陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

読むこと、聞くこと、思い返すこと その2.

2008-09-28 22:30:53 | weblog
たまに何を言っているかわからない人がいる。
「何がどうした」という情報に自分の思惑やまわりの人の意見、そのほかさまざまなことが渾然一体となって、「あんたの話はわけがわからん」と何度となく指摘されるような人だ。そういう人が「ごめんね~、わたしの話はわかりにくくて」と言うことも聞いたことがある。その人自身、たび重なる指摘を受けて、気にはしているのだろうが、一向に改まる気配はない。

それでも、そういう人がいつもかならずコミュニケーションに失敗しているかというと、かならずしもそうではない。きちんと情報を伝えなければならないような場面で、周囲をイライラさせるような人であっても、日常のおしゃべりでは会話のやりとりに一向に支障を来している様子はない。

たとえそういう話がとっちらかったような人でも、「これはこういうふうにやるのよ」などと、動作で見せて説明したりするような場合では、うまく通じたりもする。

日頃顔を合わせている家族であれば、その話から聞くべき情報を引き出すこつも飲み込んでいるだろうし、年代や性別、生活環境が近ければ、遠い人より通じやすいだろう。その人のことを普段から「何を言っているかわからん」と突き放して見ている人にはわかりにくい話でも、恋人にとってみれば実によくわかる話なのかもしれない。

つまり、その人の話がわかりにくい、というのは、その人の話し方や内容によるというよりは、聞き手によると言うことができる。

聞き手は、相手の話を周囲の状況や個人的な経験などと結びつけて「何がどうした」という物語に構成しなおして理解する。そうして「何がどうした」という再構成がうまくいけば「話がわかった」と思うし、うまく再構成できなければ「どういうこと?」となるのである。

ところで、以前にも書いたことがあるのだが(「読むことと見ること」)、星新一のショートショートを小学生が演じる劇で見たことがある。

穴がある。誰かが隠れているのだろうか、と「おーい、でてこーい」と呼んでも、返事はない。石を投げてみても、底に届いた音がしない。ものはいくらでも吸い込まれていくようだ。一種のブラックホールのようなものなのだろうか。そう思った人びとは、いろんなものをその穴に捨て始める。死体だの、廃棄物だの、ありとあらゆるものを捨てる。やがてある日、上の方から「おーい、でてこーい」という呼び声がして、石が降ってくる……。

ショートショートはここで終わっていて、結末の鮮やかさがいかにも星新一らしい話なのだが、なんとその劇ではそのあとに、「このあと、町の人たちが捨てたものが、あとからあとから降ってきたのでした」というナレーションがつけ加えられていたのである。

最初、この蛇足に腹を立てていたわたしも、実際に劇を見たとき、この蛇足の必要性を理解した。最後の場面で石が落ちてきて、幕が下りたところ、あたりは「え? いったいどういうこと??」という疑問でざわざわし始めたのだ。そこへナレーションが入った。するとあちこちから、ああ、そういうこと、という安堵の声が聞こえたのだった。

本を読むことと、朗読を聞くことは同じではない。さらに、それを劇やドラマ・映画などで演じられるのを見ることは、また全然ちがってくる。

原作をほぼ忠実に映画化したといわれる「エイジ・オブ・イノセンス」と原作をくらべてみよう。イーディス・ウォートンの小説『エイジ・オブ・イノセンス』で、エレン・オレンスカが作品に初めて登場する場面。
それはほっそりした若い女性で、メイ・ウエランドよりほんの少し背が低く、褐色の髪をこめかみのあたりでぴったりしたカールにして細いダイヤモンドの紐で押さえている。この髪飾りのおかげで、どことなく「ジョゼフィーン・ルック」という感じをただよわせていたが、その感じは、胸の下でちょっとわざとらしく大きな旧式の留め金をつけた濃い青のベルベットのガウンのスタイルにも表われていた。このめずらしい服を着た女性は、みんなの注目を集めていることにはまったく気づかないように見えたが、一瞬、ボックスの真ん中に立ち止まり、ウエランド夫人は正面右端の隅の自分の席を譲ってくれると言うのを、遠慮しようと少し押し問答をした末、ついに折れてかすかな微笑を浮かべ、もう一方の隅にすわっていたウエランド夫人義姉、ラヴァル・ミンゴット夫人と並んですわった。
(イーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』大社淑子訳 新潮文庫)

ここに出てくる「ジョゼフィーン・ルック」と出てくるのは、おそらくナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌのことだろう。そうしておそらくこの絵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Josephine_de_Beauharnais,_Keizerin_der_Fransen.jpg
のような髪型をしているのだ、と言っているように思う。

さて、これに対応するシーンは映画「エイジ・オブ・イノセンス」のなかではこのように描かれる。4分11秒あたりを見てほしい。
http://jp.youtube.com/watch?v=IZlI2fUm05U&feature=related
一瞬なのである。
物語の鍵をにぎるエレンだが、原作では冒頭から非常に魅力的だが、少し普通の女性とはちがう、注目を集める女性、という印象を与える描写になっている。だが映像では、言葉で書かれたようなことを「読みとる」ことはできない。せいぜい、青い服を着ているぐらいではあるまいか。

百聞は一見に如かずという。確かに「ジョゼフィーヌ・スタイル」(日本語にするなら、「ジョゼフィーン・ルック」よりこちらの方が適切だろう)というのは、参考URLを見なければ、いまのわたしたちにはピンとこない髪型である。
言葉をどれだけ費やしても、絵で見るほどはっきりとはわからない。

だが、逆にこのジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの肖像画を見ても、その言葉がなければ、おそらく彼女の髪型に意識が向くことはないだろう。言葉は見るべき点を示すし、映画などであれば、映像はたちまちのうちに流れていってしまう。つなぎとめる言葉がなければ、わたしたちの内で像を結ばないのである。

映画を観てはっきり意味がわからない部分があって、あとで解説を見て「ああ、そういうことだったのか」と思うこともある。
人の話を聞いて「何がどうした」という形で話を自分の頭の中で構成し直して理解するように、わたしたちは映画を観ても同じことをしているのだ。

わたしたちはすでにいくつかの物語のパターンを知っている。恋愛映画なら、ふたりは恋愛し、その恋愛がうまくいくか別れるかする。サスペンスなら、主人公は犯人を追いつめるか、逆に犯人に追いつめられるかして、最後に犯人を捕らえることになる……というふうに。ところが知っているパターンにあてはまらない映画は、「ちっともわからなかった」ということになる。

映画を観るわたしたちは、いま自分が見ている映像をいくつかのパターンに当てはめながら、その物語のパターンを特定しようとしている。パターンが特定できなければ、「わからない」とストレスがたまるし、パターンが特定されて、先のことごとくが予想がついてしまうと、なんとなくつまらなくなってしまう。最後に犯人を捕らえることになるだろう、と思って見ていて、逆に主人公が殺されてしまったりすると、裏切られたような、何か傷つけられたような気持ちになってしまう。『シックス・センス』のような、最後の最後で頭の中に思い描いていた物語の前提をひっくり返されてしまうような映画には、深い衝撃を受けてしまう。

小説を読むときも、人の話を聞くときも、映画やドラマを見ているときも、わたしたちは自分の頭にあるいくつかのパターンをもとに、「これから〈これ〉はどうなっていくか」を予測しつつ、いま自分が聞いたり見たりしたものを判断材料に、予測を修正する。そうして最後までいって振り返り、「何がどうした」という形で理解するのである。

人の話を最初から聞かないで「結局どういうこと?」と結論だけを聞きたがる人は、バラエティ番組に出る字幕をあまり厭うことはないのではあるまいか。
つまり、その途中のプロセスを自分でやる代わりに、最後の「何がどうした」という情報だけがほしいのである。

さて、明日は最後に情報と「物語」がどうちがうのかを考えてみたい。

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