語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【芸】異動と単身赴任の心理 ~小川軽舟の場合~

2013年01月31日 | 詩歌
 小川 軽舟は、1961年2月7日、千葉市生まれ。1984年、東大法学部卒、日本開発銀行(現・株式会社日本政策投資銀行)入行。1986年、「鷹」入会、藤田湘子に師事。1999年、「鷹」編集長就任。2001年、第一句集『近所』刊行、同書により第25回俳人協会新人賞(2002年)。2004年、『魅了する詩型 現代俳句私論』刊行、同書により第19回俳人協会評論賞(2005年)。2005年、藤田湘子逝去により「鷹」主宰を継承。2008年、第二句集に『手帖』および評論集『現代俳句の海図』刊行。

 株式会社日本政策投資銀行法に基づいて開設された日本政策投資銀行(DBJ)の業務は、旧DBJの業務(出資・融資・債務保証等)を基本とし、新金融技術の活用に必要な業務、資金調達面では主に社債や長期借入金による調達を行う(国の財政投融資計画に基づく財政融資資金、政府保証債等の長期・安定的な資金調達も)。
 
 サラリーマンである以上、異動がある。今年52歳になる小川軽舟も異動して、「俳句」2月号の「特別作品50句 単身赴任」からすると、それはどうやら昨年のことらしく、それも秋頃らしく、赴任先は「関西支店 大阪」(大阪市中央区今橋4丁目1番1号 淀屋橋三井ビルディング)らしい。

   職場ぢゆう関西弁や渡り鳥

 異動と渡り鳥。付きすぎの感もあるが、東から西へ、目的をもってやってきた点で、ぴったりだ。いずれ東(北)に戻る。

   浅く踏む会社の前の落葉かな

 出勤も、抜き足差し足というほどではないにしても、慎重な足取りとなる。

   地下鉄に駅前のなし日記買ふ

 異動先の土地も、長らく暮らした東京と同じく地下鉄がある。その地下鉄の特殊な相貌を改めて気づくのは、やはり異郷の地という思いからか。

   息白く歩めば孤独ぬくもりぬ

 会社のために費やす時間が終わり、帰路に着く。他人のために費やしていた時間が、自分のために費やす時間となる。同僚と別れる孤独、自宅に待つ者がいない孤独。孤独のなかで創造が始まる。

   風呂洗ふことごとくわが木の葉髪
   北風や炊げばぬくき台所
   たつぷりと一人暮らしの柚子湯沸く

 家事はすべて、男一匹、自分が片づけねばならぬ。

   冬の朝トースト二枚とびにけり
   蒟蒻に芥子ゆるさよおでん酒
   ゆらゆらと重さありけり寒卵

 食べるものも、いまいちチグハグだ。

   灯を消せば部屋無辺なり夜の雪

 寝ようとすれば、空間の広さをひしひしと感じねばならぬ。

   神の留守祗園に飯を食うてをり
   定食に満腹したる聖夜かな

 外食しても、少々ピントがずれた思いがある。

   妻来たる一泊二日石蕗の花

 かくて、久々に会う妻子のありがたさが痛感される。たまゆらの潤い。

   しぐるるや近所の人ではやる店
   公園に大人ばかりの小春かな

 独り暮らしに少し慣れて、余裕ができると、近所の雰囲気も分かってくる。

   この町に選挙権なし浮寝鳥

 地域に生きる住民として、大事なことに気づく。都道府県知事・都道府県議会議員の選挙権は、引き続き3ヵ月以上その都道府県内に住所がある者に付与される。市区町村長・市区町村議会議員の選挙権も同様だ。

   古暦金本選手ありがたう

 余裕ができれば、関西人には殊に身近な人に思いを寄せ、挨拶を送ったりもする。

   甃(いしだたみ)破魔矢落ちたる鈴ひびく
   初冬や鼻にぬけたる薄荷飴
   冬の雲膝の日向をふいに消す
   踏切に見上ぐる電車クリスマス
   極月の古本市に稲荷鮨
   住む町を見下ろす神社初鴉

 会社内部で異動があっても、居住地が変わっても、季節は循環する。

   雨粒は雨脚と伸び冬ぬくし
   冬紅葉夕日になつく一枝あり
   着ぶくれの四五人こぼし電車出づ

 小川軽舟という俳人は、日常生活上ありふれた微妙な変化を日常の言葉で巧みに表現することに長けている。鋭敏な感性を温雅に慎ましく表出する。
 慎ましい語りは時として大きく展開し、ほとんど救済に似た予感をもたらすことがある。連作50句全体の掉尾をなす次の句は、この俳人の作品らしくごく日常的な情景だが、それでいて大きな変化を予感させて、じつに明るい。静かで力強くてドラマティックな結句だ。

   客を待つタクシー春を待つ如し

□小川軽舟「特別作品50句 単身赴任」(「俳句」2013年2月号)から抄出。
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【芸】愛しの真砂女 ~うすものや人悲します恋をして~

2013年01月30日 | 詩歌
(1)真砂女10句抄【注1】
 あるときは船より高き卯浪かな
 羅(うすもの)や人悲します恋をして
 口きいてくれず冬濤みてばかり
 白桃に人刺すごとく刃を入れて
 鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
 路地住みの終生木枯きくもよし
 今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)
 恋を得て蛍は草に沈みけり
 戒名は真砂女でよろし紫木蓮
 蛍(ほうたる)を見るだけの旅佳かりけり


(2)鈴木真砂女(すずき まさじょ/本名:まさ)
 1906年11月24日、千葉県鴨川市の老舗旅館「吉田屋」(現・「鴨川グランドホテル」)の三女として出生。日本女子商業学校(現嘉悦大学)卒。
 22歳、日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚。一女を出産。夫が賭博癖の末に蒸発し、実家に戻った。
 28歳、長姉が急死。義兄と再婚。
 30歳、旅館に宿泊した海軍士官(年下、妻帯者)と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔。後、婚家に戻ったが、夫婦関係は冷え切った。
 50歳、離婚、小料理屋「卯波」(銀座1丁目)を開店。保証人は丹羽文雄。
 大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事。生前、7冊の句集を刊行。1976年、『夕螢』により第16回俳人協会賞受賞。1995年、『都鳥』により第46回読売文学賞受賞。1999年、『紫木蓮』により第33回蛇笏賞受賞。ほかに、にエッセイ集『銀座に生きる』など。
 2003年3月14日、没(享年96)。
 「卯波」は2008年に一度閉店、孫によって移転再開。
 娘は女優の本山可久子。

(3)没後10年インタビュー【注2】
 神野紗希は20歳から「卯波」でバイト、いま9年目。
 1935年、本山可久子が3歳のとき、可久子を置いて、真砂女は婚家を出た。この頃、真砂女は俳句を始めた。残した19冊の句帳(年代順)の最初のページに、<愛し子ととんぼ捕りたる日もありき>。句帳は絶対に子どもに見せなかった。真砂女の字は殴り書きで、その時どこに旅行したか、誰にどうだったか知らないと、判読できない。
 可久子が小学校6年のとき、鴨川の真砂女のもとに疎開し、同居するようになった。女学校1年の途中、一字伯母たちが疎開していた茨城にいったが、いじめにあっって、また鴨川に帰された。真砂女は当時、可久子のことをたくさん詠んだ。<春の星子は懐に哲学書>。可久子が女学校から、試験を受けて男女共学の新制高校1年生に入った頃、ちょうど反抗期の頃のこと。<春愁や吾れを咎むる子の瞳>。
 真砂女の俳句の魅力は、裏表がなくて、素直で率直な詠みぶりだ。ウソがない俳句だ。【神野紗希】
 <子別れのその日たしかに木瓜の雨>を句帳に見つけたときは、心に沁みた。本当の親子になれたのは、真砂女が亡くなってからだ。句帳に残された俳句を通じて。
 可久子が真砂女のもとを離れ、文学座に入り、女優の道を歩み始めた頃、<子とあればひと日は早し秋袷>。
 可久子が最初の結婚に失敗して母のもとに戻った(再婚するまで晴海の公団住宅で同居した)ころ、<風鈴や泣きぐせつきし娘とあれば>。
 1992年の正月、母娘は一緒に山口に行った。<初旅の無口またよし親子とは>・・・・真砂女は、「かに」とか「海が青」とか単語をちょこちょこっと書いておく。その場で17音にはしない。単語をピッピッと書いておくと思い出せるから、それを句にする、と言っていた。
 真砂女は、80歳を超えてからもたくさん旅をした。「卯波」にも毎日行っていた。俳句の仕事もすごく増えた。葬式にも、香典だけ人にことづけるだけで済ますことなく、自分で行った。人に会うのが好きだった。80を過ぎてパワフルだったのは、ステーキが好きだったからかも。<敬老日ビーフステーキミディアムに>。肉を食べにホテル西洋に可久子と一緒に行ったり。食べるのはほとんど肉で、魚はめったに食べない。健啖家だった。コース料理を食べていると、可久子がスープ、オードブル、魚とすすんで、肉のころには残す。すると、「あら、あんた、要らないの。じゃ、あたしがもらうわ」って。ファッションの句も多かった。オシャレだった。食道楽、着道楽。老いて「いよよ華やぐ」という言葉どおりだった。無邪気、天真爛漫、お茶っぴい。
 可久子は、母と、同志というか、友だちともちょっと違うし、そんな関係だった。わりと客観的に母を見ることができた。
 真砂女の俳句は、女性がどこかで抱いたことのある感覚、「それ、私もある」と共感を呼ぶようなところがあって、もちろん俳句として格調も高いが、俗をいとわない、俗であることをうまく引き受けて、俗なところをしっかり持っている。それがまた、真砂女の句の不思議な魅力だ。【神野紗希】
 真砂女は「私のは生活句ですから」って、よく言っていた。だから、身近なこと、思ったことをそのままに句にしていたのではないか。<人もわれもその夜さびしきビールかな>など。
 「恋の軌跡をたどる旅」というNHKテレビの企画で、可久子は母と二人で長崎に出かけた(1995年)。三泊四日、寝起きを共にした。その時に初めて聞いたが、昭和13年に長崎に行った恋人の森さんを真砂女は追った。森さんは戦地に行ったので、真砂女は一人で東京へ帰った。関門海峡を船で渡った。だんだん九州の灯が遠ざかる。「あの時は怖いほどの寂しさだった。海に跳び込みたかったねえ」と言っていた。あの時の旅行で同じ女同士の思い、共通のものを感じることができた。自分勝手でわがままで、そのくせ内弁慶で泣き虫で、つくづく「可愛い女」だった。
 <今生のいまが倖せ衣被>・・・・衣被はとても庶民的な食べ物。だからその程度なんだけれど、それが私の今の幸せだということ。「吉田屋」というあの大きな旅館の女将だった時の幸せと、今、「卯波」の女将で衣被のような庶民的な幸せと、その落差、というところか。

(4)芝居「真砂女」
 大好評につき、再演。
 ●日時 2013年2月18日~27日
 ●場所 新国立劇場小劇場
 ●出演 藤真利子、本山可久子、谷昌樹、ほか
 ●その他 劇団朋友第43回公演

 【注1】神野紗希・選「鈴木真砂女30句抄」(「俳句」2013年2月号)から抄出。
 【注2】インタビュイー:本山可久子(女優、真砂女の子)、インタビュアー:神野紗希(俳人)「愛しの真砂女」(「俳句」2013年2月号)
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【社会】世界水準の危機管理でも防げない武装勢力の襲撃

2013年01月29日 | 社会
 (1)LNGプラントの心臓部「中核装置」(地中から掘り出した天然ガスをマイナス162度で液化する設備)を手がけられる企業は、世界に5つしかない。「日揮」「千代田化工建設」(以上、日本)、「ベクテル」「KBR」(以上、米国)、「テクニップ」(仏国)だ。扱える企業が限定されるために、資源国から声がかかるのだ。
 資源の多くは政情不安定な国々に眠っていることが多く、技術を持つ企業は、必然的にそのような地域が仕事場となる。
 エンジニアリング会社は、砂漠の真ん中やジャングルの奥地で、原野を開拓して街を造成することがから始める。最終的には巨大生産設備を立ち上げる。
 プラント建設ばかりではなく、現地人の技術者教育などを通じて資源国の発展に貢献してきた。【「日揮」OB】

 (2)「日揮」にとって、アルジェリアは縁の深い国だ。1969年の「アルズー製油b所」の建設プロジェクトは、苛酷な環境下で幾多の困難に直面し、多額の損失を出して会社がつぶれかけた。それでも設備を完成させて、同国政府の信頼を勝ち得た。これが後の大型受注につながり、「日揮」は発展の礎を築いた。最初に調査で接点ができて以来、45年以上の関係がある。
 「日揮」は、2011年度の連結決算で、売上高5,569億円、営業利益670億円、純利益391億円と、過去最高益を出した。長い年月をかけ、体系化した独自のリスク管理手法により、実践と信頼を積み重ねていった。

 (3)海外に軸足を置くプラント・エンジニアリングの仕事は、困難で、リスクを伴う。
 「日揮」のリスク管理体制は、世界が認める水準だ。
 <例>カタールの気体の天然ガスを液体燃料に変える設備「パールGTLプラント」(2011年に完成)の建設現場では、世界60ヵ国以上から52,000人の作業員をかき集めたが、死者を1人しか出さなかった。

 (4)世界水準のリスク管理能力をもつ「日揮」をもってしても、また、アルジェリア国防軍が常駐していても、襲撃を防げなかった。1月26日、アルジェリア内陸部の天然ガスで起きたイスラム勢力による人質事件で、エンジニアリング専業大手「日揮」(横浜市)の国内外スタッフ10人以上が死亡した。
 プラント・エンジニアリングの世界には、「ビヨンド・コントロール」(想定されるリスク要因を徹底的に排除してもなお残る制御不能な事態)という概念がある。これが、今回、如実に示されたのだ。

□池富仁(本誌)「リスク管理で世界水準だった業績好調の日揮を襲った悪夢」(「週刊ダイヤモンド」2003年2月2日号)
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【本】円滑なコミュニケーションに必要な才能 ~『探偵法間』~

2013年01月28日 | 小説・戯曲


 大岡昇平は『成城だより』で、推理小説は数学とならんで終生変わらぬ道楽だった、と語っている。道楽は半端ではなく、数学は晩年に専門家から講義を受けている。そして、推理小説は自らも書き、その1冊『事件』は1978年に日本推理作家協会賞を受賞した。

 論理明晰な大岡は謎解きを好んだが、大岡ほど明晰でない作家は謎解きとは別の領域に活路を見出した。東直己の場合、それは「ごますり」だった。
 『広辞苑(第五版)』は、<へつらって自分の利益を計ること。また、その人。>と定義する。当然、「ごますり」人間は、余人に好感を与えない。

 しかし、本書の主人公ノリマ(法間)の「ごますり」を見ていると、それは確かにへつらっているし、自分の利益を計っているのだが、憎めない。なぜか。
 それは、どこか、節度のようなものがあるからだ。あること、ないことをでっちあげ、やたらに媚びまくる、というわけではない。あくまで、現に在るものをあの手この手で持ち上げる。本人は意図しているが、ひとは気づかぬものをきちんと評価し、褒める。本人自身気づかぬ美点を見つけ出し、褒めまくる。要するに、けれんみがない。
 だから、傍らで聞く者に(そして読者に)嫌な印象を与えない。せいぜい、大袈裟だ、と感じさせるぐらいだ。そして、饒舌は沈黙を破るから、コミュニケーションが円滑になる。

 物事のいい面を徹底して数え上げるには、ふだんから雑学的知識をふんだんに仕入れておかねばならない。酒の種類、犬の品種から、ドレスやアロハシャツのメーカーまで。こまめな研究とよい記憶力が必要なのだ。
 そして、本人にも周りにも不都合なことを徹底的に避けるには、それなりの才智が必要だ。人間関係や状況の把握に鈍感だと、まず「ごますり」はできない。
 要するに、ノリマ(法間)は見かけほど馬鹿ではない。

 馬鹿ではないどころか、抑制された「ごますり」によって中身の濃い対話を醸しだし、警察が見逃した真実を明らかにする場合もある(「時カクテル」)。
 芸は身を助ける。殺される寸前、もやは本能となった「ごますり」のおかげで、危機を脱したりもする(「美しい目」)。

 本書は、軽い娯楽小説として、際限のない「ごますり」と雑学によって読者を楽しませる。そして、さらに、コミュニケーションの根柢にあるべき「気配り」について、改めて考える機会を提供してくれる。

□東直己『探偵法間 ごますり事件簿』(光文社、2012.7)
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【本】震災ビジネス ~『ZONE ~豊洲署刑事 岩倉梓~』~

2013年01月27日 | 小説・戯曲


 岩倉梓は、警視庁深川警察署生活安全課八坂班に属する刑事だ。
 深川警察署といっても、東京の地理にうとい者にはピンとこない。そこで、本文に入る前、目次の次に見開き2ページで「ZONE主要舞台 豊洲マップ」が載っている。要するに、東京都23区中、江東区に属し、管内に江東区役所がある。東京都現代美術館も管内だ。
 ちなみに、巻末には「豊洲のあゆみ」と題する年表が、これまた見開き2ページで掲載されていて、1923年の関東大震災から2011年の<高齢者と子どものふれあい施設「グランチャ東雲」がオープン>まで紹介されていて、このきめ細かさは並みのものではない。

 警視庁所轄署生活安全課というと、新宿署の鮫島崇が名高いが、「新宿鮫」のような大事件、大活躍は、ちっとも出てこない。全5話の連作短編だが、みなチマチマとした出来事ばかりで、事件として立件されないものばかりだ。
 第1話では母子家庭の母親の失踪、第2話では偽名で通してきたことが判明した者の孤独死(行旅死亡人)、第3話は幼稚園におけるキャリア・ウーマンと専業主婦の対立、第4話はストーカー・・・・
 第4話では、ストーカーを調査していた岩倉梓自身がストーカーされるに至る。梓は、30代前半という設定だ。ディック・フランシスが好んで主人公にとりあげた年代である。ある程度の人生上、仕事上の経験を積み、しかしまだ完成しきっていない。その分、まだ擦れてはないし、可能性も残っている。そこからくるやる気と勇み足が、同僚や読者にとって魅力となる。上司の八坂は、酸いも甘いもかみわけたベテランで、仕事の上で人を死なせ、深く傷ついた過去をもつらしい。コンビを組む後輩の佐々は5歳下だが、有能で、将来は自分を追い越すだろう、とヒロインは自覚している。その佐々は、司法警察員としてはいくぶん人間味が出過ぎているヒロインの仕事ぶりに共感している。

 ところで、第5話は震災ビジネスをとりあげる。震災ビジネスといっても、夏原武『震災ビジネスの闇』【注】が抉り出したようなえげつないものではない。寸借詐欺に近い。むしろ、非正規労働者の今を追って、風俗小説的だ。
 本書は警察小説だが、総じて、推理小説的な事件の解決より、第1話でミクシィが大きな役割をはたしている点にもうかがえるように、現代社会の風俗を描くほうに力点が置かれる。肩肘はらずに、それでいて一途なところのあるヒロインに魅力があり、感じのよい小説だ。

 【注】
【震災】原発>放射能をダシにした詐欺 ~震災ビジネスの闇~
【震災】被災者を骨までしゃぶる建築詐欺 ~震災ビジネスの闇~
【震災】瓦礫に「宝」を見つける廃材ビジネス

□福田和代『ZONE ~豊洲署刑事 岩倉梓~』(角川春樹事務所、2012.8)
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【大岡昇平】資料 「大岡昇平、そして父のこと」

2013年01月26日 | ●大岡昇平
 ブログ「アリラン峠の石神」に「大岡昇平、そして父のこと」と題する記事、全10編【注1】が掲載されている。

 「アリラン峠の石神」管理人がどういう方なのか、まったく知らないのだが、記事の内容からすると、1949年生まれの方で、御尊父は出征・抑留の経験があるらしい。以下、管理人とブログの記事との両方を一括して「アリラン峠」と略記させていただくが、「アリラン峠」は御尊父の半生【注2】を思い合わせながら、大岡昇平の戦前戦後をたどっている。例えば、帝国酸素。帝国酸素本社が入居していた「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現・シティバンク)神戸支店」ビルは現存していて、「アリラン峠」の御尊父も復員直後このビルで働いたそうだ。【注1の(2)】
 ここでは、大岡昇平に焦点をあてて整理する。
 帝国酸素は、もとはフランスの「レール・リキード社」日本法人で、1930年、住友資本と共同出資により「帝国酸素」と社名変更した。

 1938年10月、帝国酸素(日仏合弁)に入社(翻訳係)。
 1939年10月、今日出海の媒酌で上村春枝と職場結婚。式は挙げていない。
 1943年11月、それまでに帝国酸素を退社していた大岡、川崎重工業に入社。
 1944年2月、川崎重工業東京事務所勤務。
 1944年3月(35歳)、本籍地の東京で教育召集を受け、近衛連隊に入隊。

 「教育召集」とは何か。これを「アリラン峠」は明快に解説している。
 徴兵検査では、身体的な頑健さが主たる評価軸とされ、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種に分けられた。検査の結果、合格となってただちに(検査の翌年1月)入営する可能性が高いのは、甲種合格者。「現役(兵)」の兵役期間はおよそ2年。平時ならば、期間終了後、除隊となる。戦時には、甲種合格者だけでは現役兵が不足する。第一乙種合格者は、現役兵が不足してくると「補充兵」として召集をかける第一候補となる。そのため、あらかじめ兵士としての教育をおこなっておく必要がある。これが「教育召集」だ。第二乙種合格者は、平時では召集がかかることはまずなかったらしいが、戦時になると、「第一乙種」に繰り上げられたり、「教育召集」がかかったりした。【注1の(3)】
 大岡は、第二乙種合格だった。

 1944年6月17日、部隊が品川駅で小休止中、前日の面会日に間に合わなかった妻子と面会。
 1944年6月27日、門司にて輸送船に乗船。

 輸送船の上で、大岡は次のように考えた。
 ①<「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることが出来なかった以上止むを得ない。>【(「出征」】

 このような戦争観はマルクスから学んだことだ、という大岡の証言を「アリラン峠」は拾い出している。【注1の(6)】
 ②<あの時、ブラブラしていた時に、また本をごそっと読みました。(中略)神戸の場末の本屋にマルクスの『露土戦争』って本があったんだ。そんな本、当時本屋にあっちゃあいけないんだけれど、『戦争』って題なんでお目こぼしあずかったらしいんだ。(中略)で、それを読んで、あの中の戦争についての考え方が、まあぼくの戦争観の基礎になったんですがねぇ。>【『戦争』、岩波現代文庫】・・・・「ブラブラしていた時」とは、帝国酸素を辞めて失業中の1943年頃のことだ。

 ③<きみたちは死に、おれは生きた。おれたちは大抵三五歳で、自分の惨めさを忘れるために、みんな考え深かった。しかし自分の手に持たされた銃でなにをすべきかを決定する動機がどうも見付からなかった。それはわれわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかったからなのだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
 ④<私がここで戦友たちになにを約束したかは言いたくない。やるまではなにも言わないのが私の主義である。>【同】

 大岡は何を「約束」したのか。「アリラン峠」は、仮説を立てている。【注1の(8)】
 (a)抽象的な何か(<例>平和を守る)より、もっと具体的ななにか(行動)だった。
 (b)まず、『レイテ戦記』をかれらのためにも書き上げること。『レイテ戦記』の「あとがき」【注3】からも、それが伺える。
 (c)芸術院会員の辞退(1971年、ミンドロ島を訪問の4年後)。・・・・大岡自身による証言は【注4】。

 高度成長が1954年12月から1973年11月までであるならば、(c)のときまだ高度成長の途上にあった。<健忘症に陥った「戦後」のなかで、大岡は、ふたたび孤独だった。/そして、ひとり死者たちを想起し対話を続けていた。/その相手は、「抽象」の死者ではない。/「伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤」と、大岡は呼びかけるのだ。>と「アリラン峠」は記す。【注1の(8)】

 「アリラン峠」はさらに、
 ⑤<私がいかにも自分が愚劣であることを痛感したが、これが理想をもたない私の生活の必然の結果であった以上、やむを得なかった。現在とても私が理想をもっていないのは同じである。ただこの愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない、それは屈辱であると私は思う。>【「出征」】
を引用し、ここにおける「理想をもたない私の生活」は、③の「われわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかった」に対応すると見て、③は<じぶんたちは35歳の大人として世渡りの苦労もなめ思慮深かったものの、見方をかえれば、それは処世、自己保身に流されてきたということでもあり、その「必然の結果」として、じぶんたちはなすすべもなく無意味な戦争に駆り出されたのではなかったか、という痛恨の自己反省を言っているのではないか。/そして、その「愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない」と、大岡は、戦友が眠る「ルタイ高地」に向って「叩頭」し、約束し、自戒したのではないか。>と解釈している。【注1の(8)】
 そして、傍証として、
 ⑥<ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験をもつ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたいと思っています。><権力はいつも忍び足でやってくるんです。>【『戦争』】
を引用する。【注1の(8)】

 <戦争についてひと言も語らなかった父、というより、私に話を聴こうとする姿勢がなかったのだが、その亡き父に、私もなにか「約束すること」があるような気がしている。>【注1の(8)】という反省は重い。

 1945年12月、復員船、博多港に到着。上陸。

 「アリラン峠」は、「わが復員」(『ある補充兵の戦い』所収)の末尾の「とても好きな箇所」を引用し、擱筆している。【注1の(9)】
 私も好きな箇所だ。以下は、引用符は付けないが、引用である。

 畳の上に寝るのは一年半ぶりである。背中に当たるのと同じ柔らかい感触の平面が、まわりにもずっとあるという感じは、まったくいいものだ。
 片づけをすませて上がって来た妻は、横になりながら、
 「折角もう帰って来んと諦めてたのに」といった。
 意味のないことをいいなさるな。久し振りで妻を抱くのは、何となく勝手が悪かった。
 「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」
 私は今でも妻と話すときは関西弁を使う。友と東京弁で語り、横を向いて妻を関西弁で呼ぶ芸当を、友は珍しがる。
 「そりゃ、ひとりで子供育ててくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いて貰うつもりやった」
 「危険思想やな」
 我々は笑った。

 【注1】
 (1」)「大岡昇平、そして父のこと(1) はじめに
 (2)「大岡昇平、そして父のこと(2) 召集まで
 (3)「大岡昇平、そして父のこと(3) 教育召集
 (4)「大岡昇平、そして父のこと(4) 妻との面会
 (5)「大岡昇平、そして父のこと(5) 1937年「南京陥落」
 (6)「大岡昇平、そして父のこと(6)「スタンダール研究」
 (7)「大岡昇平、そして父のこと(7)「レイテ戦記」
 (8)「大岡昇平、そして父のこと(8)「ミンドロ島ふたたび」
 (9)「大岡昇平、そして父のこと(終り)
 (10)「大岡昇平、そして父のこと(番外編) ”戦争は知らない”

 【注2】1915年に生まれ(1909年生まれの大岡昇平より6歳ほど若い)。1939年4月、大学(経済学部)卒後、「K造船所」(神戸、同年12月に「K重工業」に社名変更)入社。1939年12月(24歳)、応召し、歩兵第40連隊(鳥取)に入営。新兵教育終了後、「陸軍経理学校」(旧「満州」の「新京」)に入校。主計幹部候補生の教育を受け、「中支野戦貨物廠」に配属(第13軍〈上海〉直轄)。1945年8月、敗戦により、中華民国(国民党)に抑留され、1946年8月(31歳)に帰還。1947年、「K重工業」に復帰。【注1の(1)】

 【注3】<戦場の事実は兵士には偶然のように作用するが、その一部は敵味方の参謀の立てる作戦と司令部の決断によって、支配されているのである。レイテ島における決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書くことが、著者の次の野心となった。>【『レイテ戦記』の「あとがき」】

 【注4】
 ⑦<フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて芸術院会員などという国家的栄誉はどうしても受けられません。とにかく天皇陛下の前には出られません。>【1971年11月30日付け「読売新聞」】
 ⑧<あの辞退のことばとは、あのときふっとその場でというのが朝日新聞に出たけれども、そうじゃないんだ。・・・・おれはもうずっと前から言っていたんだよ。そろそろくるころだと思って。>【『二つの同時代史』】
 ⑨<誰も僕の気持を察してくれない。/なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。/わかって貰えるのは、みんなだけなんだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
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【食】夢のご馳走で健康になる ~中島敦『南島譚』~

2013年01月25日 | 小説・戯曲
 サモア島で晩年を送ったロバート・ルイス・スティーヴンソンに『南海千一夜物語』なる奇譚があり、岩波文庫に入っていたが、もはや絶版になっているらしい。新訳が同じく岩波文庫から一昨年に出た(『マーカイム・壜の小鬼』)。『南海千一夜物語』と重なるのは2編だけだが、その「壜の小鬼」「声たちの島」だけで、スティーヴンソン的南洋の魅力をじゅうぶんに伝える。

 R・S・スティーブンソンを愛した中島敦は、彼を主人公とした長編小説『光と風と夢』を書き、これが出世作となった。中島は、その早すぎる死の1年前、当時日本の統治下にあったパラオに南洋庁の官吏として赴任し、国語教科書の編纂にたずさわった。
 中島は、『光と風と夢』を書いたことでも知られるように、南海の島に熱い想いを抱いていた。その想いは、『南島譚』」という総題のもと、3つの民話ふうのコントに結集する。
 そのうち、「幸福」【注】は、いまは海底に沈んでしまったオルワンガルという島の昔話という体裁をとる。

 村一番の貧乏人がいて、食うものといえば、犬猫にあてがわれるようなクカオ芋の尻尾とか魚のあらがせいぜいなのだ。他方、彼が仕える島一番の金持ちルバックの家には、極上鼈甲製の皿が天井まで高く積み上げられ、ルバック自身、毎日のようにウミガメの脂や石焼きの仔豚や「人魚の胎児」やコウモリの仔の蒸し焼きなどの珍味を飽食し、腹は脂ぎって孕み豚のようにふくらんでいる結構な身分なのだ。
 この貧乏人、あるとき、我が身の苦しみが少しでも楽になるよう、椰子蟹カタツツと蚯蚓ウラヅの祠にタロ芋を供えて祈った。すると、その晩から、彼は夢のなかで金持ちに変身し、口腹のよろこびを満喫するようになる。<豚の丸焼や真赤に茹だつたマングローブ蟹や正覚坊(アオウミガメ)の卵が山と積まれ>た食卓を前にして。さるほどに、不思議なことに、夢の美食のせいか、昼間の食うや食わずやの激しい労働にもかかわらず、身体は肥え、顔色もつやつやしてきた。
 他方、同じころから、金持ちの方は夢で貧乏人に成り下がり、食うや食わずやの立場になって、昼間だんだんとやせ衰えていったのだ。

 【注】「書評:『幸福』 ~金持になる幸福、金持がなる不幸~

□篠田一士「夢の食事 --中島敦『南島譚』」(『世界文学「食」紀行』、講談社学芸文庫、2009)

 【参考】
【食】スペインのご馳走 ~ドン・キホーテ~
書評:『世界文学「食」紀行』 ~日本文学史上最高の巨漢による文学の食べ方~
書評:『弟子』 ~信念に殉ず~
書評:『幸福』 ~金持になる幸福、金持がなる不幸~
書評:『名人傳』 ~もうひとつの解釈~
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【食】スペインのご馳走 ~ドン・キホーテ~

2013年01月24日 | 小説・戯曲
 ミゲル・デ・セルバンテス・サベードラ『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』において名高い場面は、やせ馬ロシナンテにまたがって風車と戦うドン・キホーテだ。その滑稽にして悲壮、勇敢だが、ばかばかしいアイロニカルな英姿は、いまや人類の宿命のシンボルとしても読める。

 本書の前編が出版されたのは1605年。10年後に後編が出版された。両方合わせるとたいへんな分量になり、全編通読している人は、スペイン本国でも案外少ないらしい。
 書き出しのところで、郷士ドン・キホーテの貧しい食生活の記述がある。
 <昼は羊肉よりも牛肉を余分につかった煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻みこんだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日には扁豆(ランテーハ)、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の四分の三が費えた>(会田由訳)

 しかし、田舎の大金持ちの婚礼祝いとなると、料理場を覗きこんだサンチョ・パンサが狂喜するほどだ(後編第20章)。そこにくりひろげられる料理は、質量とも世界文学の大古典にふさわしい豪壮なものだ。
 <例>楡の木まるまる一本を焼き串につかった仔牛の丸焼き。<この犢(こうし)の大きな腹のなかには、十二匹のやわらかい仔豚をつめて、うえで縫い合わせてあったが、これは牛の肉に、風味をつけ、やわらかくするためであった>
 途方もない手間をかけた料理なのだ。

□篠田一士「「憂鬱な騎士」の食事 --セルバンテス『ドン・キホーテ』」(『世界文学「食」紀行』、講談社学芸文庫、2009)

 【参考】
書評:『世界文学「食」紀行』 ~日本文学史上最高の巨漢による文学の食べ方~

 写真(上) ラ・マンチャ地方の風車。
 写真(下) やせ馬ロシナンテにまたがるドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの銅像。  

  

  

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【玉村豊男】国際的競争力のある宅配 ~日本人のお家芸~

2013年01月23日 | ●玉村豊男
 玉村豊男の文章は、軽くて、読みやすい。あれほど読みやすい文章は、なかなか書けるものではない。
 その軽さに騙されて、一読、そのまま忘却するのはもったいない。あれだけ世界を旅している人だ。本人に批評する意図がなくても、自ずから批評が生まれる。

 団塊世代に対する田舎暮らしガイドブック『田舎暮らしができる人 できない人』は書く。
 通信手段の発達が田舎暮らしの不便を解消した、という。インターネットは暮らしのスタイルを根本から変えてしまった、と。
 原稿を書くにあたり、調べものをするには、東京に住んでいたときは都立や国立の図書館に行き、神田の古書店街を歩いて資料を探した。大型の書店にも出入りした。今ではパソコンの前に座るだけで、世界中の情報が検索できるし、教えを請えば姿の見えない無数の人が寄ってたかって教えてくれる・・・・。
 これは、さほど目新しい発見ではない。

 情報だけでなく、買物もインターネットで激変した。本を買うにも、本屋へ行くよりパソコンの中に探すほうが早く確実だ。本に限らず、そして東京に住んでいても、都心のデパートや専門店に行くよりネットショップのほうがはるかに能率的だ・・・・。
 これも、さほど目新しい発見ではない。

 ちょっと独創的なのは、ネットショップを支える宅配便サービスの充実を賞揚している点だ。
 日本では、インターネットであれ直接の電話であれ、注文すればどこへでも間違いなくモノが届く。あたりまえのように思いがちだが、消費者物流をこれほど正確迅速安全におこなうことができる国は、世界でもめったにないのだ。
 商品を、間違いなく、ていねいに運び、正確な時刻に、きちんと相手に届ける。しかもその場で代金を受け取り、事務処理までして、帰って会社に報告する(カード決済でない場合)。こういうことをやらせたら、日本人の右に出る国民はない。
 世界の多くの国では、配達人を信用して現金を渡すことはできないだろう。
 だから、もし仮に日本が沈没して外国で生きなければならなくなったら、スシ職人になれない人は宅配業者が一番だ。いや、日本沈没がなくても、世界中に日本の宅配便システムを広め、汗をかきながら律儀にものを運んでいれば、日本人は世界の敬意を集め、戦争の準備をしなくても平和に生きることができるであろう・・・・。
 このあたりが、かなり独特な考察だ。そして、現実性のある考察で、事実、クロネコヤマトは海外に進出したし、国際宅急便に新規に乗り出した事業所もあるらしい。

 玉村は、念を押すように、書いている。
 <それぞれの国には、お家芸とでもいうべき得意の職業があるものです。フィリピン人はその笑顔とホスピタリティーで看護師、介護福祉士、ハウスメイド、もしくはその天性のリズム感を生かして歌や踊りのエンタテイナー。インド人は、貴金属商でなければ理髪師か仕立屋さん。ギリシャ人は船乗りか美容師。ポルトガル人はコンシェルジュ(アパートの管理人)、というように、私は、日本人が世界の中で生きていくには、宅配をお家芸にするのがいちばんいいのではないかと思っています。>
 産業構造転換のヒントになるかもしれない。

□玉村豊男『田舎暮らしができる人 できない人』(集英社新書、2007)

 【参考】
【玉村豊男】大食漢の話 ~体重500キロ~
【玉村豊男】料理の四面体 ~理論と実例~
【読書余滴】玉村豊男の、ワインと女は古いほどよい ~熟成と生涯学習~
【読書余滴】玉村豊男の、批評する要件または批評の仕方 ~日本版ミシュランを採点する~
【読書余滴】玉村豊男の、フランスのレストラン・ガイド、料理批評 ~『ミシュラン東京版』の狙い~
【読書余滴】玉村豊男の、東京の隠れ家 ~都市の中の自由とその代償~
【読書余滴】理論と実践又はアルジェリア式羊肉シチューの事 ~料理の四面体~
【読書余滴】玉村豊男の、沖縄の人がコンブをたくさん食べる理由 ~聴衆からの質疑に答える極意~
【読書余滴】玉村豊男の、赤ん坊はキャベツから生まれる
書評:『パリ 旅の雑学ノート』
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【玉村豊男】大食漢の話 ~体重500キロ~

2013年01月22日 | ●玉村豊男
 太陽王ルイ14世は、帰属戦争やオランダ侵略戦争で隣国を「食べ」たが、その食事も盛大だった。
 朝10時、朝食。・・・・8コース計4皿。鶏2羽とシャコ6羽のキャベツ煮、16kgの仔牛肉、12羽の鳩のパイ詰め、七面鳥2羽の炙り焼き、トリュフ詰め若鶏2羽。食後に茹で玉子3個をデザート代わりに口中に放り込んだ。
 午後6時、夕食。・・・・腸詰め、パテ、煮込みを前菜に、仔牛4kgと鶏・雉・鳩類合計53羽をメインとして食べ、これでは足りないと言って、さらに鴨とヤマシギを追加注文した。
 夜食。・・・・鯉3尾、大型カワマス1尾、スズキ3尾、舌平目3尾、マス1尾、大鮭を半身。
 夜食を食べ終わると、深夜の空腹時用に、パン3個、ブドウ酒2瓶を抱えてベッドに入った。
 食べ残しはあっただろうし、どこまで伝説でどこまで事実か不明だが、とにかく太陽王の食欲はすさまじかったらしい。

 大食の伝説は多い。
 ローマ皇帝ヴィテリウスは、前菜に生牡蠣を100ダース(1,200個)食べた。
 文豪バルザックは、小説を1編書き終えると、生牡蠣100個、仔牛の背肉12枚、鴨のカブラ煮込み1羽、シャコのロースト2羽、舌平目のクリーム煮1尾をペロリと平らげ、その勘定書は出版社へまわした。

□玉村豊男『食いしんぼグラフィティー』(文春文庫、1989)

   *

 マイケル・フレバンコという米国人は、あまりに食べ過ぎて体重が500kgにもなった。写真では、巨大なボールのような体型をしていた。
 当然、寝て暮らすしかない。
 当然、移動には起重機がいる。
 何年か前、このニュースを見て驚き呆れ、メモだけはとっておいたが、今ネットを検索しても出てこない。
 念のために「体重500キロ」で検索したら、Mayra Rosales さん(31歳)、体重1,100ポンド(約500kg)超、という記事が見つかった。

 【参考】
【玉村豊男】料理の四面体 ~理論と実例~
【読書余滴】玉村豊男の、ワインと女は古いほどよい ~熟成と生涯学習~
【読書余滴】玉村豊男の、批評する要件または批評の仕方 ~日本版ミシュランを採点する~
【読書余滴】玉村豊男の、フランスのレストラン・ガイド、料理批評 ~『ミシュラン東京版』の狙い~
【読書余滴】玉村豊男の、東京の隠れ家 ~都市の中の自由とその代償~
【読書余滴】理論と実践又はアルジェリア式羊肉シチューの事 ~料理の四面体~
【読書余滴】玉村豊男の、沖縄の人がコンブをたくさん食べる理由 ~聴衆からの質疑に答える極意~
【読書余滴】玉村豊男の、赤ん坊はキャベツから生まれる
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【経済】自然エネルギーの現在 ~太陽光破綻~

2013年01月21日 | 社会
 「週刊ダイヤモンド」今週号の特集は「倒産 危険度ランキング」だ。

 太陽電池は、数年前は夢があったが、中国メーカーによる過剰生産や、欧州の不景気による価格暴落で、昨年独Qセルズが倒産したり、オバマ大統領のグリーンディール政策で生まれた米新興メーカーも相次いで倒産している。
 その荒波が、わが国にも押し寄せてきた。

 国内は、一見、“太陽光バブル”に沸いている。政府が昨年7月、自然エネルギーを高値で全量買い取る制度を始めたため、商社、金融、住宅メーカーから多額の投資マネーが太陽光発電に注がれているからだ。
 しかし、潤っているのは主に投資側で、太陽電池の製造に関わるメーカーは取り残されている。
 国内で太陽電池は、次の(1)以下の流れで生産される。

 (1)原料
 (2)インゴット ・・・・ フェローテック、SUMCO、JFEスチール
 (3)スライス加工 ・・・・ TKX、石井表記、北川精機
 (4)セル ・・・・ アルバック、エヌ・ビー・シー
 (5)モジュール ・・・・ YOCASOL、シャープ、パナソニック、京セラ

 (2)のインゴットやウエハーと呼ばれる材料を製造していたSUMCO、JFEスチールなどの大手メーカーは事業に見切りをつけた。原料価格が暴落したため、自社生産の撤退を決めた。
 (3)の材料をスライスする切断装置や加工業務が主力だった石井表記は需要減とコスト競争に耐えられず、ソーラー関連の子会社を解散。しかし、昨年1月、巨額赤字で債務超過に陥り、金融機関の支援で首の皮一枚でつながっている状態だ。同業の北川精機も、「継続疑義の注記」がついた。太陽電池の製造須知メーカーのフェローテックも昨年上半期決算で「重要事象の記載」に追い込まれた。
 (5)の太陽電池モジュールメーカーYOCASOL(福岡県)は、昨年11月、24億円の負債を抱えて民事再生法申請に追い込まれた。
 そもそも、国内トップの太陽電池メーカーのシャープですら2期連続赤字。あまりにも中国、台湾製のセル(基幹部品)が安すぎるため、自社のセル工場を止めて、中台から輸入したセルを組み立てている。

 高値の買い取り制度とバブルが終わる2015年こそ、需要の反動を招き、本当の修羅場になる。【太陽電池メーカー幹部】

□記事「PART3 太陽光破綻」(「週刊ダイヤモンド」2013年1月26日号)
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【玉村豊男】料理の四面体 ~理論と実例~

2013年01月20日 | ●玉村豊男
  

1 玉子料理 ~ウォーミングアップ~
 5種類の玉子料理料理がある。
  (1)フライド・エッグ(目玉焼き)
  (2)スクランブルド・エッグ(炒り玉子)
  (3)ポーチド・エッグ(落とし玉子)
  (4)ボイルド・エッグ(茹で玉子)
  (5)オムレツ(卵焼き)
 (3)と(4)の違いは、料理以前に殻を剥くか剥かないかであって、両者とも料理は湯(水+火)を使う。よって同じ料理に分類できる。
 ただし、(3)は普通の湯に玉子を割り落としただけでは黄身も白身もグズグズ拡散してしまう。少々の酢を入れておく必要がある。
 だから、料理にはやはりア・プリオリな知識が必要なのだが、酢の入っていない湯に落としたところで、食べられないわけではない。湯ごと掬って食べればよい。掻き玉子とか、玉子とじになる。姿は異なるが、掻き玉子、玉子とじ、かきたま(掻き玉)は同じ本質を持った料理だ。
 黄身も白身もグズグズ拡散した料理は、(3)としては失敗だが、汁(スープ)としては新たな料理を開発できる。
 (1)は「玉子の姿炒め」だ。同時に、(2)は「玉子の崩し炒め」、(5)は「玉子の炒め固め」だ。いずれも玉子の油炒めだ。「殻なし玉子の油炒め」が異なる衣装をまとって立ち現れたものだ。日本の「だし巻き」も、(2)の固まったものにすぎない。

2 料理の四面体【注】
 (1)料理の四要素
  A 水
  B 空気
  C 油
  D 火

 (2)稜線と面
  1のA、B、Cの3点を結ぶ三角形をつくり(二次元)、この三角形の上部にDを置いて三角錐を設定する(三次元)。すると、次のような稜線と面が出現する。
  (a)稜線
    ① A(水)~B(空気) 
    ② A(水)~C(油)
    ③ B(空気)~C(油)
    ④ A(水)~D(火)
    ⑤ B(空気)~D(火)
    ⑥ C(油)~D(火)
  (b)面
    Ⅰ A(水)~B(空気)~C(油)
    Ⅱ A(水)~B(空気)~D(火)
    Ⅲ A(水)~C(油)~D(火)
    Ⅳ B(空気)~C(油)~D(火)

 【注】「加藤周一の、大きさの話または『野生の思考』の事 ~絵画・写真と構造~

3 実例(1)
   ④ A~煮物(スープ)~煮物(シチュー)~D
   ⑤ B~干物~くんせい~ロースト~グリル~D
   ⑥ C~揚げ物~炒め物~煎り物~D

 <実例(1)>
  
4 実例(2) ~豆腐料理~
 (1)一丁の豆腐を用意する。生の豆腐は、最初は水漬け状態だから、A点に位置する。
 (2)冷や奴(料理以前のサラダ状態)は、水~空気の稜線(①)上に位置する。水に張ったままならA点と重なるし、完全に水を切って出せばB点に重なる。
 (3)(2)に時間という要素を加え、そのまま皿に置いて腐らせる(発酵させる)と、植物性のチーズのようなものができあがる。中華料理の「腐乳」がこれに近い。そのまま酒のツマミにすると絶妙だし、潰して各種のタレに加えるとコクと深みを増し、風味をひきたてる。時間の要素のほかに、バクテリアの働きによっていささかの熱がプロセスに加わるのかもしれないが、火熱を加えたわけではないから、B点から心持ちDの方向へ引き上げ、焼き物ライン(⑤)のいちばん下のところに位置づければよい。
 (4)豆腐を油に浸せば、「豆腐の油漬け」だ。C点と重なる。しかし、このまままでは食べにくいから、油の量を減らし、その代わりに醤油をかけて食べる。この作業は、C点からAの方向へ移動させる作業だ。A点にかなり近づければ、冷や奴に醤油とラー油をかけて食べる一品ということになる。さらしネギと煎りゴマを添えるとよい。
 (5)A点における豆腐を再検討すると、生のまま醤油につけた「醤油漬け」、味噌に漬けた「味噌漬け」、体内の水分を凍結させてつくる「凍み豆腐」(<例>高野豆腐)なども表す。ただし、凍み豆腐は寒風にさらしてつくるから、空気も関係する。よって、凍み豆腐はBへ位置を少しずらす。
 (6)(1)~(5)は生ものの世界だったが、以下は火の支配する料理本体の世界になる。AからBへ上がっていくと、途中で「湯豆腐」ができあがる。ただの水ではなく、出しと酒で煮れば、「豆腐のすっぽん煮」となる。醤油と出し、味醂などで味をつけた汁で煮れば「煮奴」となる。味噌汁の中でさっと煮れば、「豆腐の味噌汁」となる。
 (7)水で煮るのではなく、水蒸気で蒸せば、豆腐は煮物ラインから少しはずれて「蒸し豆腐」となる。他の肉や魚といっしょに蒸し合わせれば、豪勢な料理になる。和風にするか、中華風にするかは調味料の使い方しだいだ。むろん、豆腐をすり潰してから魚のすり身や野菜を加えて蒸せば、また異なった料理のレパートリーとなる。
 (8)揚げ物ライン(⑥)の上に豆腐を置けば、「油揚げ」、「揚げ出し豆腐」、「炒り豆腐」などができる。潰して揚げれば「がんもどき」(飛竜頭)、潰さないか、大きく切るか、小さく切るか、そのままでいくか、粉をつけるか、衣をつけるか、パン粉をつけるか、等あとの工夫はアイデア次第だ。豆腐の天ぷら、豆腐のカツ・・・・豆腐ハンバーグは近年店頭でよく見かける。
 (9)焼き物ライン(⑤)の上に持ってくれば、「焼き豆腐」、「田楽」といった類の料理ができる。もっと火から話して、「豆腐のくんせい」を作ってもよい。
 (10)四面体は、1回使うだけではたいした数の料理は発見できないけれど、2回か3回繰り返して使うと、さまざまな料理の姿が見えてくる。例えば、豆腐をG点に持っていき、「揚げ出し豆腐」「油揚げ」(G豆腐)を作った場合、こんどはそのG豆腐を底面に持っていくのだ。つまり、底面の三角形(生ものの世界)の板を取り払い、そこへG豆腐の板をはめこむ(G豆腐の状態を生ものと見る)のだ。すると、G豆腐があちこちに移動するたびに、
 「GE豆腐(いったん揚げた豆腐を出し汁、スープ、醤油等の“水”で煮たもの)
 「GI豆腐(油揚げの網焼き)」
 「GF豆腐(揚げ出し豆腐を蒸したもの)」
など、次々にあらたな料理が立ち現れる。この“底面変換”をさらに繰り返して、
 「GHE豆腐(油揚げの炒め煮)」
 「GJF豆腐(厚揚げの田楽蒸し)」
 「GEHI豆腐」
などをつくることもできる。
 実は、最初に豆腐を冷や奴にしようか、などと考えたとき、すでに“底面変換”をやっていたのだ。豆腐屋から買ってきた豆腐を“生もの”として扱っていたのだから。豆腐は、すでに調理済みの食品なのだ。A大豆が煮ものライン(④)をのぼってE大豆になり、再び煮ものライン(④)をくだって(冷めて)A点に戻る、といった動きがあったのだ。スタートラインの大豆は、一度旅に出てから故郷に戻ると、人あたりの柔らかい豆腐になっていたのだ。

 <実例(2)>
  
□玉村豊男『料理の四面体』(中公文庫、2010)

 【参考】
【読書余滴】玉村豊男の、ワインと女は古いほどよい ~熟成と生涯学習~
【読書余滴】玉村豊男の、批評する要件または批評の仕方 ~日本版ミシュランを採点する~
【読書余滴】玉村豊男の、フランスのレストラン・ガイド、料理批評 ~『ミシュラン東京版』の狙い~
【読書余滴】玉村豊男の、東京の隠れ家 ~都市の中の自由とその代償~
【読書余滴】理論と実践又はアルジェリア式羊肉シチューの事 ~料理の四面体~
【読書余滴】玉村豊男の、沖縄の人がコンブをたくさん食べる理由 ~聴衆からの質疑に答える極意~
【読書余滴】玉村豊男の、赤ん坊はキャベツから生まれる
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【スウェーデン】文化多元主義の限界 ~移民問題~

2013年01月19日 | □スウェーデン
 (1)先進国では、高齢化と低出生率が悩みのタネだ。
 その対策として、スウェーデンはいち早く移民政策と文化多元主義政策を推進した。1人当たりの難民受け入れは世界一高く、独国や英国は難民受け入れ率が10%強であるのに対し、スウェーデンでは90%だ。こうした施策の結果、スウェーデン人口は900万人(2004年)から950万人(2012年)に増加した。

 (2)2004~12年の間の新生児のうち、16%は主にムスリムの非西欧出身の母を持つ。ここ数年の移民のうち、3分の2以上は、これら非西欧出身者だ。このムスリム化傾向は加速されつつある。
 少数派民族の密集居住地(ゲットー)は、1990年には3ヵ所しかなかったが、2006年には156ヵ所に膨れ上がった。

 (3)問題は、生来のスウェーデン人の就業率が80%を超えているのに対し、移民の就業率は50%程度でしかないことだ。移民の多くは就業に必要な最低限の教育や経験を持ち合わせていない上に、イスラム教の排他性が現地適応への障害となっている。さらに、これら移民の親を持った第二世代の失業率が群を抜いて高い。
 移民やその第二世代の失業率の高さは、社会保障費の重い負担となっている。治安も大幅に悪化している。
 移民もしくは片親か両親が移民である住民が、1997~2001年の犯罪のうち45%を占め、殺人や強姦などの凶悪犯罪においてはさらに高い比率を占める。【スウェーデン国立犯罪防止協議会】

 (4)これら移民問題は、極右派が台頭しつつあるオランダや、ブルカを禁止した仏国、ベルギーなどでも頻繁に論議されてきた。
 しかし、驚くべきことにスウェーデンでは、これらの問題があまり公になっていない。この国のメディアは情報統制と見なし得るほどの自己規制を敷き、移民の問題を提議しようものなら即座にゼノフォビア(外国人嫌悪者)・イスラモフォビア(イスラム嫌悪者)の烙印を押す。
 2011年に右翼のスウェーデン民主党が議席を獲得するまでは、移民問題について語ることさえタブー視されていた。
 昨年、スウェーデンのどの学校にもサンタクロースが来なかった。クリスマスツリーを置いている学校もなかった。宗教的配慮のためだ。

 (5)メルケル首相(独)は文化多元主義の失敗を認めた。しかし、スウェーデンの指導者層・知識層は、自らの過ちを直視せず、相変わらず声高に文化多様性の必要性を唱えている。
 とはいえ、スウェーデン人の75%は移民問題を認識している。40%は、この問題に関して歪曲された情報を与えられている、と感じ始めている。

 (6)スウェーデンは、宗教の中立化を推進するため、すべての学校からクリスマスツリーを取り除くことまでやった。
 そのスウェーデンと、棄教者は原則として死刑とするイスラム教とでは水と油だ。
 スウェーデン人は、日本人同様、争い事が表面化するのを極端に嫌う。臭い物にはふた、の思想が根柢に流れている。不満が水面下で大きく膨らみつつある。
 仏国や独国では、移民問題について時折ガス抜きが行われていた。スウェーデンは移民に最も寛容だったが、いまや暴発の可能性が最も高い国となった。スウェーデンで暴発が起これば、欧州文化多元主義崩壊の狼煙となる。

□竹下誠二郎(みずほインターナショナル ディレクター)「もう一つの火薬庫、爆発寸前の移民問題 スウェーデンが映し出す文化多元主義の限界」(「週刊ダイヤモンド」2013年1月19日号)
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【経済】円安は企業の生産コストを上げる ~貿易赤字の拡大~

2013年01月18日 | ●野口悠紀雄
 【凡例】
  X・・・・2011年11月から2012年10月までの1年間
  Y・・・・2010年11月から2011年10月までの1年間(Xの前年同期)
  Z・・・・2006年11月から2007年10月までの1年間(リーマンショック前)

 (1)日本の貿易収支は、3・11以来、若干の例外を除き、月ベースで赤字になっている。
   ⇒ Xは5.3兆円の赤字(Yの赤字1.7兆円の3倍超)。2011年の貿易統計ベースの赤字は2.6兆円だった。
   ⇒ 2012年の貿易収支の赤字は、8.2兆円という巨額となる(サービス収支の赤字を加えると、10兆円程度)。

 (2)所得収支の黒字は14兆円程度あると考えられるので、経常収支の黒字は維持できるだろう。しかし、3・11前に比べて状況が大きく変化したことは間違いない。よって、貿易赤字拡大の要因を把握することが重要だ。
 輸出は、2012年6月以降、対前年比マイナスが続いている。格別の円高が進行していないのにこうなっている点が重要だ。

 (3)対中輸出月額を前年同月比で見ると、
   (a)2010年においては10~40%増と極めて高い値が続いた。
   (b)しかし、2011年4月ごろからマイナスの伸びも見られるようになり、2012年6月からはマイナスが継続している。2012年10月の対前年同月比は、12%の減だ。Xの輸出額は11.8兆円となった。これはYの13.2兆円の1割減だ。
   (c)対中輸出減少の原因・・・・一般には、ユーロ安のために中国の対EU輸出が伸び悩み、その影響で日本の対中輸出が減少している、と言われる。しかし、中国の輸出総額の伸び率は依然としてプラスだ。それに対して日本の対中輸出は減少している。だから、別の大きな要因がある。
   (d)対中輸出のうち減少が著しいのは、建設機械や資材などだ。他方、輸出産業向けの部品輸出はそれほど落ち込んでいない。よって、原因は輸出ではなく、投資支出の減少だ。
   (e)中国のGDPでは、固定資本形成が極めて高い比重を占めている(50%に近い)。よって、これが変動すると、GDPや輸入に大きな影響が及ぶ。中国は、経済危機後の2008年から2009年にかけて、極めて大規模な投資増加策をとった(<例>高速鉄道・高速道路建設)。金融緩和策によって住宅建設も増加した。こうした政策が終了したのだ。
   (f)(e)の結果、経済全体の投資額の伸びが低下し、その影響で日本からの輸入が減ったのだ。つまり、2009年から2010年ごろの増加が異常だったのだ。これは一時的な現象で、再現されることはない。

 (4)対米輸出は、
   (a)月額では2011年11月から対前年比で増加し続けている。
     ⇒ この結果、Xでは11.1兆円となった(Yの10.0兆円の11.9%増)。ただし、Zでは17.1兆円だったから、それに比べてば大きく落ち込んだままだ。Zの頃の異常な輸出増は、円安バブルと米国住宅価格バブルによるものであり、もう再現することはない。
   (b)2012年6月からの輸出の減少は、循環的なものではなく、構造的なものだ。日本が貿易立国を続けるのは極めて難しくなった。

 (5)以上の状況に対する対応策として一般に考えられているのは円安政策(⇒輸出の増加を期待)だ。
   (a)しかし、輸出減は構造的なものだから、この政策は成功しない。実際、円高が進まなかったにもかかわらず輸出が減っているのだ。だから、さらに円安になっても、輸出は増えない。
   (b)他方、円安が進めば、輸入額は増加する。 ⇒ 特に発電用燃料において深刻な問題を引き起こす。LNG輸入は、Xで6兆円になった(Xの鉱物性燃料の輸入額24兆円の4分の1)。しかも、輸入額の増加が著しい。Xの輸入数量はYの13.9%増であるのに対して、金額では6.5%増(1.6兆円増)にものぼる。この主要な要因は
     ①LNGの価格上昇だ。しかし、
     ②為替レート変化の影響も無視できない。Xの円ドルレート月末値の平均は1ドル=79.0円だ。これは2011年9月のレート(76.7円)より3%ほど円安だ。よって、為替レートが2011年9月当時のままであれば、XのLNG輸入額は1,800億円ほど少なくなっていたはずだ。
   (c)電灯料と電力料の電気事業10社合計は14.5兆円だ(2011年度)。(b)-②でみたLNG輸入額の増加1.6兆円はほぼ自動的に電気料金に転嫁されるため、電気料金は11.1%ほど上昇せざるをえない。そのうち1.2%分程度は円安によるものだ。
   (d)2012年11月以降、顕著な円安が進んでいる。11月と12月の平均レートは84.5円であり、2011年9月より10%も安い。したがって、円安による電気料金引き上げ効果は強まっているわけだ。
   (e)電気料金上昇は、あらゆる日本企業の生産コストを引き上げる。特に製造業=電力多使用産業にとっては、利益を大きく圧迫する要因だ。発電の火力シフトも、LNG輸入の増加も、電気料金の値上げも、不可避だ。しかし、電気料金上昇の一部分は、円安がなければ回避できた。
   (f)円安による輸入額増加は、すべての輸入について言える。円安は貿易赤字を拡大させる。円安は、企業の生産コストを引き上げて輸出競争力を低下させるだけではなく、マクロ経済にも問題をもたらす。
   (g)(f)は、オイルショック後の英国と似た状態だ。ポンド安が輸出を増加させず、貿易赤字が拡大して、英国経済は疲弊した。
   (h)現在の日本でも、輸出国のモデル(原料や燃料を輸入して国内で加工して、それを輸出する)がもはや成立しなくなっている。円安を追い求めれば、輸入金額は増える。他方で、輸出は増えない。かくしてますます傷が深まる。

 (6)国際収支について言えば、輸出の増加を追及するのではなく、所得収支の黒字拡大をめざすべきだ。 
 これは英国が実現したことだ。英国の製造業はオイルショックによる痛手から回復できなかったが、代わって金融業が成長した。 ⇒ 1990年代に英国に大繁栄をもたらした。
 これを実現したのは、金融業における大幅な規制緩和だった。わけても、外資に対して門戸を開いた効果が大きい。

□野口悠紀雄「幻の輸出国を追い円安を求め続ける愚 ~「超」整理日記No.643~」(「週刊ダイヤモンド」2013年1月19日号)
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【加藤周一】障害受容、あるいは人間の自由と尊厳 ~福永武彦の『百花譜』~

2013年01月17日 | ●加藤周一
 加藤周一「福永武彦の『百花譜』」は、朝日新聞1981年9月に掲載され、後に『山中人話』に収められた。書評であると同時に、友人の追悼文でもある。書評として一級、病弱な友人に対する深い理解を表して美しいこと、比類がない。
 しかも、この短い文章は、福永武彦と同様な立場にある病者や障害者を鼓舞する。病気や障害の受容、そこから立ち直る自律的な営みの一つのモデルを力強く描き出している。<環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる>のだ【補注】。

----------------(引用開始)----------------
 詩人福永武彦【注1】が逝って二年。その晩年の野草の写生図を集めて『百花譜』三巻(中央公論社、1981)【注2】が出た。晩年の福永は、しばしば初夏から秋にかけて、信州の追分村に病を養っていたので、『百花譜』の多くは、その村の小径に咲いた花を写す。私は今同じ村に夏を過ごして『百花譜』を見ている。
----------------(引用終了)----------------

 【注1】福永武彦は、1918年生、1979年没。詩人、作家、翻訳家。
 【注2】『玩草亭百花譜』全3巻は画文集。1981年、中央公論社刊(後に中公文庫、1983)。

----------------(引用開始)----------------
 『百花譜』の花には個性があり、その折ふしの表情もある。勢いよく咲いているのや、少し凋(シボ)みかけているのがある。茎が強く伸び、葉が張っているのも、茎がうなだれて、小さく申しわけのようについているのもある。その辺のところが巧みに写されていて、そこに一種の詩情--蕪村の俳画に近い何かが漂っているものさえある。写生図には、必ず野草の和名が書きこんであって、日本語の物の名の、あるいは王朝の和歌と結びついた、あるいは土地の人々の生活に融けこんで鄙(ヒナ)びた味が、淡彩の写生図の詩情を強めている。そこに詩人福永の心があらわれているともいえるだろう。または逆に、福永の描いた野草に野草の心があらわれている、ともいえるかもしれない。敏感で聡明な、もう一人の詩人、池澤夏樹氏【注3】が、『百花譜』の背後に「アニミズム」の世界を指摘したのは、おそらくその意味で正しいだろう。
----------------(引用終了)----------------

 【注3】池澤夏樹は、1945年生。詩人、作家、翻訳家。福永武彦の子。

----------------(引用開始)----------------
 しかしそれだけではない。『百花譜』は、それぞれの野草の形態学的特徴を写して、正確を期する。花は単に美しいばかりでなく、花弁の数においても、形状色彩においても、正確でなければならない。ここでの写生は、単にその場の観察にもとづくのではなく、組織的な観察にもとづく。したがって和名に加え、またラテン語の学名を記す。その状あたかも木下杢太郎【注4】の野草の図譜【注5】に似ている。木下杢太郎の写生が、遠くさかのぼって本草学にまでつながることは、いうまでもないだろう。『百花譜』は、詩人の心の表現であるばかりでなく、また同時に、野草の形態学的分類への、広げていえば、自然に内在する秩序一般への、組織的な接近の表現でもある。
----------------(引用終了)----------------

 【注4】木下杢太郎は、本名は太田正雄。医師、詩人、劇作家、画家。1885年生、1945年没。加藤周一は「方法の問題または『皮膚科学講義』の事」(『言葉と人間』所収)で木下杢太郎の業績にふれる。
 【注5】杢太郎の野草の図譜は、『新編百花譜百選』(岩波文庫、2007)に見ることができる。

----------------(引用開始)----------------
 かくして『百花譜』とは、対立する二面の微妙な出会いの場所である。言語学的には、日本語とラテン語、または和名の地方性と学名の普遍性。認識論的には、詩的感受性と分析的接近法、絵画的表現と形態学的記録、すなわち内在的なものの外在化と外在的なものの内在化。存在論的には、対象の個別性、その非還元性と一回性に対する、自然の秩序の超越性と普遍性であろう。
 福永は一日一草を写した。それは感受性の問題ではなく、いわんや道楽や文人趣味の問題ではなくて、意志の問題である。『百花譜』は、感興の赴くままに成ったのではなく、強固な意志によって支えられた体系的事業の成果として成った。そういう強い意志は、何故どこから出てきたのだろうか、と私は考える。
 福永にあたえられた条件は、決してよくなかった。長い間経済的にもめぐまれず、家族関係は複雑で、しばしば苛酷でさえあった。殊に身体的には、病弱で、入院を繰り返し何度も死線を彷(サマヨ) い、いちばん調子のよい時でも長い旅行はできなかった。彼が主として追分村と東京の自宅との何れかで晩年を過ごしたのも、行動の範囲をそれ以上に拡大することが、物理的に不可能だったからである。
 人は誰でもいくつかのあたえられた条件を変えることができない。たとえば偶然にあたえられたその出生の時と場所であり、したがって時代と地域的な文化に係わるすべての制約である。私は私の母国語を択ぶことができない。また身体的制約もある。私は私の身長をみずから決めることができない。福永のおかれていた状況は、その意味では独特ではなかった。しかし行動の肉体的な制限【注6】という点で、極端なものであった。多くの時期に、彼は彼が愛したモーツァルトを劇場で聞くこともできず、ゴーギャンを展覧会場へ行って見ることさえできなかった。要するに多くの目標達成は、彼にとって不可能であった。もしその健康さえ許したら、晩年の福永は、ザルツブルグかタヒティへ、どこかボードゥレールのうたった「彼方」【注7】へ、飛び去っていたかもしれない。晩年の白鳥は、「日本脱出」の空想小説を書いた。福永はそれを書かなかったが、「旅への誘い」の声を聞かなかったのではないだろう。しかし身体的条件が、その目標の実現を許さなかった。
----------------(引用終了)----------------

 【注6】「肉体的な制限」は、今日では環境との関係においてとらえられる。国際保健機構(WHO)2001年版ICF(生活機能・障害・健康国際分類)を参照。
 【注7】「彼方」については、ボードレール(福永武彦訳)『パリの憂愁』(岩波文庫、2008改版)を参照。

----------------(引用開始)----------------
 苛酷な条件のもとで、最後に残るのは、デカルトの「自由」【注8】である。なぜなら目標の実現は自由でなくても、目標の形成は自由であり得るからだ。人は世界をその目標との関連において意味づける。したがって目標の形成において自由だということは、世界の意味づけにおいて自由だということであろう。環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる。世界を変えるよりも、自分自身を変えよ。しかし自分自身を変えるのは、当人の意志の問題である。
----------------(引用終了)----------------

 【注8】ジャン=ポール・サルトル(野田又夫訳)「デカルトの自由」は『シチュアシオンⅠ』(人文書院、1965)所収。ちなみに、占領下では一切が独軍によって規制されているがゆえに、自発的な行為の一つ一つが自由の証となった、とサルトルはいう((白井健三郎訳)「沈黙の共和国」、『シチュアシオンⅢ』、人文書院、1964、所収)。サルトル一流の逆説。

----------------(引用開始)----------------
 福永には目標と意志があった。あるいは実現し得ない目標があったから、抜き難い意志があったというべきだろう。追分村から出ることのできなかった彼は、その環境の意味を変えた。福永はおそらく、落葉松の小径の郭公(カッコウ)に、バロックの町の弦の音を聞き、風にゆれる野草に南太平洋の島の女たちを見ることができた。代用品か? 私はそうは思わない。モーツァルトが郭公の声の、ゴーギャンが野草の色の、<<彼にとっての>>【注9】意味を発見させたのである。それはデカルトの定義した自由以外の何ものでもない。もしそうでなければ、あの持続的な意志、一日一草の体系を支えたあの強い意志は、あり得なかったろう。外部から強制された--政府や、社会的圧力や、広告や、家族から強制された強い意志というものはない。
----------------(引用終了)----------------

 【注9】<< >>内のフレーズは、原文では傍点で表記されている。

----------------(引用開始)----------------
 病床の福永の文章は力強く、どこにも嘆き節を含まず、文章としてほとんど爽快であった。病床の彼の表情は、私の知るかぎり常に、明るかった。それは訪ねてきた友人に対する強がりでも、努めて粧った表情でもなかった、と思う。そうではなくて、彼のなかに真の明るさがあり、その明るさは、あらゆる外部から、あらゆる自然的社会的環境から、全く独立した彼の精神のある部分より、直接湧きだしてきたものであったにちがいない。意志が明るさをつくったのではない。『百花譜』の世界を築きあげた意志と、極度に孤独で極度に人に対して温かいあの一種の明るさとは、同じ根源から発していたのである。
 『百花譜』は、福永武彦の世界に対する基本的な態度、その人間の自由と尊厳の、揺るがし難い証拠である、--少なくとも私にはそう見える。
----------------(引用終了)----------------

 【補注】環境は「運動」が変えることができる、という議論はここでは措く。

□加藤周一「福永武彦の『百花譜』」(『山中人話』、福武書店、1983、所収)

 【参考】
【読書余滴】加藤周一の、大きさの話または『野生の思考』の事 ~絵画・写真と構造~
【読書余滴】社会学者としての加藤周一の特徴+余命を楽しむ子規と兆民
【読書余滴】佐藤優の国家論、加藤周一の内村鑑三論
【読書余滴】加藤周一自選集全10巻完結
書評:『日本文学史序説』~加藤周一の犀利にして痛烈な批評~
【読書余滴】読書道楽の7つの要件 ~加藤周一自選集9~
書評:『加藤周一自選集8 1987-1993』
【読書余滴】竜安寺の石庭
【大岡昇平ノート】加藤周一の大岡昇平論
【読書余滴】加藤周一の『今昔物語』論
【読書余滴】事実把握が不確かなとき是非をどう判断するか ~新井白石の実証的方法~ 
書評:『言葉と人間』
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