その4.
あいさつを交わす岸からの声と船上の声が飛び交う。
「みんな元気でいた?」
「ああ、元気だったよ」
「お母さんはどう?」
「とっても元気よ!」
「ジーンちゃん!」
「こんにちは、エミリー叔母ちゃん!」
「船旅は快適だった?」
「最高さ!」
「もうすぐだね!」
「すぐさ」
エンジンが止まった。船がそろそろと埠頭に横付けされた。
「道をあけてください、下がって、下がって!」沖仲仕たちが重い道板を船尾の端まで運んできた。ハモンドはジェニーに、そこにいるように、と合図を送った。老港長が足を踏み出す。彼もそれに続いた。いわゆる“レディ・ファースト”などというようなことは、彼の頭をかすめもしなかったのである。
「お先にどうぞ、船長!」大きな声で愛想良くそう言った。そうして老人のかかとに触れんばかりにして、大股で道板を上ってデッキに出ると、まっすぐジェニーの下に向かった。ジェニーは夫の腕の中にしっかりと抱きしめられたのだった。
「ああ、そうだ。よし、よし、やっと帰ってきたな!」そこで言いよどんだ。それ以上、何も言えなかったからだ。するとジェニーが顔を上げて、落ち着いた小さな声で――彼にとっては世界にひとつだけしかない声で――言ったのだった。
「あなた、ずいぶん長くお待ちになって?」
いや、たいした時間じゃない。というか、どのみち時間なんて問題ではなかった。すんでしまったことなのだから。だが、問題は波止場の入り口で馬車を待たせていることだ。ジェニーは船を下りる準備はできているのだろうか? 荷物も降ろすばかりになっているんだろうか? それだったら船室の荷物だけ別にして持っていき、残りは明日にすればいい。ハモンドが妻の方に身をかがめると、ジェニーはなつかしい笑いかけたような表情で彼を見上げた。まったく前と同じだ。一日も離れていたようには思えない。彼の知っているそのままの妻だった。小さな手が彼の袖にかかった。
「子供たちはどうしてます、ジョン?」
(子供のことなんてどうだっていいだろう!)「すばらしく元気だよ。こんなに元気なこともない、ってぐらいだ」
「あの子たち、わたしに手紙を書いてくれなかったのかしら」
「ああ――もちろんさ。ホテルに置いてきた。あとで読めばいい」
「すぐに出ていくことはできないの」と彼女は言った。「お別れの挨拶をしなきゃいけない人もいるし――それに船長さんにも」夫が下を向いてしまったので、わかっているわ、というように、その腕をきつく握った。「もし船長さんがブリッジから降りていらっしゃったら、あなたからお礼を言ってくださいな。それはそれはよくしていただいたんですから」
そうだ、妻は戻ってきたのだ。もう十分待ってくれ、と言うのなら……。彼が後ろへ下がると、妻の周りに人が集まってきた。どうやら一等船客の全員が、ジェニーに別れが言いたいらしい。
「ごきげんよう、ハモンドさん。今度、シドニーにいらっしゃるときは、ぜひお越し下さいませね」
「ハモンドさん! どうか手紙を書くのを忘れないでくださいね?」
「さても、ハモンドさん、実際あなたがこの船にいらっしゃらなかったら、どんな船旅になっていたことやら」
妻が船のなかでずば抜けた人気者だったことは火を見るよりも明らかだな。そうして彼女はいちいちそれに返事をしている――いつものように。まったく落ち着き払ったまま。あの小さな体で――なにもかもジェニーのままで。ヴェールを後ろにまくり上げてそこに立っていた。ハモンドはいまだかつて妻がどんなものを身につけているか気がついたことがなかった。何を着ていようが、彼にはまったく同じことだったのだ。だが、今日ばかりは妻が黒い「スーツ」――で良いのだろうか?――を着ていて、襟元と袖口に白いひらひら(おそらく縁飾りなのだろう)がついているのに気がついた。そうしているあいだも、ジェニーは彼を紹介してまわった。
「ジョン!」それからこう続く。「こちらの方を紹介するわ」
しまいにやっと人の輪から逃れることができ、妻は彼を自分の一等船室に案内した。ジェニーの後ろを歩いて、妻の知り尽くした通路を行くというのは、彼にとっては初めての経験だった。緑色のカーテンを分けて彼女のあとから、妻の部屋だった船室に足を踏み入れると、なんともいえない幸福な気持ちがした。だが――忌々しい話だ!――船室係りがそこにいて、床の上で敷物をひもでしばっているところだった。
「これが最後ですよ、ハモンド様」船室係りはそう言うと立ち上がり、まくっていた袖をおろした。
彼はまた紹介され、それからジェニーは船室係りと一緒に廊下に出ていった。ふたりが小さな声で話しているのが聞こえる。チップを渡すか何かの用があるのだろう、と考えた。縞模様のソファに腰を下ろし、帽子を取る。妻が持っていった膝掛けの類があった。どれも新品同然に見える。荷物はどれも未使用のまま、傷一つついてないようだった。名札にはどれも、妻の筆跡の小さな読みやすい書体で「ミセス・ジョン・ハモンド」と書いてあった。
「ミセス・ジョン・ハモンドか」満足げなため息をもらすと、椅子に背をあずけ、腕組みをした。緊張のひとときは終わった。安堵のため息をつきながら、ここには半永久的にすわっていられるような気がする――不安な、心臓をつかんでひきずりまわされているような気分から解放された安堵感である。危険は去ったのだ。そんな気がした。おれたちは乾いた土の上に戻ってきたのだ。
だが、そのときジェニーの頭が端からのぞいた。
「あなた、お医者様のところにお別れを言いに行ってもかまわないでしょう?」
ハモンドは急いで立ち上がった。「一緒に行こう」
「いいのよ、そんなことはなさらなくて。わたしがひとりで行ってきますわ。一分もかかりはしないのだから」
そうして夫の返事も聞かず行ってしまった。追いかけようと思いはしたが、そうするかわりにふたたび腰を下ろした。
ほんとうにすぐに戻ってくるのだろうか? いまいったい何時なのだろう。時計を取り出した。だが目をやっても何も見ていなかった。ジェニーの様子はおかしくはないか? どうして船室係りに船医への挨拶を言付けることができなかったのか? ホテルから手紙を出したっていいのだ、もしどうしても言っておかなければならないのであれば。どうしても言っておかなければならないことだって?――そんなことがあったのか――航海中に具合でも悪かったのだろうか? 妻が何か隠していることでもあるのだろうか? そうにちがいない。彼は帽子をつかんだ。出ていって、そいつを探し出し、どうにかして本当のところを吐かせるのだ。自分が何かをつかまえたような気がした。なんだか妻があまりに冷静過ぎるような気がするのだ――あんまりにも落ち着きすぎている。顔を合わせたときから……。
(この項つづく)
あいさつを交わす岸からの声と船上の声が飛び交う。
「みんな元気でいた?」
「ああ、元気だったよ」
「お母さんはどう?」
「とっても元気よ!」
「ジーンちゃん!」
「こんにちは、エミリー叔母ちゃん!」
「船旅は快適だった?」
「最高さ!」
「もうすぐだね!」
「すぐさ」
エンジンが止まった。船がそろそろと埠頭に横付けされた。
「道をあけてください、下がって、下がって!」沖仲仕たちが重い道板を船尾の端まで運んできた。ハモンドはジェニーに、そこにいるように、と合図を送った。老港長が足を踏み出す。彼もそれに続いた。いわゆる“レディ・ファースト”などというようなことは、彼の頭をかすめもしなかったのである。
「お先にどうぞ、船長!」大きな声で愛想良くそう言った。そうして老人のかかとに触れんばかりにして、大股で道板を上ってデッキに出ると、まっすぐジェニーの下に向かった。ジェニーは夫の腕の中にしっかりと抱きしめられたのだった。
「ああ、そうだ。よし、よし、やっと帰ってきたな!」そこで言いよどんだ。それ以上、何も言えなかったからだ。するとジェニーが顔を上げて、落ち着いた小さな声で――彼にとっては世界にひとつだけしかない声で――言ったのだった。
「あなた、ずいぶん長くお待ちになって?」
いや、たいした時間じゃない。というか、どのみち時間なんて問題ではなかった。すんでしまったことなのだから。だが、問題は波止場の入り口で馬車を待たせていることだ。ジェニーは船を下りる準備はできているのだろうか? 荷物も降ろすばかりになっているんだろうか? それだったら船室の荷物だけ別にして持っていき、残りは明日にすればいい。ハモンドが妻の方に身をかがめると、ジェニーはなつかしい笑いかけたような表情で彼を見上げた。まったく前と同じだ。一日も離れていたようには思えない。彼の知っているそのままの妻だった。小さな手が彼の袖にかかった。
「子供たちはどうしてます、ジョン?」
(子供のことなんてどうだっていいだろう!)「すばらしく元気だよ。こんなに元気なこともない、ってぐらいだ」
「あの子たち、わたしに手紙を書いてくれなかったのかしら」
「ああ――もちろんさ。ホテルに置いてきた。あとで読めばいい」
「すぐに出ていくことはできないの」と彼女は言った。「お別れの挨拶をしなきゃいけない人もいるし――それに船長さんにも」夫が下を向いてしまったので、わかっているわ、というように、その腕をきつく握った。「もし船長さんがブリッジから降りていらっしゃったら、あなたからお礼を言ってくださいな。それはそれはよくしていただいたんですから」
そうだ、妻は戻ってきたのだ。もう十分待ってくれ、と言うのなら……。彼が後ろへ下がると、妻の周りに人が集まってきた。どうやら一等船客の全員が、ジェニーに別れが言いたいらしい。
「ごきげんよう、ハモンドさん。今度、シドニーにいらっしゃるときは、ぜひお越し下さいませね」
「ハモンドさん! どうか手紙を書くのを忘れないでくださいね?」
「さても、ハモンドさん、実際あなたがこの船にいらっしゃらなかったら、どんな船旅になっていたことやら」
妻が船のなかでずば抜けた人気者だったことは火を見るよりも明らかだな。そうして彼女はいちいちそれに返事をしている――いつものように。まったく落ち着き払ったまま。あの小さな体で――なにもかもジェニーのままで。ヴェールを後ろにまくり上げてそこに立っていた。ハモンドはいまだかつて妻がどんなものを身につけているか気がついたことがなかった。何を着ていようが、彼にはまったく同じことだったのだ。だが、今日ばかりは妻が黒い「スーツ」――で良いのだろうか?――を着ていて、襟元と袖口に白いひらひら(おそらく縁飾りなのだろう)がついているのに気がついた。そうしているあいだも、ジェニーは彼を紹介してまわった。
「ジョン!」それからこう続く。「こちらの方を紹介するわ」
しまいにやっと人の輪から逃れることができ、妻は彼を自分の一等船室に案内した。ジェニーの後ろを歩いて、妻の知り尽くした通路を行くというのは、彼にとっては初めての経験だった。緑色のカーテンを分けて彼女のあとから、妻の部屋だった船室に足を踏み入れると、なんともいえない幸福な気持ちがした。だが――忌々しい話だ!――船室係りがそこにいて、床の上で敷物をひもでしばっているところだった。
「これが最後ですよ、ハモンド様」船室係りはそう言うと立ち上がり、まくっていた袖をおろした。
彼はまた紹介され、それからジェニーは船室係りと一緒に廊下に出ていった。ふたりが小さな声で話しているのが聞こえる。チップを渡すか何かの用があるのだろう、と考えた。縞模様のソファに腰を下ろし、帽子を取る。妻が持っていった膝掛けの類があった。どれも新品同然に見える。荷物はどれも未使用のまま、傷一つついてないようだった。名札にはどれも、妻の筆跡の小さな読みやすい書体で「ミセス・ジョン・ハモンド」と書いてあった。
「ミセス・ジョン・ハモンドか」満足げなため息をもらすと、椅子に背をあずけ、腕組みをした。緊張のひとときは終わった。安堵のため息をつきながら、ここには半永久的にすわっていられるような気がする――不安な、心臓をつかんでひきずりまわされているような気分から解放された安堵感である。危険は去ったのだ。そんな気がした。おれたちは乾いた土の上に戻ってきたのだ。
だが、そのときジェニーの頭が端からのぞいた。
「あなた、お医者様のところにお別れを言いに行ってもかまわないでしょう?」
ハモンドは急いで立ち上がった。「一緒に行こう」
「いいのよ、そんなことはなさらなくて。わたしがひとりで行ってきますわ。一分もかかりはしないのだから」
そうして夫の返事も聞かず行ってしまった。追いかけようと思いはしたが、そうするかわりにふたたび腰を下ろした。
ほんとうにすぐに戻ってくるのだろうか? いまいったい何時なのだろう。時計を取り出した。だが目をやっても何も見ていなかった。ジェニーの様子はおかしくはないか? どうして船室係りに船医への挨拶を言付けることができなかったのか? ホテルから手紙を出したっていいのだ、もしどうしても言っておかなければならないのであれば。どうしても言っておかなければならないことだって?――そんなことがあったのか――航海中に具合でも悪かったのだろうか? 妻が何か隠していることでもあるのだろうか? そうにちがいない。彼は帽子をつかんだ。出ていって、そいつを探し出し、どうにかして本当のところを吐かせるのだ。自分が何かをつかまえたような気がした。なんだか妻があまりに冷静過ぎるような気がするのだ――あんまりにも落ち着きすぎている。顔を合わせたときから……。
(この項つづく)
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