その2.
「そのとおりですな、ハモンドさん。だが、何かあったというわけではないのだと思いますよ――心配するようなことは何も」ゲイヴン氏は、パイプを靴のかかとに打ちつけながら言った。「それに……」
「まったくその通りですよ、まったくね!」ハモンド氏はさえぎった。「まったくもう不愉快この上ない!」せかせかと歩いていったかと思うと、またいままで自分が立っていた、スコット夫妻とゲイヴン氏の間に戻ってきた。「おまけにずいぶん暗くなってきたじゃありませんか」巻いた傘をふったが、その動作はまるで夕闇さえもこうやってみせれば少しは押し寄せるのを遠慮するかのようだった。だがあたりは水に落とした一滴の彩りが広がっていくように、ゆっくりと暗くなっていく。小さなジーン・スコットは母親の手を引っ張った。
「ママ、あたし、お茶が飲みたい」とぐずぐず言った。
「そりゃそうだ」ハモンド氏が引き取った。「ここにいらっしゃるご婦人方はみんな、お茶を所望しておられるにちがいない」その優しげで血色の良い、同情のこもったまなざしは、人びとをふたたび結びつけた。
ハモンド氏はジェニーがあっちの特別室で最後のお茶を飲んでいるだろうか、と考えた。そうだったらいい。だが、そうは思えなかった。ジェニーなら、デッキから離れようとしないだろう。もしその通りだったら、おそらくデッキの給仕係がお茶を持ってきてくれるはずだ。もしわたしが船にいるのであれば、自分で持っていってやるだろう――どうにかして。そうしてしばらくのあいだ、彼はデッキの人となっていた。妻の傍らに立ち、いつもそうしていたように、小さな手がカップを包んでいるのを見つめていた。船上で手に入れることのできた、たった一杯のお茶を……。だが、すぐに彼は岸に戻り、あのいまいましい船長が海の上でぐずぐずするのをいつになったらやめるのかは神のみぞ知るところとなった。彼はまた向きを変えると、行ったり来たりを始めた。そこから馬車の待機所まで歩いていって、お抱えの御者が行方をくらましていないことを確かめる。またひとまわりして、バナナの木箱の前で小さな人垣を作っている人びとのところへ戻っていった。小さなジーン・スコットが、まだ母親にお茶がほしいと言い続けていた。かわいそうな子供じゃないか! チョコレートを少しだけでも持っていれば良かった。
「こんにちは、ジーン」彼は声をかけた。「抱っこしてあげようか?」そうしてたやすく、そっと小さな女の子を抱き上げると、高くなっている樽の上にのせた。ジーンを抱き上げ、なだめてやったことで、彼自身の気持ちがずいぶん慰められ、心も軽くなっていた。
「離すんじゃないよ」そう言って、女の子の体に腕を回してやる。
「あらあら、ジーンのことはお気遣いなく、ハモンドさん」スコットの奥さんが言った。
「大丈夫ですよ、スコットさん。なんでもありません。わたしの好きでやっていることなんですから。ジーンはわたしのちっちゃなお友だちなんです、そうだろ、ジーン?」
「ええ、そうよね、ハモンドさん」ジーンはそう言うと、彼のフェルトの帽子のくぼみに指を走らせた。
だが、突然、ジーンはハモンド氏の耳を引っ張って、悲鳴をあげた。「見てよ、見て、ったら。ハモンドさん! お船が動いてるわ!。ああ、入ってくる!」
ほんとうにそうだった。その通り、ついに、だ。船はゆっくりゆっくり方向転換している。銅鑼が波の向こうから聞こえ、蒸気の大きなかたまりが吹き出されるのが見えた。カモメが一斉に飛び立つ。カモメたちは白い紙切れのようにはためいた。深い、ドクンドクンと鳴る音が、エンジンなのか自分の心臓なのか、ハモンド氏にはよくわからなかった。どちらであるにせよ、それをこらえるためには自分を励まさなければならないのには代わりはなかったが。ちょうどそのとき、港長のジョンソン船長が、革の折りカバンを小脇に抱え、大股で埠頭にやってきた。
「ジーンのことはどうかお構いなく」スコット氏が言った。「わたしが娘をつかまえておきますから」父親はかろうじて間に合った。ハモンド氏はジーンのことなど忘れてしまい、ジョンソン船長の方にぱっと駆けだしていたのだった。
(この項つづく)
「そのとおりですな、ハモンドさん。だが、何かあったというわけではないのだと思いますよ――心配するようなことは何も」ゲイヴン氏は、パイプを靴のかかとに打ちつけながら言った。「それに……」
「まったくその通りですよ、まったくね!」ハモンド氏はさえぎった。「まったくもう不愉快この上ない!」せかせかと歩いていったかと思うと、またいままで自分が立っていた、スコット夫妻とゲイヴン氏の間に戻ってきた。「おまけにずいぶん暗くなってきたじゃありませんか」巻いた傘をふったが、その動作はまるで夕闇さえもこうやってみせれば少しは押し寄せるのを遠慮するかのようだった。だがあたりは水に落とした一滴の彩りが広がっていくように、ゆっくりと暗くなっていく。小さなジーン・スコットは母親の手を引っ張った。
「ママ、あたし、お茶が飲みたい」とぐずぐず言った。
「そりゃそうだ」ハモンド氏が引き取った。「ここにいらっしゃるご婦人方はみんな、お茶を所望しておられるにちがいない」その優しげで血色の良い、同情のこもったまなざしは、人びとをふたたび結びつけた。
ハモンド氏はジェニーがあっちの特別室で最後のお茶を飲んでいるだろうか、と考えた。そうだったらいい。だが、そうは思えなかった。ジェニーなら、デッキから離れようとしないだろう。もしその通りだったら、おそらくデッキの給仕係がお茶を持ってきてくれるはずだ。もしわたしが船にいるのであれば、自分で持っていってやるだろう――どうにかして。そうしてしばらくのあいだ、彼はデッキの人となっていた。妻の傍らに立ち、いつもそうしていたように、小さな手がカップを包んでいるのを見つめていた。船上で手に入れることのできた、たった一杯のお茶を……。だが、すぐに彼は岸に戻り、あのいまいましい船長が海の上でぐずぐずするのをいつになったらやめるのかは神のみぞ知るところとなった。彼はまた向きを変えると、行ったり来たりを始めた。そこから馬車の待機所まで歩いていって、お抱えの御者が行方をくらましていないことを確かめる。またひとまわりして、バナナの木箱の前で小さな人垣を作っている人びとのところへ戻っていった。小さなジーン・スコットが、まだ母親にお茶がほしいと言い続けていた。かわいそうな子供じゃないか! チョコレートを少しだけでも持っていれば良かった。
「こんにちは、ジーン」彼は声をかけた。「抱っこしてあげようか?」そうしてたやすく、そっと小さな女の子を抱き上げると、高くなっている樽の上にのせた。ジーンを抱き上げ、なだめてやったことで、彼自身の気持ちがずいぶん慰められ、心も軽くなっていた。
「離すんじゃないよ」そう言って、女の子の体に腕を回してやる。
「あらあら、ジーンのことはお気遣いなく、ハモンドさん」スコットの奥さんが言った。
「大丈夫ですよ、スコットさん。なんでもありません。わたしの好きでやっていることなんですから。ジーンはわたしのちっちゃなお友だちなんです、そうだろ、ジーン?」
「ええ、そうよね、ハモンドさん」ジーンはそう言うと、彼のフェルトの帽子のくぼみに指を走らせた。
だが、突然、ジーンはハモンド氏の耳を引っ張って、悲鳴をあげた。「見てよ、見て、ったら。ハモンドさん! お船が動いてるわ!。ああ、入ってくる!」
ほんとうにそうだった。その通り、ついに、だ。船はゆっくりゆっくり方向転換している。銅鑼が波の向こうから聞こえ、蒸気の大きなかたまりが吹き出されるのが見えた。カモメが一斉に飛び立つ。カモメたちは白い紙切れのようにはためいた。深い、ドクンドクンと鳴る音が、エンジンなのか自分の心臓なのか、ハモンド氏にはよくわからなかった。どちらであるにせよ、それをこらえるためには自分を励まさなければならないのには代わりはなかったが。ちょうどそのとき、港長のジョンソン船長が、革の折りカバンを小脇に抱え、大股で埠頭にやってきた。
「ジーンのことはどうかお構いなく」スコット氏が言った。「わたしが娘をつかまえておきますから」父親はかろうじて間に合った。ハモンド氏はジーンのことなど忘れてしまい、ジョンソン船長の方にぱっと駆けだしていたのだった。
(この項つづく)