陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「写真撮ってください」

2008-08-26 23:31:49 | weblog
たまに、カメラを渡されて「写真を撮ってくださいませんか」と頼まれることがある。断る理由もないので、ここを押すんですね、と使い方だけ確認して、「はい、撮ります」と声をかけてシャッターを押す。ファインダーの向こうにいる人びとは見ず知らずのわたしに向かって、にこやかな、それでも数パーセントの居心地の悪さがこもった笑顔を向ける。

先日もそんな機会があって、その微妙な居心地の悪さが妙に気になった。

相手が人数も多く、いかにも気の置けなさそうな仲間たちの集まりだったりすると、表情のなかに含まれる「居心地の悪さ」の度合いは低くなる。これはむしろ、集団で電車に乗るときのお行儀の悪さとかに通じるものなのかもしれない。

それに対して、カップルは表情のぎこちなさが目に付く。さっきまでベンチで、人目もはばからずべたべたしていたふたりであっても、見ず知らずのわたしに向ける顔は、傍若無人とはほど遠い。カメラの向こうの視線は、ふたりのあいだに割り込む乱入者として受け取られているのだろうか。

ひとりで旅行に来ていて、風景写真は何枚も撮ったが、自分が「そこ」にいるという写真がどうしてもほしい、という人は、たいてい硬い表情でカメラの方を見ている。まるで自分がこぼれだすのをくい止めようとしているかのように、しっかりとガードを固めている印象を受ける。

わたしたちはカメラに向かうとき、別にVサインを作らなかったとしても、表情を作っている。別に笑顔になるだけではない。そのときの顔というのは、ちょっと気取ったり、こんなふうに見せたい、と思うような表情を浮かべている。演技している、といってもいいのかもしれない。

考えてみれば、わたしたちはどれほど親しい相手でも、家でひとりでいるときのような弛緩した顔はしていない。家族というのは、そのガードが限りなく下がる相手なのかもしれないが、それでも外へ出ればたとえ家族といたとしても表情は変わる。

相手が友だちだったりよく知っている人だったりすると、表情を作ってもあまり気にならないのかもしれない。家族や友だちや恋人に撮ってもらった写真というのは、自然な表情を浮かべているものだ。その自然さというのは、演技なし、というわけではなく、自然に表情を作ることができている、というふうに考えた方がいいかもしれない。

そうして、撮る-撮られるの関係は簡単に逆転するので、自分が表情を作るように、相手だって表情を作っていることを、わたしたちはどこかで気がついているのかもしれない。ところが知らない人が相手だと、この関係は一方通行になる。見ず知らずの人に向かって表情を作ることに恥ずかしさを感じるのだろうか。その恥ずかしさがぎこちなさになっているように思える。

どれだけ表情が硬かったとしても、わたしがカメラを持ったまま走って逃げるかもしれない、と危惧しているのではなく(もしそうだったらどうしよう……)、見ず知らずの人に向かって、表情を作るのはむずかしい、ということなのだろうか。