陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その3.

2008-08-07 23:10:15 | 翻訳
その3.

「さても船長」いらいらと熱のこもった声がふたたび響き渡った。「とうとうわれわれに慈悲をたれる気持ちになってくださったか」

「わたしの責任じゃありませんよ、ハモンドさん」老船長は定期便にじっと目をやって、ぜいぜいと喉を鳴らした。、「奥方が乗っておられるんでしたな?」

「そうだよ、そうなんだ」ハモンド氏はそう言うと、船長の隣りに並んだ。「ハモンド夫人があそこにいるのだ。おーい、もうそんなにかからないからな!」

 電話のベルのような音とともに、スクリューの回転音の響きであたりを満たしながら、大きな定期船が人びとの方へ迫ってきた。舳先は暗い色の水を切り裂き、大きな波頭が、白いかんなくずのように丸まっていく。ハモンドと港長は人びとの先頭に立っていた。ハモンドは帽子を取った。いくつものデッキに目を走らせる――どこにも乗船客でごった返していた。帽子を振り、大きな、奇妙な声をあげて「おーい!」と波の向こうを呼んだ。それからくるりと振り返ると、はじけるように大声で笑い、老船長のジョンソンに向かって何ごとか――ほとんど意味のないようなことを――話しかけたのだった。

「奥さんは見つかりましたか」港長はたずねた。
「いや、まだ……。あ、そのまま――もうちょっと!」そこで急にふたりの不格好な大男のあいだに――「そこをどけよ!」傘で合図を送った――手が上がるのが見えた――白い手袋をはめた手が、ハンカチを振っている。つぎの瞬間――おお、ありがたい、神様――そこに妻がいた。ジェニーだ。そこにハモンド夫人がいた。そうだ、まちがいない。――手すりのそばに立って、ほほえみながらうなずき、ハンカチを振っていた。

「ああ、あれは一等のデッキだな――、一等だ。よしよし」彼はことさらに足を踏みならした。それから稲妻のようにすばやく、老船長に葉巻のケースを差し出した。「葉巻を取って置いてくれたまえ。ものはいいぞ。二本取っておけよ。さあ」――そうしてケースのなかに残った葉巻を全部船長に押しつけた。「ホテルに帰ればまだふた箱あるのだから」

「そりゃどうも、ハモンドさん」老船長はぜいぜい言いながらそれだけ言った、

 ハモンド氏は葉巻ケースを戻した。手がふるえているが、ふたたび自分を取り戻していた。ジェニーの顔が見える。手すりにもたれ。どこかの女性と話しながら、それでいて、いつでも夫の腕に飛び込んでいけるとでもいうように、彼から目を離さなかった。彼が衝撃を受けたのは、船と岸の距離が徐々に狭まってきたせいで、巨大な船にくらべて妻がいかにも小さく見えることだった。胸は早鐘を打ち、叫びだしたかった。なんと小さく見えるのだろう。あの長い道中をたったひとりで帰ってきたというのに! いかにもあれらしい、ジェニーらしいことだ。あれにはそんな勇気がある――そのとき船員たちが前に出てきて、乗船客を押しやった。船員は手すりをおろして舷門の用意をした。

(この項つづく)