In a Station of the Metro ――Ezra Pound
地下鉄の駅で ――エズラ・パウンド
The apparition of these faces in the crowd;
ひとごみのなか、つとあらわれたいくつもの顔――
Petals on a wet, black bough.
黒く濡れた大枝にはりついた幾枚もの花びら。
***
エズラ・パウンド『地下鉄の駅で』の全文である。
まず、著者自身が書いたコメントを引用してみよう。
これは俳句を意識して作られた詩なのである(シラブル数も5・7・6となっている)。
まず"apparition"、思いがけなく現れる人やものを指す。訳によっては「現れた幻影」などとする場合もあるだろう。
二連目のイメージは、非常に日本人にもとらえやすい。黒い大きな枝にはりついているのは、白い、小さな花びら、そう、おそらく桜だろう。
地下鉄からどっと吐き出されてきた人波と、黒い枝にはりついた桜の花びら。
これは対比させているのだろうか、それとも同一視しているのだろうか。
パウンド自身が書いた文章を読むと、同一視、というより、パラレルなイメージをさがしもとめて花びらに行き着いたことがわかる。
人波から、花びらを連想する。
わたしたちはパウンドによって、新しい世界の切り取り方を見せてもらったのだ。
鮮烈なイメージは、いつまでも心に残る。
地下鉄の駅で ――エズラ・パウンド
The apparition of these faces in the crowd;
ひとごみのなか、つとあらわれたいくつもの顔――
Petals on a wet, black bough.
黒く濡れた大枝にはりついた幾枚もの花びら。
***
エズラ・パウンド『地下鉄の駅で』の全文である。
まず、著者自身が書いたコメントを引用してみよう。
三年前(1911年)のパリ、わたしはコンコルド駅で地下鉄を降りた。すると突然、美しい顔が目に入った。それからもうひとつ、またひとつ、そして美しい子どもの顔、さらに美しい女性が。その日、一日中、わたしにとってどういう意味だったのかを表す単語を見つけようとした。けれども意味のある単語、突然湧き上がった感情にふさわしい美しい単語はひとつも見つけることができなかった。その夜、レヌアール通りを歩いて家に帰ったわたしは、まだ探しつづけていた。そして、突然表現を見つけたのだ。単語を見つけたのではなく、単語に代わるもの(equation)が浮かび上がってきたのである。それはことばではなく、色の斑点だった。ちょうど「模様」のような、だがもし「模様」ということばがなんらかの「繰り返し」を意味するのなら、模様とさえ呼べない。けれどもそれはたしかにことばだった。わたしにとって、色によることばの始まりだったのだ。……わたしは三十行の詩を書いたが破ってしまった。それがいわゆる「二次的」な強さしか持たない作品だったからである。六ヶ月後、その半分の長さの詩を書いた。一年後、『地下鉄の駅で』という発句のような文章を作った。あえて言ってしまえば、これはある種の思考の流れに乗っていかなければ意味はない。こうした種類の詩では、外部の客観的なものが、内部の主観的なものへと変形していく、あるいは矢のように移って行くまさにその瞬間を記録しようとするものなのだ。
(Ezra Pound, Lea Baechler, A. Walton Litz "Personae: The Shorter Poems of Ezra Pound")
これは俳句を意識して作られた詩なのである(シラブル数も5・7・6となっている)。
まず"apparition"、思いがけなく現れる人やものを指す。訳によっては「現れた幻影」などとする場合もあるだろう。
二連目のイメージは、非常に日本人にもとらえやすい。黒い大きな枝にはりついているのは、白い、小さな花びら、そう、おそらく桜だろう。
地下鉄からどっと吐き出されてきた人波と、黒い枝にはりついた桜の花びら。
これは対比させているのだろうか、それとも同一視しているのだろうか。
パウンド自身が書いた文章を読むと、同一視、というより、パラレルなイメージをさがしもとめて花びらに行き着いたことがわかる。
人波から、花びらを連想する。
わたしたちはパウンドによって、新しい世界の切り取り方を見せてもらったのだ。
鮮烈なイメージは、いつまでも心に残る。
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