陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2008-08-16 23:23:40 | weblog
先日までここに連載していたキャサリン・マンスフィールドの短篇「見知らぬ人」に手を入れて、サイトにアップしました。
あと、「ここより先、怪物領域」の更新情報もアップしています。
ほんとはマンスフィールドも一緒に書こうかと思ったんですが、そちらはまた明日。

またお暇な折りにでものぞいてみてください。

怒濤の更新週間もこれでおしまいです。
ちょっと疲れました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト更新しました

2008-08-14 23:15:52 | weblog
サイト強化週間第二弾!

先日ここに書いた「ここより先、怪物領域」「がまんという美徳」に加筆・修正してサイトにアップしました。
明日あたりにちょっと手直しするような気がしていますがとりあえず、ということで。

興味のある方はのぞいてみてください。
"What's new"は明日書きます。

ということで、それじゃまた。

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お盆の記憶

2008-08-13 23:21:39 | weblog
昔はお盆の声を聞くと、夏休みも半分過ぎてしまった、と、焦る気持ちにかられたものだった。ごろごろするんじゃありません、と母親に怒られながら、寝っ転がって本棚にずらりと並んだアガサ・クリスティや87分署やマルティン・ベック・シリーズや「鬼平犯科帳」を一巻から順番に読み返しているうちに一日が過ぎていく、という、天国のような日々もあと二週間……と思うのが、この時期だったのである。

夏休みといっても、七月のあいだは、なんだかんだやることはあった。一学期末の懇談と通知票であれやこれや言われ、自分でもちょっとなんとかしなくては、という気にもかられて、まあぼちぼちと勉強する。ついでに宿題もこの時期終えてしまう。学校だって、たまに行く用事(何で行っていたのだろう? エアコンの入った視聴覚室で先生に缶ジュースをおごってもらった記憶しかないのだが……)があったし、図書館に勉強しに行く(と称して本を読んでいるわけだが)こともあったし、友だちと誘い合わせてプールに行ったこともある。

ところが八月に入ると、すっぽり空白が訪れる。二学期が始まるのなんてはるか先のことに思えて、勉強する気は失せてしまっているし、宿題はやってしまった。かくして日長一日、ミステリを読んだり、ビーチボーイズだのローリング・ストーンズだのを聴いて過ごすことになるのである。

そういう状態が十日あまり続くと、お盆休みの時期に入る。父方の実家に行くにせよ、母方の実家に行くにせよ、とりあえず二学期のことは忘れることができた。同じ年代の従兄弟に恵まれなかったわたしにとって、この里帰りの行事はあまり楽しいものではなかったのだが。

親族一同が集まった座敷は、なんだか昼間からビール臭く、そのなかに混ざってすわって話を聞いているのは気詰まりで、いっそ手伝いをさせられて、お勝手と座敷の往復をしている方が気楽だった。それでもいつまでもお勝手にこもってばかりはいられない。
「こっちはいいから。もうあっちへ行きなさい」と座敷に追いやられるのだった。

そういう席ではかならずそこにいない親族の話題が出る。亡くなった祖父の話、曾祖父の思い出。幼くしてなくなった伯母の話。話にいつも「○○ちゃん」としか出てこないので、亡くなった歳のままなのだが、もし生きていれば、父や叔父たちと同じ年代なのだ、と思うと奇妙な気がした。

戦死した親族もいた。満州から引き上げてきた親族もいた。あれは戦争が終わったつぎの年……という具合に話が始まり、わたしの頭の中では教科書に載っている「歴史的事実」でしかない第二次大戦が、目の前にいる人に接ぎ木される。話に出てくる人びとは、その多くがもはや生きてはいない人びとだ。そういう話を聞いているうち、いつのまにか、死者たちに取り囲まれているような気がしてくるのだった。

仏壇はきれいに掃除され、みんなが持ち帰ったおみやげが仏壇脇につみあげられる。お参りをするように言われ、見よう見まねで仏壇の前に正座して、頭を下げる。いったい誰に頭を下げているのかよくわからないまま、今年も来ました、と報告する。ご先祖様、といったところで、ピンとこないのだが、わたしが顔を見たこともない、そういう人びとがいたから、いま、自分がここにいるのだ、と思うと、やっぱり頭を下げておかなければならないように思えるのだった。線香に火をつけると、細い煙が立ち上る。仏壇の前から下がってしばらくしたころ、座敷の方まで線香のいい匂いが漂ってきているのに気がつく。

遊び相手もおらず、特にすることもない。本を何冊も持っていっても、すぐに読み尽くして、あたりを散歩するのもじきに飽きた。庭の木にはカミキリムシやセミやクワガタがたくさんいるという話だったが、虫取りをする趣味はなかったし、見て歩くものもない。帰る日が来ると、やれやれと思うのだった。

たいてい墓参りが最後を飾るイベントだった。お花やバケツやひしゃくやロウソクや線香を持って、お墓まで歩いていく。古い花を片づけて、新しい花を飾り、ここでもお線香に火をつけて、先祖代々の墓、と彫ってある大きな墓に頭を下げる。別に何かを祈るわけでもなく、周りの人がするとおりに自分もして、ああ、今年もお盆が終わった、と思うのだった。

何時間かの移動を経て家に戻る。閉めきった家は、留守にしたのもほんの数日なのに、空気がこもってひどく埃くさく、帰ってすぐ、家中の窓を開け放つ。自分の部屋に戻ってみれば、いよいよ夏休みも残り二週間か、とため息をつきたくなるような気分になるのだった。

サイト更新しました

2008-08-12 23:11:42 | weblog
「鶏的思考的日常vol.22」サイトにアップしました。

「東インド会社に就職するためには」から「ぎっくり来た話」まで、春先に書いた9本を、全面的に改めたもの、一部手直ししたもの、ほとんど同じもの、いろいろありますが、まあお暇なときにでも見てみてください。

それにしても暑いですねえ。
どうかみなさま、お変わりございませんよう。

しばらくサイト強化週間(笑)ということでやっていきたいと思ってます。

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キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」最終回.

2008-08-11 23:07:51 | 翻訳
その7.

 ジェニーは返事をしなかった。夫から目をそらして、火を見つめていた。炎はゆらめいている――石炭を包みこんで燃える炎は、燃え上がったかと思うと崩れ落ち、それを繰り返す。

「寝てるんじゃないだろうね?」ハモンドは言うと、妻を上下に揺すった。

「寝てなんかいないわ」そう答えて、しばらくしてから続けた。「そんなこと、およしになって。寝ていたんじゃない、考えごとをしてたの。ほんとうを言うとね」彼女はさらに言った。「昨夜、船に乗り合わせた方がひとり、亡くなったの――男の方。だからあそこで止まっていたのよ。船はその人を連れて帰ったの――水葬にはしなかった、っていうことよ。だから、もちろん船のお医者様も、陸のお医者様も……」

「なんだったんだ?」ハモンドは不安そうに聞いた。彼は死の話題を耳にするのが大嫌いだった。そんなことが起こったというのがいやでたまらなかった。奇妙なことに、なんだか自分とジェニーがホテルに戻る途中で、葬式に出くわしたような気がした。

「あら、全然、伝染病なんかとはちがうのよ」ジェニーは、息にかろうじて音が混ざるような小さな声で話した。「心臓だったの」間が開いた。「かわいそうな人だった」彼女は言った。「若い人だったのよ」炎が燃え上がり、崩れ落ちるのを見ていた。「わたしの腕の中で息を引き取ったの」

 衝撃があまりに急だったので、ハモンドは気を失うかと思った。身動きできない。息さえもできない。体中の力という力が流れ出していくような気がした――大きな、暗い色の椅子の中に流れ出し、その大きな暗い色の椅子があっというまに彼をしっかりと締め上げ、なんとかこらえ、受け止めさせようとしているような気がした。

「何だって?」物憂げな声で彼は言った。「いま、なんて言ったんだ」

「亡くなったそのときは、とてもやすらかだったの」声は小さかった。「あの人は」――ハモンドの目には、妻が小さな手を挙げるのが見えた――「ひとつ息をして、それでおしまいだった」彼女の手が落ちた。

「誰か――そこにはほかに誰がいたんだ?」ハモンドはやっとのことでそれだけ聞いた。

「誰も。その人と一緒にいたのはわたしだけ」

 おお、なんということだ。こいつはいったい何を言ってるんだ? このおれに何をしようと言うんだ! ああ、死にそうだ。だが、そのあいだにも彼女は言葉を続けていた。

「容態が変わっていくのがわかったから、給仕にお医者様を呼びにやらせたの。でもお医者様が来たときには遅かったわ。だけど、何にせよできることなんてなかったんでしょうけどね」

「それにしても――なんで、どうしておまえが……」ハモンドはうめいた。

 それを聞いたジェニーは、ぱっと向き直って、夫の顔に素早く目を走らせた。
「そんなこと、まさか気になさったりしないわよね、ジョン?」彼女は聞いた。「気になさったりはしないでしょう……あなたにも、わたしにも、なんの関わりもないことなんですから」

 彼は苦労しながら、どうにか笑顔めいたものを妻に向けた。それからやっとのことで、もごもごと言った。「まあ――なんだ、で、どうなった? それからどうしたんだ。その先を聞かせてくれ」

「でも、ね、ジョン……」

「話すんだ、ジェニー!」

「話さなきゃならないようなことはないのよ」そう答えながら、とまどっているようだった。「一等船客のひとりだったってだけ。上船したときから、ずいぶんかげんが悪そうに見えたの……。でも、昨日まではずいぶん良くなっているように見えたわ。だけど、午後になってひどい発作が起きたの。きっと、もうすぐ着くっていうことで――興奮したのね――神経がたかぶったんでしょう。それで、もう回復できないところまでいってしまったの」

「だが船室係りだっていただろうに……」

「まあ、船室係りだなんて!」ジェニーは言った。「あの方、どんな風に思うでしょう。それに……何かことづてだってあったかもしれないし……誰かに……」

「何も言わなかったんだろう?」ハモンドは低い声で言った。「何か言ったのか?」

「いいえ、あなた、一言も言わなかった」彼女は静かに頭をふった。「わたしがそばにいてあげたあいだ、あの人はほんとに弱ってしまっていて……指一本動かせないくらい、弱ってしまっていて……」

 ジェニーは黙ってしまった。だが、彼女の言葉、たいそう軽く、おだやかで、凍りつきそうな言葉はまだあたりをただよっていて、彼の胸の内に雪のように吹き込んでくるようだった。

 火は赤い熾火になっていた。その熾火もやがて鋭い音をたてて崩れ、部屋は冷えていった。寒さが彼の腕を這い上っていく。部屋は広く、とてつもなく大きく、寒気部屋を満たしていた。部屋には大きなベッドがあって、その上には彼のオーバーが、まるで頭のない男が、お祈りを唱えているような格好で投げ出してある。荷物は、いつでもどこにでも持ち運びできるよう、汽車に投げ込まれようが、台車に乗せられて船に積み込まれようが準備はすっかり整っていた。

「……あの人は弱っていたの。指一本、動かすことができないくらい」そう言っても、そいつはジェニーの腕の中で死んだんじゃないか。ジェニーは――これまで一度も――この長い年月、たった一度だって――どんな場面だって――。

 しまった。こんなことを考えてはいけない。そのことを思うと、気が変になりそうだった。いや、そんなことに気持ちを向けてはいけない。ああ、もうがまんができない。耐えられそうにない。

 すると、今度はジェニーが夫のネクタイを指でふれた。ネクタイの両端をつまみあげて重ねている。

「あなた――ごめんなさいね、こんな話をしてしまって。ジョン、あなた――話を聞いていやな気がした? 今晩を台無しにしてしまった? ふたりきりになれたのに?」

 そう聞かれて、彼は顔を隠さずにはいられなかった。自分の顔を妻の胸元にうずめて、両手で妻を抱きしめた。

 ふたりの夜はだめになってしまった。ふたりきりになれたのに、めちゃくちゃになってしまった。もう二度と、ふたりきりになることもないだろうに。


The End


(※後日手を入れてサイトにアップします)

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その6.

2008-08-10 21:55:54 | 翻訳
その6.

 支配人は先に立ってホールを抜け、エレヴェーターのボタンを押した。ハモンドは自分の仕事仲間がロビーにある小さなテーブルを囲んで、夕食前の一杯を飲んでいるのを知っていた。だが、うっかり邪魔されるようなことにでもなったら大変だ。彼は左にも右にも目を向けなかった。連中は連中でやっていればいい。わからなければ、そいつがバカだというだけの話だ――エレヴェーターから出ると、部屋の鍵を開け、ジェニーを先に通した。ドアが閉まった。とうとうほんとうにふたりきりになれたのだ。彼は明かりをつけ、カーテンを引いた。暖炉の火は燃え上がった。大きなベッドに帽子を放り投げ、妻の方へ行った。

 だが――こんなことがあるだろうか――またしても邪魔が入ったのである。今度はボーイが荷物を運んできたのだった。出ていったかと思うと、ドアを開けたまままた戻ってきて、時間をかけ、通路を歩いているあいだも、歯の隙間から口笛を吹いている。ハモンドは部屋をいったりきたりしながら、手袋を引き抜き、スカーフを引きはがした。最後にオーバーをベッド脇に投げ出した。

 やっとあのバカが行ったか。ドアがカチリと閉まった。やっとふたりきりになれたのだ。ハモンドは言った。「もう二度とふたりきりにはなれないような気がするな。まったくいまいましい連中だな! ジェニー?」そう言うと、熱のこもった真剣なまなざしを妻に向けた。「晩飯はここで食べようじゃないか。夕食を取ることにレストランに下りていくと、また邪魔が入るかもしれないし、あそこではたまらん音楽をやっているからな」(その音楽を昨夜の彼は褒め称え、さかんに喝采を送っていたのに!)。「話をしようにも、声がろくすっぽ聞こえないんじゃな。ここで、暖炉の前で何か食べることにしよう。お茶の時間にはすっかり遅くなってしまったが。簡単な晩飯でも注文するよ、それでいいね?」

「あなた、そうなさって」ジェニーが言った。「あなたが注文してらっしゃるあいだに、――わたし、子供たちの手紙を……」
「おい、そんなものあとでいくらでも読めるじゃないか」
「でも、片づけてしまいたいの」ジェニーは言った。「それに、わたし、その前に……」
「ああ、そうだった、下まで行く必要なんかないんだった」ハモンドは力説した。「呼び鈴を鳴らして注文すればいいんだから……わたしがそばにいたほうがいいだろう、そうじゃないか?」

 ジェニーはかぶりをふってほほえんだ。

「何かほかのことを考えているね。気がかりでもあるのか」ハモンドは言った。「どうしたんだ? さあ、こっちにおいで――火のそばに寄って、この膝の上においで」

「帽子をとらなくては」ジェニーはそう言うと、ドレッサーの方へ歩いた。「あら!」と小さな声があがる。

「どうした?」

「なんでもないの。子供たちの手紙を見つけたのよ。だけどいいわ! あとにすれば。急ぐことではないのですものね」手紙を手に取ったまま、夫の方を振り返った。手紙をフリルのついたブラウスに押し込む。それから急いで明るい大きな声を出した。「あらまあ、このドレッサー、いかにもあなたらしいわね!」

「何のことだ? それがどうかしたのか?」

「このドレッサーが永遠の中に浮かんでたとしても、わたし、きっと『ジョン!』って呼ぶでしょうね」ジェニーは声を上げてわらうと、ヘア・トニックの大きなビンや、オーデコロンの小枝細工のビン、二本のヘアブラシ、ピンクのひもでまとめてある一ダースほどの真新しいカラーをじっと見つめた。「あなたのお荷物はこれで全部?」

「わたしの荷物なんかどうだっていいじゃないか!」ハモンドは言った。だがそう言いながらもジェニーにからかわれることはうれしかった。「もっと話そう。さあ、ほかのことは忘れようじゃないか。話を聞かせておくれ」――ジェニーが膝の上に腰を下ろしてきたので、彼は後ろに身を反らせて、深く不格好な椅子に引き込んだ――「ジェニー、君はほんとに帰ってきて良かったと思ってるのかい」

「ええ、あなた。わたし、うれしいのよ」

 だが、そうやって妻を抱きしめたところで、彼には妻がどこかへ行ってしまいそうな気がするのだった。ハモンドには決してわからない――金輪際、わかりっこないのだ。自分が喜んでいるように、妻が喜んでいるのかどうか。いったいどうやって知ることができるのだろう? いつかわかる日が来るのだろうか。このまま自分はずっとこの焦がれるような思いを抱えていくのだろうか――飢えにも似た痛み、決してジェニーが自分から離れていってしまわないように、どうにかして妻を自分の一部にしたいという渇望を。あらゆる人、あらゆる物を消してしまいたかった。電灯さえも消してしまいたい。そうすれば妻をもっと近くに引き寄せることができるかもしれないから。だがそのとき、子供たちの手紙が、妻のブラウスの内側でガサゴソと音を立てた。そんなもの、火の中へくべてしまえ。

「ジェニー」彼はささやいた。
「なあに?」彼の胸に身を預けていても、その身はあまりに軽く、たよりなかった。ふたりの呼吸は重なって、高くなり、低くなりした。

「ジェニー!」
「どうしたの?」
「こっちを見て」彼はささやいた。ゆっくりと、深い血の色が彼の額にさしていった。「キスしておくれ、ジェニー。キスして」

 ほんの短い時間だったのかもしれない――だが同時に、拷問を受けているように感じられるまでに、長いあいだであるようにも思えた――そうして、彼女の唇が、軽く、だが、しっかりと押しつけられた――これまでずっと彼にキスしてきたように、あたかもそのキスが――どうやって説明できるというのだろう?――ふたりが話していることを、確かなものにするように。まるで契約にサインしたとでもいうように。だが、彼はそんなことを求めていたわけではない。彼が渇望していたのはまるでちがうものだった。不意に、恐ろしいまでの疲労を彼は感じていた。

「君にはわからないだろうな」彼は目を開けた。「どんな気分でいたか――今日待っているあいだにさ。船はもう入って来ないんじゃないかと思ったよ。あそこでわたしたちはただぶらぶらしていたんだ。なんでそんなに時間がかかったのかい?」


(※明日いよいよ最終回)

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その5.

2008-08-09 23:32:22 | 翻訳
その5.

 カーテンが開く音がした。ジェニーが戻ったのだ。ハモンドは急いで立ち上がった。
「ジェニー、航海中に具合でも悪かったのか? そうだろう?」

「わたしが?」軽やかで細い声が、からかうように聞き返す。膝掛けの包みをまたぎ、夫のすぐそばにやってきて、その胸元にそっと手を置き、彼を見上げた。

「あなたったら」彼女は言った。「びっくりさせないで。もちろんわたしは元気でしたわ。どうしてそんなことを思ったりしたのかしら。わたし、具合が悪い風に見えます?」

 だが、ハモンドは妻の方を見ようとはしなかった。ただ、妻が自分を見ているのを感じ、心配するようなことは何もないのだ、と思っただけだった。妻はここでやらなければならないさまざまなことがあるというだけだ。何も気に病むようなことはない。万事順調なのだ。

 妻の手がかすかに押しつけられるのを感じているうちに、気持ちが落ち着いてくる。彼は自分の手を妻の手に重ね、そっと握った。すると妻は言った。

「じっとしていて。あなたのお顔をよく見たいの。だってまだその暇がなかったんですもの。お髭の手入れをきれいになさってる。それに、ね――若返ったみたい。そうよ、絶対、お痩せになった! 独身生活がきっと合うんでしょうね」

「独身生活が合うだって!」愛しさがこみあげてきて、うなるようにそう言うと、妻をまたきつく抱きしめた。また、いつものように、決して自分のものにはならない何ものかを抱いているような気がした――自分のものにはならない。手を離してしまえばすぐにどこかへ跳んでいってしまいそうな、繊細で、あまりに大切な何ものか。

「後生だから、早く船を下りて、ホテルでふたりきりにさせてくれないか」
そうして彼は荒々しく呼び鈴を鳴らし、荷物の面倒を見てくれる者を呼んだ。

* * *


 ふたりで埠頭を歩きながら、妻が彼の手を取った。夫の方は妻に腕を回している。だが、何かがちがっていて、ジェニーのあとから馬車に乗り込みながら――赤と黄色の縞模様の毛布に自分たちの体をくるんで――御者を急がせた。ふたりとも、まだお茶も飲んでいないのだから、と言って。もうお茶を飲まずにすませたり、自分で自分のお茶を注いだりするようなことは、しなくてよいのだ。妻が戻ってきたのだから。そちらを向いて、妻の手を握ったまま、これまでいつも妻に話しかけるときに使っていた「特別な」声で、穏やかに、からかうような調子で言った。「家に帰ってこれてうれしいかい?」妻はにっこりと笑顔になった。わざわざ言葉にするようなことはなかったが、馬車が明るい通りに入っていくと、彼の手をそっと離した。

「ホテルのなかで一番良い部屋を取ったんだ」彼は言った。「誰かに邪魔されるのはごめんだな。客室係りに少し火を焚いておくよう言っておいた。君が寒かったらいけないからね。なかなかいいメイドなんだ、よく気がつく娘だよ。それに、せっかくここまで来たのだから、何も明日すぐ帰らなきゃならない、ってこともあるまい。明日一日、ここいらを見物して、明後日の朝発ったらどうだろう? 君もその方がいいと思わないか? 急ぐことはない、そうだろう? 子供たちだってすぐに会えるさ……明日一日、いろいろ見物でもしたら、君も道中のいい骨休めができるんじゃないかな――どうだい、ジェニー」

「切符は明後日のものをお買いになったの?」

「そうしたらどうかと思ったからね!」オーバーのボタンをはずすと、ふくらんだ札入れを出した。「ほら見てごらん、ネーピア行き一等車。ほら――「ジョン・ハモンド夫妻」とあるだろう。できるだけ楽をしようじゃないか。他の人に邪魔されたくないし。そうじゃないか? だが、もしおまえがもっとここに長くいたいなら……」

「あら、それでいいのよ」ジェニーは急いで言った。「ほんとにそれでいいの。では明後日ね。それで、子供たちは……」

 だがふたりはホテルに着いていた。支配人が、広く明るいポーチに立っている。ふたりを出迎えにおりてきた。ポーターも手荷物を受け取りに、ホールから走っていた。

「やあ、アーノルドさん。家内がやっと戻ってきましたよ」

(この項つづく)

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その4.

2008-08-08 22:41:35 | 翻訳
その4.

 あいさつを交わす岸からの声と船上の声が飛び交う。
「みんな元気でいた?」
「ああ、元気だったよ」
「お母さんはどう?」
「とっても元気よ!」
「ジーンちゃん!」
「こんにちは、エミリー叔母ちゃん!」
「船旅は快適だった?」
「最高さ!」
「もうすぐだね!」
「すぐさ」

 エンジンが止まった。船がそろそろと埠頭に横付けされた。

「道をあけてください、下がって、下がって!」沖仲仕たちが重い道板を船尾の端まで運んできた。ハモンドはジェニーに、そこにいるように、と合図を送った。老港長が足を踏み出す。彼もそれに続いた。いわゆる“レディ・ファースト”などというようなことは、彼の頭をかすめもしなかったのである。

「お先にどうぞ、船長!」大きな声で愛想良くそう言った。そうして老人のかかとに触れんばかりにして、大股で道板を上ってデッキに出ると、まっすぐジェニーの下に向かった。ジェニーは夫の腕の中にしっかりと抱きしめられたのだった。

「ああ、そうだ。よし、よし、やっと帰ってきたな!」そこで言いよどんだ。それ以上、何も言えなかったからだ。するとジェニーが顔を上げて、落ち着いた小さな声で――彼にとっては世界にひとつだけしかない声で――言ったのだった。
「あなた、ずいぶん長くお待ちになって?」

 いや、たいした時間じゃない。というか、どのみち時間なんて問題ではなかった。すんでしまったことなのだから。だが、問題は波止場の入り口で馬車を待たせていることだ。ジェニーは船を下りる準備はできているのだろうか? 荷物も降ろすばかりになっているんだろうか? それだったら船室の荷物だけ別にして持っていき、残りは明日にすればいい。ハモンドが妻の方に身をかがめると、ジェニーはなつかしい笑いかけたような表情で彼を見上げた。まったく前と同じだ。一日も離れていたようには思えない。彼の知っているそのままの妻だった。小さな手が彼の袖にかかった。

「子供たちはどうしてます、ジョン?」
(子供のことなんてどうだっていいだろう!)「すばらしく元気だよ。こんなに元気なこともない、ってぐらいだ」
「あの子たち、わたしに手紙を書いてくれなかったのかしら」
「ああ――もちろんさ。ホテルに置いてきた。あとで読めばいい」
「すぐに出ていくことはできないの」と彼女は言った。「お別れの挨拶をしなきゃいけない人もいるし――それに船長さんにも」夫が下を向いてしまったので、わかっているわ、というように、その腕をきつく握った。「もし船長さんがブリッジから降りていらっしゃったら、あなたからお礼を言ってくださいな。それはそれはよくしていただいたんですから」

そうだ、妻は戻ってきたのだ。もう十分待ってくれ、と言うのなら……。彼が後ろへ下がると、妻の周りに人が集まってきた。どうやら一等船客の全員が、ジェニーに別れが言いたいらしい。

「ごきげんよう、ハモンドさん。今度、シドニーにいらっしゃるときは、ぜひお越し下さいませね」
「ハモンドさん! どうか手紙を書くのを忘れないでくださいね?」
「さても、ハモンドさん、実際あなたがこの船にいらっしゃらなかったら、どんな船旅になっていたことやら」

 妻が船のなかでずば抜けた人気者だったことは火を見るよりも明らかだな。そうして彼女はいちいちそれに返事をしている――いつものように。まったく落ち着き払ったまま。あの小さな体で――なにもかもジェニーのままで。ヴェールを後ろにまくり上げてそこに立っていた。ハモンドはいまだかつて妻がどんなものを身につけているか気がついたことがなかった。何を着ていようが、彼にはまったく同じことだったのだ。だが、今日ばかりは妻が黒い「スーツ」――で良いのだろうか?――を着ていて、襟元と袖口に白いひらひら(おそらく縁飾りなのだろう)がついているのに気がついた。そうしているあいだも、ジェニーは彼を紹介してまわった。
「ジョン!」それからこう続く。「こちらの方を紹介するわ」

 しまいにやっと人の輪から逃れることができ、妻は彼を自分の一等船室に案内した。ジェニーの後ろを歩いて、妻の知り尽くした通路を行くというのは、彼にとっては初めての経験だった。緑色のカーテンを分けて彼女のあとから、妻の部屋だった船室に足を踏み入れると、なんともいえない幸福な気持ちがした。だが――忌々しい話だ!――船室係りがそこにいて、床の上で敷物をひもでしばっているところだった。
「これが最後ですよ、ハモンド様」船室係りはそう言うと立ち上がり、まくっていた袖をおろした。

 彼はまた紹介され、それからジェニーは船室係りと一緒に廊下に出ていった。ふたりが小さな声で話しているのが聞こえる。チップを渡すか何かの用があるのだろう、と考えた。縞模様のソファに腰を下ろし、帽子を取る。妻が持っていった膝掛けの類があった。どれも新品同然に見える。荷物はどれも未使用のまま、傷一つついてないようだった。名札にはどれも、妻の筆跡の小さな読みやすい書体で「ミセス・ジョン・ハモンド」と書いてあった。

「ミセス・ジョン・ハモンドか」満足げなため息をもらすと、椅子に背をあずけ、腕組みをした。緊張のひとときは終わった。安堵のため息をつきながら、ここには半永久的にすわっていられるような気がする――不安な、心臓をつかんでひきずりまわされているような気分から解放された安堵感である。危険は去ったのだ。そんな気がした。おれたちは乾いた土の上に戻ってきたのだ。

 だが、そのときジェニーの頭が端からのぞいた。
「あなた、お医者様のところにお別れを言いに行ってもかまわないでしょう?」

 ハモンドは急いで立ち上がった。「一緒に行こう」

「いいのよ、そんなことはなさらなくて。わたしがひとりで行ってきますわ。一分もかかりはしないのだから」

 そうして夫の返事も聞かず行ってしまった。追いかけようと思いはしたが、そうするかわりにふたたび腰を下ろした。

 ほんとうにすぐに戻ってくるのだろうか? いまいったい何時なのだろう。時計を取り出した。だが目をやっても何も見ていなかった。ジェニーの様子はおかしくはないか? どうして船室係りに船医への挨拶を言付けることができなかったのか? ホテルから手紙を出したっていいのだ、もしどうしても言っておかなければならないのであれば。どうしても言っておかなければならないことだって?――そんなことがあったのか――航海中に具合でも悪かったのだろうか? 妻が何か隠していることでもあるのだろうか? そうにちがいない。彼は帽子をつかんだ。出ていって、そいつを探し出し、どうにかして本当のところを吐かせるのだ。自分が何かをつかまえたような気がした。なんだか妻があまりに冷静過ぎるような気がするのだ――あんまりにも落ち着きすぎている。顔を合わせたときから……。

(この項つづく)

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その3.

2008-08-07 23:10:15 | 翻訳
その3.

「さても船長」いらいらと熱のこもった声がふたたび響き渡った。「とうとうわれわれに慈悲をたれる気持ちになってくださったか」

「わたしの責任じゃありませんよ、ハモンドさん」老船長は定期便にじっと目をやって、ぜいぜいと喉を鳴らした。、「奥方が乗っておられるんでしたな?」

「そうだよ、そうなんだ」ハモンド氏はそう言うと、船長の隣りに並んだ。「ハモンド夫人があそこにいるのだ。おーい、もうそんなにかからないからな!」

 電話のベルのような音とともに、スクリューの回転音の響きであたりを満たしながら、大きな定期船が人びとの方へ迫ってきた。舳先は暗い色の水を切り裂き、大きな波頭が、白いかんなくずのように丸まっていく。ハモンドと港長は人びとの先頭に立っていた。ハモンドは帽子を取った。いくつものデッキに目を走らせる――どこにも乗船客でごった返していた。帽子を振り、大きな、奇妙な声をあげて「おーい!」と波の向こうを呼んだ。それからくるりと振り返ると、はじけるように大声で笑い、老船長のジョンソンに向かって何ごとか――ほとんど意味のないようなことを――話しかけたのだった。

「奥さんは見つかりましたか」港長はたずねた。
「いや、まだ……。あ、そのまま――もうちょっと!」そこで急にふたりの不格好な大男のあいだに――「そこをどけよ!」傘で合図を送った――手が上がるのが見えた――白い手袋をはめた手が、ハンカチを振っている。つぎの瞬間――おお、ありがたい、神様――そこに妻がいた。ジェニーだ。そこにハモンド夫人がいた。そうだ、まちがいない。――手すりのそばに立って、ほほえみながらうなずき、ハンカチを振っていた。

「ああ、あれは一等のデッキだな――、一等だ。よしよし」彼はことさらに足を踏みならした。それから稲妻のようにすばやく、老船長に葉巻のケースを差し出した。「葉巻を取って置いてくれたまえ。ものはいいぞ。二本取っておけよ。さあ」――そうしてケースのなかに残った葉巻を全部船長に押しつけた。「ホテルに帰ればまだふた箱あるのだから」

「そりゃどうも、ハモンドさん」老船長はぜいぜい言いながらそれだけ言った、

 ハモンド氏は葉巻ケースを戻した。手がふるえているが、ふたたび自分を取り戻していた。ジェニーの顔が見える。手すりにもたれ。どこかの女性と話しながら、それでいて、いつでも夫の腕に飛び込んでいけるとでもいうように、彼から目を離さなかった。彼が衝撃を受けたのは、船と岸の距離が徐々に狭まってきたせいで、巨大な船にくらべて妻がいかにも小さく見えることだった。胸は早鐘を打ち、叫びだしたかった。なんと小さく見えるのだろう。あの長い道中をたったひとりで帰ってきたというのに! いかにもあれらしい、ジェニーらしいことだ。あれにはそんな勇気がある――そのとき船員たちが前に出てきて、乗船客を押しやった。船員は手すりをおろして舷門の用意をした。

(この項つづく)

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その2.

2008-08-06 23:20:04 | 翻訳
その2.

「そのとおりですな、ハモンドさん。だが、何かあったというわけではないのだと思いますよ――心配するようなことは何も」ゲイヴン氏は、パイプを靴のかかとに打ちつけながら言った。「それに……」

「まったくその通りですよ、まったくね!」ハモンド氏はさえぎった。「まったくもう不愉快この上ない!」せかせかと歩いていったかと思うと、またいままで自分が立っていた、スコット夫妻とゲイヴン氏の間に戻ってきた。「おまけにずいぶん暗くなってきたじゃありませんか」巻いた傘をふったが、その動作はまるで夕闇さえもこうやってみせれば少しは押し寄せるのを遠慮するかのようだった。だがあたりは水に落とした一滴の彩りが広がっていくように、ゆっくりと暗くなっていく。小さなジーン・スコットは母親の手を引っ張った。

「ママ、あたし、お茶が飲みたい」とぐずぐず言った。

「そりゃそうだ」ハモンド氏が引き取った。「ここにいらっしゃるご婦人方はみんな、お茶を所望しておられるにちがいない」その優しげで血色の良い、同情のこもったまなざしは、人びとをふたたび結びつけた。

ハモンド氏はジェニーがあっちの特別室で最後のお茶を飲んでいるだろうか、と考えた。そうだったらいい。だが、そうは思えなかった。ジェニーなら、デッキから離れようとしないだろう。もしその通りだったら、おそらくデッキの給仕係がお茶を持ってきてくれるはずだ。もしわたしが船にいるのであれば、自分で持っていってやるだろう――どうにかして。そうしてしばらくのあいだ、彼はデッキの人となっていた。妻の傍らに立ち、いつもそうしていたように、小さな手がカップを包んでいるのを見つめていた。船上で手に入れることのできた、たった一杯のお茶を……。だが、すぐに彼は岸に戻り、あのいまいましい船長が海の上でぐずぐずするのをいつになったらやめるのかは神のみぞ知るところとなった。彼はまた向きを変えると、行ったり来たりを始めた。そこから馬車の待機所まで歩いていって、お抱えの御者が行方をくらましていないことを確かめる。またひとまわりして、バナナの木箱の前で小さな人垣を作っている人びとのところへ戻っていった。小さなジーン・スコットが、まだ母親にお茶がほしいと言い続けていた。かわいそうな子供じゃないか! チョコレートを少しだけでも持っていれば良かった。

「こんにちは、ジーン」彼は声をかけた。「抱っこしてあげようか?」そうしてたやすく、そっと小さな女の子を抱き上げると、高くなっている樽の上にのせた。ジーンを抱き上げ、なだめてやったことで、彼自身の気持ちがずいぶん慰められ、心も軽くなっていた。

「離すんじゃないよ」そう言って、女の子の体に腕を回してやる。

「あらあら、ジーンのことはお気遣いなく、ハモンドさん」スコットの奥さんが言った。

「大丈夫ですよ、スコットさん。なんでもありません。わたしの好きでやっていることなんですから。ジーンはわたしのちっちゃなお友だちなんです、そうだろ、ジーン?」

「ええ、そうよね、ハモンドさん」ジーンはそう言うと、彼のフェルトの帽子のくぼみに指を走らせた。

 だが、突然、ジーンはハモンド氏の耳を引っ張って、悲鳴をあげた。「見てよ、見て、ったら。ハモンドさん! お船が動いてるわ!。ああ、入ってくる!」

 ほんとうにそうだった。その通り、ついに、だ。船はゆっくりゆっくり方向転換している。銅鑼が波の向こうから聞こえ、蒸気の大きなかたまりが吹き出されるのが見えた。カモメが一斉に飛び立つ。カモメたちは白い紙切れのようにはためいた。深い、ドクンドクンと鳴る音が、エンジンなのか自分の心臓なのか、ハモンド氏にはよくわからなかった。どちらであるにせよ、それをこらえるためには自分を励まさなければならないのには代わりはなかったが。ちょうどそのとき、港長のジョンソン船長が、革の折りカバンを小脇に抱え、大股で埠頭にやってきた。

「ジーンのことはどうかお構いなく」スコット氏が言った。「わたしが娘をつかまえておきますから」父親はかろうじて間に合った。ハモンド氏はジーンのことなど忘れてしまい、ジョンソン船長の方にぱっと駆けだしていたのだった。

(この項つづく)