陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール 「南から来た男」その6.

2006-09-02 22:29:23 | 翻訳
「ちっとも悪くなんてないと思いますよ」そう答える青年は、すでに結構な量のマーティニを飲み干していた。

「馬鹿げてるわよ。ほんと、バッカみたいよ。もし負けちゃったらどうするのよ」

「たいしたことじゃないさ。考えてみたら、生まれてこのかた、左手の小指が何かの役にたったなんてことは一回もなかったぞ。ほら、こいつがさ」青年は小指をもう一方の手でつかんでみせた。「こいつはこれまでぼくの役に立ったことなんてなかったのさ。だからこいつを賭けたところで、いけない理由なんてないじゃないか。うん、実にいい賭けだぞ」

 小柄な老人は笑みを浮かべると、シェイカーを取り上げて、ふたたび私たちのグラスを満たした。

「始める前、私、立ち……立ち会い人、車の鍵、渡します」ポケットからキイを取り出すと、私にあずけた。「書類、所有証、保険証、車のポケット、あるです」

 黒人のメイドが戻ってきた。片方の手に小ぶりの肉切り包丁、肉屋が肉と骨を切り分けるのに使うような包丁を持ち、もう一方の手には金槌と釘が入っているらしい袋を持っている。

「すばらしですね。あなた、全部持ってきてくれました。ありがと。ありがと。もう行ってよろしです」メイドがドアを出ていくのを待ってから、老人は道具をベッドに置いていった。「これから、私たち、用意するですね。よろし?」それから青年に「手伝ってくださいね。このテーブル。私たち、チョト、運びます」

 ホテルによくあるような書き物机で、シンプルな縦90センチ、横120センチぐらいの長方形のテーブルの上には、吸い取り紙やインク、ペンや紙がのせてある。老人と青年は壁際から離して部屋のなかほどに置くと、上のものをどけた。

「さて、つぎ、椅子です」老人は椅子を一脚抱えると、テーブルの脇まで持ってきた。てきぱきとした動作、生き生きした身のこなし、ちょうど子供のパーティでやるゲームの準備をしているようにも見える。「さて、釘、いりますですね。釘、打たなければなりません」釘を数本取ってくると、テーブルの天板に金槌で打ち込みはじめた。

 私たち、青年、娘、それから私は、マーティニを持ったまま、小さな男が立ち働くのを見ていた。水平になるまで打ち込むのではない。どれも、てっぺんが少し突き出るぐらい、残しておき、15センチほどあいだをあけてもう一本テーブルに打った。それから指で、どのくらいしっかり刺さっているかを確かめる。

 このクソ野郎が初めてじゃないってことは、誰にだってわかるさ。私は胸の内でそう言った。いささかのためらいもない。テーブル、釘、金槌、肉切り包丁。自分に必要なものも、どのように段取りをつけていくかも、たなごころを指すがごとく、よくわかっているのだ。

「さて、つぎです」男は言った。「あと、必要なもの、紐だけです」紐を見つけてくると続けた。「結構、結構。準備できましたね。あなた、ここに坐るです」と青年に言う。

 青年はグラスを置いて、腰を下ろした。

「左手、釘のあいだに置くです。釘、あなたの手、正しい位置にするため。結構、いいですよ。私、あなたの手、ゆわえるですよ、テーブルに固定します」

 男は紐を青年の手首にかけてから、てのひらの一番広い部分に数回巻き付けると、釘に固く結びつけた。その手際は見事なもので、終わってしまえば、青年がどんなに手を引き抜こうとしたところで、問題にもならないようなものだった。指だけは動かせたようだが。

「さて、あなた、小指だけ残して、残り、しっかり握るです。小指、伸ばして、テーブルにつける。すばらしい! すばらしい! さあ、始めるです。あなた、右手、ライターつけます。でも、チョト待て」

 男はベッドに駆け寄ると、肉切り包丁を取り上げた。戻ってくると、肉切り包丁を持ったままテーブルの傍らに立った。

「みなさん、いいですね? 立会人さん、開始、宣言してください」

(次回怒濤の最終回)


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