「鬼」というのは昔話にはおなじみの登場人物(?)だが、「桃太郎」の鬼退治のように、退治される鬼というのは、意外に少数派なのかもしれない。昔話では、どうも人々は鬼を恐れながらも、なかなかうまく共存していたようだ。
たとえばあの有名な「こぶとりじいさん」だが、手元にある『こぶじいさま』(松居直再話 福音館)を見ると、山へ木を切りに行ったおじいさんが、日が暮れて帰れなくなって、「やまのかみさまのおどう」へ入って泊まることにする。すると夜中に山奥から鬼が出てくるのである。
わざわざ「山の神様のお堂」(これは神社と理解してよいのだろうか)の境内へやってきて、何をするかというと、お堂のまわりを囲んで、ぐるぐると踊るのである。鬼たちが一堂に会して踊りを踊るようなスペースは、山の中にはお堂のまわりぐらいしかなかったのだろうか、とも思うのだが、お堂があるということは、人が少なくともそこらまでは行き来するということで、鬼のエリアと人々の生活圏は、きわめて近かったということだろう。
しかも、この鬼たちは「山の神様のお堂」を囲んで、平気でさわいでいる。
たとえばこれがヨーロッパだと、ヴァンパイヤが教会の周りで集まって踊ったり騒いだりすることなど決してあり得ないわけで、そう考えると、「山の神様」に疎んじられている存在でもないのだろう。ただ、一番鶏が鳴くと「それやっ、よがあけるぅ!」とあわてて帰っていくので、この鬼は、日の光とは相性が悪いようだが。
『宇治拾遺物語』にも「鬼に瘤取らるる事」(巻1-3)とあって、こちらでは「木のうつほ」で夜を明かしているところに、鬼が集まってくる、とある。
と、たいそうな人数(鬼数とでもいうべきか)である。しかも赤鬼は青い服を着て、黒い鬼は赤いふんどしをしており、一つ目入道にのっぺらぼう、と、鬼といってもずいぶんなバリエーションである。
だが、こちらの鬼たちも集まって酒を飲む。総勢百人の大宴会である。
「酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定なり」というのだから、鬼も人間も酒を飲む様子には変わりはないらしい。
という場面などは、末席の若いサラリーマンが上司の前に進み出て、何ごとか話すのを、上司の側はおちょこを左手に持って満足げに聞いている、というのとまったく同じようすである。宇治拾遺物語の語り手も「ただこの世の人のごとし」と言っているが、十三世紀ごろから人間がやっていることには変わりはないということか。
考えてみれば集まって飲めや歌えの大騒ぎをする鬼というのも、昔話は数あれど、めずらしい話なのではあるまいか。「この世の人のする定なり」「ただこの世の人のごとし」と作者が二回繰り返しているところを見ると、鬼だって意外に人間と変わりはないんだぞ、と、おもしろがっている気配が感じられて楽しい。
そこで鬼たちはひとりずつ舞を始める。うまい鬼もいれば下手な鬼もいる。そこで鬼のえらいさんが、「今宵の御遊びこそいつにもすぐれたれ。ただし、さも珍しからん奏でを
見ばや」、今晩の宴会も楽しいけど、何か珍しいものが見たいなあ、と言うのである。
宇治拾遺では舞とあって、なかなか高級そうなのだが、
『こぶじいさま』ではこんなおかしな歌を歌うのである。
そこで、おじいさん、隠れていたお堂から飛び出して
と続けて、踊りの輪のなかに飛び入り参加する。その歌も踊りもたいそうおもしろいので、鬼たちは大歓迎。みんなで踊り明かすのである。
なかなかノリのいいおじいさんだし、鬼たちもフレンドリーだ。みんなで楽しくカラオケをやっているところに、隣の部屋から飛び入りがやってきて、なんだ、こいつは、と思いつつも、歌はうまいし、一緒にいると盛り上がるし、で、ほろ酔い加減なのをいいことに、見ず知らずの人と一緒に大いに騒いでしまう、というところなんだろうか(そういう経験のある人、います?)
さて、太宰治は太宰版の「御伽草子」を書いているが、このなかの最初に出てくるのが「瘤取り」なのである。
宇治拾遺物語にも、福音館版の『こぶじいさま』も、この話がどこかは出てこないのだが、太宰は「このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである」と、勝手に四国に住まわせてしまうのである。
この太宰版の「瘤取り」がまたおもしろいので、明日はもうちょっと詳しく見てみよう。
(この項つづく)
たとえばあの有名な「こぶとりじいさん」だが、手元にある『こぶじいさま』(松居直再話 福音館)を見ると、山へ木を切りに行ったおじいさんが、日が暮れて帰れなくなって、「やまのかみさまのおどう」へ入って泊まることにする。すると夜中に山奥から鬼が出てくるのである。
わざわざ「山の神様のお堂」(これは神社と理解してよいのだろうか)の境内へやってきて、何をするかというと、お堂のまわりを囲んで、ぐるぐると踊るのである。鬼たちが一堂に会して踊りを踊るようなスペースは、山の中にはお堂のまわりぐらいしかなかったのだろうか、とも思うのだが、お堂があるということは、人が少なくともそこらまでは行き来するということで、鬼のエリアと人々の生活圏は、きわめて近かったということだろう。
しかも、この鬼たちは「山の神様のお堂」を囲んで、平気でさわいでいる。
たとえばこれがヨーロッパだと、ヴァンパイヤが教会の周りで集まって踊ったり騒いだりすることなど決してあり得ないわけで、そう考えると、「山の神様」に疎んじられている存在でもないのだろう。ただ、一番鶏が鳴くと「それやっ、よがあけるぅ!」とあわてて帰っていくので、この鬼は、日の光とは相性が悪いようだが。
『宇治拾遺物語』にも「鬼に瘤取らるる事」(巻1-3)とあって、こちらでは「木のうつほ」で夜を明かしているところに、鬼が集まってくる、とある。
赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集まりて、火を天の目のごとくにともして、我がゐたるうつほ木の前にゐまはりぬ。
と、たいそうな人数(鬼数とでもいうべきか)である。しかも赤鬼は青い服を着て、黒い鬼は赤いふんどしをしており、一つ目入道にのっぺらぼう、と、鬼といってもずいぶんなバリエーションである。
だが、こちらの鬼たちも集まって酒を飲む。総勢百人の大宴会である。
「酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定なり」というのだから、鬼も人間も酒を飲む様子には変わりはないらしい。
末より若き鬼一人立ちて、折敷をかざして、何といふにか、くどきくせせる事をいひて、横座の鬼の前に練り出でてくどくめり。横座の鬼盃を左の手に持ちて笑みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし
という場面などは、末席の若いサラリーマンが上司の前に進み出て、何ごとか話すのを、上司の側はおちょこを左手に持って満足げに聞いている、というのとまったく同じようすである。宇治拾遺物語の語り手も「ただこの世の人のごとし」と言っているが、十三世紀ごろから人間がやっていることには変わりはないということか。
考えてみれば集まって飲めや歌えの大騒ぎをする鬼というのも、昔話は数あれど、めずらしい話なのではあるまいか。「この世の人のする定なり」「ただこの世の人のごとし」と作者が二回繰り返しているところを見ると、鬼だって意外に人間と変わりはないんだぞ、と、おもしろがっている気配が感じられて楽しい。
そこで鬼たちはひとりずつ舞を始める。うまい鬼もいれば下手な鬼もいる。そこで鬼のえらいさんが、「今宵の御遊びこそいつにもすぐれたれ。ただし、さも珍しからん奏でを
見ばや」、今晩の宴会も楽しいけど、何か珍しいものが見たいなあ、と言うのである。
宇治拾遺では舞とあって、なかなか高級そうなのだが、
『こぶじいさま』ではこんなおかしな歌を歌うのである。
――くるみは ぱっぱ、ばあくづく、
おさなぎ、やぁつの、おっかぁかぁ、
ちゃぁるるぅ、すってんがぁ、
一ぼこ、二ぼこ、三ぼこ、四ぼこ……
そこで、おじいさん、隠れていたお堂から飛び出して
――おれも たして、五ぼこっ
と続けて、踊りの輪のなかに飛び入り参加する。その歌も踊りもたいそうおもしろいので、鬼たちは大歓迎。みんなで踊り明かすのである。
なかなかノリのいいおじいさんだし、鬼たちもフレンドリーだ。みんなで楽しくカラオケをやっているところに、隣の部屋から飛び入りがやってきて、なんだ、こいつは、と思いつつも、歌はうまいし、一緒にいると盛り上がるし、で、ほろ酔い加減なのをいいことに、見ず知らずの人と一緒に大いに騒いでしまう、というところなんだろうか(そういう経験のある人、います?)
さて、太宰治は太宰版の「御伽草子」を書いているが、このなかの最初に出てくるのが「瘤取り」なのである。
宇治拾遺物語にも、福音館版の『こぶじいさま』も、この話がどこかは出てこないのだが、太宰は「このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである」と、勝手に四国に住まわせてしまうのである。
この太宰版の「瘤取り」がまたおもしろいので、明日はもうちょっと詳しく見てみよう。
(この項つづく)