陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

便利なもの、不便なもの

2008-09-05 23:02:27 | weblog
あれは去年だったろうか、違法駐車の取り締まりが民間に委託されて、ずいぶん話題になったことがある。車に乗らないわたしは、世間でずいぶん話題になって、新聞やインターネットのニュースサイトなどで取り上げられるようなことにでもなれば、なるほど、と読みもするが、実際にはほとんど無関係なので、いまそれがどうなっているのか、ほんとうに違法駐車が減ったのかもわからない。

ただ、歩道に乗り上げるようなかたちで駐車している車は、確かに減ったような気がする。自転車で道路の端や、ときに歩道を走るわたしは、路肩駐車の車には悩まされるし、以前、歩道をふさがれて車道に回ったところ、運転席のドアが勢いよく開いて自転車に当たり、車道に投げ出されたこともある。そのときは運良く車が来ていなかったから良かったものの、かならずしも交通量の少ない車道ではなかったことを考えるに、つくづく運が良かったなあと思う。そのとき痛打した膝は、ずいぶん腫れて、二ヶ月ぐらい痛みが引かなかったが。

さて、違法駐車の取り締まりもまだ厳しくなかった十年ほど前の話である。
用事があって、知人の家に行ったところ、青空駐車で略式起訴されてしまった、としょげていたことがあった。

その人が住むアパート(というか、いわゆる「マンション」)の前は、表通りから一本中に入った細い一方通行で、その先が行き止まりになっているせいで、その界隈の住人以外は利用する人もないような通りだった。集合住宅が建て込んでいる地域で、いきおい駐車場もある程度離れたところにある。その結果、いつもその通りは違法駐車の行列ができていたのだった。知人の話によると、その違法駐車にも暗黙の了解による「自分の場所」意識があるらしく、ちがうところに停めたりすると、吸い殻を前のボンネットの上に捨てられたりするような嫌がらせもあるらしかった。

そこで、青空駐車の一斉取り締まりを喰らったのである。おそらくその通りを埋めていた車の列はみんなやられたのだろう。少なからぬ罰金の総額は、いったい何に使われるのかと思ったものだった。

おそらくその日だったか、別の機会だったか、その知人が「遠くて不便」とつねづねこぼしている駐車場に、一緒に歩いていったことがある。五分も歩いただろうか。交通手段というと、徒歩か自転車に限られていたわたしからすれば、まちがっても「遠い」などと呼べる距離ではなかった。

車のある生活をしていると、五分歩くだけでも「不便」と感じるのだろうか、と思った経験だった。

それからのちも、似たような経験をした。これは別の人だったが、車でショッピングモールに連れて行ってもらったことがある。ショッピングモールの広い駐車場を、その人は入り口に近い場所を探して、ぐるぐるぐるぐる何周もするのだった。入り口から遠いといったところで、敷地のなかにある駐車場である。歩く距離というほどのこともない。それでも、少しでも入り口近い「良い」場所を求めて、何周も回るのだった。

こういうのを見ると、「便利/不便」というのがいったいどういうことなのか、よくわからなくなってくる。車に乗るようになると、たかだか二百メートルの距離さえ歩くのがめんどうになってしまうのだろうか、と考えていて気がついた。ある便利なものがひとつ生まれると、そうでないものが不便になってしまうのだ。

わたしたちはどこかで「必要は発明の母」、不便だったから、ある発明が生まれて便利になった、と考えている。だがほんとうにそうなのだろうか。

移動手段が徒歩しかない時代であれば、歩くことが不便だなどと考える人はいなかった。もっと速く走ることができて、しかも疲れない自転車、さらには自動車が普及して、歩かなければならない状態は「面倒」になったのである。

皿洗いは確かに「面倒」だ。「面倒」だから、自動食器洗い機が普及した。便利になった。だが、こうなると、食器洗い機に入れる前に、軽くすすいだり、皿に残った油をあらかじめ拭き取ったりすることが面倒になってくる。「面倒」は、たとえ便利になっても形を変えて残っていく。

それがないときは「面倒」であっても、「不便」ではない。「面倒」を解消するはずの「便利」なものが登場すると、それがない「不便」という状態が新たに生まれ、「面倒」は形を変える。

もう少し整理をしてみよう。

「面倒」の対義語は「便利」ではない。それが証拠に、宿題をやりなさい、と子供に言うと、「面倒くさい~」という返事が返ってくるが、「不便だ~」とは言わない。子供がゲームをする。おそろしく複雑なコントローラーの操作を「面倒」がりもせず、夢中になってやっている。「面倒」の対義語は、「楽しい」なのである。

では「便利」と「不便」は「楽しい」とどのような関係にあるのだろう。
車の運転が好きな人にとっては、車に乗ることは「楽しい」ことではある。だが、それは「便利」ということとは関係がないように思える。
だが、ちょっと待ってほしい。確かに車は便利だが、「車の運転」ということに限ってみると、決して便利とはいえないのである。その証拠に運転技術を習得しようと思えば、お金と時間をかけなければならないのである。自動食器洗い機のように、ボタンをひとつ押せばすむというわけではない。

車の運転の楽しさは、その技術の習得の困難さにあるのではないか。
逆に、ボタンひとつ押せばすむことでも、立ってボタンのところへ行くまでが面倒ということもある。

いったん新しい発明が生まれてしまえば、わたしたちはもはやそれを捨てて、それがない状態に戻ることはできない。つまり、「便利/不便」という区分が生まれてしまえば、便利を選択するのは不可避なことなのである。

だが、そこに「楽しみ」という観点を導入すれば、わたしたちの選択も変わってくるのではあるまいか。
「楽しい」というのは、簡単にいってしまえば、「できなかったことができるようになる」「なんとかできていたことが、もっとうまくできるようになる」ことだ。車の運転でも料理でも翻訳でもゲームでも、それは一緒だ。

「便利」さを追求していけば、ほんの二百メートル歩くのも面倒なことになる。どれだけ「便利」を追求しても、「面倒」はなくならない。
だが、そこに「楽しさ」という要素を組み込めば、ものごとは「便利さ」とは別の方向に向かっていくのではないかと思うのだ。