小学生の頃、友だちに対する最大の罵倒が「××病院へ行け」という言葉だった。その名前の病院は、内科や外科もある総合病院だが、なんといっても有名なのは精神科で、××病院といえば精神科と同義語だったのである。
わたしは言ったこともなければ言われたこともない、そんなことを口にするのはクラスのなかでも「悪ガキ」と目される男の子たちばかりで、それも先生に見つかったら大目玉を喰らうのはわかっているから、教室を出て、もっぱら帰り道で口に出されていたのではなかったか。
近くを通ったら、窓に鉄格子がはまっていたとか、叫び声が聞こえたなどとまことしやかに言う子もいたが、当時わたしは『楡家の人びと』を読んでいて、そういう話はむしろ興味深く、もっと教えてくれと水を向けると、ほんとうは何も知らなくて、がっかりしたものだった。
ちょうどそのころ、すぐ近所に精神状態の不安定な人がいた。夜、ガラス窓が割れる音が聞こえてきたり、怒号があがったり、泣き叫ぶ声が聞こえたてきたりした。いつもそうだったわけではなく、きちんとした格好でお勤めに出かけているときもあれば、髪をふりみだして家から裸足でものすごい勢いで飛び出してくるのに出くわすこともあった。子供もいたし、調子の良いときはふつうに近所づきあいもしていたので、町内の人も、痛ましい思いで見ていたのではないだろうか。そこの家だけ排斥するようなこともなく、何かの折りに家にも話しに来ていたこともある。その同じ人が、ときにどこを見ているのかすわった目をして歩き回り、ひっきりなしにしゃべっているのだが、言葉はまるで意味を結ばない姿になる。ふだんとはちがう姿は、子供の目には恐ろしく、胸がどきどきしたのだった。いつもあの人は、クラスの悪ガキが口にするあの病院へ行っているのだろうか、と考えたものだった。
それから四半世紀ほどが過ぎ、当時にくらべて「精神病院」という言葉のおどろおどろしさは、すっかり払拭されたように思う。身の回りにも、心療内科に行くよりは精神科に行った方がいいから、と言って、抗うつ剤か何かを飲んでいる人もいるのだが、その人の様子は、昔見た近所の人とはずいぶんちがう。病院の敷居が低くなるとともに、病気に対する偏見がなくなったのはいいことなのだろうが、その人がカバンから出すふくらんだ薬ぶくろを見たりすると、「不安を抑える薬」などが簡単に処方されることに、少し違和感を覚えてしまう。
さらに驚いたのは、自分の異常ぶりをお笑いのネタにする人がいる、という話を聞いたことだった。わたしは見たことがないので、それについては何も言うべきではないのだろうが、正直、そんなことをしていいのかな、と思ったのだった。風邪を引いた真似をして見せても問題にならないように、つじつまの合わない話をまくしたてても問題にはならないのか。
おそらくそれをやっている人は、精神状態に問題がないから、「芸」として成立するのだろう。TVで放映されているということが、逆にそれが「芸」であることを保証している、といってもいい。そうして視聴者は、気持ちのどこかで、こういうものを見てもいいのだろうか、ととまどいながら、TVで放映されているからこれは「芸」なのだ、と思いつつ、どこかで「ほんとうに「芸」なんだろうか」とも思うのだろう。
だが、わたしが感じた不快感はそこにあるのではない。
マジシャンが、これを見てください、と右手にカードを持って見せれば、それは左手で何かをしているということだ。注意を引くための仕草は、反対で何かをやっているサインだということを、わたしたちはみんな知っている。だから、左手に目を凝らす。左手に何かがあるはず、と思って。
奇妙な表情とつじつまの合わない話は「注意を引くため」の右手のカードだとわたしたちは思う。彼女は左手に何を持っているのだろう。何を隠しているのだろう。
だが、もしかしたら何も持っていないのかもしれないのだ。何も持っていない人間が、いかにも何かを持っているというふりをするために、わざと「注意を引くために押し出されたカード」をこれ見よがしに差し上げているのではないのか。
空っぽの手を偽って、いま左手で何かをやっているのだ、とわたしたちに思わせるためだけに。
注意を引くためにTVに出るような人はさまざまなことをやっているのだから、そのなかに精神を病んだ人の真似をする人が出てきてもいいのかもしれない。それを「お笑い」と称したければ、それもいいのかもしれない。
けれど、『徒然草』は一応読んでおいた方がいい。
精神を病んだ人の真似をしながら安定した精神状態であり続けるには(つまり、それを「芸」として維持できるには)おそらく尋常一様ではない精神の強さと鍛錬が必要なはずだ。その人がそこまでできる人なら良いのだけれど。
【※業務連絡】
明日から出かけます。
いま「鶏的思考的日常」のvol.23を書き直しているのですが、時間があったら、明日アップできるかもしれません。できないかもしれません(笑)。
月曜日に帰ってきますが、月曜日、ブログの更新ができるかどうか不明です。元気があったらすると思います。
出ているあいだは一時的にコメント欄は事前承認制にします。ご了承ください。
ということで、つぎは月曜日か、火曜日に。
どうかみなさまも良い週末をお過ごしください。
8/23付記
「鶏的思考的日常vol.23」更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
わたしは言ったこともなければ言われたこともない、そんなことを口にするのはクラスのなかでも「悪ガキ」と目される男の子たちばかりで、それも先生に見つかったら大目玉を喰らうのはわかっているから、教室を出て、もっぱら帰り道で口に出されていたのではなかったか。
近くを通ったら、窓に鉄格子がはまっていたとか、叫び声が聞こえたなどとまことしやかに言う子もいたが、当時わたしは『楡家の人びと』を読んでいて、そういう話はむしろ興味深く、もっと教えてくれと水を向けると、ほんとうは何も知らなくて、がっかりしたものだった。
ちょうどそのころ、すぐ近所に精神状態の不安定な人がいた。夜、ガラス窓が割れる音が聞こえてきたり、怒号があがったり、泣き叫ぶ声が聞こえたてきたりした。いつもそうだったわけではなく、きちんとした格好でお勤めに出かけているときもあれば、髪をふりみだして家から裸足でものすごい勢いで飛び出してくるのに出くわすこともあった。子供もいたし、調子の良いときはふつうに近所づきあいもしていたので、町内の人も、痛ましい思いで見ていたのではないだろうか。そこの家だけ排斥するようなこともなく、何かの折りに家にも話しに来ていたこともある。その同じ人が、ときにどこを見ているのかすわった目をして歩き回り、ひっきりなしにしゃべっているのだが、言葉はまるで意味を結ばない姿になる。ふだんとはちがう姿は、子供の目には恐ろしく、胸がどきどきしたのだった。いつもあの人は、クラスの悪ガキが口にするあの病院へ行っているのだろうか、と考えたものだった。
それから四半世紀ほどが過ぎ、当時にくらべて「精神病院」という言葉のおどろおどろしさは、すっかり払拭されたように思う。身の回りにも、心療内科に行くよりは精神科に行った方がいいから、と言って、抗うつ剤か何かを飲んでいる人もいるのだが、その人の様子は、昔見た近所の人とはずいぶんちがう。病院の敷居が低くなるとともに、病気に対する偏見がなくなったのはいいことなのだろうが、その人がカバンから出すふくらんだ薬ぶくろを見たりすると、「不安を抑える薬」などが簡単に処方されることに、少し違和感を覚えてしまう。
さらに驚いたのは、自分の異常ぶりをお笑いのネタにする人がいる、という話を聞いたことだった。わたしは見たことがないので、それについては何も言うべきではないのだろうが、正直、そんなことをしていいのかな、と思ったのだった。風邪を引いた真似をして見せても問題にならないように、つじつまの合わない話をまくしたてても問題にはならないのか。
おそらくそれをやっている人は、精神状態に問題がないから、「芸」として成立するのだろう。TVで放映されているということが、逆にそれが「芸」であることを保証している、といってもいい。そうして視聴者は、気持ちのどこかで、こういうものを見てもいいのだろうか、ととまどいながら、TVで放映されているからこれは「芸」なのだ、と思いつつ、どこかで「ほんとうに「芸」なんだろうか」とも思うのだろう。
だが、わたしが感じた不快感はそこにあるのではない。
マジシャンが、これを見てください、と右手にカードを持って見せれば、それは左手で何かをしているということだ。注意を引くための仕草は、反対で何かをやっているサインだということを、わたしたちはみんな知っている。だから、左手に目を凝らす。左手に何かがあるはず、と思って。
奇妙な表情とつじつまの合わない話は「注意を引くため」の右手のカードだとわたしたちは思う。彼女は左手に何を持っているのだろう。何を隠しているのだろう。
だが、もしかしたら何も持っていないのかもしれないのだ。何も持っていない人間が、いかにも何かを持っているというふりをするために、わざと「注意を引くために押し出されたカード」をこれ見よがしに差し上げているのではないのか。
空っぽの手を偽って、いま左手で何かをやっているのだ、とわたしたちに思わせるためだけに。
注意を引くためにTVに出るような人はさまざまなことをやっているのだから、そのなかに精神を病んだ人の真似をする人が出てきてもいいのかもしれない。それを「お笑い」と称したければ、それもいいのかもしれない。
けれど、『徒然草』は一応読んでおいた方がいい。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。(『徒然草 第八十五段』)
精神を病んだ人の真似をしながら安定した精神状態であり続けるには(つまり、それを「芸」として維持できるには)おそらく尋常一様ではない精神の強さと鍛錬が必要なはずだ。その人がそこまでできる人なら良いのだけれど。
【※業務連絡】
明日から出かけます。
いま「鶏的思考的日常」のvol.23を書き直しているのですが、時間があったら、明日アップできるかもしれません。できないかもしれません(笑)。
月曜日に帰ってきますが、月曜日、ブログの更新ができるかどうか不明です。元気があったらすると思います。
出ているあいだは一時的にコメント欄は事前承認制にします。ご了承ください。
ということで、つぎは月曜日か、火曜日に。
どうかみなさまも良い週末をお過ごしください。
8/23付記
「鶏的思考的日常vol.23」更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html