事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「創造の狂気」PART4

2009-04-09 | アニメ・コミック・ゲーム

Snow_whitedvd PART3はこちら

傑作を連発させながら、しかしディズニースタジオの従業員たちのウォルトへの反発は強まり、ストライキの果てに多くの仲間が去っていく。また、作品がどれだけヒットしても、湯水のように製作費がつぎこまれていたため、ウォルトは常に銀行家や配給会社と闘わなければならなかった。堅実な兄のロイがいなかったら、とうの昔にウォルトは破産していたはずだ。

 孤立するウォルトは、だから“創造をしていなかったら生きていけない男”になっていた。夢中になれるものがないとき、彼は鬱に沈むことが多かったのである。

 そんなウォルトが、人生をかけて創りあげたのがディズニーランド。爆発的な人気だったために経済的苦況を救ったことはもちろん、映画のように完成すれば自分の手を離れるわけではなく、際限なく手を加えることが可能だったこのアミューズメントパークは、ウォルトにとって最高のアミューズ(娯楽)と逃避の場だったのだ。

 大人になった目で、初期の作品を見直してみて気づいた。ディズニーが革命的なのは、音楽によってキャラクターが文字どおりアニメート(元気づける)されると意識していたことではないか。「三匹の子ぶた」において「オオカミなんかこわくない」を歌い続ける長兄と次兄は、実直な弟よりもはるかに魅力的だ。「ハイホー」と「いつか王子様が」が存在しない「白雪姫」など想像もできないし。

 だからこそ、憂鬱な気分に落ちこんだウォルトが、「メリー・ポピンズ」の『二ペンスを鳩に』を聴きながら涙を流していた晩年がいっそう哀れなのだが。

 1966年12月15日午前9時35分。ウォルト・イライアス・ディズニーは気道腫瘍による心停止で息をひきとった。

 彼の死後、ディズニースタジオは不振の極に陥る。というより、戦後の彼は(ディズニーランドをのぞけば)ほとんど何も生みだしていない。東京ディズニーランドのアトラクションを考えてみよう。多くが戦前の黄金期に創りあげられたキャラクターで占められている。しかし芸術を一気に大衆化したという点で、ウォルトはかつてどんなアーティストもなし得なかった偉業を達成したと言えるだろう。

 その天才が逃げ込んだ人工的な逃避の場を、だからこそ無邪気に楽しむことにしよう。急げ、浦安へ。

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