陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

英語の早期教育って必要なんだろうか

2008-08-17 23:25:46 | weblog
先日、小学生を英語を習いに行かせようと思うのだが、どこかいいところを知らないか、という相談を受けた。いまとなってはつながりも切れてしまって、どこかの情報を知っているわけでもない。小学生になると見当もつかない、と断っておいた上で、あとは雑談のように相手の話、ここでは仮にAさんとしよう、Aさんの話を聞いたのだった。

Aさんの主張をまとめると、彼女は中学、高校、大学受験と英語で苦労したから、子供にはそんな思いをさせたくない、と言うのである。
だが英会話教室へ何歳から行ったところで、受験英語にはそれほど役には立たないだろう。受験のことを考えるなら、塾なりなんなりへ行って、それ用の勉強をしたほうが効率がいいのではあるまいか、とわたしは言った。

ところがそういうことはAさん自身も理解しているようだった。受験勉強をどれだけしても、話せるようにはなれないでしょう、と。子供にはしゃべれるようになってほしいという。

だったらAさんが英語を習いに行けばいいじゃないですか、とわたしは聞いた。ところがAさん、わたしはそんなことしたくない、という。いまさらそんな必要はないから。

必要がないのは、子供だって一緒じゃないですか。リンゴを apple といかにも英語風の発音ができたところで、それが「しゃべれる」にはほど遠いし、駅までの想定問答を覚えたところで、必要がなければ何の役にも立たないんじゃないですか。

そもそも話すべき相手も、話したい内容もないところで、いったい何を話すことを期待しているのかわたしにはとんとわからないのだが、Aさんにはどうもそこのところがわかってもらえない。しょうがないので、あまり大手ではない、個人でやっている先生のところを電話帳で探して、あちこち行ってみて、日本語でちゃんと説明してくれる、信頼できそうな先生のところへ行くのがいいのではないか、と、ごく一般的なことを言うことになってしまったのだった。

わたしが不思議だったのは、Aさんが、自分ではやりたくないことを、子供にさせようとしていることだった。確かに親は子供の面倒を見る責任がある。だが、人間には親という以外の側面だってあると思うのだ。自分のために「教育費」を使うことはできないと考えるのであれば、ラジオの語学講座や放送大学という手段もある。学ぶというのは、なにも学齢期にある子供の専売特許ではない。英語を話せるようになりたいのは、少なくとも子供の意志ではないのだろう。そうであれば、子供にさせるより前に自分が学んだ方がよくはないのだろうか。

そこで言っている「英会話」というのは、「英語ぐらいしゃべれなきゃ」という程度の認識しかないのだろう。だが、「英語をしゃべる」というのが、いったい何を指しているのか、わたしにはどうにもよくわからないのである。そうして、そう言っている人自身が、深く考えることなく、そう言っているような気がするのだ。

少なくとも、読めた方がいい、というのならよくわかる。
いまはインストールする際の同意書も日本語で書いてあるものが多くなったが、それでも英語しかない場合も少なからずある。英語が読めれば、アメリカやイギリスのおもしろそうなサイトも読むことができる。洋楽でメロディが気に入って、それが何を歌ったものなのかも、自分が着ているTシャツに何が書いてあるかを読むこともできる(このあいだ、「げろが出そう! わたしから離れて!」と書いたTシャツを着ている女の子を見た。なんでそういうTシャツを作るんだろう。デザイナーの悪意しか感じられない)。

けれど、それなら学校でやる英語の範囲で十分カバーできるんじゃないだろうか。


「見知らぬ人々」、少しだけ手直ししています。
更新情報も書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html