その6.
支配人は先に立ってホールを抜け、エレヴェーターのボタンを押した。ハモンドは自分の仕事仲間がロビーにある小さなテーブルを囲んで、夕食前の一杯を飲んでいるのを知っていた。だが、うっかり邪魔されるようなことにでもなったら大変だ。彼は左にも右にも目を向けなかった。連中は連中でやっていればいい。わからなければ、そいつがバカだというだけの話だ――エレヴェーターから出ると、部屋の鍵を開け、ジェニーを先に通した。ドアが閉まった。とうとうほんとうにふたりきりになれたのだ。彼は明かりをつけ、カーテンを引いた。暖炉の火は燃え上がった。大きなベッドに帽子を放り投げ、妻の方へ行った。
だが――こんなことがあるだろうか――またしても邪魔が入ったのである。今度はボーイが荷物を運んできたのだった。出ていったかと思うと、ドアを開けたまままた戻ってきて、時間をかけ、通路を歩いているあいだも、歯の隙間から口笛を吹いている。ハモンドは部屋をいったりきたりしながら、手袋を引き抜き、スカーフを引きはがした。最後にオーバーをベッド脇に投げ出した。
やっとあのバカが行ったか。ドアがカチリと閉まった。やっとふたりきりになれたのだ。ハモンドは言った。「もう二度とふたりきりにはなれないような気がするな。まったくいまいましい連中だな! ジェニー?」そう言うと、熱のこもった真剣なまなざしを妻に向けた。「晩飯はここで食べようじゃないか。夕食を取ることにレストランに下りていくと、また邪魔が入るかもしれないし、あそこではたまらん音楽をやっているからな」(その音楽を昨夜の彼は褒め称え、さかんに喝采を送っていたのに!)。「話をしようにも、声がろくすっぽ聞こえないんじゃな。ここで、暖炉の前で何か食べることにしよう。お茶の時間にはすっかり遅くなってしまったが。簡単な晩飯でも注文するよ、それでいいね?」
「あなた、そうなさって」ジェニーが言った。「あなたが注文してらっしゃるあいだに、――わたし、子供たちの手紙を……」
「おい、そんなものあとでいくらでも読めるじゃないか」
「でも、片づけてしまいたいの」ジェニーは言った。「それに、わたし、その前に……」
「ああ、そうだった、下まで行く必要なんかないんだった」ハモンドは力説した。「呼び鈴を鳴らして注文すればいいんだから……わたしがそばにいたほうがいいだろう、そうじゃないか?」
ジェニーはかぶりをふってほほえんだ。
「何かほかのことを考えているね。気がかりでもあるのか」ハモンドは言った。「どうしたんだ? さあ、こっちにおいで――火のそばに寄って、この膝の上においで」
「帽子をとらなくては」ジェニーはそう言うと、ドレッサーの方へ歩いた。「あら!」と小さな声があがる。
「どうした?」
「なんでもないの。子供たちの手紙を見つけたのよ。だけどいいわ! あとにすれば。急ぐことではないのですものね」手紙を手に取ったまま、夫の方を振り返った。手紙をフリルのついたブラウスに押し込む。それから急いで明るい大きな声を出した。「あらまあ、このドレッサー、いかにもあなたらしいわね!」
「何のことだ? それがどうかしたのか?」
「このドレッサーが永遠の中に浮かんでたとしても、わたし、きっと『ジョン!』って呼ぶでしょうね」ジェニーは声を上げてわらうと、ヘア・トニックの大きなビンや、オーデコロンの小枝細工のビン、二本のヘアブラシ、ピンクのひもでまとめてある一ダースほどの真新しいカラーをじっと見つめた。「あなたのお荷物はこれで全部?」
「わたしの荷物なんかどうだっていいじゃないか!」ハモンドは言った。だがそう言いながらもジェニーにからかわれることはうれしかった。「もっと話そう。さあ、ほかのことは忘れようじゃないか。話を聞かせておくれ」――ジェニーが膝の上に腰を下ろしてきたので、彼は後ろに身を反らせて、深く不格好な椅子に引き込んだ――「ジェニー、君はほんとに帰ってきて良かったと思ってるのかい」
「ええ、あなた。わたし、うれしいのよ」
だが、そうやって妻を抱きしめたところで、彼には妻がどこかへ行ってしまいそうな気がするのだった。ハモンドには決してわからない――金輪際、わかりっこないのだ。自分が喜んでいるように、妻が喜んでいるのかどうか。いったいどうやって知ることができるのだろう? いつかわかる日が来るのだろうか。このまま自分はずっとこの焦がれるような思いを抱えていくのだろうか――飢えにも似た痛み、決してジェニーが自分から離れていってしまわないように、どうにかして妻を自分の一部にしたいという渇望を。あらゆる人、あらゆる物を消してしまいたかった。電灯さえも消してしまいたい。そうすれば妻をもっと近くに引き寄せることができるかもしれないから。だがそのとき、子供たちの手紙が、妻のブラウスの内側でガサゴソと音を立てた。そんなもの、火の中へくべてしまえ。
「ジェニー」彼はささやいた。
「なあに?」彼の胸に身を預けていても、その身はあまりに軽く、たよりなかった。ふたりの呼吸は重なって、高くなり、低くなりした。
「ジェニー!」
「どうしたの?」
「こっちを見て」彼はささやいた。ゆっくりと、深い血の色が彼の額にさしていった。「キスしておくれ、ジェニー。キスして」
ほんの短い時間だったのかもしれない――だが同時に、拷問を受けているように感じられるまでに、長いあいだであるようにも思えた――そうして、彼女の唇が、軽く、だが、しっかりと押しつけられた――これまでずっと彼にキスしてきたように、あたかもそのキスが――どうやって説明できるというのだろう?――ふたりが話していることを、確かなものにするように。まるで契約にサインしたとでもいうように。だが、彼はそんなことを求めていたわけではない。彼が渇望していたのはまるでちがうものだった。不意に、恐ろしいまでの疲労を彼は感じていた。
「君にはわからないだろうな」彼は目を開けた。「どんな気分でいたか――今日待っているあいだにさ。船はもう入って来ないんじゃないかと思ったよ。あそこでわたしたちはただぶらぶらしていたんだ。なんでそんなに時間がかかったのかい?」
(※明日いよいよ最終回)
支配人は先に立ってホールを抜け、エレヴェーターのボタンを押した。ハモンドは自分の仕事仲間がロビーにある小さなテーブルを囲んで、夕食前の一杯を飲んでいるのを知っていた。だが、うっかり邪魔されるようなことにでもなったら大変だ。彼は左にも右にも目を向けなかった。連中は連中でやっていればいい。わからなければ、そいつがバカだというだけの話だ――エレヴェーターから出ると、部屋の鍵を開け、ジェニーを先に通した。ドアが閉まった。とうとうほんとうにふたりきりになれたのだ。彼は明かりをつけ、カーテンを引いた。暖炉の火は燃え上がった。大きなベッドに帽子を放り投げ、妻の方へ行った。
だが――こんなことがあるだろうか――またしても邪魔が入ったのである。今度はボーイが荷物を運んできたのだった。出ていったかと思うと、ドアを開けたまままた戻ってきて、時間をかけ、通路を歩いているあいだも、歯の隙間から口笛を吹いている。ハモンドは部屋をいったりきたりしながら、手袋を引き抜き、スカーフを引きはがした。最後にオーバーをベッド脇に投げ出した。
やっとあのバカが行ったか。ドアがカチリと閉まった。やっとふたりきりになれたのだ。ハモンドは言った。「もう二度とふたりきりにはなれないような気がするな。まったくいまいましい連中だな! ジェニー?」そう言うと、熱のこもった真剣なまなざしを妻に向けた。「晩飯はここで食べようじゃないか。夕食を取ることにレストランに下りていくと、また邪魔が入るかもしれないし、あそこではたまらん音楽をやっているからな」(その音楽を昨夜の彼は褒め称え、さかんに喝采を送っていたのに!)。「話をしようにも、声がろくすっぽ聞こえないんじゃな。ここで、暖炉の前で何か食べることにしよう。お茶の時間にはすっかり遅くなってしまったが。簡単な晩飯でも注文するよ、それでいいね?」
「あなた、そうなさって」ジェニーが言った。「あなたが注文してらっしゃるあいだに、――わたし、子供たちの手紙を……」
「おい、そんなものあとでいくらでも読めるじゃないか」
「でも、片づけてしまいたいの」ジェニーは言った。「それに、わたし、その前に……」
「ああ、そうだった、下まで行く必要なんかないんだった」ハモンドは力説した。「呼び鈴を鳴らして注文すればいいんだから……わたしがそばにいたほうがいいだろう、そうじゃないか?」
ジェニーはかぶりをふってほほえんだ。
「何かほかのことを考えているね。気がかりでもあるのか」ハモンドは言った。「どうしたんだ? さあ、こっちにおいで――火のそばに寄って、この膝の上においで」
「帽子をとらなくては」ジェニーはそう言うと、ドレッサーの方へ歩いた。「あら!」と小さな声があがる。
「どうした?」
「なんでもないの。子供たちの手紙を見つけたのよ。だけどいいわ! あとにすれば。急ぐことではないのですものね」手紙を手に取ったまま、夫の方を振り返った。手紙をフリルのついたブラウスに押し込む。それから急いで明るい大きな声を出した。「あらまあ、このドレッサー、いかにもあなたらしいわね!」
「何のことだ? それがどうかしたのか?」
「このドレッサーが永遠の中に浮かんでたとしても、わたし、きっと『ジョン!』って呼ぶでしょうね」ジェニーは声を上げてわらうと、ヘア・トニックの大きなビンや、オーデコロンの小枝細工のビン、二本のヘアブラシ、ピンクのひもでまとめてある一ダースほどの真新しいカラーをじっと見つめた。「あなたのお荷物はこれで全部?」
「わたしの荷物なんかどうだっていいじゃないか!」ハモンドは言った。だがそう言いながらもジェニーにからかわれることはうれしかった。「もっと話そう。さあ、ほかのことは忘れようじゃないか。話を聞かせておくれ」――ジェニーが膝の上に腰を下ろしてきたので、彼は後ろに身を反らせて、深く不格好な椅子に引き込んだ――「ジェニー、君はほんとに帰ってきて良かったと思ってるのかい」
「ええ、あなた。わたし、うれしいのよ」
だが、そうやって妻を抱きしめたところで、彼には妻がどこかへ行ってしまいそうな気がするのだった。ハモンドには決してわからない――金輪際、わかりっこないのだ。自分が喜んでいるように、妻が喜んでいるのかどうか。いったいどうやって知ることができるのだろう? いつかわかる日が来るのだろうか。このまま自分はずっとこの焦がれるような思いを抱えていくのだろうか――飢えにも似た痛み、決してジェニーが自分から離れていってしまわないように、どうにかして妻を自分の一部にしたいという渇望を。あらゆる人、あらゆる物を消してしまいたかった。電灯さえも消してしまいたい。そうすれば妻をもっと近くに引き寄せることができるかもしれないから。だがそのとき、子供たちの手紙が、妻のブラウスの内側でガサゴソと音を立てた。そんなもの、火の中へくべてしまえ。
「ジェニー」彼はささやいた。
「なあに?」彼の胸に身を預けていても、その身はあまりに軽く、たよりなかった。ふたりの呼吸は重なって、高くなり、低くなりした。
「ジェニー!」
「どうしたの?」
「こっちを見て」彼はささやいた。ゆっくりと、深い血の色が彼の額にさしていった。「キスしておくれ、ジェニー。キスして」
ほんの短い時間だったのかもしれない――だが同時に、拷問を受けているように感じられるまでに、長いあいだであるようにも思えた――そうして、彼女の唇が、軽く、だが、しっかりと押しつけられた――これまでずっと彼にキスしてきたように、あたかもそのキスが――どうやって説明できるというのだろう?――ふたりが話していることを、確かなものにするように。まるで契約にサインしたとでもいうように。だが、彼はそんなことを求めていたわけではない。彼が渇望していたのはまるでちがうものだった。不意に、恐ろしいまでの疲労を彼は感じていた。
「君にはわからないだろうな」彼は目を開けた。「どんな気分でいたか――今日待っているあいだにさ。船はもう入って来ないんじゃないかと思ったよ。あそこでわたしたちはただぶらぶらしていたんだ。なんでそんなに時間がかかったのかい?」
(※明日いよいよ最終回)