その7.
ジェニーは返事をしなかった。夫から目をそらして、火を見つめていた。炎はゆらめいている――石炭を包みこんで燃える炎は、燃え上がったかと思うと崩れ落ち、それを繰り返す。
「寝てるんじゃないだろうね?」ハモンドは言うと、妻を上下に揺すった。
「寝てなんかいないわ」そう答えて、しばらくしてから続けた。「そんなこと、およしになって。寝ていたんじゃない、考えごとをしてたの。ほんとうを言うとね」彼女はさらに言った。「昨夜、船に乗り合わせた方がひとり、亡くなったの――男の方。だからあそこで止まっていたのよ。船はその人を連れて帰ったの――水葬にはしなかった、っていうことよ。だから、もちろん船のお医者様も、陸のお医者様も……」
「なんだったんだ?」ハモンドは不安そうに聞いた。彼は死の話題を耳にするのが大嫌いだった。そんなことが起こったというのがいやでたまらなかった。奇妙なことに、なんだか自分とジェニーがホテルに戻る途中で、葬式に出くわしたような気がした。
「あら、全然、伝染病なんかとはちがうのよ」ジェニーは、息にかろうじて音が混ざるような小さな声で話した。「心臓だったの」間が開いた。「かわいそうな人だった」彼女は言った。「若い人だったのよ」炎が燃え上がり、崩れ落ちるのを見ていた。「わたしの腕の中で息を引き取ったの」
衝撃があまりに急だったので、ハモンドは気を失うかと思った。身動きできない。息さえもできない。体中の力という力が流れ出していくような気がした――大きな、暗い色の椅子の中に流れ出し、その大きな暗い色の椅子があっというまに彼をしっかりと締め上げ、なんとかこらえ、受け止めさせようとしているような気がした。
「何だって?」物憂げな声で彼は言った。「いま、なんて言ったんだ」
「亡くなったそのときは、とてもやすらかだったの」声は小さかった。「あの人は」――ハモンドの目には、妻が小さな手を挙げるのが見えた――「ひとつ息をして、それでおしまいだった」彼女の手が落ちた。
「誰か――そこにはほかに誰がいたんだ?」ハモンドはやっとのことでそれだけ聞いた。
「誰も。その人と一緒にいたのはわたしだけ」
おお、なんということだ。こいつはいったい何を言ってるんだ? このおれに何をしようと言うんだ! ああ、死にそうだ。だが、そのあいだにも彼女は言葉を続けていた。
「容態が変わっていくのがわかったから、給仕にお医者様を呼びにやらせたの。でもお医者様が来たときには遅かったわ。だけど、何にせよできることなんてなかったんでしょうけどね」
「それにしても――なんで、どうしておまえが……」ハモンドはうめいた。
それを聞いたジェニーは、ぱっと向き直って、夫の顔に素早く目を走らせた。
「そんなこと、まさか気になさったりしないわよね、ジョン?」彼女は聞いた。「気になさったりはしないでしょう……あなたにも、わたしにも、なんの関わりもないことなんですから」
彼は苦労しながら、どうにか笑顔めいたものを妻に向けた。それからやっとのことで、もごもごと言った。「まあ――なんだ、で、どうなった? それからどうしたんだ。その先を聞かせてくれ」
「でも、ね、ジョン……」
「話すんだ、ジェニー!」
「話さなきゃならないようなことはないのよ」そう答えながら、とまどっているようだった。「一等船客のひとりだったってだけ。上船したときから、ずいぶんかげんが悪そうに見えたの……。でも、昨日まではずいぶん良くなっているように見えたわ。だけど、午後になってひどい発作が起きたの。きっと、もうすぐ着くっていうことで――興奮したのね――神経がたかぶったんでしょう。それで、もう回復できないところまでいってしまったの」
「だが船室係りだっていただろうに……」
「まあ、船室係りだなんて!」ジェニーは言った。「あの方、どんな風に思うでしょう。それに……何かことづてだってあったかもしれないし……誰かに……」
「何も言わなかったんだろう?」ハモンドは低い声で言った。「何か言ったのか?」
「いいえ、あなた、一言も言わなかった」彼女は静かに頭をふった。「わたしがそばにいてあげたあいだ、あの人はほんとに弱ってしまっていて……指一本動かせないくらい、弱ってしまっていて……」
ジェニーは黙ってしまった。だが、彼女の言葉、たいそう軽く、おだやかで、凍りつきそうな言葉はまだあたりをただよっていて、彼の胸の内に雪のように吹き込んでくるようだった。
火は赤い熾火になっていた。その熾火もやがて鋭い音をたてて崩れ、部屋は冷えていった。寒さが彼の腕を這い上っていく。部屋は広く、とてつもなく大きく、寒気部屋を満たしていた。部屋には大きなベッドがあって、その上には彼のオーバーが、まるで頭のない男が、お祈りを唱えているような格好で投げ出してある。荷物は、いつでもどこにでも持ち運びできるよう、汽車に投げ込まれようが、台車に乗せられて船に積み込まれようが準備はすっかり整っていた。
「……あの人は弱っていたの。指一本、動かすことができないくらい」そう言っても、そいつはジェニーの腕の中で死んだんじゃないか。ジェニーは――これまで一度も――この長い年月、たった一度だって――どんな場面だって――。
しまった。こんなことを考えてはいけない。そのことを思うと、気が変になりそうだった。いや、そんなことに気持ちを向けてはいけない。ああ、もうがまんができない。耐えられそうにない。
すると、今度はジェニーが夫のネクタイを指でふれた。ネクタイの両端をつまみあげて重ねている。
「あなた――ごめんなさいね、こんな話をしてしまって。ジョン、あなた――話を聞いていやな気がした? 今晩を台無しにしてしまった? ふたりきりになれたのに?」
そう聞かれて、彼は顔を隠さずにはいられなかった。自分の顔を妻の胸元にうずめて、両手で妻を抱きしめた。
ふたりの夜はだめになってしまった。ふたりきりになれたのに、めちゃくちゃになってしまった。もう二度と、ふたりきりになることもないだろうに。
The End
(※後日手を入れてサイトにアップします)