陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

読むこと、聞くこと、思い返すこと その1.

2008-09-26 22:56:31 | weblog
TVを見ていて、そこに出ている人の言葉が字幕として出るのは、もうめずらしいことでも何でもなくなった。出演者の言葉がほとんどそのまま字幕として出るのは、おそらくは耳を傾けなければならない時間より、与えられた文字情報を把握する時間の方が短くてすむからだろう。おそらくわたしたちは耳を傾ける時間も惜しいのだろう。

レコードからCDに変わって、おそらく音楽を聴くということも劇的に変わったように思う。レコードの時代は、少々退屈な曲があろうがどうだろうが、基本的にアルバムの最初の曲から始めて、最低限片面を聞き終わるあいだの時間は、ずっと耳を傾けているものだった。つまりその時間、聴き手は送り手に拘束されていた。

それが、CDになって、曲をスキップしたり、順番を変えて聴きたいように聴くことが可能になったのだ。送り手が考えた構成とは無関係に、聴き手は好きなように聴く。拘束されるのも、一曲の時間にまで短縮された。それだけではない。アルバムの中に置かれた一曲は全体とのかねあいの中で、聴き方も拘束される。事実、シングルカットされた曲をアルバムのなかで聴いてみて、ああ、こういう曲だったのか、と思うことも少なくない。だが、聴きたくない曲をパスして、好きな曲だけ聴くようになると、その拘束を受けることもない。

人の話を聞くというのは、アルバムの片面を最初から最後まで通して聴くことと似ているかもしれない。こちらの都合で、途中で端折ったりすることはできないし、相手が言葉を切るまで、こちらは耳を傾ける以外のことはできない。もちろん音楽とはちがって、途中で「え? それどういうこと?」とか「だれのこと? わからない」と話し手に聞くことはできるし、そこをもう一回教えて、と頼むこともできる。けれど、基本的に聞き手の時間は話し手に拘束されている点は一緒だ。

高いお金を払って、ライブ、もしくはコンサートに行く人は、おそらくそのあいだ、一瞬たりとも気を抜かず、集中して聴こうとするだろう。
映画にしても、映画館と家でDVDを観ることの何よりも大きなちがいは、映画館では一瞬で映像も、音も流れ去ってしまう、ということだ。一旦停止も巻き戻しも不可能で、見逃してしまえば、話の脈絡を失ってしまうかもしれない(最近の映画はとてもわかりやすいものが多いので、あまりこういう心配はする必要がないのだが)。

だが、耳を傾けて話を聞こうとするのは、語られたことを覚えておこうとすることだ。メモをとるのも、その記憶の助け、思い起こそうとするときの助けにしようとする。
映画館を出た人は、たったいま観た映画を思い返す。自分の頭のなかで、もう一度映画のストーリーを最初から組み立て直し、細部を、あれはどういう意味だったのだろう、と考えながら補強していく。そうすることで、実際に映画を観ていたときは見落としていた細部に思い至ることもある。
同じように、これは大切だと思った話や、自分が大切だと思っている人の話は、その人と別れても何度も思い返す。思い返し、その時間を自分の中で再現する。自分がその時間をもう一度生き直す。

こういうふうに考えていくと、字幕を出す側というのは、この人の話は耳を傾ける必要がないのですよ、と言っていることと変わりない。一瞬で文字情報を把握して、つぎへ進んでください、それで十分ですよ、と。思い返す必要なんてないんです。一瞬で忘れてくれていいんです。

作り手が粗末にしているような番組を、人に見せていいんだろうか、という気もするが、まあそれはそういう人が考えればいいことだ。
むしろ問題は、こういうものに対する需要があることのように思う。
明日はそのことを少し考えてみたい。

(この項つづく)

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