本書は、短編小説、長編小説、伝記・自伝、歴史、批評、エッセイ、戯曲、詩の8章仕立てになっている。伝記・自伝や歴史も文学にふくめている点は、注意してよい。
著者丸谷才一は、小説家であり、批評家であり、エッセイストでもある。句集『七十句 』(立風書房、1995)も上梓しているから、詩人に数えてもよいかもしれない。したがって、本書には実作者の体験がわんさと盛りこまれていて興味深い。
小説家としては、長編小説論において、創作の機微を披露する。先行作品の「ハイジャック」は短編小説の手法のひとつだったが、これがやがて長編小説にもとりこまれた、と指摘したうえで、『源氏物語』を「ハイジャック」した自作の『輝く日の宮』に言及する。その0章で女主人公が中学生のときに書いた泉鏡花ばりの「小説」について、『輝く日の宮』では人間と時間が主題なのに、そして著者は徳田秋声に興味があったのに、なぜ鏡花なのかというと、「でも、秋声じゃ人気がないし、なんって思って鏡花にしてしまった。秋声のパスティーシュ、むずかしいしね(笑)」
読者の関心に対する配慮が文体を決めた、ということだ。そして、鏡花は秋声にくらべると文体模倣しやすい、と。そういえば、いつぞや週刊朝日は、著者も選者のひとりとして鏡花の文体模倣を募ったことがあったはずだ。
こうした体験談があるものの、全編をつらぬくのは批評家の目である。
批評家の目は、一見あまり縁がなさそうなもの同士を関係づけるところに発揮される。
たとえば、短編小説論において、英文学と日本文学を関係づける。英国では短編小説の格は低く、長編小説優位なのだが、英国でショート・ストーリーという言葉が確立する前にスケッチという言葉がわりと使われた(W・アーヴィング『スケッチ・ブック』ほか)。このスケッチという言い方が日本に入ってきて、写生文になった。子規、、虚子たちの写生文である。島崎藤村に『千曲川のスケッチ』がある。そして、その写生の概念とリアリズムの概念が合致して自然主義文学が登場した・・・・。
あるいは、おなじく短編小説論において、文学をジャーナリズムと関係づける。たとえば、フランスでは、はじめ、長編小説の需要があまりなかった。ブルジョワ階級が、英国よりもそれだけ遅れて成熟したからだ。フランスでブルジョワ階級が興隆するのは19世紀前半からで、この頃ようやくフランスが小説の世紀にはいる。フランスの短編小説の確立は、新聞・雑誌のジャーナリズムのありかたと深く関わっている。フランスの短編小説の型をつくったのは、1980年代のモーパッサンだ。日刊新聞が掲載の舞台だった。サロンの会話が奇譚のようなかたちで定着することもあっただろうが、モーパッサンの読者はあくまで大衆日刊紙を買う層だった・・・・。
もっとも、これは著者の独創ではなく、先行する学説があるのかもしれない。
しかし、学問上の業績を自家薬籠中のものとしたうえで一歩先に展開させる作業も批評家の役目にちがいない。
たとえば、歴史論において、著者は西欧中世の年表を引き合いにだし、脈絡もなければ語り手が不明、という年表の特徴を挙げる。かたや、歴史は物語であり、語り手の「声」がある、と。これは、本書で明示されているようにヘイドン・ホワイトの議論を踏まえている。そのうえで、歴史=物語説に対する反論を検討していくのだ。
検討の先に、理論化がある。
長編小説論において、文学賞選考では「漠然たる読後感をいいあって、そのうちなんとなく話が決まる」という感じだと伝えたあと、著者は基準とはいわないまでも手がかりを考えた、という。第一に作中人物、第二に文章、第三に筋(ストーリー)である。いわば文学賞選考に係る丸谷理論だ。
この点、批評論において詳しく展開される。すなわち、文芸批評も形式別に類別すると全体像がすっきりとつかめる、と整理する。(1)時評的批評、(2)文学史的批評、(3)作品論的批評、(4)作家論的批評、(5)パロディ的批評、(6)詞華集(アンソロジー)的批評、(7)原論的批評、(8)文明論的批評、である。たしかに、こう分類され、逸話やゴシップとともに解説されると、よく飲みこめる。
批評家の役割には、すくなくともその一つには、読者がばくぜんと感じていることを整理して明瞭にする作業があるのだ。
明瞭にすると、あまり愉快でない評価も明らかにされてしまう。
つまり、論のない(論)争批判である。斎藤茂吉の罵詈雑言は、「本当に汚い」「僕は嫌いなんだな、茂吉のああいうところ」。与謝野鉄幹なんか人間扱いじゃないところは、「恐ろしいものです。そういう風潮があったから、とにかく論争をしたら勝てばいい、勝つためにはののしることだ、というふうになった。論争のなかの論という部分はなくて、ただ争あるのみになって、それをみんながはやしたてる。そういうことが日本の批評をずいぶん下等にしたし、無内容にしたし、批評家がものを考えなくなる下地をつくったんですね」
批評家がものを考え、ものを言うとどうなるか。
日本文学大賞の選考委員会で、司馬遼太郎は山本健吉『詩の自覚の歴史』を推した。ところが、丹羽文雄が反対した。こういうのは批評じゃない、学問だ、批評は小林秀雄が書くようなものだ、うんぬん。司馬、ちっとも騒がず、それは言い過ぎ、そのせいでいい批評家がでなくなった、と弁護。これを受けて著者が続けた。
「小林秀雄の文章は威勢がよくて歯切れがよくて、気持ちがいいけれど、しかし何をいっているのかがはっきりしない。中村光夫や山本健吉の文章は歯切れのよさという点では小林秀雄に劣るかもしれないが、少なくとも何をいっているのかはよくわかる。そういう意味で、小林秀雄の批評は明治憲法の文体ににている。気持ちのいい文体という人もいるが、私には何のことをいっているのかよくわからない。そこへゆくと中村光夫や山本健吉の文書はそういう爽快さはないけれど、内容を伝達する能力は高い。その意味でこれは現行憲法みたいなものである」
翌年、パーティで会った著者に司馬が告げた。あの小林秀雄は明治憲法うんぬんを講演のときに使うと非常に受ける、どうもありがとう。
本書には、こうした逸話やゴシップがふんだんに盛りこまれて読者を飽かさない。
エッセイ論で、「昔、野坂昭如が、雑文というのは結局、冗談と雑学とゴシップの三つだといったことがあった」という逸話を紹介する。ただし、『枕草子』や『徒然草』の共通点は「ゴシップとか雑学とか、それもあるけれども、いちばん基本にあるのは好きなものを書くということだ」。書き手が好きなものを書けば、作品は自ずから楽しくなる。文学のめでたさと言うか、めでたさの文学というか。桑原武夫『文学入門』のインタレストとどこかで呼応する。
詩論において、吉田健一と一杯飲んでいるときの思い出を語っている。好きな詩を問われて、英語の詩を数行暗唱したところ、「ああといって、くちゅくちゅと口のなかでくり返す、そしてああきれいだな、とかいって喜ぶ。カラスミとかウニを食べるような感じなんですよ。詩が酒の肴になるのね。僕はなるほど詩というものはこんなふうに楽しむものか、と思いました」
本書は、かくのごとく、じつにしゃれた終わりかたをするのである。
ところで、本書は、インタビューによる文学概論・・・・はしがきによれば、閑談的文学入門である。これまで著者=丸谷才一という前提で書いてきたが、よきインタビュアーを得て本書が成立していることを強調しておきたい。
丸谷才一/山崎正和『半日の客一夜の友』(文春文庫、1998)所収の『対話的人間とは何か』に、こんなくだりがある。
----------------(引用開始)----------------
丸谷 (前略)聞く、聞き終わる、読み終わるという読解力が対談術の基本なんだと思います。
山崎 それには古典的な先例がありましてね。プラトンの『ゴルギアス』という対話編の中に大変な名言がある。プラトンがいくら説得しても、ソクラテスの哲学がわからない人に対してプラトンは、「わたしが答え手になろう、あなたが語りなさい。そうするとあなたは問題を理解するであろう」というんです。つまり、よき聞き手というのは聞くことを通じて相手を開発するんですね。(中略)ギリシア哲学者の田中美知太郎さんによると、「ソクラテスの対話」では、ソクラテスが言い負かされることを通して真実が出てくる、と言うんです。つまり対話の一番理想的な場合には、どこかに神様がいて、二人の対話を通して真実を発見させる。場合によっては、一人の人間の敗北を通して真実が見えてくるというようなものであるはずなんですよ。
丸谷 そう、勝敗じゃなくて、共同作業による真実の探求みたいなものだね。いい聞き手は、相手の言わんとするところを聞くものです。どうでもいいところはあえて聞かない。大局を問題にする。つまらない間違いにこだわって、そこのところをつついていけば、論争には勝てる。でも、それではつまらない対談になっちゃう。(後略)
----------------(引用終了)----------------
本書は、対話ではないから、「聞くことを通じて相手を開発する」ところまでいってない。
しかし、インタビュアー湯川豊は、ツボをおさえた質問で丸谷からうまく話を引きだし、話をよく交通整理している。ときには、ほとんど「対話を通して真実を発見させる」に近いやりとりも見られる。たとえば、意味が解体している百鬼園随筆の魅力を語って、古今亭志ん生の落語と対比し、丸谷才一を唸らせている。
□丸谷才一『文学のレッスン』(大進堂、2010)
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