陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

生理的に好き・論理的に好き

2009-03-27 23:16:05 | weblog
以前、わたしに向かって妙に突っかかってくるような物言いをする人としばらく一緒に仕事をしたことがある。ほかの人に対しては、そんな言い方をするわけではなかったから、どうもわたしに対して含むところがあるらしかった。

ところがその原因が思いあたらないのだ。私生活で接触があるわけではないし、何かトラブルがあったわけではない。何となく、わたしの話し方とか、話の進め方とか、言葉の選び方とかが気にくわないのかな、という感じがするだけだった。

気の強い人で、刺激的な言葉を使うことにもためらいがない。わたしに対する反論にしても感情的なものだから、その批判にも応えようがない。いまだったらもう少し考えたかもしれない(ほんとうにそうだろうか……結局同じことをしてしまうかもしれない)が、そのときは、わたしが“意見は聞いた、そういう考えを持っていることは理解した、では話を先に進めよう”、といった態度を取ったために、ひどく気分を害したようだった。

以降、その人と一緒に過ごさなければならない時間はいよいよ苦痛になったばかりではない。困ったのは、その時間が終わっても、その人が言ったこと、自分が言ったことが頭のなかで際限なくリピートされたことだった。もうやめよう、考えないようにしよう、とどれほど思っても、ふと気がつけばいつのまにか、感情でものを言う人はいやだな、とか、もっとはっきり言ってやれば良かった、などと思い返していたのだった。

それから、その人を見るだけで、声が聞こえてくるだけで、後頭部の当たりに重苦しいものがのしかかってくるような気がしたものだ。「生理的な不快感」というのはこのことか、と思った経験だった。


「わたし、あの人が生理的にダメ」という言い方があるが、おもしろいもので、「生理的に好き」という言い方はあまりしない(少なくともわたしは聞いたことがない)。「生理的に…」とくれば、そのあとにつづくのは「きらい」とか「イヤ」とか「好きになれない」とかというネガティブな言葉だ。

おまけに、食べ物の好き嫌い、場所の好き嫌いなどのような、直接身体の「生理」に関わるようなことについても、この言葉はあまり使わない(「わたしはイカの塩辛が生理的に嫌い」とか、「寒い部屋は生理的にイヤ」などとは言わない)。「生理的な嫌悪感」は、どうやら身体生理に直接には関わらないことに使うらしい。

その理由は自分にもうまく説明できない。だが、執拗な嫌悪感はどうしようもない。そんなとき、わたしたちはおそらく「生理的」という言葉を使うのだろう。

だが、好きと嫌いというのは、どこまでいっても「理由」を超えたものだ。
ある食べ物が好きだったり、嫌いだったりするときも、油っこくて、胃にもたれるから、などというはっきりした理由があるわけではない。人によっては、それがおいしく感じられるようなものでも、自分の口には合わない。誰もがそんな好き嫌いがあるのではないかと思うのだが、「自分はどうしてミョウガが好きなのだろう」とか、「アボカドがどうしても口に合わないのはなぜなのだろう」とあまり考えたり、説明を求めたりしない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と割り切って平気だ。だから、「ミョウガが好き」「アボカドは嫌い」と言うだけだ。

相手のことをほとんど知らないのに、妙にその人のことが好ましく思えたり、いらだたしくなったりするときには、どうしてなのだろう、と考えてしまう。そんなとき、好きな人はただ「好き」ですむが、きらいな人に対しては、その「きらい」というネガティブな感情を、何とか正当化しようとするのかもしれない。しゃべり方がきらい、言葉の使い方がきらい、偉そうな態度がきらい……。そうして、そんなときに「生理的」という言葉を使う。あの人は、生理的に好きになれない、というふうに。
生理的にきらい、と言ってしまえば、もうそれで説明がつくとでもいうように。

だが、その「好き」と「きらい」は、おそらくほんとうの身体生理とは関係がない。事実、その人を見たら調子が悪くなる……ということがあったとしても、それはその人に対するネガティブなことを考えている自分のせいなのだ。


時間が経ってその人と会わなくなって、わたしの不快感も嘘のように消えてしまった。
こんなことであんなにぐだぐだと考えていたのか、とわかっただけで、プラス「生理的」をちょっとでも「論理的」に整理できて、そのときの経験は、わたしに大きな意味があったように思う。


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