、首筋がちょっとひんやりする洞察だが、堀田善衛が自分自身を顧慮するに値する者と見ていたのは確かだ。

□堀田善衞『若き詩人たちの肖像』(新潮社、1968。後に集英社文庫(上下)、1977)
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【言葉】ボブ・グリーン

2010年04月27日 | ノンフィクション

 その人気の秘密は、文章の明快さに加えて、眼の位置の低さが挙げられるだろう。他の多くのコラムミストがどこか一種の高みのようなところから発言しているのに比べると、明らかに彼はごく平均的なアメリカ人としての立場から離れようとしない。それは通俗と紙一重ではあるが、平均的なアメリカ人というものへの信仰に近い自信によって、辛うじて独自なものになり得ている。そしてまた、平均的なアメリカ人であるはずの彼の書くものが、現代の日本人にほとんど違和感なく受け入れられている大きな理由は、そこで扱われている題材が、アメリカ人だけでなく、日本人にとっても身近な者になっているからだといえるだろう。

【出典】沢木耕太郎『彼らの流儀』(新潮文庫、1996)

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書評:『SAS特殊任務 -対革命戦ウィング副指揮官の戦闘記録-』

2010年04月26日 | ノンフィクション
 SASに20年間あまり勤め、一等准尉に登りつめた隊員による回想録。実戦が豊富に綴られている。北アイルランド作戦、コロンビアの麻薬マフィア撲滅作戦、情勢不穏なザイールにおける大使館警備、シエラレオネ人質救出作戦など。
 ちなみに、著者は、作家に転身して成功をおさめた元隊員、アンディ・マクナブやクリス・ライアンの直属の上司であった。

 全体の3分の1を占めるアフガニスタンへの潜入記録が圧巻だ。
 ムジャヒディーンの一隊と3か月間行動をともにし、スティンガー・ミサイルの操作を教えた。このミサイルは、1989年に戦争が終結するまでに270機以上のソ連機を撃墜し、アフガン戦争におけるソ連の敗北の決定要因となり、ソ連邦崩壊の遠因ともなった。
 こう要約するときれいなものだが、本書は血と硝煙の、ほとんど死と背中合わせの日々を語る。
 この戦争における西側の関与はかねてからささやかれていたものの、当事者による報告は初めてのことらしい。それだけに、当局の検閲が入っている気配がある。除隊して民間人の立場で潜入したことが強調されている。だが、除隊の理由はとってつけたようだし、その気になれば元の階級で復帰させるという上司の保証も妙な話だ。著者は、家族と過ごす時間を持ちたい、と申し立てたことになっているのに、長期間のアフガン潜入にちゅうちょしていない。しかも、役目をおえると、ほとんど間をおかずにSASに復帰している。
 当局が検閲し漏らしたらしい文面も見受けられる。「わたしは、アフガニスタンに入ったら、とくにソ連軍との直接的接触にかかわってはならないと厳命されていた」・・・・命令は組織の構成員であるかぎりにおいて有効なはずだ。してみれば、著者の除隊は、英国政府が(公式には)関与していない、と表向きには弁明するための粉飾にすぎない。

 著者が有能な指揮官であったことは、随所に見てとれる。情勢の全体を掌握する視野、その冷静な分析、付与された権限にもとづく果断な決断、組織的な欠陥を見ぬいて改善のために直言する果断、コミュニケーションがままならぬムジャヒディーンに対してさえ効果的におこなう訓練・・・・著者は年功序列による昇進のなくなった新しい波の一員だったらしい。SASの「変化のプロセスに積極的な影響をおよぼした」と誇りたかく回顧するのももっともだ。
 だが、英国の軍略がめぐりめぐって世界的なテロ拡大を招来した今、著者には別の感想が付けくわわっているはずだ。

□ギャズ・ハンター(村上和久訳)『SAS特殊任務 -対革命戦ウィング副指揮官の戦闘記録-』(並木書房、2000)
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【言葉】PTSDからの回復

2010年04月26日 | 心理
 私は黙って話を聞いていた。
 「たしかに私は大切なものを失った。しかし、失ったものより、今持っているもののほうが大切だということに、ようやく気づいたんです。私は、今の道場が大切です。そして、私の道場には真島が必要なのです」
 私は黒岩が言ったことについて考えていた。過去のことよりも、未来のことを考えている。いい傾向だ。

【出典】今野敏『人狼』(徳間文庫、2001)

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【言葉】女

2010年04月25日 | 小説・戯曲
 女はふり向いた。不意に、その顔が、激しい、息もつけぬ光にさっと輝いた。女は手にもっていたものを床に落として、彼の方へ駈け寄った。

【出典】E・M・レマルク(山西 英一訳)『凱旋門』(河出書房新社 世界文学全集別巻7、1978)

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書評:『死体は訴える』

2010年04月24日 | ミステリー・SF
 著者は、カルフォニアにある二つの大学で文章創作を教えた。別の大学で、児童の発達、障害児教育を講じたこともある。本書は、1998年のマカヴィティ賞最優秀処女長編賞を受けた。

 女主人公コナー・ウェストル(37歳)は、ゴールドラッシュの時ににぎわった町、カルフォニアはフラット・スカンクにおける週間新聞発行者兼記者である。半年前まではサンフランシスコの新聞社のライター兼リポーターで、編集もこなした。
 ある日、富裕な未亡人のレイシー・ペンザンスから広告掲載の依頼が入った。幼い頃に養女にやられた妹の所在を知りたい、と言う。ところが、その日のうちにレイシーから電話が入った。取り乱した声で、「広告は取り消す」と。そして、夜、レイシーが殺害された。死体は奇妙なポーズをとっていた・・・・。

 この調査ウーマンのヒロインを先輩にあたるヴィク・ウォーショースキーと比較すると、足を使って事実を集め、真相に達する点で、ヴィクの血を受け継いでいる。だが、ハードボイルド風のヴィクに対して、こちらは幾分コミカルだ。コナーは、年齢のわりに軽い。軽いが、したたかな側面もあって、答えたくない質問は上手に逸らせたりする。
 コナーをとりまく人間関係は、ヴィクのそれよりも濃密である。これは、アメリカ有数の大都市シカゴと田舎町・・・・という舞台のちがいによるところが大きい。

 しかし、一番大きなちがいは、コナーは唇の動きから話を読みとる(読話)人である点だ。ほぼ完全な失聴者、という設定なのである。かの名探偵ドルリー・レーンと同じ立場なのだが、著者はエラリー・クイーンよりもこの方面の実際に詳しいから、細部にわたってリアリティがある。たとえば、唇の動きからはせいぜい3割から5割しか読みとれないからインタビューには録音が必要である(あとで通訳してもらう)とか。
 これで調査、対人サービスができるのか、と怪訝に思う読者がいるかもしれない。が、本書のヒロインは現にやってのけている。著者には実例の裏うちがあるのだろう。

 手話通訳者(もどき)がいる。テレビには字幕が付くし、テレタイプライター(文字電話)で交信もできる。聴者との相違は、若干の「不便」があるだけである。公民権運動の延長上に誕生した「障害のあるアメリカ人法」(ADA)の、機会均等化のポリシーが本書のいたるところに顔をだしている。

 本書は上質なミステリーだが、「ろう」者の世界に関心をもつ人にも興味深いだろう。米国ではシリーズ化され、いずれも「ろう」者の生活に関する洞察に満ちている、と好評を博しているそうな。

 翻訳上の小さな瑕疵をひとつ。
 わがヒロインは、言語をひとたび獲得した(おおむね3歳まで)後の4歳で、髄膜炎により失聴した、という設定である。しかも、音声で話しかけている。本書では終始「ろうあ」と訳されているが、「唖」のない「聾/ろう」または「中途失聴」が正確な訳語だ。

□ペニー・ワーナー(吉澤康子訳)『死体は訴える』(ハヤカワ文庫、1999)
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【言葉】廃墟

2010年04月24日 | エッセイ
   祭りで会った男が言った
   廃墟を訪れてはならない
   廃墟に心を動かしてはならない
   廃墟に閉じ込められた時間に触れると
   心が腐りはじめるから
   と

   それを聞いていた女は笑いながら言った
   廃墟を訪れなくてはならない
   廃墟に心を動かさなくてはならない
   廃墟に響き渡る沈黙を耳にすると
   心が癒されはじめるから
   と

   どちらにせよ
   私たちのいる祭りの場は
   もうほとんど廃墟になりつつあった

【出典】沢木耕太郎『天涯3 -花は揺れ 闇は輝き-』(集英社文庫、2002)
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書評:『ニューヨーク・タイムズ物語 -紙面にみる多様性とバランス感覚-』

2010年04月23日 | ノンフィクション
 ニューヨーク・タイムズは、国際報道に力を入れている点で米国の他のクオリティ・ペーパーとは異なる特徴をもつ。冷戦終結後、TVも新聞も軒なみに国際報道の時間、紙面を減らした。読者の関心が減退したからだ。
 しかし、ひとりニューヨーク・タイムズだけは依然として国際報道に大きく紙数を割きつづけた。

 ニューヨーク・タイムズのもう一つの特徴は、保守的な論調もリベラルな論調も併載するバランス感覚だ。その目的は多様な意見と豊富な情報を速やかに提供する点にあり、読者がより確かな判断をくだすことができれば使命は達せられる、というわけだ。
 この点、オプ・エド欄(Opposite the Editorial page)に顕著である。オプ・エド欄とは社説の反対側にあるページの意で、米国のクオリティ・ペーパーの読者がことに熱心に読む欄である。ニューヨーク・タイムズの場合、通常、毎日4編前後の論文やエッセイが掲載される。書き手は社内外のコラムニストや識者で、保守ないしリベラルの一方に偏らない。両論を載せるのである。
 歴代社主はユダヤ人だった。ユダヤ人であるがゆえの受難、すなわち反ユダヤ主義者からのいわれのない非難と同時に、ユダヤ人に肩入れしない点に不満をもつシオニストからの非難、その両者の間でバランスをとり、長らくユダヤ人を管理職に採用せず、アラブ関係の記事とユダヤ関係のそれの分量を数えて1週間を通じて等量になるように案配した、と本書は解説する。

 翻って日本の新聞の場合、社説から外部の識者の論説、記事から読者の声まで同じ論調が占める。社内でコントロールされるのである。しかも、分析は浅い。論説委員の書くものは、事実関係を中心とした記事なのか、社の見解を反映させた論説なのか、個人の意見なのか、曖昧である。また、日本の新聞は、事実の分析よりも不確かな根拠に基づく不確かな予想を行うに急である。
 本書は、この点を三つの記事、独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併、米AT&Tと英ブリティッシュ・テレコムの提携、国際石油資本ブリティッシュ・ペトロリアムと米アコモの合併に係る日米の記事を比較して検証する。

 歴史あるニューヨーク・タイムズも時代の波に洗われている。1997年、前社主アーサー・オックス・ザルツバーガーから現社主に引き継がれた後、紙面を本格的カラー化し、記事原稿の締め切り時刻を繰り下げ、スポーツやアート関連情報を従来より相対的に重視するようになった。紙面構成に変化はあったが、記事の質には変わりはない・・・・。

 以上、本書は要するに、読み続けて20年間余の著者が蘊蓄をかたむけたニューヨーク・タイムズ賛歌である。
 しかし、本書が刊行されて10年余のうちに、著者の礼讃には翳りが生じたはずだ。インターネットの普及と使い勝手の向上により、情報の中心地が、一部の大手マスコミから離れたからである。たとえば、著者がニューヨーク・タイムズの特徴としてあげた国際報道は、2002年に開始したグーグルニュース(日本語版は2004年開始)によって色あせた。もうひとつの特徴、バランス感覚については、微妙なところだ。独りニューヨーク・タイムズが奮闘しなくとも、インターネットを活用する読者が両論、各論を読みこなせば、バランスは自ずからとれる。これはしかし、両論、各論を探しだす読者の努力を前提とするから、前提が崩れると読者の意見は一方に偏る可能性がある。その意味で、バランスのとれた紙面構成、紙媒体の新聞における編集の発揮する力は依然として大きい、と思う。逆にいえば、特定の意図をもって構成された紙面による影響も大きい、ということになるので、新聞によっては注意を要する。
 そして、日本の新聞に係る著者の所見は、今もおおむね妥当だ。
 本書は、刊行後の時勢の変化をふまえて読む必要はあるが、新聞を深く読みこむ読書法を教える好著だ。

□三輪裕範『ニューヨーク・タイムズ物語 -紙面にみる多様性とバランス感覚-』(中公新書、1999)
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【言葉】正しく推理するコツ

2010年04月23日 | ミステリー・SF
 レヴィはやや顔を赤らめて話題を変えた。「それにしても、どうやってそこに気づいたんだね? ほかの皆は全然・・・・」
 「さほど難題ではございませんでした」ヘンリーは言った。「たまたま、皆さまそれぞれに違う筋道を辿られました。わたくしはただ、残った道を行ってみただけのことでございます」

【出典】アイザック・アシモフ(池央耿訳)『黒後家蜘蛛の会 1』(創元推理文庫、1981)
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