イギリス娘は薄い青の水着姿のまま、青年の椅子のすぐうしろに立っている。ただそこにいるだけ、声をかけるでもなかった。青年も静かに腰を下ろし、右手にライターをにぎったまま、じっと肉切り包丁に眼をやっていた。小さな男は私から目を離さない。
「始めていいかね」私は青年にたずねた。
「いいですよ」
「あなたは?」小さな男にも聞いてみた。
「準備、オーケーですよ」そういうと、肉切り包丁を宙にふりあげ、青年の小指の真上50センチのところで留めると、いつでも切り落とすことができるように待ちかまえた。青年はそれをじっと見てはいたけれど、ひるむようすもなく、唇が動く気配もない。いったんあがった眉が、かすかにしかめられただけだった。
「いいでしょう」私はいった。「始めてください」
「ぼくがつけた回数を、声に出してカウントしてもらえませんか」
「わかったよ。そうしよう」
親指でライターのふたを押し上げ、その指をこんどはやすりの部分にのせて、いきおいよく回した。ライターの石は火花を散らし、火ざらに火がともったかと思うと、小さな黄色い炎があがった。
「一回!」私がコールする。
青年は吹き消さずにふたをかぶせると、そのまま五秒ほど待って、ふたたび開けた。
やすりを強くこすると、ふたたび芯から小さな炎が立ち上った。
「二回!」
ほかに声を出す者はいなかった。青年はじっとライターを見据えたままだ。小さな男も肉切り包丁をかまえたまま、ライターから片時も眼を離さない
「三回!」
「四回!」
「五回!」
「六回!」
「七回!」確かにこのライターはよくできたものにちがいなかった。シュッとこすると大きな火花が飛ぶし、芯の長さもちょうどいい。私は青年の親指が、ふたのてっぺんにかかって、カチンと炎の上にかぶさるのを見た。しばらく間があく。それから親指がふたたびふたを持ち上げた。すべてが親指だけの動作である。親指がなんでもやってのけている。私は息を吸いこんで、八回、というのに備えた。親指がやすりをこする。火花が散る。ぼっ、と小さな炎があがる。
「八回!」私がコールしたそのとき、ドアの開く音が聞こえた。いっせいにふりかえった先、入り口には女性が立っていた。小柄で黒髪、年配の女性は、そこに二秒ほど立ちつくしたあと、大声でわめきながら部屋のなかにすごい勢いで入ってきた。「カルロス! カルロス!」男の手首をつかまえると、肉切り包丁をもぎ取ってベッドに投げ捨てた。小柄な男の白いスーツの襟の折り返しを両手でつかみ、はげしくゆさぶりながら鋭い語調で早口にまくしたてるが、その言葉はずっとスペイン語のように思えた。女があまり激しくゆさぶるので、男の姿がはっきりしない。おぼろげに、霞のように、その輪郭だけがガクガクと揺れている。ちょうど回転する車輪のスポークのように。
やがて女の動きが鈍くなると、小男の姿はまたはっきりとしてきた。その男を部屋の向こうまで引きずっていくと、ベッドに押しつけた。端に腰をのせて、眼をパチパチさせながら、首が回るかどうか、頭を動かして確かめている。
「申しわけございません」と女が言った。「こんなことをしてしまってほんとうにごめんなさい」その英語は、ほとんど文句のつけようがない。
「あまりにひどいことです。ほんとうにわたしがうかつでした。ほんの十分、夫をひとりにしてしまったのです。髪を洗いにいって、戻ってきたら、また悪い癖をだしてしまって」
青年は自分の手をテーブルに縛りつけている紐をほどいている。イギリス娘とわたしはそこに黙ったまま立っていた
「ほんとうにこまった人です。わたしたちが暮らしていたのは南方の国だったのですが、そこで夫は指を四十七本、四十七人の人から取り上げたのです。かわりに車も十一台、失いましたが。そのあげく、収監するぞと脅されました。だからわたしがここへ連れてきたのです」
「私たち、チョト、賭け、しただけでしたのに」小男はベッドにすわったまま、不平がましく言った。
「あのひとは車を賭けたんでしょう」女が言った。
「そうです」青年が答えた。「キャデラックを」
「車なんて、あのひとは持っていませんのよ。あれはわたしのものなんです。だからいっそうひどいことですわね。賭けるものを何も持っていないのに、あなたと賭けをするなんて。ほんとうに恥ずかしいことですし、何もかも、申し訳なく思っています」この女性はなかなかしっかりした女性のようだった。
「さて」私は口を挟んだ。「あなたの車のキイです」そう言って鍵をテーブルに置く。
「チョト、賭けただけね」小男はまだぶつぶつ言っていた。
「あのひとはもう賭けられるようなものは何も持っていないのです。ほんとうになにひとつ、持っていないのですから。どんなちっぽけなものだって。実をいうと、わたしが勝って、なにもかもあのひとから取り上げたのです、ずいぶん長い時間をかけて。ええ、時間がかかりました。それはそれは長い時間が。つらい務めでした。けれど、わたしはとうとう全部取り上げたのです」青年を見上げた女の顔には笑みが浮かんでいた。どこか鈍い、悲しそうでもある笑みだった。女はこちらにやってくると、テーブルからキイを取ろうとして、片手を伸ばした。
いまでもその手が浮かんでくる。彼女の手、たった一本の指と、親指しか残っていないその手が。
「始めていいかね」私は青年にたずねた。
「いいですよ」
「あなたは?」小さな男にも聞いてみた。
「準備、オーケーですよ」そういうと、肉切り包丁を宙にふりあげ、青年の小指の真上50センチのところで留めると、いつでも切り落とすことができるように待ちかまえた。青年はそれをじっと見てはいたけれど、ひるむようすもなく、唇が動く気配もない。いったんあがった眉が、かすかにしかめられただけだった。
「いいでしょう」私はいった。「始めてください」
「ぼくがつけた回数を、声に出してカウントしてもらえませんか」
「わかったよ。そうしよう」
親指でライターのふたを押し上げ、その指をこんどはやすりの部分にのせて、いきおいよく回した。ライターの石は火花を散らし、火ざらに火がともったかと思うと、小さな黄色い炎があがった。
「一回!」私がコールする。
青年は吹き消さずにふたをかぶせると、そのまま五秒ほど待って、ふたたび開けた。
やすりを強くこすると、ふたたび芯から小さな炎が立ち上った。
「二回!」
ほかに声を出す者はいなかった。青年はじっとライターを見据えたままだ。小さな男も肉切り包丁をかまえたまま、ライターから片時も眼を離さない
「三回!」
「四回!」
「五回!」
「六回!」
「七回!」確かにこのライターはよくできたものにちがいなかった。シュッとこすると大きな火花が飛ぶし、芯の長さもちょうどいい。私は青年の親指が、ふたのてっぺんにかかって、カチンと炎の上にかぶさるのを見た。しばらく間があく。それから親指がふたたびふたを持ち上げた。すべてが親指だけの動作である。親指がなんでもやってのけている。私は息を吸いこんで、八回、というのに備えた。親指がやすりをこする。火花が散る。ぼっ、と小さな炎があがる。
「八回!」私がコールしたそのとき、ドアの開く音が聞こえた。いっせいにふりかえった先、入り口には女性が立っていた。小柄で黒髪、年配の女性は、そこに二秒ほど立ちつくしたあと、大声でわめきながら部屋のなかにすごい勢いで入ってきた。「カルロス! カルロス!」男の手首をつかまえると、肉切り包丁をもぎ取ってベッドに投げ捨てた。小柄な男の白いスーツの襟の折り返しを両手でつかみ、はげしくゆさぶりながら鋭い語調で早口にまくしたてるが、その言葉はずっとスペイン語のように思えた。女があまり激しくゆさぶるので、男の姿がはっきりしない。おぼろげに、霞のように、その輪郭だけがガクガクと揺れている。ちょうど回転する車輪のスポークのように。
やがて女の動きが鈍くなると、小男の姿はまたはっきりとしてきた。その男を部屋の向こうまで引きずっていくと、ベッドに押しつけた。端に腰をのせて、眼をパチパチさせながら、首が回るかどうか、頭を動かして確かめている。
「申しわけございません」と女が言った。「こんなことをしてしまってほんとうにごめんなさい」その英語は、ほとんど文句のつけようがない。
「あまりにひどいことです。ほんとうにわたしがうかつでした。ほんの十分、夫をひとりにしてしまったのです。髪を洗いにいって、戻ってきたら、また悪い癖をだしてしまって」
青年は自分の手をテーブルに縛りつけている紐をほどいている。イギリス娘とわたしはそこに黙ったまま立っていた
「ほんとうにこまった人です。わたしたちが暮らしていたのは南方の国だったのですが、そこで夫は指を四十七本、四十七人の人から取り上げたのです。かわりに車も十一台、失いましたが。そのあげく、収監するぞと脅されました。だからわたしがここへ連れてきたのです」
「私たち、チョト、賭け、しただけでしたのに」小男はベッドにすわったまま、不平がましく言った。
「あのひとは車を賭けたんでしょう」女が言った。
「そうです」青年が答えた。「キャデラックを」
「車なんて、あのひとは持っていませんのよ。あれはわたしのものなんです。だからいっそうひどいことですわね。賭けるものを何も持っていないのに、あなたと賭けをするなんて。ほんとうに恥ずかしいことですし、何もかも、申し訳なく思っています」この女性はなかなかしっかりした女性のようだった。
「さて」私は口を挟んだ。「あなたの車のキイです」そう言って鍵をテーブルに置く。
「チョト、賭けただけね」小男はまだぶつぶつ言っていた。
「あのひとはもう賭けられるようなものは何も持っていないのです。ほんとうになにひとつ、持っていないのですから。どんなちっぽけなものだって。実をいうと、わたしが勝って、なにもかもあのひとから取り上げたのです、ずいぶん長い時間をかけて。ええ、時間がかかりました。それはそれは長い時間が。つらい務めでした。けれど、わたしはとうとう全部取り上げたのです」青年を見上げた女の顔には笑みが浮かんでいた。どこか鈍い、悲しそうでもある笑みだった。女はこちらにやってくると、テーブルからキイを取ろうとして、片手を伸ばした。
いまでもその手が浮かんでくる。彼女の手、たった一本の指と、親指しか残っていないその手が。
The End
(以下ネタバレあり)
原作と違うのは、ライターが10回目に回されたと同時に部屋のドアがバタンと開いて老人の夫人が飛び込んできて、それと同時に一陣の風が舞い込み、ライターの火が吹き消されて老人の包丁が振り下ろされ・・・
さすが、ヒッチコックです。
「なんでこの女の人、指、親指ともう一本しかなかったんだと思う?」
「え?」
「残りの指はどうなったの?」
「あ、そういうことか」
「なんでそっちの手を出したんだと思う? ふつう、ちゃんとしたほうの手を出すと思わない?」
「え?」
「だとしたら、もう一方の手は、指が何本残ってたんだろう?」
「うわ~、痛そう……」
だけど、こういうことが全部書いてあったら、小説としては興ざめです。
「あっ」と驚く鮮やかさなんて、とうてい感じ取ることはできません。
こういうところを見ても、やはり「小説」というのは、書き手と読み手の信頼関係に基づいているのだな、と思います。
ここに仕掛けを埋めておくから、うまく気がついてくれよ、という書き手と。
それを掘り出して、やられた、という爽快感を感じる読み手と。
だけど、小説には大きく分けて、二種類があると思うんです。この仕掛けに至る筋道が、この作品みたいに一本だけなのと(ほかではわたしのサイトに訳したのだったらサキの「開いた窓」とかね)、複数あるのと。
仕掛けはひとつ、筋道も一本だと、そこへ至るまでの緊張感と、あっと思わせるその意外性が鍵ですから、一種の「職人技」といえるのかもしれません。
〈ヒッチコック劇場〉、わたしが見たことのあるのは、arareさんがおっしゃるような「東洋人」は出てこなくて、かわりに奥さんをキム・ノヴァクが演じていましたから(黒いショートボブがなんかおっかなかった)、きっとarareさんがご覧になったのは、オリジナルバージョンなんでしょう(検索してみたら、「青年」にはスティーヴ・マックイーンが扮しているみたい)。
これをそのまま使って、クウェンティン・タランティーノは〈フォー・ルームス〉でひっくり返しています。どうひっくり返しているかは、ぜひ、ごらんになってください。
これ、元ネタ知ってないとおもしろくないと思います。
ここでのティム・ロス、すっごくカッコイイ。
前からスキだったんだけど、もう惚れました。
わたしの大好きなリリ・テイラーも出てきます。