陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

鬼と宴会する話(中編) 

2008-08-20 23:15:28 | weblog
太宰版の「御伽草子」では、「このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである」という文で、舞台が特定してある。

なぜ阿波の剣山なのか。
馬場あき子の『鬼の研究』のなかに「瘤取りの鬼」という箇所があって、ここでは太宰版「瘤取り」にも言及されている。
この一篇における太宰の、〈鬼〉との出会いは、これを書いた昭和二十年三月以降の、敗戦に歩一歩とのめりこむ時代状況と併せて考えるとき、鬼への近親の情は、鬼そのものの正確を考える上にも役立つように思われる。
太宰はこの鬼の話を四国剣山の鬼の話として語ろうとした。剣山は柳田国男氏が「山人外伝資料」にあげられた四国山人の中心をなした地である。太宰は温順な四国の山の奥処に、みずからに疎外者の生き方を貸しつつ生きた山人の集団に、ほろにがい、ほのがなしい共鳴を感じていたのだろうか。
(馬場あき子『鬼の研究』三一書房)

そこで山人というのは何かと柳田国男の『山人外伝資料』を見てみれば、冒頭このように述べられる。
拙者の信ずるところでは、山人はこの島国に昔繁栄していた先住民の子孫である。その文明は大いに退歩した。古今三千年の間彼等のために記された一冊の歴史もない。
(柳田國男「山人外伝資料」『柳田國男4』ちくま文庫)

「山人外伝資料」のなかには、「鬼」と呼ばれたのが村里に近い山で、人を畏れながら暮らしていた山人であることが考察されている。
坂上田村麿等の名将軍の人力で、帰化する者は早く帰化をさせその他は深山の中へ追い入れた。しかし官道の通らぬ山地には険を憑(たの)んで安住し、与党がやや集まれば再び出でて交通を劫(おびやか)した。大江山・鈴鹿山の峠のみならず、時には京都の町中まで人を取りに来る。京都人は彼らが出没の自在なるにおどろいて人間以上の物と認め、当時いろいろの浮説をこれに付け加えたようである。また武具の力では制せられぬと断念して祈祷の方に力を入れ、従って山人をもって単純なる鬼物と認めようとした。
(「山人外伝資料」)

太宰がここでわざわざ「剣山」という山人の四国の本拠を選んだのは、この鬼が妖怪変化の類ではなく、山人であるという含意があったのではないか、と馬場あき子はいうのだ。

太宰版「瘤取り」のお爺さんは孤独をかこっている。
「酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、」まじめで忙しいお婆さん、まじめで働き者の息子の一家の中で、はみ出し者・余計者として生きている。

そうして、宇治拾遺物語や昔話と同じように、山に入っていったおじいさん、雨に降られて木の虚(うろ)に入り込んで一杯やるうち、眠り込んでしまう。目をさましたところで、十数人の鬼が宴会をしているのに出くわすのである。
「鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。」とあるから、確かに「山人」の含意があったのかもしれない。そうして彼らが
「気持よささうに、酔つてゐる。」のを見て、「妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。」

確かにわたしたちは楽しそうな人を見れば、たいていはこちらまで楽しくなってくる。楽しい気持ちは伝播するものだし、同じ酒好きなら、酒を飲んで笑いさざめいている人びとを見るだけで楽しくなってくるのかもしれない。

さらに、家の中で疎外されているお爺さんは、酒を飲む楽しさを人と分かち合うことができない。となると、自分と同じ楽しみを楽しみとしている人(ではないが)を見るだけで、うれしくなってくる、というのもよくわかるし、お爺さんがその輪の中に入っていきたくなる気持ちも十分に理解できる。

ところでこの太宰版「お伽草子」には、ときどき「私」という一人称の語り手が顔を出す。
鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。

「私」はなんでまたこんな感慨をわざわざここでもらすのだろう。

そう思ってその先を読んでいくと、これが単に「鬼」という言葉からの連想だけではないことがわかってくる。
鬼(山人)は里の人びとから疎外されている。お爺さんも酒飲みとして、家の者から疎外されている。
「文学の鬼」という称号をひそかに喜んでいるらしい何某先生たちになじめず、「壕の中にしやがんで」膝の上に子供の本をのせている自分がそこに重ね合わされているのだ。
馬場あき子のいう「鬼への近親の情」というのは、そういうことを指しているのだろう。

さて、太宰版でも『宇治拾遺物語』や『こぶじいさま』と同じように、鬼とおじいさんの別れの刻限は迫ってくる。
「鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない」と想像して、瘤をむしりとるのはいずれも同じなのだが、考えてみると鬼たちの行動はずいぶん紳士的なのである。

そんなに楽しいのなら、強制的に自分たちのもとにつなぎとめておいてもよさそうなものなのだが、鬼たちはそんなことはしない。強制するともはや楽しいひとときをともに過ごすことができないとわかっているようだ。鬼たちはお爺さんを拘束するかわりに約束を交わす。また来てくれるという保証はないから担保こそ取るが、その担保物件である「瘤」は、大切に保存しておいてくれる。

馬場あき子はここでこのような指摘をしている。
これもまた無類に特色的であるのは、右頬に瘤ある翁に何の危害を加えることも思いついていないことである。太宰はその原因を翁の生活のなかに、性格のなかに見いだすことのできるこれらの鬼との同類性、つまり、きわめて逆説的にきこえるかもしれないが、人間的な弱さややさしさに帰して考えようとしている。それはたんに性格悲劇を描こうとしたという以上に、昭和二十年という時点での、太宰のささやかないいわけであり、厭戦の情であったといえよう。このような捉え方のなかに、〈鬼とは何か〉の答えのひとつが浮かんでくる側面がある。
(『鬼の研究)

「〈鬼とは何か〉の答えのひとつ」はあとにまわして、鬼の生活・性格と、お爺さんの生活・性格、そうして語り手である「私」の生活・性格が「同類性」を持って描かれていることは押さえておこう。

さて、お爺さんの方は「瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい」。自分の家に帰っても、お爺さんはやはり孤独である。一晩家を空けても、瘤がなくなっても、正しく立派な家族たちは、理路整然とそれを受け止め、お爺さんはいつもの孤独に戻ってしまう。

『宇治拾遺物語』でも『こぶじいさま』でも、お爺さんは瘤を邪魔にしていた。だからこそ瘤を鬼に取られて密かに喜んだのである。だが、瘤が唯一の話し相手という太宰版では、鬼との約束を果たさない理由がなくなってしまうのではあるまいか。家に帰ったところで、話し相手はなく、酒を飲んでも肩身が狭いのだ。また折りを見て、鬼と一緒に宴会してもよさそうなものである。だが、太宰版のお爺さんは、わびしくごはんを食べながら、物語から姿を消す。

さて、ここから話を結論まで持っていこうと思ったのだが、いいかげん長くなったし夜も更けた。ということで、明日にまで持ち越すのである。