陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

事実は小説より奇ならず、か?

2008-09-22 23:22:16 | weblog
W.V.クワインの『哲学事典』の「濫用」の項目には、こんな文章がある。
山に登るより降りる方が疲れる、としつこく言われた人は多い。燃えさかっている石炭は焔より熱いと聞かされた人もいる。暑い日にアイスクリームを食べるのは、まずい考えだと聞かされたことがある。内部が冷えるのと戦うために身体が熱くなるからというのである。「暑い日に熱い飲物をとるのは、いいことだ、なぜなら、汗をかき、その汗が蒸発して涼しくなるから」ということを聞いた人も多い。「暑い日には厚着をするのがいい。それだけたくさん汗をかくから」というのさえ、聞いたことがあるかもしれない。なぜ、人々は本当のことを話したがらないのだろう。

 答えはわかっていると思う。事実は作り話ほど不思議ではないからだ。そうして不思議、あるいは、驚異には人をひきつけるところがあるからだ。ついでながら、この推論のおかげで、上記の五つに加えて六つめのでたらめを思い出した。「事実は小説よりも奇なり」といわれているではないか。
(クワイン『哲学事典 ―AからZの定義集』吉田夏彦・野崎昭弘訳 ちくま学芸文庫 2007)

わたしが暑い日にアイスクリームをあまり食べない方がいい、と聞かされた理由は、クワインが聞いた理由ではなかったのだが、ここではアイスクリームの話がしたいのではない。

ここでクワインは、事実は作り話ほど不思議ではない、だから、自分の話は聞く価値がある、と、人に印象づけるために、半ば無意識のうちに話を誇張させてしまう、という脈絡でこの話をしているのだが、一方つぎのような話を聞けば、これはそんなに単純なことではないように思えるのだ。

ゲオルク・ジンメルの短いけれど印象的なエッセイに「いかなる意味でも文学者ではなく」というものがある。それはこんな話だ。

ジンメルがあるとき馬車で小さな村を通りかかった。そこの通りの真ん中に、火事で焼けた廃屋があった。そこには腕のいい鍛冶屋が、美人で評判の女房と住んでいたという。

その鍛冶屋のところに、これまた腕のいい弟子が来た。最初は喜んでいた鍛冶屋だったが、やがて弟子の方が自分より仕事ができることがわかってしまった。

そのうち親方は、自分より優れた弟子が身近にいることに耐えられず、女房に相談した。すると、女房は弟子など殺してしまえ、という。亭主が尻込みすると、それなら目をつぶしてしまえ、とそそのかす。とうとうある夜、鍛冶屋は寝ている弟子の目をつぶすことにした。
『ぐっすり寝てるよ。仕事がきついからね。いま、こっそりあいつの部屋に入っていこうよ。あたしが松明で手元を照らしてあげるからさ』…

『やりな』
と女房がささやくと、亭主のほうは、ヤッとばかりに寝ている弟子の目を突き刺しました。

 そのときでした。弟子は残ったもう一方の目を見開いて、親方の女房をじっと見据えたのでした。その瞳には深い心の痛みと熱い想いとがあって、それを見た女房は、あっと叫んで松明を投げ捨ててしまったのです。松明は寝台の藁に落ちて、あっという間もなく火がつきました。
(ジンメル「いかなる意味でも文学者ではなく」『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳 ちくま学芸文庫 1999)

こうしてその家は燃え尽きてしまい、三人は焼死したという。この話の語り手である御者自身が「この話は作り話かもしれませんがね。それを見ていて証人になれる人間は、いなかったわけですからね」と言っているのだが、これは確かにその通りで、三人の登場人物のうち、三人ともが死んでしまえば、端の者にわかるのは、「腕の良い鍛冶屋とその弟子と美人の女房が焼死した」ことでしかない。単なる事故かもしれず、そこに嫉妬や憎悪や秘められた思いや絶望があったかどうかは、誰にもわからない。

というか、御者が語って聞かせてくれた話も、クワインの言うとおり、みんなが自分の話を聞く話がある、と思わせるために、少しずつ「誇張」させてしまった結果、事実とはかけ離れた「おもしろい話」を作り出してしまったのかもしれないのだ。「賢い聞き手は、眉に唾をつけることになる」と言っているクワインであれば、この話を聞いても、まちがっても「事実は小説より奇なり」などと言うことはないだろう。

だが、この話を聞いたジンメルはそうは思わなかった。
 御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。御者の話は、それ自体が文学作品の可能性を秘めた素材であった。…

女のイメージは、何度も私の心を占めた。自分が敵だと思った男を片づけようとしたそのときに、男の愛が自分に向かってやって来て、それまで憎しみの仮面をかぶっていた愛の感情があらわとなった、あの瞬間の女のイメージがである。

 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食いこみ、同時に、他方で身体を焼きつくす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は瞬間を超え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。…
そのとき、私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる。私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。

ジンメルの話を読むと、クワインの定義でいうところの「誇張」が、「あまりに強すぎる」現実としてとらえられていることがわかる。

ここに至って何をもって現実というのか、あるいは、人間は何を人間の真実として定義しているのか、そういうことは、そう思うところにある、つまり向き合うその人の態度を離れてはないということになる。
「事実は小説より奇なり」ということが果たして言えるのか、言えないのか。
結局それは、その「事実」と呼ばれるなにものかをその人がどうとらえ、どのように向き合うのか、ということになるのかもしれない。