陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アーネスト・ヘミングウェイ「白い象のような山並み」前編

2007-06-09 21:21:09 | 翻訳
今日から二回に分けてアーネスト・ヘミングウェイの「白い象のような山並み」( Hills Like White Elephants )を訳していきます。
原文は
http://web.ics.purdue.edu/~conreys/101files/Otherfolders/Hillslikewhitepg.html
で読むことができます。

今日はその前編。
すごく短いので、明日まとめて読みに来てください(笑)。


* * *

「白い象のような山並み」( Hills Like White Elephants )

 By Ernest Hemingway


 エブロ峡谷の向こうに続く山並みは白かった。こちら側は陰もなく、木々もなく、二本の線路に挟まれた駅が日にさらされていた。駅の横手に、建物とすだれの濃い影が伸びている。このすだれは竹でできた玉を連ねたもので、酒場の開け放した戸口に、蠅よけのためにぶらさがっていた。アメリカ人と連れの娘が、建物の外、日陰になったテーブルにいた。ひどく暑い日で、バルセロナ発の急行が到着するまで四十分ほどあった。急行はこの乗換駅で二分停車し、マドリードに向けて発つ。

「わたしたち、何を飲むの?」娘が聞いた。帽子を脱いでテーブルに置いた。

「ひどい暑さだな」男は言った。

「ビールにしない?」

" Dos cervezas.(ドス セルヴェッサス=ビール二本)"男はすだれの奧に向かって言った。

「大きい方で?」戸口の奧から女の声がした。

「そうだ、大きい方だ」

 女がビールを入れたグラスふたつとフェルトのコースターを二枚持ってきた。テーブルの上にコースターを敷き、グラスをのせると、男と娘を見た。娘は目をそらして山並みの方を見やった。山並みは日差しを浴びて白く、地上は褐色で乾いていた。

「山が白い象みたい」娘が言った。

「白い象なんて見たことがないな」男はビールを飲んだ。

「そうね、なかったと思うわ」

「いや、見たことがあるかもしれないぞ。君がいくらそう言っても何の証明にもならない」

 娘はすだれを見た。「何か書いてある。なんて書いてあるの?」

「アニス・デル・トロ。酒だ」

「飲んでみない?」

男は「すまない」とすだれの奧に向かって声をかけた。女がバーから出てきた。

「四レアルになります」

「いや。アニス・デル・トロを二杯頼むよ」

「水割りで?」

「水割りにする?」

「わからないわ」娘が言った。「水割りのほうがおいしいの?」

「なかなかいけるよ」

「じゃ、水割りにしていいんですね?」女が聞いた。

「よし、割ってくれ」

「リコリスみたいな味がするわ」娘はそう言うとグラスを置いた。

「まあなんだってそうしたもんさ」

「そうね。何もかもリコリスの味がするわね。とくにあなたがずっとほしがってたものはどれも。アブサンみたいに」

「よせよ」

「あなたが言い出したのよ。せっかくいい気分だったのに。楽しかったのに」

「わかった。じゃ、もう一回、楽しくやろう」

「ええ、いいわ。わたしだってそうしようとしてたんだもの。さっき山並みが白い象みたい、って言ったでしょ。悪くない言い方だと思わない?」

「ああ、悪くない」

「この初めてのお酒も試してみた。わたしたちがしてることってそれだけなんですもの――いろんなものを見て、飲んだことのないお酒を飲んで」

「そうかもしれない」

 娘は遠い山並みを見た。

「きれいねえ」娘が言った。「ほんとは白い象みたいには見えないわよね。木立ち越しに見た白い象の肌みたい、って言いたかったの」

「もう一杯、どう?」

「ええ、そうしましょう」

 生暖かな風が吹きつけ、すだれがテーブルをかすめた。

「このビールはうまいしよく冷えてる」男は言った。

「そうね、おいしい」娘は言った。

「ほんとに、ひどくあっけない手術なんだよ、ジグ」男が言った。「手術とさえ言えないぐらいのものだ」

 娘は地面に目を落として、テーブルの脚を見ていた。

「君だって、気にしてるわけじゃないだろ、ジグ。なんでもないことなんだよ。ちょっと空気を入れるだけさ」

 娘は何も言わなかった。

「一緒に行って、ずっとそばについててやるよ。ちょっと空気を入れて、それでなにもかも完全にもとどおりさ」

「それでどうなるの、わたしたち」

「これからずっとうまくいくさ。前みたいに」

「なんでそんなふうに思えるの?」

「だってほかには何も問題はないだろう? おれたちが困ったことになってるのは、たったひとつ、そのせいなんだから」

 娘はすだれに目を遣ると、手を伸ばして、そのうちの二本を手に取った。

「で、あなたはわたしたちがこれからも大丈夫で、幸せになれるって思ってるのね」

「わかってるんだよ、幸せになれるって。心配することは何もない。それをやった人はたくさん知ってるんだ」

「わたしだって知ってるわ」娘が言った。「それに、そのあとはみんなとっても幸せになった」

「まあ」男が言った。「いやだったら無理をすることはないんだ。君が望んでもないのにそうしろって言ってるわけじゃない。だけど、ごく簡単なことなんだ」

「で、あなたはそうしてほしいのよね?」

(以下後半へ)


-----

「ディル・ピクルス」更新記録と一緒にサイトにアップしています。
いまライブドアのほうが重いので、サーバーのほうに確認をお願いしているのですが、ミラーのほうが見やすいかもしれません。
またお暇なときにでものぞいてみてください。
http://www.freewebs.com/walkinon/


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
年代 (NONNON)
2007-06-22 22:30:45
初めてこの短編を読んだのは20代の頃でした。
あの頃はいまひとつ、この女性の気持ちがわからなかったんです。

ただ単に授業でつかうテキストとしてしか
とらえなかったせいもあると思います。

40代の今・・・とらえかたというか、受け止めかたって
違ってきますね。

>ちょっと空気を入れて、
すごく生々しく感じられますね。
「ちょっとじゃないわよ!」と叫びたくなります。

30代の頃、「子供のいる人生」か「子供のいない人生」かの狭間にいた時期があったので。
その頃の葛藤と重なります・・・




返信する
本とともに歩いていく (陰陽師)
2007-06-23 08:25:03
NONNONさん、おはようございます。

この「堕胎」という問題はすごく複雑なさまざまな要素があって、わたしもうまく扱えないんですが。

それでもね、この会話に限定してしまえば、たとえば扁桃の除去手術を前に恐がっている子がいるとします。あれだって全身麻酔の手術ですから、考えてみればずいぶん恐いものです。
その子供に対してお父さんが「ちょっと口を開けて、パチンと切るだけだよ」みたいに言うとする。
安心させようとして、わざと軽く言う。
そういう内容の言葉だろうと思うのです。

考えてみれば、手術というのは何にせよ恐いものです。
それでも、わたしたちが受け入れるのは、選択の余地がないから。元気になろうと思ったら、悪いところを取り除くしかない、と受け入れる。

ただ、堕胎の場合は選択がこちらに委ねられている。百パーセント、自分が考えて、結論を出さなくてはならないわけです。
途方もなく大きな選択。
だからここに葛藤があるし、ドラマが生まれる素地がある。

一般的に、「産む」ことはハッピーエンド、みたいな見方があります。
マドンナの《パパ・ドント・プリーチ》にはこんなヴィデオがある。
http://www.youtube.com/watch?v=-fkCIUzTZlY

このように、悩んで、産むことを選択して、困難を引きうければハッピーエンド、というストーリーはよくあります(マドンナ自身は自分の中絶経験を明らかにしています。確かどこかでこの歌詞を最初に見せられたとき、批判的な見方をしたように書いてあった記憶もあります)。

だけど、それはあまりに問題を単純化しすぎている。

『誘う女』という映画の方はわたしは見たことがないんですが、その原作でもあるジョイス・メイナードの『誘惑』(実際の事件をもとに、裁判を傍聴しながら書いた、とメイナードは別のところで言っています)では、これをひっくり返しています。
主人公である女性に誘惑されて、彼女の夫を殺すことになる高校生のお母さんは、貧しいシングルマザーで、彼を産むかどうするか、葛藤するわけです。
草野球を見ている。全体のお荷物になっている男の子がバッターボックスに立つ。すると、その子が奇跡のようにヒットを打つ。そこで出産を決断して産んで、このざまよ、という脈絡でこのエピソードが出てくるのです。

先はどうなるかわからない。
それが良いことか悪いことか、なんていうことはわたしには言えません。

なんにせよ、自分が引きうけなければならない責任を十分に考えて、決断をすること。
そうして、その決断の主体は当事者であること。
これ以上のことをわたしには言えません。

だけど、ほんとにこの短編は真ん中にウスバカゲロウの幼虫が隠れているアリジゴクみたいな短編ですよね。景色とか、会話とか、描写とか、ほかのものを見ようとしても、どうしてもその「隠れているもの」に吸いこまれてしまう。
やっぱりすごい短編だと思います。

書きこみ、ありがとうございました。
どんな経験も、いまのその人を作っているという意味で、かけがえのないものなのだと思います。

> あの頃はいまひとつ、この女性の気持ちがわからなかったんです。

わかった、と思うのも、「単に授業でつかうテキスト」を越えるものとなったということは、NONNONさんご自身が、この作品を元に「自分の物語」を織り上げたのだと思います。
この織物は年代によって、また少しずつ色合いや模様を変えていくのだと。
そんなふうに思うと、これから先も本を読み返すことが楽しみになってきますよね。
それはとりもなおさず本を鏡にして、自分を知っていくということにもなる。
自分はどんな物語を織っていくんだろう。
これから先、自分の物語はどんなふうになっていくんだろう、って。

お話を聞かせてくださってありがとうございました。
返信する

コメントを投稿